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更新日:2024年10月31日公開 印刷ページ表示

懐疑狂時代(大正3年発表)

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(一)                               

 

都踊りだの、嵐山の桜だの、ドローイングルームで、欧米人の噂にのぼっている四月初めのある夜、西京ホテルを歩き出て、月光を浴びながら、K町通りに向かって行く長髪白面の青年がある。

彼は出入口の廻転ドアを通過する時、五、六歳の子供のやるように、しかし、決して戯れではなく、三回も無意味にぐるぐる回った。そして後、玄関に客待ちをしていた自動車の運転手の微笑を尻目にかけ、ツンとした顔をして、わざと強く靴を踏みならした。

二、三歩行くと、彼は突然立ち止まって、高い建物を見上げた。

「あの一番上から三つ目の明るい窓から今に自分の足元に、どさりと人間が落ちてくるかも知れない。それは西洋人だろうか、日本人だろうか。白髪の老翁であろうか、妙齢の美人であろうか。落ちた瞬間猿のような悲鳴をあげるだろうか、狼のように沈黙しているだろうか。即死するだろうか、負傷するだけであろうか。頭がザクロのように割れるか、足がキュウリのように折れるか、血が瀧のように流れるか、それとも出血が少しもないか。その時、自分はホテルのオフイスへ急報すべきか、あるいは知らぬ顔して逃げ出すべきか。逃げたために告発されるようなことはなかろうか。そして裁判の結果死刑の宣告・・・・・・」

ぶるっと身を震わせた青年は、無意識にあらわれた疑問癖に舌打ちして、鼠色の夏外套のポケットに両手を突っ込みながら、われとわが身を鞭撻するように喧騒な電車通りに出た。

青年の名を鹿星弊助という。彼はさっきホテルの五階の居間で、外出の用意をするため、靴下を履き替えようとしたが、右の靴下を先に履くべきか、左を先にすべきか、それを決するまでに三十分ほどかかった、ようやく身支度を終え、ドアを閉ざして廊下に出たが、二、三歩離れると、ドアが自然に開いたような気がしたので、また戻って、鍵を回した。同じ動作を四回繰返した後、やっと安心してエレヴェーターで降り、オフイスに鍵を預けて、さて廻転ドアの前まで来ると、例のごとく一種の不安が胸にこみ上げた。

「果たして無事におもてに出られるであろうか」

こう思うと、彼は半回、回っただけでは満足できなかったのである。毎度のことであるから下足番はもはや笑わなかった。

幣助は東京のある富豪の相続人であるが、去年の夏、父を失ってから、高度の神経衰弱に罹った。そのため、懐疑狂的強迫観念に襲われ、M大学を一年休学することにして、家庭で静養に努めたが、最近にわかに憂鬱になり、ある日、母に向かって、

「お母さん、すみません。この二、三日、僕は変な観念に悩まされ通しです。思い切って言いますが、どういう訳か、お母さんを殺したくなるのです。このままにしておいたら最大不幸が起こります。どこへでもよいから僕を監禁して下さい」

母が驚いて、神経病学の泰斗、勝浦博士に相談すると、

「強迫観念がまたひとつ増えたのです。生活環境を変えさえすればよろしい。旧式な医者は、山または海へ転地療養を勧めますが、私は反対です」

そして、勝浦博士の処方したのが西京ホテルだったのである。

一ヶ月ほどのホテル生活にも、母を殺そうとする強迫観念は去らなかったが、ここ数日来、衝動の回数が激減した。というのは、先夜三条通りのカフェで、弊助はある不思議な男に会い、その男の珍しい話に、毎夜出かけずにおれぬほどの興味を感じたからである。

が、このことは、はからずも弊助をして、世にも奇怪な冒険を経験させる発端となったのである。

 

(二)

 

弊助は電車通りを南に向かって足早に歩いた。

三条通り烏丸東に入るカフェ・ミニヨン。これが彼の行先である。

旧都の月。春の夜風、数年前ならば、無闇に嬉しい景趣にも、弊助はもはや何の感興も覚えなかった。月の光。それは地球の衛星のあばた面に太陽熱をすっかり吸いとられた光の亡霊ではないか。春の風。それは細菌の胞子と炭酸ガスと馬糞の粉末とを包含する空気の渦ではないか。こう考えると弊助は、光の亡霊が皮膚の隙穴からダムダム弾のように通過する思いがした。汚染空気の渦が毒ガスのように呼吸器に迫るのを覚えた。で、いよいよその歩調を早めたのである。

ふと気がつくと、足の下が妙にふかふかして、赤ん坊の脳髄を踏みつけたような気がした。弊助は突然立ち止まり、右足を上げて靴の底を見た。しかし裏革には何も付着していなかった。弊助はそこで試験的に右足を敷石に叩き下ろした。するとこんどは亡父の焼け残った歯骨を踏みにじったらしかったので、驚いて再び足を上げた。

「いけないいけない。また例の癖が出たのだ」こうつぶやくと、恥ずかしくなり、いつもはショーウィンドゥのガラスに、左の母指紋を押して歩く癖が、今宵はそこに輝く窒素球から顔を隠すため、帽子のつばを引き下げて、頻繁な人通りの間を縫うように進んだ。

「あの人はもう来てるだろうか」代議士のように奇声を発する電車自動車の交錯を離れて、一刻も早く不思議な男に逢いたくなった。二、三日前の晩、弊助がふとカフェ・ミニヨンに入ると、間もなくひとりの男が彼のテーブルに来て馴れ馴れしく話しかけた。海底のごとく薄暗い空気の中で、はっきり顔はわからぬが、四十を越した年輩の、片眼鏡をかけ、口髭を生やした紳士だった。卵色に泡吹くカクテルの洋盃を前に、紳士は極めて雄弁だった。その談話はモダン・ボーイを喜ばせる猟奇的なものでなかったが、偶然にも、神経衰弱者の気持ちを解し、近代人の神経異常を説いて極めてロジカルだった。憂鬱な弊助はそれが無上に喜ばしかった。自分の心をまな板の上に載せて解剖される。弊助はそれを有難いと思った。かくて彼は、毎夜同じ時刻に、善男子が名僧の説法を聞きに行くように、変な「道場」に通うことになったのである。

いままで外出に多少の恐怖をさえ抱いた弊助は、かくて、外出せねば不安を感ずるに至った。やはり病気のためかも知れない。けれど、幸いに、母を殺したいという衝動は隅に追いやられた。

母を殺す! 何という恐ろしい観念だろう。父が死んで高度の憂鬱性に罹った自分は、もし母が死ねば悲嘆のあまり必ず自殺するであろう。それなのに、あの、自分を最も愛してくれる、そして自分の最も愛する母を殺したくなるとは? とてもわからない。けれども、宿命的な観念だった。勝浦博士の処方によるホテル療養も、とてもこの観念を除けそうになかった。自分はもう永久に母に会えぬかも知れぬ。会わぬ方がよい。

いつの間にか彼は目的の場所に来ていた。膵臓色の、がっしりしたドアの中央に、白色のローマ字でカフェ・ミニヨンと刻まれていた。彼はその時胸鳴りがしたのでしばらく立ち止まり、そして盗人のように前後を見回した。

と、向こうから歩いて来たひとりの婦人。それが母そっくりだったので、はッとして目を見張るとまったく別人であった。しかし弊助は婦人の後姿をじっと見送った。途端に彼は肩を叩かれた。

「来ましたね」

声かけられて振り向けば、他ならぬ片眼鏡の紳士である。

 

(三)

 

船室に擬したサルーンに、客は七、八人。蓄音器からは、ジャズがほとばしっていた。

カフェ・ミニヨンの夜霧のような空気の中を、片眼鏡の紳士は弊助の先に歩いて、いつもの隅のテーブルに腰を下ろした。

「やっぱり、あなたはコーヒーですか?」

弊助はうなずくと、紳士は女給に何やら小声で注文して、葉巻に火をつけた。

「酒も煙草も飲まぬとは寂しいですね」紳士は、紫色の煙を吐いた。

「煙草と酒は無理にでも飲むべきものです。学説は変わるものですよ、カメレオンのようにね。ニコチンは免疫体の発生を促す作用があるから、インフルエンザなどの流行時には欠くべからざるもの、アルコールは劣悪な生殖細胞を淘汰するから、優良健全な国民を作るには、最良の手段です。酒と煙草が有害だというのは常識、常識は中等学校入学試験委員にまかせておくがよろしい、ははははは」

紳士は笑ったが、弊助は笑わなかった。この紳士はそもそも何者であろう。医学者か、心理学者か、弊助はまだ紳士の名をさえ聞かなかったが、もとより尋ねる勇気はなかった。たしかに奇妙な存在だとは思いながら、まさか後に殺人の手引きをする怪人とは気づかず、その赤みがかった口髭を、目に据えて眺めた。

「あなたは憂鬱ですね。」紳士は顔を近づけた。

「現代人はみんな憂鬱です。快活に見えるのは快活を装うに過ぎないのです。欲望に富んで意志に乏しいから、実行力がありません。そこに懐疑と恐怖とが発生します」

そのとき女給の運んだ琥珀色の酒を、紳士はうまそうにひと口すすった。弊助はコーヒーを、すぐには手にしなかった。

「現代人の意志は干菓子のように脆く、象皮のように麻痺しています。太陽の黒点の影響か、後期印象派のせいか。精神分析学者ならば、リビドーに持って行くだろうが原因は何でもよろしい、事実は、」と一段声を低め、

「ご覧なさい。カフェの客の顔色を。頬は干からびる、目は濁る。げに、懐疑と恐怖以外の何ものでもありませんよ」

弊助はおもむろに首をねじ向けて、向こうの客を盗み見た。学生か会社員か、年若い彼等の顔に、生活に疲れた色が明らかに読まれた。

「懐疑と恐怖、現代人にとっては重苦しい負担です。ところが彼等はかえってそれに陶酔しようとします。コーヒー一杯で二時間三時間、はなはだしきは五時間、カフェの椅子に寄りかかる者があります。彼等はコーヒーを口へ持って行くだけの意志がないのです。しかもそこに彼等の楽しみがあるのです」

弊助はそっと手を出してコーヒーをすすった。

「意志が麻痺すると、ほかの意志に支配され易くなります、自分の欲することは行い得ないで、欲せぬことを行います。それゆえ、現代犯罪の大部分は「思わずも」行われるのです。新聞で犯罪の記事を読む、読んで同じ犯罪を行う。これを模倣だと言いますが、実は無意識に行うのです。つまり、犯罪の動機がないのです、理由がないのです。だから、理由を求めるのが間違っています、動機を探すのがいけないのです」

弊助は息詰る思いをした。

「かくて、現代人には、突飛な衝動が起こってきます。やってならぬことをやってみたくなるのです。人を殺すことを極端に恐れながら、人を殺したくなるのです」

こう言って紳士は、首をすくめて意味ありげに弊助を見つめ、急に声を落として続けた。

「あなたは人を殺したいと思ったことはありませんか。例えばあなたの最も愛する恋人とか、または、母親を・・・・・・?」

 

(四)

 

この質問に弊助はぎくりとした。炎症のある部位に触られた気がして、冷たいものが背筋を走った。紳士はなぜこんなことを言いだしたか。自分が母を殺したい衝動に悩まされていることを知って故意に聞いたのか、または偶然か。一瞬間耳の底がじーんと鳴って、いよいよ返答することができなかった。

「いや尋ねるまでもありません。よくわかっています。誰でも殺人の衝動は起こるのです。ただ頻繁に起こるか、比較的稀に起こるかの違いです。いずれも無意識に起こるのです。そしてこれは時代の罪です。個人の罪ではありません。・・・・・・」

「このような強迫観念の起こった時、これまでの医者はしゃにむに抑えつけようとしたものです。けれどもそれは誤りです。その人間の心の奥から発生したものを、その個体を滅しないで刈り取ることは不可能です。換言すれば強迫観念を除くには、その人を殺すより外はありません」

紳士は、唇を歪めてにやりと笑った。弊助は今にのっぴきならない落とし穴に引きずり込まれそうな気がした。紳士は何の目的で、こんな恐ろしいことを言うのだろう。それを、死ぬほど聞きたかったけれど、不思議にも舌筋が動作を拒んだ。

「だからです」と、紳士はのしかかるように言った。

「その観念の命ずるままに従えばよいのです。ある行為を遂げたく思ったら、潔く行うのです。人を殺したくなったら、人を殺せばよいのです・・・・・・・ひひひ」

その瞬間弊助は紳士の額に突然二本の角が生えたように思った。はッとして目を見張るとそれは二すじの葉巻の煙だった。が、弊助はカフェの、夢に似た空気の色を見て、自分は今幻の世界に住んでいるのではないかと思った。正体の知れぬ紳士は、わが心の奥に巣くって、折りあるごとに自分を悩まし、やっと二、三日遠のいていた悪魔的観念を、確かにけしかけようとしているではないか。今の悪魔的な笑い、少なくとも悪魔的の響きを伴った笑い声は現実のものとは思えなかった。けれども、エボナイト盤を離れて、耳の中に割り込むサキソホーンの音は、夢であるにはあまりにも非ロマンチックな波形を持っていた。現実であるとすると、この紳士はいかなる陰謀を抱いているか。先日来の罪のない話は、実に自分を釣る一種の餌であったのか。今や、紳士は初めてその毒牙をむき出したのか。ああ、この紳士は、無形の綱をひろげて蜘蛛のように自分を虜にしてしまったのだ。そして自分を傀儡として、何事をか遂行しようとしているのだ。

こう考えると、一刻も早く怪紳士から離れたく思った。けれども蜘蛛の網にかかった昆虫の、もがけばもがくほど不利に陥る運命を、弊助はひしとわが身に感じた。感じると同時に、全身の筋肉はスルメのようにこわばった。

「顔色を変えましたね」紳士はあきらかにサディスチックな態度で言った。

「しかし、あなたの心を私はちゃんと知っていますよ。あなたはある人を殺したい衝動に悩んでいます。おやりなさい。まず容易なところから始めなさい。世の中には、死にたいと思いながら、意志の麻痺したために死に得ない人間がたくさんあるのです。それを殺すのですよ。・・・・・・さあ、これから一緒に人殺しに出かけましょう」

紳士が立ち上がろうとすると、弊助はテーブル越しにすがりついた。まさに絶体絶命である。

「ま、待って下さい」

今夜初めて搾り出した弊助の言葉にびくともせず、紳士は哀れな神経衰弱者を尻目にかけて、

「ふふふふ、もう駄目ですよ。あなたは完全に私の意志の虜です!」

 

(五)

 

それから幾分かの後、弊助は片眼鏡の紳士に付き添われ、自動車でいずことも知れず走っている自分を見出した。

いかにカフェを連れ出されたか、いかに自動車に乗せられたか、はっきり思い出せぬほど、弊助の受けたショックは大きかった。ようやく心臓の鼓動が正調に復すると、弊助は初めて殺人を行うべく急ぎつつあることを意識した。

殺人! 思っただけでも骨髄まで震えることを、家常茶飯のごとく勧める怪紳士は、はたして健康な精神の所有者であろうか。もしや自分は一狂人の罠にかかったのではあるまいか。こう考えて振り向くと、紳士はクッションに身を埋め、頬をてらてら光らせつつ、目を軽くつぶっていた。この、憎らしい程落ちついた態度に弊助はまたもや不安を感じ始めた。

ふと、弊助は自動車のガラスがことごとく、黒い漆のようなもので塗ってあることに気づいた。

客席と運転手席とを分けるガラスも同じく黒く塗りつぶされ、外景はもちろん、運転手の姿をさえ見ることができなかった。言うまでもなくこの自動車は特別仕立てで、怪紳士の行動はすべて計画的だったのである。こう推定すると、不安が募ったばかりでなく、密封の箱に閉じ込められたような、あるいは棺に入れて生き埋めにされたような気がしだして、遂には呼吸困難に苦しむ肺患者のように、ぜいぜい咽喉を鳴らした。

「心配なく、酸素は十分あります」

突然紳士の声が走った。それを聞くと弊助は猫の前の鼠だった。

「まだ相当時間がかかるけれど、窒息は起こりません」紳士はやおら身を起こした。辺りには市中の喧騒がなく、田舎道を通るのか、自動車は踊るように揺れた。

「ここでちょっと、行く先のことを話しておきましょう。だしぬけでは、まごつくといけませんからね。さっきカフェで話したように、死にたいと思いながら自殺し得ない人間がこの世に土砂のごとく存在します。かかる輩を掻き集める場所、そこへこれから行くのです。いかにして掻き集めるか、それは秘密に属するが、そこにはまた当然殺人的衝動に悩む人間も集まっています。前者を甲類とし、後者を乙類とし、乙類のものが甲類のものを殺して、両者が満足するわけで、両善倶楽部と名付けられてあります。乙類の中には、たまに幾人も殺したい者がありますが、大抵は、ひとりがひとりを殺せば満足するから乙類すなわち殺人的衝動に悩む者が払底で、しかも収集に困難です。私は乙類収集を担任し、相当の経験を積みましたから、近頃は好成績をあげています」

紳士は、今夜もこの通り、ひとり発見したぞと言わんばかりに満足げな微笑を洩らした。その微笑はかえって弊助の血液を寒からしめた。一、二年前ならば、あるいはかかる話にも好奇心をそそられたかも知れぬが、今はもう息苦しさがあるばかりであった。

「さて、いったい何のために両善倶楽部が設立されたかをお聞きになりたいでしょう。ひと口に言えば、人助けですよ。社会奉仕ですよ。犯罪予防、人口調節、等、等。ただ残念なことに両善倶楽部の存在を公表することができません。もしこれを国家事業とするならば、ローマの全盛期にもまさる黄金時代を現出するだろうが、ファッショでさえまだ行っておりません。して見ると・・・・・・おや、ちょうど倶楽部へ着いたようです」

自動車はぴたりと停まった。

「何分、秘密な場所にあるのですから、規則として倶楽部に出入りする際は、目隠しをすることになっています」

ポケットから、黒い布を取り出すが早いか、あッという間もなく紳士は弊助の顔に巻きつけた。

 

(六)

 

弊助はもうすっかり諦めた気持ちになって、目隠しをされたまま、片眼鏡の紳士に手を引かれて、ある建物をくぐった。それが洋風の建築であることは、足の触感でわかった。二、三度階段らしいものに躓いて、遂に一間に案内され、目隠しを取り外された。

部屋は応接室らしく、中央に乳色の笠をもった電球が垂れていた。ファニチュアは相当金のかかったものらしく、弊助は勧められるままに、テーブルの傍の椅子に腰掛けた。

「会長に紹介しますから、しばらく待っていて下さい」

怪紳士が出て行くと、弊助は恐る恐る部屋を見回した。窓には紅色のシェードが下ろされて、表を見得ないが、どこかに人声のするほか、妙に静かであるのは、市中と思われなかった。壁もことごとく紅色で、常ならば愉快な心地を誘われるかも知れぬが、今は自分の運命がどうなることかと、気が気でなかった。

両善倶楽部! それはまったく信じ得ない存在であった。両善とはいうものの、それはまさしく殺人の別名ではないか。いかに世の中に懐疑狂が多いとはいえ、いかに「合理的」な計画のもとに組織されたものとはいえ、なおまた、いかに巧みに秘密が守られているとはいえ、人間屠殺場が京都あるいは京都周辺に設けられてあるとは、考え得ないことであった。

自分は何という馬鹿であったろう。あの怪紳士は、自分の神経衰弱を利用して、何かある大きな悪戯を行うつもりかも知れない。こう考えると紳士のこれまでの態度に、どこか諧謔的なところがあったようにも思われ、弊助は、初めて、明るい気持ちになることができた。

ところが、この明るい気持ちも会長に会うにおよんで、微塵に打ち砕かれてしまった。会長は怪紳士の案内で入って来たが、見るといがぐり頭で、顔いっぱいに髭を生やし、両眼を隼のように光らせた様は、かつて西洋の本で見たことのある屠牛場のユダヤ人そっくりであった。弊助の身体は、ガスを失った風船玉のように縮こまろうとした。

会長はやにわに弊助の手をぎゅッと鷲づかみにして、骨の鳴るほど揺すぶった。握手の体であるらしい。

「両善倶楽部に入会してくださったことを感謝します」と、髭武者は厳かに宣言した。

「会員は倶楽部の規則を遵守する義務があります」それから片眼鏡に向かい、いささか優しい口調になって、

「君、今夜は珍しくも鍛冶用のハンマーで殺して欲しいという甲類会員があってね、久しぶりに爽快な監督ができるよ、・・・・・・おや、この人も乙類会員の常として、少し気力がくじけているようだね、控室でブランデーを振舞ってくれたまえ」

弊助は観念した。彼は怪紳士に導かれるままに、機械のごとく動いて廊下に出た。ホテルに似た構造で、奥の方に人々のさんざめく音が聞こえたが、紳士は数歩先の左側のドアを開けて入った。中はカフェ・ミニヨンのように薄暗く、中央には食堂に見るような大テーブルが置かれ、それを囲んで四人の男が、おのおの酒杯を前に、黙りこくってうつむき加減に着座していた。

彼等はみな弊助と同じ年輩であったが、挨拶するどころか、目を上げて見るのさえ物憂いらしく、赤い酒はどれも手がつけられていなかった。

紳士は、弊助に椅子を勧め、カップボールドから、グラスを取り出し、ブランデーを注いだ。

「あなたは酒が嫌いでしたね。けれども倶楽部の規則ですから」

こう言って紳士は出て行った。弊助はそこで何をするのか聞く気にもならなかった。彼はおずおず先客四人の顔を見比べたが、みな頬がこけて、憂鬱そのものであった。おそらく自分と同じ乙類会員だろう。そう思ってふと気がつくと、隣の青年がしくしく泣き出した。

 

(七)

 

隣の青年はしばらくすすり泣きを続けたが、あとの三人は振り向きもせず、申し合わせたように黙っていたので、弊助は堪えかねて尋ねた。

「何が悲しいのですか?」

青年は口重に答えた。「私の殺人欲はまだ満足されないのです。すると会長はいくらでも甲類会員を供給すると言ってくれました。考えてもください。普通ならば一人殺すも容易でないのに、両善倶楽部の会員になったればこそです。この幸福を思うと感泣せざるを得ないのです」

意外な答えに弊助は呆れた。

「本当に、本当にここでやるのですか?」

青年は涙を拭って弊助を熟視した。

「あなたはそのためにここへ来たのではないのですか?」

「でも、でも、それは・・・・・・」

「何がでもです。あなたはやりたくてならんでしょう。けれどいざとなれば困ると思ってそんなことを言うのでしょう。しかし、心配は無用です、一度、殺人の現場を見れば、自分もやりたくてたまらなくなります。それが乙類会員の特徴だと、あの片眼鏡の紳士は言いますが、いかにもその通りです。ここにおられる三人の方に聞いてごらんなさい。いずれも実際を目撃して勇気を生じ今夜の実行を腕を鳴らして待っておられるのです。ただ、お互いに、その欲望を満たすまでは憂鬱です」

突然、隅でベルがけたたましく鳴ったので、弊助はびくっとした。

と、向こう側にいた男がやおら立ち上がって部屋を去った。

「あの人はこれから実行に行くのです」と感泣青年は説明した。

「ベルを合図に順々に出かけるのです」この時奥の部屋のさんざめきが洩れて来た。

「あの騒ぎは甲類会員です。私たちの憂鬱に反して彼等は快活の絶頂にあります。自殺を企てても決行し得ないのを倶楽部入会によって宿望を果たし得るのですから、おのずから歓声が湧くのです。中にはあまりに喜んで、ふざけ半分に死に臨む者があるので、会長が監督して、真摯に死ぬよう介錯するのです。会長の容貌には鬼気が漂っていますから、大抵の者はその一喝で粛然とします。しかしさすがの会長も片眼鏡の紳士には一步を譲っています」

「いったい会長の名は何というのです。片眼鏡の紳士は何者です?」

「倶楽部では会長はじめ会員に至るまで、姓名職業は一切尋ね、または語らぬ規則です」

再びベルが鳴った。

「おお、もはや済んだのか」と青年はつぶやいて立ち上がった。

「こんどはいよいよ私の番です。今晚私は鍛冶用のハンマーを使います。規則として使用器具は、甲類会員の希望によることになっています。多分あなたは、私のやる現場を目撃なさることでしょう」

こう言って青年は、急ぎ足で出て行った。弊助は残った二人の先客をチラと見比べたが、彼等は塑像のように動かなかった。それがいっそう弊助を不安にして、遂には、自動車で経験したごとき窒息感に襲われた。と、その時ドアがあいて、片眼鏡の紳士が入って来た。

「どうです、少しは気が落ちつきましたか、それではこれから、規則に従って、現場を見に行きましょう」

紳士は弊助を引っ張って再び廊下に出で、すぐさま右手に折れて、やがて黒い幕の垂れさがった部屋に入った。薬剤の匂いがかすかにした。そこは文字通りに真っ暗で、今にも何かに突き当たりそうだったが、紳士は弊助の手を引いて、つかつかと奥へ歩いた。

二人は立ち止まった。その時幕を滑らすような音がして、突然弊助の胸の高さに三寸(※約九センチ)四方ぐらいの小窓が開いた。ガラス越しに差す光線は弊助の衣服を白く切り抜いた。

「ここから覗くのです」

紳士は小声で言った。

 

(八)

 

「しっかり、しっかり、まだこれからあなたは取りかからねばなりません」

四囲の棚に、薬品の瓶がぎっしり並んだ一室で、鹿星弊助が、興奮剤を嗅がされながら片眼鏡の紳士に介抱されている自分を見いだしたのは、かの方形の小窓から、人間屠殺場を覗いた数分の後であった。

暗闇の中で、厭だというのを無理に腰を屈めさせられ、やむなく覗き窓に目を近づけた時、弊助はまず隣室の広大なことに驚いた。一見例えば武術の大道場かと思われ、床には藍色の絨毯を敷きつめ、壁もことごとく藍色で、多分天井にアーク燈がついているのだろう、部屋全体は、真昼のように明るかった。

その広大な部屋の中心に、ポツンと一脚黄色の肘掛け椅子が据えられ、年齢四十五、六の法衣のごとき白服を纏った禿げ頭の男が腰掛けていた。横向き加減で顔はよくわからなかったが、弊助はそれが両善倶楽部の甲類会員、すなわちやがて殺されるべき人であると直感した。白衣の男は 興奮の模様もなく、まるで人形のように動かなかったが、瞬きするのは、確かに生きている証拠である。

突然弊助の視野に入った人影がある。ほかならぬ髭武者会長の厳めしき姿であった。会長は多分、覗き窓のある側の壁の近くに立っていたのだろう、椅子の男の二間(※約三.六メートル)ほど前まで進み寄ると、ぴたりと立ちどまって、ポケットから呼び子笛を取り出した。

ピリ! という音を弊助は確かに聞いたように思った。と、白衣の男の真正面の方向から牧師のガウンに似た黒服を纏った男が長柄のハンマーを捧げて歩いて来た。よく見るとさっき控室で感泣した青年である。あのぴかぴかの禿頭を、あのかちかちのハンマーで・・・・・・ぱッと殴るのか・・・・・・と、想像する間もなく黒衣の青年は、さっとハンマーを振り上げ、つ、つ、つ、つ、と椅子をめがけて走り寄った。

まさに振り下ろされんとした時。たしか、部屋全体が暗くなったと思うが、それともわが目が眩んだのであろうか、弊助は脳貧血の発作に襲われて、事件の結末を見届けずに、薬品室に抱きこまれたのである。

紳士は弊助の顔を覗きこむように、

「あなたが殺すべき甲類会員は珍しくも婦人です。彼女はモルヒネを注射して殺してくれと希望しました。規則として毒殺の際には、あらかじめ兎で効力を試し、万全を期することになっています。死に損じは会長の名誉にかかわるからです。で、モルヒネ溶液はすでにこの通り用意してあります。効力試験は私がやります」

紳士は隅の籠から白色の兎を取り出し、固定器に縛りつけた。そして実験台上の無色の液を注射器に取り、

「私は今〇.一立方センチメートル取りました。これだけ注射すると、兎は確実に死にます」

紳士は実験動物の胸部の皮下に鮮やかに猛毒を送った。

「いまに兎は冷たくなります。するとこの溶液を五立方センチメートルすなわち五十倍注射すれば確かに人間を殺し得ます。で、これから別に注射器へそれだけ取ります。よく見て下さい。・・・・・・さあ、これをあなたは、向こうの部屋に死を待ちこがれている婦人に注射するのです」

弊助の躊躇を見て紳士は続けた。

「どうしたのです。乙類会員は、みな、一度この現場を見るとやりたくてたまらなくなるのだが、あなた変ですね。愚図愚図すると会長の一喝を浴びますよ。・・・・・・仕方がない、注射器は私が持とう。・・・・・・そら、ご覧なさい、兎はもう死にました」

固定器から外されると、白色の実験動物は水飴のようにぐったりした。

突然、ドアが開いた。

「まだ用意ができないのか」

怒鳴りこんだ会長の目は猛獣のごとく光った。

 

(九)

 

「注射してーェ、注射して。早く、早く!」

甲高い女の声が室外に洩れ聞こえた。

会長と怪紳士に挟まれて室内に入ると、弊助はそこに、異様な光景を見た。

前の藍色の大広間と反対に、何もかも白色づくめの、至って狭い部屋の中央にシングル・ベッドが置かれて、その上に白衣の女が、鉢巻きをされ、手足を縛りつけられていた。

「注射してーェ、早く!」

彼女は三人の姿を見て、狂人のようにもがきながら、声を限りに嘆願した。

「どうです。こんなに希望しているのです。捨てておけば飛び出して来て注射を求めるので、やむを得ず縛ったのです。あの通り左の腕を持ち上げています。早くあそこへ注射してやりなさい」

言いながら怪紳士はモルヒネを盛った注射器を弊助に差し付けた。が、何として手出しができよう。

女はしきりに催促した。

俄然、会長の手が弊助の腕をむずと掴んだかと思うと、弊助は木の葉の如くひらひらとベッドの傍に引きずり寄せられた。会長は、さも面倒なといわんばかりに、片眼鏡の紳士から注射器を受け取り、女の左の上腕にぶつりと針を刺した。

「手をお貸し!」

あっという間もなく弊助の右手は、致死量のモルヒネを女の皮下に注いでいた。

たちまち女は石化したように静まった。弊助はびっしょり汗をかいた。

「骨を折らせたよ」

こうつぶやいて会長が去ったあとから、弊助は片眼鏡の紳士に支えられて死の部屋を出た。紳士は弊助を連れて、再び薬品室に入った。

「とうとうやりましたね。胸がすっとしたでしょう。女も満足です。確かにもう死んでいます。これは案外容易なことでしょう?」

弊助は脳髄が腐るかと思った。今や彼は疲労の極みに達して、口きくこともできねば、目を開いていることさえ難しくなった。

「時にあなたに聞きますが」

しばらくの沈黙の後、突然紳士が口調をあらためたので弊助は目を見張った。

「あなたはあなたが今殺してきた女の顔をよく見ましたか?」

言われて弊助はぎょッとした。無造作な鉢巻のために女の顔がはっきり見えなかったからである。弊助の胸に一団の疑惑が発生した。

「見なかったでしょう。してみると、あなたは、もしや・・・・・・もしや・・・・・・とんでもない人を殺したのではなかったでしょうか。例えばです。例えばあなたの最も愛する人、あなたの最も愛する肉親の人を・・・・・・」

弊助は椅子から飛び上がった。猛烈な不安が早瀬のように押し寄せた。彼は紳士の顔を穴のあくほど凝視した。

紳士も立ち上がった。

「見ていらっしゃい。もう一度今の部屋に入って、殺された女を見ていらっしゃい。身内の人ではないかどうかを確かめてきなさい。もともとあなたは身内の人を殺したがっていましたから」

弊助は無形の縄で手繰り寄せられるように白い部屋に入った。そこには鉢巻きをされ、縛られたままの女の死骸がまばゆく横たわっていた。

弊助は不思議にも恐怖を忘れてつかつかと歩み寄り、顔に垂れた鉢巻きの布片を除いた。

おお! そこには、そこにはまさしく、一ヶ月前に別れてきて、東京に居るはずの母が、今はもう氷のごとく冷たくなって・・・・・・。

二度ならず三度、三度ならず四度、弊助は死体の顔をあらためた。夢でなく幻でなく悲しくも、その死が・・・・・・彼の最も恐れた事実が厳然として現れた。

「あーっ」

弊助は前身がとろけるように覚えて、その場にくず折れた。

 

(十)

 

ふと弊助が目覚めると、ベッドの純白のかけ布に、朝日らしい光線がガラス窓から、差し込んでいた。彼はむくりと起きて、あたりを見回したが誰も居なかった。満開の桜が点在する田舎の風景が、窓越しに目に入った。

弊助は考えた。彼の頭は、昨年の夏以来経験したことのないほど軽く思え、同時に空腹を感じた。が、その時突然に記憶に甦った夜前の恐ろしい経験は彼の心を占領した。

カフェ・ミニヨンの怪紳士――両善倶楽部――殺人現場の目撃――モルヒネ注射――母の死体――彼ははッとして色を失ったが、果たしてこれ等が現実の出来事か、あるいは全然夢なのか、にわかに判断がつかなかった。けれどだんだん考えて行くうちに、すべてが事実なることを認めねばならなかった。

母の死! 何たる意外な、何たる恐ろしいことであろう。しかし弊助は、それを冷静に迎え得るだけの余裕が、心に生じたことを知って、不思議に感じた。そういえば今までの強迫観念が影を潜め、父の死以前の精神状態に返った気がする。これはまさに奇跡的な変化と言わねばならぬ。けれど、けれど、果たしてあの時自分は母を殺したであろうか。こう考えると、弊助の心に新たに健全な疑問が頭をもたげた。彼はまず自分がどこにいるかを確かめようとした。

突然、ドアがあいて、五十前後の容貌魁偉な紳士が入って来た。

「おお勝浦博士!」

弊助は思わず叫んでベッドを離れようとした。

弊助に西京ホテルを処方した東都の神経病学の泰斗はつかつかと歩み寄って、

「静かに、そのままに。気分はいかがです?」

弊助はそれどころでなかった。

「どうして先生は? いったいここはどこです?」

「嵯峨ですよ。オリエンタル・キネマ会社撮影所付属の寄宿舎です」

弊助は、おぼろげながら事情がわかってきた。さては両善倶楽部というのは・・・・・・

「先生、私は確かに母の死体を見たように思いますが?」

博士はしばらく弊助の顔を見つめて、

「そうです、お母さんは逝去されました」

「え、え、それは? それでは私が母を殺しましたか?」

博士は返答の代わりに、ドアの方に向かって、大声で「鷲山君!」と呼んだ。声に応じて入ってきた人を見るなり弊助ははッとした。片眼鏡の紳士!

「鹿星さん、京都のK大学精神科教授鷲山博士を紹介します」

怪紳士、いな、鷲山教授はにっこり笑って近づいた。

「どうも昨夜はいろいろ失礼しました。すべては勝浦博士の計画に従ったのです。両善倶楽部の会長は付け髭をした教室の助手、会員たちは皆オリエンタル・キネマ会社専属の俳優諸君、藍色の部屋は撮影室、その他は現像室、薬品室など、白い部屋の女は精神科のモルヒネ中毒患者を借りてきたもので、彼女は致死量の毒に耐え、数時間注射しないとあの通り狂暴になるのです。

「それでは、その患者と、母の死体をすり替えたのですか。何のために私はあの恐ろしい冒険を、余儀なくされましたか?」

「それは私が説明します」と勝浦博士。

「実は先日あなたのお留守中にお母さんが、インフルエンザ肺炎で逝去されました。病あらたまった時、私を招き、弊助は父の死が原因であの難病を起こしたから、今また私の死を聞けば自殺するかも知れぬ。鹿星家が断絶してはならぬから、いかなる方法を講じてでも弊助が自殺せぬよう私の死を告げてくれとの頼みでした。そこで私は母上を殺したいというあなたの強迫観念を治療し、同時に母上の死を告げようと、一石二鳥の計画をしたのです。母上の亡骸を氷詰めにして西京に移し、鷲山教授に謀って万事奔走してもらいました。その結果幸いに目的を達し、あなたは高度の神経衰弱から解放されました。ただ母上の死は愁傷の至りです」

弊助は答えに迷った。と、鷲山教授は片眼鏡を外して、

「これが、勝浦博士考案による、神経衰弱の刺激療法です」

 

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