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更新日:2024年10月31日公開 印刷ページ表示

別人の血液(昭和4年発表)

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(一)

 

これは、東京郊外のある長屋に起こった悲劇であります。よく郊外には三、四軒ずつ固まった長屋が、そこかしこにぽつりぽつりと建てられてありますが、これからお話しようとする悲劇も、そうした長屋の一軒で起こったのであります。

そのような長屋はしばしば強欲な家主に所有されているものでありまして、かかる家主と、哀れな借家人との間には、よく悲しい事件が醸されますが、この物語も、やはり一人の強欲な家主を中心としているのであります。

皆さんが芝居でご覧になる強欲な家主は、たいていそのタイプが一定しております。まず赤ら顔の、軽い慢性腎臓炎を持っていそうな、頭の禿げた、眼つきのよくない、物を読むときには眼鏡をかけ、人の顔を見るときは眼鏡の縁の上を越してにらみつけるというようなのが普通でありますが、この話の中心人物たる奥田金兵衛も、まったくこの定型的な風采なのであります。

金兵衛はいま、その借家人である大工の栄吉のところへ、三ヶ月滞っている家賃の催促に来たのであります。敷金が三ヶ月分取ってあるから、これまでは、催促もそれほど徹底的ではなかったのですが、今日でいよいよ、家賃の滞納が、まる三ヶ月になるので、金兵衛はいつもの金兵衛よりも幾層倍か冷酷な心をもって談判に来たのであります。

栄吉は女房のお花が、長らく胸の病でぶらぶらしているのと、不景気のために仕事が思わしくないのとで、最近いよいよ苦境に陥ったのでありますが、非常な女房思いの男で、無い中をいろいろ工面才覚して、出来るだけの養生をさせて来たのですから、到底いま、まとまった金を支払うことができません。お花は勝気の女でして呼吸困難をもおかして、なるべく費用のかからぬように、家事一切を人手を借りずに切り盛りして来ましたから、病はどうもはかばかしく治って行かないばかりか、夏が過ぎて朝晩急に冷えるようになってから、急に衰弱が増して、二、三日前、またまた喀血に見舞われて、床に着くのを余儀なくされたのであります。

ちょうどその心配の最中へ、金兵衛が訪ねて来たのであります。栄吉は、妻の病気が悪化したので、悪い時に来てくれたと心で思ったもの、やはりどうすることもできません。やむなく、あがりはなの部屋へ上ってもらって、金兵衛が言い出す前に、声を低くして言いました。

「大家さんのおいでくださった用件はよくわかっております。誠に相済みませんが、どうか今しばらく家賃を待って下さいませ」

けれども、金兵衛の心には、その言葉は何の影響も与えませんでした。

「待ってくれとはお前の口癖だが、いつまで待っても、やっぱり払えんではないか」

「でも、家内がご存じの通りの病気ですし、近頃は世間も不景気ですし・・・・・・」

「そんな言い訳はもう聞きたくないよ。家賃が払えなければ立ち退けばいいじゃないか」

「それはあんまりでございます」

「何があんまりか。他人の家を借りて、家賃を払わぬお前こそあんまりじゃないか」

「しかし、立ち退けとは無理・・・・・・」

「何? 無理だと? どこが無理だ?」

「何しろ、家内は二、三日急に容態が悪くなって・・・・・・」

「そんなこと、 こっちの知ったことじゃない。病気が重かろうと軽くなろうと、こっちにはまるきり関係のないことだ。家賃を払うか立ち退くか、二つに一つ、決めてくれ」

取りつく島もない金兵衛の言葉に、栄吉は悲しくなりました。たとえ餓死してもよいから立ち退こうかと決心しても、病妻のことを思えば、直ちにその決心は崩れてしまいます。

彼はもうひたすら嘆願するよりほかはないと思いました。

「家賃が払えないからこそ、また立ち退きができないからこそ、お慈悲にすがって、しばらくの猶予をして頂きたいと頼むのでございます。そのうちには何とか都合致しますから、この際はぜひ私の願いを聞いてくださいませ」

「わしは、今日お前の泣きごとを聞きに来たのではない。わしは、他人にお慈悲を施すために貸家を建てたのではないよ。こっちも商売だ。別の人に貸せば今日からすぐお金が取れるものを、みすみす損をするのは何としても厭だよ。さあ、もう、くどい話はしないで、家賃を払うか、立ち退くか、どっちでもよい、早く決めてくれ」

何という難題であろう。と思っても、言い解くべき理屈はもとよりありません。栄吉は思わずため息をつき、ひとりごとのように言いました。

「払うお金は無し、かといって今あの病人を連れて行く先はなし・・・・・・」

「病人病人と言うけれど、その病人がわしは気に食わんのだよ。いや、あの胸の病気なるものが、そもそもわしには面白くないよ。あれは誰にでも嫌われる病気だ。もしやそれがために隣の人たちが逃げ出しはしないかと、それが実は心配な位だ」

「どうぞ大家さん、病人が聞くとまずいですから、もっと小さい声でお願いします」

「いや、わしはこのことを、よく病人にも聞いておいてもらいたいのだ」

「ですけれども大家さん、誰も好き好んであの病気になるものはありません、ああした重い病気に罹ったものを気の毒とはお思いになりませんか」

「何? 世の中の肺病人にいちいち同情していた日にゃ、こっちの身体がもたんよ。重い病気に罹るのも自業自得だ。が、まあ、こんな話はどうでもよい。早く返事をしてくれ」

栄吉はしばらく眼をつぶってうなだれておりましたが、やがて顔をあげて言いました。

「大家さん」

「何だ?」

「どうしても待って頂けませんか?」

「待てない」

「それでは、もし差し当たり一ヶ月分の家賃を都合したら、ひと月だけ待って頂けますか」

金兵衛はちょっと考えてから言いました。

「それなら待たんことはないが、そのお金がここにあるかい?」

「ここにはありません」

「それでどうして払うというのだ?」

「どこかで工面して来ます。どうかお慈悲ですから、明日の朝まで待って下さい」

「いけないよ」

「それでは今夜の九時まで、十二時間ばかり猶予して下さいませんか?」

「それなら構わんが、確かにできる見込みがあるのか?」

「あります」

「もしできなかったらどうする?」

「立ち退きます」

「きっとだな? よし、それでは九時に来よう。この辺は夜分は人通りが少なくて物騒だが、幸い、八時に、魚屋の甚七のところへ行くことになっているから、ついでに来よう」

こう言って金兵衛は帰って行きました。

栄吉はほっとして、やがて一間を隔てた座敷へ行きました。そこには女房のお花が、蒼白い顔を布団からのぞかせて、その大きな両眼を涙に潤ませておりました。

「かさねがさねお前さんに苦労をかけて本当に済まないねえ」

お花は、低い声で言いました。

栄吉は右手で制して言いました。

「物言うのはよくないとお医者さんが言ったぜ」

「でも、大家さんはあんまりひどいわよ」

「おまえ、聞いていたのか」

「あんな大きな声をするんだもの、聞くまいと思っても聞こえて来た。お前さん、本当にお金をつくるあてがある?」

「みんなに借り尽くしたあとだから、もうこちらでは誰も貸してくれそうにないが、千葉の田舎に遠い親類があるから、そこへすがって見ようと、ふと気がついたのだ」

「でも、貸してくれるかしら」

「田舎の人は正直だから、こっちが正直に事情を打ち明けりゃ、きっと頼みを聞いてくれると思うんだ。でも、お前一人置いて行くのがどうも心配だ」

「なに、わたしは構わない。大丈夫ひとりで留守番しているから、行って来ておくれよ。けれど、もし、できなかったら、どうするつもり?」

「まあ、その時はその時のことさ」

こうは答えたものの、栄吉は、お金のできない場合を想像して、ぎょっとする思いをしました。

「お前さん、お金ができてもできぬでも、七時までにはきっと帰っておくれよ」

「七時?」

「ええ、七時」

「うむ、よし、帰って来よう」

こう言って、栄吉は身ごしらえをしました。

「じゃ、行ってくるよ」

出かけようとする栄吉を、お花は呼びとめました。

「おまえさんちょっと」

「何だい?」

「わたし、どうも、もう長くは生きておれぬ気がする」

「どうしたんだ、今になってそんなことを言うのは」

「いままで血を吐いても、今度のような身体の苦しさは一度もなかった」

「まあ、そんな心細いことを言わないで、しっかりしていてくれ」

「わたしがこんな病気に罹ったので、さぞ肩身が狭いだろうねえ」

「何を言う。おまえが病気になったのも、俺が苦労をさせたのがもとだ。俺はおまえの顔を見るたんびに済まないと思うよ」

「でも、とても助からぬものなら、いっそ死んだ方が、どれほどおまえさんのためになるか知れない」

「馬鹿なことを言ってはいかん。お医者さんは大丈夫、治ると言ってるじゃないか」

「駄目よ。お医者さんの言うことはみんな気休めだわ。わたしはもう、世間の人を誰も信用できなくなった」

こう言ってお花が突然泣き出したので栄吉は狼狽して、枕元にさし寄ってなだめました。

「縁起でもない、そんな話はもうよしてくれ。それに身体に障るといけないから」

ところが彼女は泣きやまないばかりか、とうとう、全身を震わせて泣きはじめました。

「わたし、くやしい。さっきの大家さんの言葉がくやしい。自業自得とは、よくもよくも言えたものだ・・・・・・」

「そ、そんなに腹を立てたって仕様がない。あの人の毒々しい物の言い方は、今に始まったことではない。さあ、もう、俺は出かけにゃならん、くしゃくしゃ思わないで、おとなしく番をしていてくれ」

何となく、後ろ髪を引かれる心地をして、栄吉は、わが家を出たのであります。

 

(二)

 

ところが、強欲な家主奥田金兵衛は、その夜、何者かに殺されたのであります。

殺された場所は、栄吉の家から半町(※約54m)と隔たらぬところにある森の中でして、死体の発見されたのは九時少し過ぎでありました。

こう言うと、皆さんは、栄吉が、田舎で金策ができずに失望して戻って、森に待ち伏せして金兵衛を殺したのであろうと想像されるでありましょうが、その実、最も有力な容疑者として警察へ拘引されたのは、栄吉ではなくて、その夜金兵衛が訪ねるはずであったところの魚屋の甚七でありました。

どうしてまた甚七が拘引されたかというと、それは、死体の発見された当時の模様をお話しすれば、なるほどとうなずかされます。

その夜の九時頃、石田巡査が巡回の道すがら、その森の中に入りますと、先方の道ばたに人影のうごめくのを見ましたので、物かげに身を潜めて様子を窺っておりますと、ひとりの男が、今ひとりの地上に横たわった男の上に乗り掛かっているようでありました。

そこで巡査が忍び足でその傍に近づいて行きますと、乗り掛かっていた男は、それと悟って矢庭に駆け出そうとしました。

ぱっと飛びついて、石田巡査は、その男の顔を懐中電灯で照らしました。

「やっ、お前は魚屋の甚公じゃないか」

こう言って地上を照らし、

「おや、殺されているな、これは誰だ?」

と、尋ねました。甚七も、死体を見て、驚いたように言いました。

「やっぱり、そうだったか・・・・・・これは私の家主の奥田さんです」

この時、石田巡査は、死体の傍に落ちていた出刃包丁を拾い上げました。すると、これを見た甚七の顔は、土のように蒼ざめました。

「これは、お前のか?」

甚七は、どう答えてよいか迷っていた様子ですが、やがて声を震わせて言いました。

「はい、私のです」

「すると、お前がこの人を殺したのか」

「いえ、違います」 と、甚七はきっぱり答えました。

「だって、この通り血がついているじゃないか」

甚七は血を見てびっくりしました。

「包丁は確かに私のですが、私が殺したのではありません。しゃがむ拍子に懐からすべり落ちて、死体の血がついたのです」

「何のために、包丁を持っていたのだ?」

甚七はしばらく返答することが出来ませんでした。

「それご覧、返答が出来ないだろう」

こう言った石田巡査は、甚七が犯人であるに違いないと思いました。

それからのことは詳しく述べる必要がありません。急報によって、本署から、警部や警察医や写真師などが来て、必要な手続きを行い、甚七はそのまま逮捕されて、翌朝、丸井署長の尋問を受けることになったのであります。

尋問の模様を述べる前に、警察医の鑑定によって、甚七に対する疑いが幾分か弱められたことを申さねばなりません。それというのは、金兵衛は、背部から斜めに、出刃包丁様の兇器で深さは心臓に達するほど刺されて死んだのでありますが、傷口の大きさを調べて見ると、甚七の持っていた包丁の幅よりもずっと広いことがわかったのです。すなわち、もし出刃包丁が殺害に使用されたとすると、それは魚屋の持っているような細刃のものではなく、普通の家で用いるような広刃のものであろうと鑑定されたのであります。そこで、甚七の言葉の如く、彼が死体の上にかがみこむ拍子に、懐から包丁がすべり落ちて、死体から流れ出していた血液がその刃に付いたと見るのが至当でなくてはなりません。しかし、それならば一体、甚七は何のために出刃包丁を懐の中に忍ばせていたのであろうか。この点が不可解であったので、丸井署長は彼に何もかも包み隠さず話すよう勧めました。

すると甚七は、次のような自白をしたのであります。

「色々ご面倒をかけて申し訳ございません。実は、私は、昨夜、あの森の中に待ち伏せをして、家主を殺そうと思ったのでございます。昨晩家主は私のところへ来て、滞っている家賃を厳重に催促し、もし金の工面ができねばすぐさま立ち退いてくれと申しました。かねて借家人たちは、あの人の強欲に悩まされていましたので、昨夜、私は、一杯機嫌で、家主を殺してしまおうと決心しました。 妻子のない一人身で、うちは小僧たちだけですから、自分の身がどうなろうともその点は気楽なものです。そこで、明日の朝までに必ず金を揃えると言って家主を帰し、程なく私は、言わば義民を気取って、包丁を懐にして家を出ました。家主は大工の栄さんのところへ九時に行って家賃を取って来るのだと申しましたから、私は家主が栄さんの家から出て来る戻り道でやっつけようと思いました。ところが、あの、栄さんの家から半町ばかり隔たった森の中へ入ると、意外に、地上に誰か横になっていたので、不思議に思って、かがみこんで様子を調べていると、丁度そこへ石田巡査がおいでになったのでございます。その際、私の出刃包丁を見て、私に疑いをかけられたのは無理もありませんが、家主を殺したのは、決して私ではございません」

甚七の陳述には、立派に筋が立っておりました。けれども、かと言って、彼が犯人でないという確実な証拠は、まだあがっておりません。

「家主金兵衛がお前の家を出たのは、何時頃だったか?」と、署長は尋ねました。

「八時半少し過ぎだったかと思います」

「お前のうちから、大工の家までは何分ぐらいで行けるか?」

「十分かかりません」

「金兵衛は確かに、 大工の家を訪ねると言ったか」

「何でも、昨日の午前に一度家賃の催促に行ったら、夜の九時迄にお金を揃えておくと栄さんが約束したそうで、これから取りに行くのだと言っていました」

そこで、 丸井署長は、甚七を別室に退かせ、部下に向かって、すぐさま大工の栄吉を呼んで来るように命じました。

四十を越したばかりの丸井署長は、人々に応接するのに極めて親切でありました。とかく警察の空気は人々に不快感を抱かせ易いものですから、氏は、どうすれば、人々を不快がらせないで済むかをいつも考えているのであります。従って氏の前に立つ証人は、いずれも快い感じを与えられ、真実を告げようと致しました。

栄吉が連れられて来ると、丸井署長は奥田金兵衛が殺されたことを告げ、犯人捜索の必要上、金兵衛との関係及び金兵衛が昨日彼の家を訪ねた顛末を、できるだけ詳しく物語るよう告げました。

そこで栄吉は、昨日金兵衛が家賃の催促に来たこと、彼が千葉の田舎へ金策に行ったこと、帰宅すると金兵衛は約束に背いて昨夜訪ねて来なかったこと、女房の病が夜半から急に重くなって、今危篤に瀕していること、お呼び出しに預かったので、お隣りのおかみさんを頼んでとりあえず出頭したことなどを、逐一申し述べました。

「ゆうべ、お前は何時頃家へ戻ったか?」

栄吉はしばらく考えておりましたが、

「八時少し前に帰りました」と、何となくおずおずして答えました。

署長はじっとその顔を見つめておりましたが、心の中で、「嘘を言っているな」と思いました。しかし、何のために彼は嘘を言うのであろう。八時少し前に帰ったということは、かえって、金兵衛殺しの疑いを招く恐れがあるではないか、こう思って、署長は念を押しました。

「金兵衛が殺されたのは八時少し過ぎだよ。お前は確かに八時前に帰ったか?」

「はい、間違いありません」

「金策に千葉の田舎へ行ったというが、お金はできたか?」

「はいできました。遠縁のものを訪ねましたら、快く二十圓(※現在の約16,000円)貸してくれました。家賃は十五圓でございますから、これでひと月は立ち退きを伸ばしてもらえると喜んで帰りました」

「女房も喜んだろうなあ?」

「はい、非常に喜びました」

「女房の病気はそんなに重いのか?」

「はい、二、三日前に喀血して、医者に絶対安静を命じられ、床の中から一歩も出ることができませんでしたが、ゆうべの夜半から、急に容態が変わりました」

「女房は昨日も起き上がることができなかったか?」

「這い出すこともできませんでした」 と栄吉は力をこめて答えました。

署長はじっと考えておりましたが、やがて言いました。

「金策ができたことに間違いはあるまいなあ?」

「田舎へ問い合わせて下さればわかります」

こう言って彼は先方の住所氏名を告げました。

金策のできたことが事実であるとすると、栄吉が犯人であるとはちょっと考えられません。

かといって、彼が犯人でないという確実な証拠はありません。彼の女房のお花は病人で、しかも床を這い出すこともできぬというのであるから、無論疑うべき余地はありませんが、かといって、お花が犯人でないという絶対的な証拠もありません。

署長は、はたと当惑しました。疑い得る人々は、いずれもその証拠が薄弱でありまして、かといって、ほかに差し当たりこれという疑うべき者はありません。あるいは単なる物盗りの仕業であるかも知れませんが、そうなると捜索の範囲はすこぶる漠然たるものになってきます。

そこで丸井署長は、もう一度、事件の始めから、探偵のし直しをしようと決心しました。そして、栄吉を別室に退かせて、部下に命じて、現場の写真を取り寄せました。

しばらくの間、署長は幾枚かの写真を熱心に検査しておりましたが、やがて何かの手がかりを見つけたものか、その顔に明るい色があらわれました。

署長は部下を呼んで言いました。

「死体はまだそのままにしてあるはずだね?」

「はあ」

「それじゃこれからちょっと調べるが、甚七と栄吉の二人はひとまず家へ帰らせてくれたまえ」

「え? もう用はないのですか?」

「差し当り用はない」

「真犯人がわかりましたか?」

「それはまだ何とも言えん。けれど、ある新しい事実を見つけたよ。多分それが手がかりになるであろう」

さて、丸井署長は如何なる新事実を見つけたのでありましょうか。

 

(三)

 

その同じ日の夕方、丸井署長は、珍しくも和服姿で、栄吉の家を訪ねました。

線香の匂いがかすかに漂っていたので、はっと思うと、栄吉が涙に濡れた顔をして出迎えました。

「どうした?」と、署長は思わず尋ねました。

「とうとう、今しがた、女房が亡くなりました」

「そうか、それは気の毒なことをしたなあ、さぞ一人で困るだろう」

「どうぞ、お上がりください」

「取り込み中でお気の毒だが、しばらくお邪魔しようか」

やがて署長は栄吉と向かい合って座りました。

「他ではないが栄吉、わしは少し尋ねたいことがあって来たのだ。やはり金兵衛殺しに関係したことだが、警察署長として来たのではなく、丸井という一人の男として来ただけだから、心を許して、話してくれ」

「何でも、お尋ねください」

「お前は今朝、警察で、ゆうべ八時少し前に家へ帰ったと言ったが、あれは覚え違いではなかったか?」

栄吉は首を垂れておりました。

「実は今日、お前たちを帰してからすぐ、千葉へ問い合わせたら、二十圓の金を貸したのは本当だったが、お前が汽車で両国へ着いたのは、八時半だとわかったのだ。して見ると、家へ帰ったのは九時過ぎでなくてはならんが、どうだね?」

栄吉はますます低く首を垂れましたが、やがて顔を上げて言いました。

「どうも相済みません」

彼は悲しそうに深いため息をつきました。

「お前がなぜわしに偽りを言ったかはよくわかっている。わしはその心をかえって尊いものに思ったから、こうして、和服姿で来たのだ。実は千葉の方を調べさせたのも、現場の写真を見て、ある手掛かりを発見したからだ。おかみさんが生きていたら、ただお前の口から、ゆうべ帰ったのが九時過ぎであったということを確かめるだけで帰ろうと思ったが、不幸にも死んでしまったから、ここでわしの見つけた手掛かりをお前に話しておこう。

お前たちを帰らせてから、わしはすぐ、現場の写真を取り寄せて調べたのだ。するとわしは死体の顔に掛かっている血が、すこし変だと思ったのだ。刃物で殺された死体の顔に血が掛かっているのは、何も怪しむべきことではないが、後から刺された死体の顔に血が掛かっているのはおかしいと思ったのだ。無論仰向きに倒された死体にも血が絶対に掛からんということはないけれど、どうもよく見ると、死体の顔に掛かっているのは、高いところから顔に向かって注いだような痕跡をとどめているのだ。そこで、わしは死体の顔についている血と、死体の血とが、同一人物のものかどうかを調べたのだ。この検査は別に難しいことではなく、人間の血には四つの型があるから、その血がどの型に属しているかを調べればよいのだ。勿論、別人でも同じ型に属していることがあるから、そういう場合には区別ができんが、違った型であるということがわかれば別人だと断言してもよいのだ。

ところで、わしが調べた結果によると、死体の血は第一型に属しているが、顔に掛かっていた血は第二型だったんだ。これで死体の顔に掛かっていた血は、金兵衛とは別人のものだとわかったんだ。

さあ、そうなると、一体どうして別人の血が掛かったかという問題が起こって来る。まず一番考えやすいことは金兵衛を殺した犯人の血だということだ。して見ると、犯人は金兵衛を殺す際に自分も負傷したか、あるいは興奮して鼻血でも出したか、あるいは別の原因で血を出したかでなくてはならない。

そこでわしは当然、あることに考え及んだのだ。後ろから力をこめて刺したということは、男のやり口よりもむしろ女のやり口を思わせる。それにあの血だ。あの血は恐らく犯人が興奮して、病気のために吐いたと考えるのが、極めて自然な推定だ。

こう思って、わしは、お前のおかみさんに濃厚な疑いをかけたのだ。ところが、おかみさんだとすると、お前の留守に家を忍び出したとしたと思われるから、お前が八時前に帰ったということはおかしい。そこで千葉の方を調べさせたら、果たして東京へ着いたのが八時半だとわかったのだ。で、お前はきっと、おかみさんが殺したということを知って、おかみさんを庇うために偽りを言ったのだろうとわしは推定した。どうだね、この推定に間違いはないと思うが」

栄吉は署長の語る間、神妙に聞いておりましたが、この時声を震わせて言いました。

「どうもご明察に恐れ入りました」

「すると、おかみさんはお前に白状したか」

「いいえ、とうとう白状せずに死んで行きました。大方、私に心配させないつもりだったと思います。 昨夜私が九時頃帰宅しましたら、疲労したのでしょう、よく眠っておりました。その眠りはしかし、いつもの安らかな眠りとは違っておりました。どう違っていたかと聞かれても返答はできませんが、とにかく苦しそうに眠っておりました。一時間ほど過ぎて、ふと眼をあきましたので、私が、お金のできたことを話しますと、にっこり笑ったきり、また眼をつぶってしまいました。私は大家さんが来たかどうかを聞こうと思いましたが、病人の心を乱してはならんので、そのままにしておきました。するとだんだん容態が悪くなったのでお医者を迎えに行くと、途中で、大家さんの殺されなさったこと、犯人として魚屋の甚さんが挙げられたことを聞きました。けれども私はその時、すぐお花が殺したのではないかと思いました。 

昨日家を出る時、お花は七時前に必ず帰ってくれと申しましたから、私もそのつもりで約束しましたが、先方へ行くと色々の手違いで時間が経ち、もどかしく思いながらも、どうにも仕様がなかったのです。

お花はきっと、私が七時までに帰らなかったので、お金ができないと考えて、大家さんを殺す決心をしたのだろうと思います。それに昨日、大家さんに言われたことにたいへん腹を立てておりましたから、苦しさを忍んで床の中から這い出し、出刃包丁を持って、あの森の中で大家さんを待ち伏せして殺したのだろうと思います。今のお話によると、その時きっと喀血をしたのでございましょう。 さっき眼をつぶりましてから、床を直しますと、血の着いた出刃包丁が敷布団の下から出て来ました。

でもお花が生きているうちは、罪人のうき目を見せたくありませんから、できるだけその罪を庇って、場合によっては、私が大家殺しの罪を引き受けてもよいと覚悟して偽りを申し上げました。

思えばお花も可哀想な奴でした。一日も、これという楽な目も見せずに死なせたのは本当に残念でございます。どういう心で人殺しをするようになったかわかりませんが、私を楽にさせたいと思う心が、きっと一番の原因になっていると思います。人殺しの罪は大きいですけれど、日夜あの恐ろしい病気に苦しめられたいじらしい心を、どうか署長さん、察してやって下さいませ」

こう言った栄吉の眼から、涙がぽたぽたと落ちました。

「いや、かえすがえすもお気の毒だ」と、答えた署長の眼も、涙で光りました。

「殺された人の身になれば、殺したものの罪は憎いが、やっぱりその心は憎めない。事件がわかって見ればわしの職分はもう終わったと言ってよい。犯人は死んでしまったのだから、今更その罪を世間にあばく必要はない。別人の血液が死体の顔に掛かっていたということは、わしよりほかに知るものはないから、この事件は犯人不明で終わらせよう。警察が無能呼ばわりをされても、女一人の魂を安らかに眠らせた方がどれほど気持ちがよいか知れない」

こう言って、丸井署長は懐から紙入れを取り出し、若干の金を紙に包んで差し出しました。

「これは少ないけれど、香典にしてくれ。 いずれまたゆっくり話しに来るよ」

丸井署長の出て行く後ろ姿を、栄吉は両手を合わせて見送りました。

 

(おわり)

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