ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

本文

更新日:2021年10月30日公開 印刷ページ表示

ふたりの犯人(大正14年発表)

PDFダウンロード [PDFファイル/572KB]

(一)

 

私立探偵野々口雄三は、三月の末に、朝鮮総督府から、ある重大事件の探索を依頼されて、京城に赴いたが、事件の解決が意外に長びいて、ようやく昨晩、(五月十八日)久し振りで名古屋鶴舞町の自宅兼事務所へ帰ったのである。

彼は暇さえあれば、一刻として犯罪研究を怠らなかったが、今日も早朝から、旅の疲れを少しも感じないかの如く、留守中にあった犯罪事件の新聞切り抜き帳を開いて研究した。とりわけ、彼が最も興味を感じたのは、昨今、名古屋中の人々の話題となっている「鳴海二婦人殺し」すなわち、一つの犯罪に、二人の相互に無関係の犯人が現れ、当局が非常に迷っているという事件であって、ことに、先刻この事件を取り扱っている、名古屋地方裁判所の武藤予審判事から、正午すぎに、ぜひ、お頼み申したい用件があってお目にかかりたいという電話が掛かったので、多分この事件に関係したことだろうと思って、彼は今、一生懸命になって、新聞切り抜きを研究し始めたのである。新聞記事に書かれた「鳴海二婦人殺し」は、だいたい次のような顛末である。

四月四日の午前六時半ごろ、鳴海在住のN会社社長富田氏方の離れ座敷で、同家の女中川上うた(三十八歳唖女)と、留守居に来ていた佃房江(三十七歳の美人)とが、前夜、何ものかに殺され、死体となって発見された。現場は母屋から八間ほど離れた別棟の建物で、六畳、四畳半、二畳、玄関から成り、南側の戸袋に近い雨戸が一尺ほど開いていた。女中のうたは、六畳に仰向けになって横たわり、その首には紫色の絹の腰紐が巻き付けられ、その上に、あとから掛けたらしい布団がのっていた。部屋の中はかなり乱れていて、柳製のバスケットが隅に投げ出され、中の衣類や布地があたりに飛び散っていた。

次に、四畳半には、西枕で寝たらしい房江が東北を枕にして横たわり、裏返しに掛けられていた布団を取り除いて見ると彼女はほとんど半裸体となって鼻血を出して死んでいた。

鳴海医院のM医師の解剖の結果、房江は扼殺され陵辱されたとわかったが、唖のうたは絞殺されただけで、陵辱された形跡は認められなかった。なお、取り調べの結果、房江の持っていた六圓(※現在の価値で約四千八百円)余り在中の二つ折りの財布が紛失していたが、その他の物質的証拠は何一つ発見されなかった。

強盗か、痴情か。事件発生の後、鳴海署では不眠不休の活動を八日間も続けたが、その結果遂に、十一日の早朝、当時、富田氏方で同じく留守居をしていた社員小田鶴三(三十八歳)が、自分の仕業であることを白状した。すなわち彼は房江の美貌に思いを寄せ、深夜、離れ家に忍び込んで房江に情交を迫ったが、房江が拒絶したので、無理矢理に獣欲を遂げて扼殺し、物音に驚いて逃げ出したうたをも絞殺し、強盗のしわざに見せるために、バスケットをひっくり返し、房江の財布を奪って逃げたというのであった。よって彼は直ちに鳴海署から、名古屋地方裁判所に護送され、十五日いよいよ予審にかけられることとなった。

ところが鶴三は予審でその自白を翻し、身に覚えのないことだと言い出した。単にそれだけの事ならまだしも、二十日に至って熱田署に捕らえられた北尾八太郎(三十七歳)という前科者が鳴海の二婦人殺しの犯人は自分で、窃盗のため忍び入り、房江の寝姿に劣情を起こして獣欲を遂げ、房江が抵抗したので扼殺し、物音に驚いて起きたうたをも絞殺したのだと語ったので、この事件はにわかに世人の注意と好奇心とを呼び起こすに至ったのである。

世人の興味が大きくなっただけ、当局の迷惑も大きくなった。前に述べたように、これという物的証拠が何一つないのであるから、主として心的証拠によって判断せねばならぬが、時として心証ほどあてにならないものはないから、担当の武藤予審判事もすっかり閉口したらしかった。武藤氏はまだ独身でこれまで、色々な事件を鮮やかに解決して、青年予審判事として名声盛んなものであったが、その人にこの難事件がぶつかったのは、少々皮肉にも思われるが、一方から言えば、武藤氏にとってのよい試金石でもある。

さて、鶴三と八太郎とを、それぞれ犯人であると認めるべき、いかなる心証があるかというと、まず鶴三について言うならば、第一に被害者房江が、凶行の一、二日前、他の社員に向かって

「小田さんはおかしな人ですねぇ」とつぶやいた事がある。第二に、凶行の前夜すなわち三日の夜十一時以後に、鶴三は母屋を出た証拠があるが、その後いつ部屋に帰ったかわからない。第三に、四日午前六時半、母屋に泊まっていたMという十六歳の社員が離れ座敷の異変を鶴三に告げたところ、彼は容易に医師を呼びにやらなかった。第四に、唖の死体の傍に、長さ三尺余りのつっかい棒があったが、それについて彼は、唖のうたが、隣座敷の有様にびっくりして北側玄関に走り寄り、そこの戸のつっかい棒を外して逃げ出そうとしたので、棒もろとも、彼女を六畳に引き戻して殺し、棒をそばへ置いたと説明したが、それは極めて合理的である。

次に八太郎について言うならば、第一に彼は、三月五日から十三日まで、富田氏方の家主森氏の下男として住みこみ、富田氏方の離れ座敷の南側で仕事をしていた関係上、座敷の模様をよく知っている。第二に、彼は三月十四日、同僚の衣類と現金八十円を盗んで森方を逃走して四月二十日まで所在をくらましていたが、凶行が発見された四日の午後、実姉のもとに現れて「ちょっとした間違いを起こしたので早速飛ぶ金を貸してくれ」と無心した。第三に、四月十八日、名古屋から鳴海署と熱田署へ、自分が真犯人だという手紙を出し、二十日熱田署に捕まって盗った財布を鳴海の浜に捨てたと言い、当夜六畳の間の机の上にあった書物の名をはっきり知っていた。第四に、つっかい棒について、彼は南の戸袋に一番近い戸を強く押したら、戸袋と戸の間に隙間が出来たので、手をさし入れてつっかい棒を外し、それをもって部屋に入り障子に立てかけて置いたが、その後の騒ぎのために倒れたものだと説明したが、これもやはり極めて合理的である。

こうなって見ると、実際、読者も、どちらを真犯人と判断して良いか迷われるであろう。ところが鶴三は、 最初の自白を翻して、身に覚えがないと言い出した。そして、そう言い出されて見れば、なるほどそうかも知れぬと思われる点がある。すなわち第一に凶行当日の朝、鶴三は社員Mの報告で、二人が離れ座敷へ飛んで行った際、六畳の間の火鉢に「敷島」の吸い殻とマッチの燃え屑があったのをMが捨てようとしたので、慌ててそれをとどめ、証拠がなくなることを恐れた。第二に、犯行後、四、五、六の三日間、彼の挙動はいつもと変わらなかった。第三に、鳴海署の刑事部屋に無拘束のまま、置かれていたにも関わらず、一度も逃亡を企てなかった。第四に、食事はいつも三食ともきれいに食べ、睡眠も十分にとった。第五に、鳴海署から裁判所へ移される十四日の夜、彼は当局の人に、今後も手をゆるめず捜査を続けられたいと言った。第六に、彼は房江の財布をかまどへ投げたと言ったけれども、焼け残る筈の口金が見当らないことなどである。

して見ると、彼は真犯人でないかも知れない。しからば、彼が、主人の富田氏に泣いて陳謝し、形見の時計を妻のもとに送付してくれるよう依頼したのはなぜであろうか。また、凶行の当日、まだ嫌疑を受けない以前に、第三者として、彼は刑事の口から、直接、この罪が死刑にあたるべきことを聞いて知っていたにも関わらず、覚えのないことを自白したのはなぜか。あるいは、警察の取り調べを嫌って、裁判所の手に移されたいばかりに虚偽の供述をしたのかも知れないけれど、彼にそうした法律的常識があろうとは考えられないのである。

次に、八太郎の自白は果たして真実であろうか。彼の自白を、常習犯罪者にありがちな虚栄心の現れと見ることは出来ないだろうか。現に八太郎は、二十日鳴海署に捕われるまでに、五日間自由に新聞を読むことが出来たはずで、自分でも読んだと言っているではないか。また、現場の模様は以前から十分に知っているし、三月五日から十三日までの間に現場の南の畑で終日働いていた際、現場が無人だったので、座敷にあった品物を見ていたと考えることも出来るではないか?

鶴三か。八太郎か。どちらにも犯人たる可能性があり、またどちらも犯人でなさそうでもある。だから,名古屋中の人々は素人も玄人も、寄ると触ると、どちらが犯人であるかを論じあい、銀行、会社、商店、学校などでは、人々各自が説を立てて、探偵気分に浸かり、色街界隈では、早くも、どちらが真犯人か賭けをするという騒ぎにまで、立ち至ったのである。

従ってこの事件を引き受けた武藤予審判事の苦心と焦燥とは思いやられる。その武藤氏が、先刻野々口に頼みたいことがあると言ってきたのであるから、野々口は新聞切り抜きを読み終わってから、少なからぬ興味を感じつつ武藤氏の来訪を待ち構えた。

 

(二)

 

「もはや御承知でありましょうが、僕が鳴海二婦人殺しの事件を引き受けている武藤です」と、客は謹厳な態度で挨拶した。その正直そうな風貌を野々口は非常に嬉しく思った。野々口は、開業以来、警察の人々とは度々接したが、裁判所の人と顔を合わせたことは比較的稀であって、武藤氏とはまったく初対面である。

「その二婦人殺しの事件でおいで下さったのですか?」と野々口は挨拶を終わって尋ねた。

「二婦人殺しの事件も事件ですが、実は、鶴三の予審調書の一部分を盗まれたのです」

「え?」と野々口は意外な言葉に驚いた。

「一部分だけですか?」

「そうです」

「大切な部分ですか?」

「いえ、別に大切な部分と言う訳でもないですけれど、予審調書を失っては私の面目にかかわりますし、調書の内容が世間に知れては困りますから、その捜索をお願いに上ったのです。何しろ、事件の解決の方で、頭を悩ましている矢先ですから、私自身、調書の行方を探っている余裕がないのです」

「ごもっともです。で、その調書はどこでなくなりましたか?」

「裁判所です。今朝、事務室の机の引き出しを見たら、一部分が見つからないので、ずいぶん捜したけれどありません」

「引き出しの鍵はあなただけがお持ちですか?」

「給仕の佐藤も持っているはずです」

「給仕は信用の置ける人間ですか?」

「非常に正直な少年ですが、不思議にも今日、病気の届けを出して、三日間休むと言ってきました」

「ふむ」と野々口は考えて言った。「もしや、その調書を持ってお帰りになり、御宅へ忘れて来られたのではないですか?」

「昨日は、ほかの調書を持って帰りました」

「裁判所から、直接家へお帰りになりましたか?」

「いいえ、七時半頃まで役所に居て、それから、夕飯を食べに富澤町の吉野屋へ行きました」

野々口は更にしばらくの間、考えてから言った。

「もし盗まれたのだとすると、犯人に心当たりはありませんか?」

武藤氏はちょっと躊躇して言った「思い切って言うと同僚の川田君が、僕を困らせようとして、悪戯をしたんじゃないかと思うのです」

川田予審判事と武藤氏とが反目していることは、野々口も薄々知っていた。

「お二人の仲は僕も聞かぬでもないですが、何か原因があるのですか?」

武藤氏はいささか顔を赤くした。「誠につまらぬことです。お恥ずかしいことですが、一口に言うと、ある芸者に関したことが原因です。実はその芸者がぜひお話したいことがあるからと手紙を寄越したので、昨晩吉野屋へ行ったのですが、何でも川田君は、僕が、こんどの事件に失敗すると免職になるというようなことを言いふらしたそうで、それを心配したわけなんです」

「何という芸者ですか?」

「叶家の芳香というんです」

「川田さんと、給仕の佐藤とは特別に親しいようなことはありませんか?」

「それは知りません」

「失くなった調書はどんな内容でしたか?」

「それは職責上申し上げられません」

正直で評判の武藤氏に対して、野々口はそれ以上追求する気にはなれなかった。

「時に、二婦人殺しについては、その後何か有力な手がかりでも得られましたか?」と野々口は尋ねた。

「新聞に書かれてある以上には進みません。困ったことです」と武藤氏は心配そうな顔をして答えた。

 

武藤氏が帰ってから、野々口はじっと考えていたが、何はともあれ、川田予審判事に会ってみようと、三時頃、地方裁判所の門をくぐった。

川田氏は武藤氏と同じくらいの年輩であったが、その態度が何となくキザであった。

「何の用ですか?」と川田氏はぶっきら棒な言い方をした。

「給仕の佐藤のことでちょっとお伺いしたいと思いまして」

「僕は給仕の番人じゃありませんよ。武藤君にお聞きなさい」

「武藤さんは今回の事件でご多忙のようですから」

「さすが聡明な武藤君も、ちとへこたれましたかな?」と、その言葉にはトゲがあった。

「こういう事件は誰にだって難しいでしょう」

「名探偵のあなたにもですか?」

野々口は自尊心を傷つけられたように感じて、内心、むっとした。

「これは恐れ入ります。しかし同じ裁判所においでになったら、あなたもお手伝いしてあげなさったらどうです?」

「武藤君は一人で解決するがよいです。そして大いに手柄をあげるがよいです」

「すると袖手傍観というのですね?」

「傍観じゃないです。武藤君は僕なんかを相手にしてくれないのです」

「それならば、少なくとも邪魔をしないようにしてあげて下さい」

「僕がいつ邪魔をしたのですか?」と川田氏は顔色を変えた。野々口は黙ってその顔を眺めた。

「え? 何を邪魔したと言うんです。失敬じゃありませんか?」

野々口は静かに口を開いた。「芸者などの前で、何気なしにおっしゃることでも、時にはそれが邪魔することになるものですよ」

やがてほどなく、野々口は裁判所を出て、どこというあてもなく歩いた。

出がけ際に彼は、武藤氏の事務室を訪ねて検査したが、別にこれという手がかりはなかった。彼は川田氏が、いかに武藤氏と反目していても、予審調書を隠すような子供らしい悪戯はすまいと思った。けれど、彼は川田氏の意地の悪い心に少なからず反感をいだいた。武藤氏の苦しむのを見てほほ笑んでいるという憎らしい態度が気にくわなかった。だから彼は、失った予審調書の捜索よりも、何とかして二婦人殺しの謎を解き、武藤氏を助けてやる方が、遙かに大切なことのような気がした。で、彼の頭は、いつの間にか、今朝初めて新聞切り抜きで読んだ事件の記憶で占領されてしまった。

歩くともなく歩いているうちに、彼は北練兵場へ出た。彼は、いつ見ても、名古屋城の姿に一種の感激を覚えた。これまで、難事件に出会った時、彼はこの練兵場へ来て、五時間も六時間も過ごすことが度々あった。彼はいま、五月の晴れ渡った午後の日かげを浴びながら、二婦人殺しについて考えた。鶴三か。八太郎か。彼は幾度となく、胸の中で、この質問を繰り返した。

鶴三はいったん白状してなぜ再び自白を翻したか? 世間では警察の峻烈な調べに辛抱しきれなくて自白したのだろうと考えているようであるが、虚偽の自白をしたものが、泣いて形見の品を妻子に渡してくれと頼むということは、いかにしても考えられないところである。また、鶴三は、八太郎の出現を知らないはずであるから、八太郎が出現したために自白を翻した訳でもない。なおまた鶴三が、芝居っ気を出して自白したのでないことは、新聞に書かれた彼の性質からでも明らかである。

だから、この際最も適当な解釈は、鶴三が自白したのは、自白すべき理由があり、また、自白を翻したのは翻すべき理由があったと見なすことであらねばならぬ。ではその理由とは何であるか?

彼は、はたと行き詰まった。その理由がわかればこの事件は解決されるわけであるが、彼は今それを発見することが出来なかった。で、歩きながら色々考えているうちに、彼はとうとうこの事件における重大な事実を発見したのである。それは何であるかと言うに、一口に言うと、八太郎の自白に犯人でないと思われる点は一つもないのに、鶴三の自白に限って、犯人でもあり、また、犯人でもないと思われる点のあることである。もっとも、もし八太郎が自白を翻したならば、八太郎が犯人だという何の物的証拠もないけれど、鶴三の場合と違って、自白を是認すれば、何の矛盾もなく是認し得るのである。このことは、犯罪事件の謎を心理的に解決するために、極めて重大な事実でなければならぬ。房江の財布と、つっかい棒に関する八太郎の説明が極めて合理的であるのに、鶴三の説明には矛盾と欠陥とがある。ここに事件の解決の糸口があると見て差し支えない。と、野々口は考えたのである。

さて、事件解決の糸口を見つけたけれども、彼はそれ以上に進むことが出来なかった。ふと、気がついて見ると、いつの間にか日はとっぷり暮れて、冷たい風が吹き出した。野々口は急に我に返って街の方に足を向け、それから、電車に乗って、二ヶ月ぶりに冨澤町の料亭吉野屋の門をくぐった。

「あら、野々口さんお久し振りですわ。あなたは鶴三を犯人とお思いでしょう?」と女中のお君は彼の顔を見るなり言った。すると、奥から、お花が走り出してきて、

「八太郎でしょう。ね、教えてちょうだい、私たち賭けをしているのよ」と、取りすがった。

野々口は少々面食らった。新聞には、料理屋あたりで賭けが始まっていると書いてあったが、こうも猛烈であるとは思わなかったのである。

「叶家の芳香という妓を呼んでくれないか?」と、奥の間へ通されてから、野々口はお君に言った。

「あら、武藤さんに怒られますよ。芳香さんの心配ったらありゃしない。事件の係が武藤さんですもの」

「そんなに二人は仲がよいかい?」

「武藤さんはああいう堅い人だから何とも言わないけれど、芳香さんは死ぬほど思ってるわ」

「では川田さんの怒るのも無理はないなあ」

「川田さんって本当にいけ好かない人ねぇ。武藤さんの悪口ばかり言うんですもの」

我が事のようにぷんぷんしてお君は去ったが、しばらく経ってから帰って来て、芳香はよそのお座敷へ行って、十一時でなくては手が引けぬ旨を告げたので、彼は芳香と朋輩の艶菊という妓を呼ばせた。

艶菊は、年は若かったけれど芳香思いであった。彼女は野々口が探偵であることを知ると、どうか手伝って、武藤さんに、早く事件を解決させて下さいと頼んだ。

「叶家でも賭けが流行っているのかい?」と野々口は尋ねた。

「女将さんなんか、まるで気ちがいのようですよ。八卦見まで雇って来て見てもらうんですもの」

「女将さんは鶴三の方か、八太郎の方か?」

「それは知りませんわ。あなた桃澤というお金持ちをご承知でしょう。女将さんはその桃澤さんと大金の賭けをしたようです。ゆうべも桃澤さんが、うちへ来ていましたわ」

「芳香さんも賭けをしているんじゃないかい?」

「賭けどころか、神様へ願掛けしているわ。川田さんが、武藤さんの首が危ないなんて言いふらして歩くのですもの」

「そうか、芳香さんはそんなに武藤さんを思っているか」と言って野々口はにわかに小声になった。「実はねぇ。武藤さんにちょっと困ったことが出来たんだ。大切なものを失くしたんだが、それが出ないと、それこそ本当に、武藤さんの首が危ないかもしれん。で、僕は芳香さんに手伝ってもらいたいことがあるんだ。今夜帰ったら、芳香さんにこのことを話して、いいか、内緒でだよ、明日にでも僕のところへ訪ねて来るように、そう言ってくれないか」

こう言って野々口は一枚の名刺を艶菊に渡した。

 

野々口は十時頃に帰宅したが、やはり調書紛失事件よりも、二婦人殺しの方が気になったため、今日、北練兵場で考えた続きに取りかかり、今夜中に満足な説明をつけねば徹夜してもやむまいと決心した。

彼は酒のために、赤みを帯びた顔を光らせ、書斎の机に向かって、じっと考えこんだ。彼はポケットから一冊の書物を取り出して、あるページを開いた。それは彼が身辺から離したことのない「醒睡笑」であって、彼は難しい事件にあったとき、この書の任意のページを開いて考えると、不思議にも解決の光を認めるのであった。

彼は北練兵場で、この事件の解決の糸口を見つけた。すなわち、八太郎の自白には矛盾した点がないのに、鶴三の自白には矛盾があることを解決の第一階段とすべきであると思いついた。そこで彼は進んで、第二階段としていかなることを持って来るべきかについて考え始めたのである。

段々考えて行くうちに、彼は自分もまた、世間の人々と同じように、犯人を鶴三か、八太郎かのいずれかに定めたく思っていることに気づいた。もっとも、鶴三と八太郎の共犯でないことは言うまでもないから、誰しも、二人のうち、一人を真犯人と定めたがるのは無理はないけれど、それはやはり誤った考えではあるまいか? すなわち、鶴三の自白も、八太郎の自白も是認して、しかも適当な解決を見い出すのが、この際取るべき、唯一の思考手段ではあるまいか? と思いついたのである。で、彼はさらに色々考えた結果、遂に、被害者の側から、この問題にぶつからねばならぬことを発見したのである。

この第二階段の発見をしたとき、玄関口のベルが激しく鳴った。書生たちはいつも十時に寝させることになっているので、彼自身が戸を開けに行くと、門口に人力車を待たせて、一人の美装した女が立っていた。

「叶家の芳香でございます」と彼女は心配そうな蒼い顔をして言った。

野々口は彼女を書斎に導いて、椅子に腰掛けさせようとすると、彼女は立ったまま、

「武藤さんの書類を盗ったのは私です」と声を震わせて言った。

野々口は事の意外に驚いたが、急に冷静になって「なぜ盗んだのかね?」と尋ねた。

「武藤さんのためを思ってです」

「え?」

「まあよく聞いてください」と、彼女は初めて、椅子に腰をおろして語り出した。

それによると、川田予審判事が、武藤氏の首が危ないかもしれぬと言いふらしたのを聞いて、彼女が神様に願掛けまでして気を腐らせていると、女将は非常に同情して、易者を雇って、果たして武藤予審判事が今回の事件を解決するかどうかを占ってもらうことにしてくれた。すると易者の言うのには、事件は非常に難しいから、このまま放って置いては到底武藤氏には解決出来ないけれど、あるおまじないをすれば武藤氏は必ず成功すると言った。そのおまじないとは、武藤氏の手から、彼女が、今回の事件の予審調書の一部分を盗んで、三日過ぎに郵便で、誰が盗んだか知れぬように返せばよいというのであった。

彼女が、とてもそんなことは出来ないと思って当惑していると、女将が私が手伝ってあげるからおやりなさいとしきりに勧めたので、恋人を成功させたさの一念で、女将の命ずるままに、武藤氏に手紙を送って昨夜吉野屋で会い、武藤氏が便所へ立った留守に、女将に与えられた書類と武藤氏の風呂敷包みの中の書類とをすり替えたのである。

野々口はこれを聞いて不審に思った。何となれば、武藤氏は、裁判所に置いてあった書類が失くなったのだと言い、武藤氏が昨夜持って帰った書類は他の事件の書類で、しかも、別にすり替わってはいなかったはずだからである。して見ると武藤氏は間違って持ってきたのであろうか。それとも、芳香が嘘を言っているのであろうか。

彼女は野々口の顔を見て、ますます、心配そうな顔をして言った。

「何でもないことだと思っていたら、今夜、艶菊さんへのお言付けを聞いて本当にびっくりしました。書類は女将さんの手元にあるのですから、どうぞ、私のやったことだとは言わずに、武藤さんに、あなたの手から渡してちょうだい。私が盗ったことがわかっては、おまじないにならずに、武藤さんが失敗なさるといけませんから」

彼女は易者の言葉を一途に信じ切っているのである。こうした無邪気な女が嘘を言うはずはないから、野々口は彼女がおそらく女将の手玉に使われているのだろうと考えた。万事は明日、叶家の女将に会えばわかることである。だから、彼は、芳香を出来るだけ慰めて帰すことにした。

彼女の帰りがけに野々口は尋ねた。

「女将さんは川田さんの肩を持っているのでないかい?」

「いいえ、武藤さん贔屓ですの」

芳香を送り出してから野々口は庭へ出てしばらくの間、星の多い夜の空を仰いだ。と、その時、遠くに半鐘の音がした。

「火事だ!」と言って彼はあたりを見まわしたが、どこにも明かりは見えなかった。が、その途端に彼は、

「わかった。わかった」と嬉しそうに叫んだ。

(三)

 

あくる日の午前十時頃、野々口は地方裁判所に出頭した。彼の手には、失くなった予審調書が風呂敷に包んで抱えられていた。

武藤氏はそれを受け取って嬉しそうな顔をした。「ありがとうございました。どこにありましたか?」

「それをお話しするのはあとにして。ひとつ僕の頼みを聞いて下さいませんか?」

「何でも聞きます」

「実は昨晩、二婦人殺しについて説を立てて見たのです。で、それを鶴三に試していただきたいと思います」

「解決がつきましたか?」と武藤氏は驚きかつ感心して言った。

「どうか教えて下さい」

武藤氏の態度がいかにも無邪気で、あたかも生徒が教師に教えを乞うような風に見えたので、野々口は、この人のためには及ぶ限りの力を尽くしたいと思った。

「この事件を解決しようと思うすべての人は、犯人を、鶴三か、八太郎かのどちらかに決めたいと思っているようですが、それがいけないと僕は思いついたのです。で、僕は二人の自白を真実と見て、言い換えれば、 二人とも犯人だと見なして、解決する道はないかと考えたのです。それには、被害者の側から考えて見る必要があると思ったのですが、昨夜ふと、火事の半鐘の音を聞いて、先年東京で行われたある犯罪を連想したのです。それはどういう事件かというと、ある人の妾が、その従弟に横恋慕されて殺された事件でした、その従弟は、女の家に引き窓から忍び込んで手ぬぐいで女の首を締めたあげく、火を放って逃走したのです。ところが死体解剖の結果、その女はいったん締められたけれども息を吹き返し、かえって火災のために死んだことがわかりました。

そこで僕は今回の事件における房江を、この事情に当てはめてみたのです。すると、鶴三がいったん自白してまたそれを翻した事情がわかってきたのです。すなわち鶴三は房江だけ殺して唖のうたには手を掛けなかったのです。なお詳しく言うならば、鶴三はその晩、房江の元に忍び込んで、女の嫌がるのを無理に情欲を遂げ(あるいは遂げなかったかも知れませんが)、その際彼が口を塞いだため房江は絶息したのです。すなわち彼は殺すともなく殺したのですが、女の死んだのを見てたまげてしまい、取るものも取りあえずに走り帰ったのです。

すると、そのあとへ、偶然にも、八太郎は窃盗の目的で忍び込みました。その時に房江は息を吹き返していたのです。八太郎は先刻起こった事情を少しも知らず、房江の乱れた姿を見て劣情を起こし、やはり獣欲を遂げたのですが、その際房江が弱りながらも抵抗したので、こんどは本当に扼殺してしまったのです。それから部屋の中を物色していると、物音に目を覚ました唖のうたが逃げ出そうとしたので、殺気に満ちた八太郎は、そこにあった絹の紐で彼女を絞殺しました。そして彼は房江の財布を奪って逃げたのです。

さて、翌日になって、鶴三は死体が発見されたと聞いて、身に覚えがあるから、すぐには医者を呼びにやらなかったのです。ところが現場へ行って見ると、唖のうたまで殺されているので、これはと思って、社員のMに向かって証拠をなくしてはいかぬと注意したのです。ところが、警察で色々尋ねられた結果、房江だけ殺したと言ったとして到底警察が本当にしてくれないので二人とも殺したと自白したのです。それならば房江の財布はと問われて、かまどで焼いたと言ったのです。つまり心にもない嘘を言うより仕方ありませんでした。従ってつっかい棒についても合理的な説明をして見たのです。

が、よく考えて見ると、どうしても唖を殺した覚えはないから、予審でその自白を翻したのですが、自白を翻せば当然房江殺しをも否認するより外ありません。もし、八太郎が現れたということを聞いたならば房江だけを殺したというかも知れませんが、八太郎のことを少しも知らぬのですから、無理もないことです。

こう考えて見ると、鶴三の自白した心理も自白を翻した心理も、また自白の中の矛盾した点をも比較的容易に説明することが出来るのです。一方において八太郎の自白は、十分真実性があるわけです。

勿論、僕は新聞記事だけを読んで推定したことですから、予審調書の中には、僕の説と矛盾することがあるかも知れません。そこで僕があなたにお頼みしたいことは、鶴三に向かって八太郎の出現したことをお告げになり、僕の今言ったことが果たして正しいかどうかということを聞いていただきたいのです。

武藤氏は野々口の説明に、ただただ感じ入るだけであった。そして思わずも「ありがとうございました」と叫び、

「予審調書の内容も、今のお説のように解釈すれば一つも矛盾はありません」と付言した。

その夜の八時頃、市中は「号外」の声で賑わった。野々口が号外を取りあげて読むと、鶴三が新しい事実を自白し、二婦人殺し事件が武藤予審判事の手で見事に解決された旨が記されてあった。

九時半頃武藤氏は嬉しそうな顔をして入って来た。

「実に何と言ってお礼申し上げて良いやらわかりません」と氏は涙を浮かべながら野々口に感謝し、野々口の説が当たっていたこと、鶴三が八太郎の出現と野々口の説明を聞いて、わけもなく真実を自白した旨を告げた。

「それは何よりでした」と野々口もにこにこして言った。「物的証拠が無いようですから、八太郎が自白を翻せば面倒ですが、とにかく事件は一段落着いたようですねえ。これで武藤予審判事の名声はいよいよ高くなります。今頃はどこかで神様にお礼申し上げている人がありましょう」

「え?」と武藤氏は不審そうな顔をした。

「芳香ですよ。芳香はあなたにこの事件の解決をさせたいために神様に願掛けまでして、その上予審調書の一部分を盗んだのです」

「何です? 調書を盗んだのは芳香ですって?」と武藤氏はびっくりした。

「驚きになるのも無理はありません。芳香はあなたに成功させたいおまじないに、ゆうべ、吉野屋で、あなたが便所へ立たれた留守に、風呂敷包みの中身をすり替えたんです。まあ、お待ちなさい。あなたは、ほかの事件の調書を持って帰られたつもりですが、実は裁判所を出られる時、すでに、その調書は二婦人殺しの事件の調書の一部とすり替わっていたのです。誰がすり替えたのですって? 給仕の佐藤ですよ。だから佐藤は今日欠勤しました。佐藤はあの日、あなたが裁判所からの帰りがけにいつも小使い室へ茶を飲みに行かれるその留守中にすり替えて、あなたが最初お包みになった調書を持って叶家の女将に渡し、それを芳香が持って来て更にすり替え、芳香は二婦人殺し事件の調書を叶家へ持って帰ったのです。だから、風呂敷包みの中の調書には結局変化がなかったのです」

「いったい何のためにそんなことをしたんですか?」

「賭けですよ。叶家の女将の企んだことです。女将ははじめ鶴三か八太郎かの賭けをやっていたのですが、ふと、富豪の桃澤さんと、芳香にあなたの手から、こんどの事件の調書を盗ませて見せるという賭けをしたのです。桃澤さんは、とてもそんなことは出来るものではないと大へんなお金を賭けたのです。負けん気の女将は色々考えたあげく、川田さんが言いふらした言葉に気を腐らせている芳香を利用して、易者と示し合わせて、おまじないのために、あなたの手から調書を盗み、三日間うちに置いて郵便で返せば、あなたが必ず事件を解決すると言わせたのです。芳香が、女将に相談すると、手伝ってやるからとおだてたので、遂にやる気になったのです。女将は正直な給仕の佐藤を納得させるのに随分骨を折ったと言いましたよ。で、給仕はあなたに申し訳がないから調書の戻るまでの三日間を欠勤することにしたのです。いや誠に馬鹿馬鹿しいことですが、賭けをやるものの心理はこんなものです。それにしても事件が解決されたら、芳香のおまじないが効いたわけです。女将も今朝会った時、金が入って大喜びでしたが、今頃は号外を見て、叶家は大騒動でしょう。どうか芳香を憎まないで下さい」

「憎むところですか。いや、何もかもあなたのおかげです。実をいうと、昨日調書の紛失を発見したとき、真っ先にあなたのところへ駆けつけたのは、二婦人殺し事件のお説が聞きたかったためで、こうしてお近づきになれば、自然、お説を聞く機会も出来るだろうと考えたからです・・・・・・」

武藤氏の言葉がお世辞であるか、本心であるか、野々口は芳香を呼んで聞いて見たいと思った。

Adobe Reader<外部リンク>

PDF形式のファイルをご覧いただく場合には、Adobe社が提供するAdobe Readerが必要です。
Adobe Readerをお持ちでない方は、バナーのリンク先からダウンロードしてください。(無料)