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更新日:2021年10月30日公開 印刷ページ表示

遂に鐘は鳴った(昭和3年発表)

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(一)

 

昼近い夏空は気味の悪いほど澄み渡っているにも関わらず、夜来の南風はひょうひょうと音を立てて吹いていた。

その日も私は例の如く不思議な鐘つき男を見るべく数百の石段を登って山腹の寺院を訪ねた。

山門から南に向って見下ろす港の町は、いつもながら美しかった。町はずれから山までの広い野原を覆う緑草は風に揺られてきらきらと輝き、その野原を後ろにして、楕円形の海岸線を囲む一帯の瓦屋根は、瑠璃色の貝殻を伏せたように押しならび、薄黄色に陽を反射するコンクリート作りの四角な建物が、波間に漂う白帆のごとく点在し、三方に山を控えた濃藍色の海面には、異国の旗をひるがえす数々の船舶が落ち葉のように浮かんでいた。

山腹にあるこの寺院は、この港の開かれたときに建立されたものであって海上からこれを眺めるときは、白い長い石段と朱塗の山門と、その奥に、むら雲のように覆いかかる樹木の間から顔を出す本堂の屋根とが「かくの如き功徳荘厳を成就せり」とでも言いたげに崇高な風景を形づくって、代々、人々の信仰の的となっていた。

この春、この寺院に、日本一の大梵鐘を寄進する話が町の人々により一決された。寄付金は直ちに集まって、鶴吉亀吉という兄弟鋳物師がその鋳造を受け持った。もっとも二人が選ばれるまでにはかなりの紆余曲折があった。というのは、この兄弟に競争者があったからである。それは鮫蔵という鋳物師であって、その息子と共に、技量はむしろ兄弟を凌いだけれど、父子とも人格に非難される点があったために、町の人々の反感を買い、遂にその選に漏れたのである。

初夏のある晴れた日、盛大な儀式のもとに鋳造が行われた。人々は山のように集まった。が、意外にも地下に築かれた鋳型に不備な点があって、悲しくも失敗に終わった。兄弟の落胆は絶大であったが、鮫蔵父子はひそかに嘲笑を浮かべて顔を見合った。

しかし、兄弟は奮起した。もはや損得の問題ではなく、その生命を賭して再鋳造に取り掛かった。彼らが用意周到に鋳型を作り、かつこれを守るに極めて厳しかったことは言うまでもない。実に二人はほとんど夜の目も寝ずに警戒し腐心した。

ところが、いよいよ明日は再鋳造に取り掛かるという前夜、弟の亀吉は突然姿を隠して行方不明になった。人々は多分彼が前回の失敗に怖気づいて、いずこともなく逃亡したのであろうと噂した。けれども残された兄は決して勇気を失わなかった。そして、一人の手で見事に鋳上げた。

すると、ここにまた、思いも寄らぬ悲しいことが起った。すなわち、新しく建立された鐘楼に吊られた日本一の大梵鐘はどうしたわけか嗚らなかった。それはただ鉄板を叩く時に発するような音を出すばかりで、梵鐘に特有な響きは起こらなかった。

「こんなはずはない。いまにきっと鳴らせて見せる」

こう叫んで、鶴吉は狂気のように鐘をついた。けれども、鐘は鳴らなかった。どこに傷があるでもないのに、鐘は響きを拒んだ。

来る日も来る日も鶴吉は鐘をついた。朝から晚まで鐘楼を離れなかった。けれども鐘は沈黙を続けた。

はじめのうち、町の人々は、物珍しそうに見に来たが、のちにはもう誰も来なかった。遂には寺院に住む人たちも鐘楼を見捨ててしまった。

ただ私一人は鶴吉の態度に興味を持って、毎日毎日、山上に足を運んだ。土砂降りの雨の日も焼けるような暑さの日も、変わりなく鐘楼を訪れた。

いつもは滅多に口をきくこともなく、ただ青白い顔をして一心に鐘をついていた鶴吉が、その日に限って晴れ晴れとした顔をしていたのだ。鐘楼に近づいた私は、まず異様な感覚に打たれた。

「よく来てくださいますね、あなただけです。今日でちょうど鋳造百日目になります」と、鶴吉は寂しそうに笑った。

「もうそんなになりますか。どうです、今日も鳴りませんか」

「まだ鳴らしてみないのです。けれども今日はきっと鳴ります。鳴らねばならぬわけがあります」

いかにも自信に満ちた言葉つきだったので私は思わず彼を見つめて言った。

「わけとは?」

鶴吉は急に警戒するようにあたりを見回した。本堂や庫裡とは大きな林を隔てていて、鐘楼の付近には何人もいなかった。ただ数匹の燕が、あわただしく飛び交っているだけであった。

鶴吉は小声で言った。

「実はゆうべ、弟が私の夢枕に立ったのです」

「え? 弟さんが、それではもしや弟さんは・・・・・・」

「死んだのです」と、鶴吉は深い太息をついた。

私はこの意外な言葉に、ただ鶴吉の顔を眺めるばかりであった。

鶴吉は鐘を仰いで言った。

「本当は、弟は怖気づいて逃亡したのではありません。私たちの鋳造を邪魔した鮫蔵父子に対する復讐として自殺を遂げたのでございます」

私はますますびっくりした。

「それでは第一回の失敗の原因は・・・・・・」

「鮫蔵父子が、私たちを妬んである奸計をめぐらせたのです。まさかと思ったのですが、後にその証拠を発見しました。けれども、それを公にしては世間を騒がせるばかりでなく、せっかくの大梵鐘を鋳る機会をも失ってしまうであろうと思い、私たちはだまって再び鋳型を作りました。そして今度は鮫蔵父子の妨害をしりぞけるために、ほとんど不眠不休のありさまで警戒しました。ところが再鋳造の行われる前夜、弟は突然自殺しました。いかなる方法で自殺したかは申すに忍びません。私は気も顛倒せんばかりに驚きましたが、弟の書き置きを見るに及んで一層びっくりしました。すなわち弟は自分の死骸を鐘の中へ鋳込んでくれと言うのです。魂をもって鐘を守ったならば、決して鮫蔵父子に邪魔されることはあるまいと言うのでした。鐘を守ると同時に自分は町の人々を守りたい、そして鮫蔵父子に復讐したいと言うのでした。もし自分の願いを聞いてくれなければ自分の魂は浮かばれない、弟を犬死させたくないと思ったならば、どうかわが一生の願いを聞き入れてくれと言うのでした。私が弟の志に従ったことは申すまでもありません。私は弟の希望通り、鐘の中へ弟を鋳込みました。どういう方法で鋳込んだかは、これまた申すに忍びません」

こう言って、鶴吉は、懐かしそうな顔をもって梵鐘を見上げた。さっきから全身の神経を緊張させて、鶴吉の怖しい打ち明け話を聞いていた私の目には、この時梵鐘の色が巨大な生物の肝臓のよう見え、今にもその肝臓から鮮血がほとばしり出はしないかと思ってぞっとした。

「しかし」と鶴吉は相変わらず低い声で続けた。「出来た鐘には不完全な点はありませんが、どうしたわけか、とんと鳴りません。私は思いました。たとえ弟の必死の願いであるとはいえ、清浄な鐘の中に人間の穢れた五体を鋳込むことは仏罰を被らねばならぬのであろう。それに弟は復讐の目的を持っていたのであるから、仏様はそうした心に同意してくださらぬだろう。こうは思ったものの、やはり私は弟の一念を信頼しました。そして、鐘が鳴らないのは、まだその時機に至っていないのだ、弟の魂が、多分鐘が鳴ることを拒んでいるのだろうと考えました。ですから私は、毎日根気よく、鐘をつきながらその時機を待ちました。果たして私の想像は当たったのです」

こう言いながら鶴吉は、鐘の下方を円を描いて歩いた。そして、時々懐かしそうに鐘を見上げた。

「ゆうべ弟は私の夢枕に立ちました。そして言いました。兄さん、長い間、よくも根気よく鐘をついてくれた。定めし待ち遠しかっただろう。いよいよ明日は鮫蔵父子に復讐する時機が来た。鐘はきっと鳴る。そのつもりでついておくれ。目が覚めてからも、この言葉は、はっきり耳の底に残りました。私は弟を信じます。今日こそは鐘が鳴ると思います。どれ、それでは鐘をつく仕度をしましょうか」

 

(二)

 

私は鶴吉が語る間の厳粛な表情を見て、彼が決して偽りを言っているものではないと思った。私は実は、亀吉が行方不明になったことについて、何かその間に犯罪が潜んでいはしないかを発見すべく任命された探偵なのである。鮫蔵父子が鶴吉兄弟に対して敵意を持っていたことを知ってから、もしや亀吉は人の手にかかって死んだのではあるまいかと、毎日鐘楼を訪ねて鶴吉に会い、できるならば鶴吉の口から弟に関することを聞き出そうと計ったのである。

一方、私は鮫蔵父子の監視を怠らなかった。けれども、これという証拠を得なかった。そして今、鶴吉の言葉によって事の真相は明らかにされ、言わば私の任務は終わりを告げた。

私は鶴吉の言葉を信じたいと思ったけれども鐘は果たして鳴るであろうか。もし鐘は鳴るとしても、亀吉の魂はいかにして鮫蔵父子に復讐するであろうか。

ふと気がつくと朝から吹きしきっていた南風がぱったりやんで、燕はどこかへ行ってしまい、木の葉は死んだように動かなくなった。と、同時に、今まで青々としていた空が薄紅くどんよりと潤んで、仰げば太陽の光は血のように赤かった。

海も同じく赤みを帯びて、見渡す限り、まるで凝固した寒天でも見るように重々しく横たわり、遥か左方の、さっきまで白波を寄せていたあたりは、古鏡のように鈍く光って、山々の影をくっきり映していた。

暑さは急に加わった。夢見るような静寂が天地を占領した。

この急激な天候の変化に、私は恐ろしい予感を覚えながら、ぎくりとして鶴吉を眺めた。

彼もまた、この異様な現象に気づいていた。

「弟の言葉通りです」と、彼は再び鐘を仰いで言った。「鳴りますよ。これじゃ鳴らずにおれません」

この時、一匹の紫色のトカゲが彼の足元に這ってきた。

「御覧なさい、トカゲが鐘を聞きに来ましたから」

こう言って彼は、武者震いしながら、撞木を手に取って、そして「エィッ」と声をかけた。

次の瞬間! おお!

驚くべき梵鐘の声が、風なき空を、山から町へ、町から海へ、そしてさらに海の果てへ、尾を引いて鳴り響いた。

この奇蹟に力づけられた鶴吉は、物もいわず再びついた。

鳴った。

それからまた、鳴った。また、鳴った。鳴った。鳴った。

その微妙な響きに陶酔して、私が眺めるともなく町を見下ろすと、いつしか野原の上を蟻のように群れをなして駆けてくるものがあった。言うまでもなく、それは、大梵鐘の音を聞いて、鳴らなかった鐘が遂に鳴った奇蹟を見るべく、寺院めがけて家を飛び出した町の人々である。

それとは知らず鶴吉は、一生懸命に鐘をついた。彼の眼は血走り、額からは汗が流れた。彼はもうそばに私のいることも忘れて、大梵鐘を、いや、弟の魂めがけて撞木をふるったのである。

およそ二十分ばかりも続けて鳴らしたことであろう。人々はもう町から出きってしまって、先頭のものは早、石段に近づこうとした。

と、その時、

「ゴーッ」という、地の底から湧き出るような響きが聞こえたかと思うと、たちまちぐらぐらっと大地が揺れ始めた。

「地震だッ!」

叫んだときには、もう私は地上に転がっていた。

「危ないッ!」

転がりながらも、私が鶴吉に注意をすると、彼は依然として撞木にぶら下がったまま、惰性で動かぬ大梵鐘を、揺すぶる鐘楼の力に助けられて、かえってやすやすとつき続けるのである。

幾分かの後、かろうじて起き上がりつつ、港の町を眺めると、家々はことごとく潰れて、ところどころから立ち昇る炎々たる焰が地震とともに吹き出した強風のために、みるみる広がっていくのであった。

そしてこの恐ろしい災禍の町を、弔うがごとくに梵鐘は鳴り続けた。

前代未聞の大地震によって、港の町は灰燼に帰したが、住民は、たった二人を除く外、ことごとく大梵鐘のために救われた。その二人とはすなわち鮫蔵父子であって、彼らは鐘が鳴りだしても、心に嘲って家に籠っていたため、震災のために焼死したのである。

かくて、亀吉の復讐は不思議な手段で成し遂げられ、町の人々を守りたいという希望も達せられたわけである。

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