本文
胃の中の小刀(一疋の蚤)(大正14年発表)
(一)
今しも柱時計が九時を報じた。八月のある暑い朝である。
警視庁鑑識課の実験室の中央にある机を囲んで、煙草をふかしながら対談しているのは、主任の医学博士山村勉氏と、警視庁でも腕利きの探偵と言われている刑事島崎朗三氏とである。
傍らの実験台の前に立ってしきりに仕事をしているのは、山村博士の助手岡田実君である。山村博士は、今朝隅田川で発見された死体が、やがて、解剖を受けるために運ばれてくるのを待ちながら、現場捜査に赴いた島崎刑事から、捜査の結果を聞いているのである。
島崎刑事の語るところによると、今朝未明に、向島こととい(※隅田川東岸地域の旧称)付近の堤防の杭に、男の死体が俯向きになって漂着していることが、通行人によって発見された。急報によって島崎刑事が部下の人々と共に駆けつけて見ると、死体は四、五日水中にあったと見えて、だいぶ激しく腐敗しかけていた。とりあえず堤防の上にむしろを敷き、死体を引き上げて見ると、顔の皮膚はところどころ赤むけになっていた。けれど身体のどこにも、暴力の加えられた形跡はないから、単なる溺死かもしれないが、身に着けているのは棒縞の単衣に黒のメリンスの兵児帯と猿股だけで、ハンカチーフも懐中物もなく、三十歳ばかりの丸刈り頭の男というほか、どこの誰ともわからぬので、島崎刑事は、部下の人々に死体を警視庁に運ぶ用意をさせ、自分は一足先に帰って、山村博士に解剖を依頼したのである。
山村博士と島崎刑事とは中学時代の同窓で、二人とも四十前である。山村博士は順調に進んで大学を出たが、島崎刑事は中学を卒業してから、区役所に勤め、二十五歳のとき巡査を志願して、めきめき腕を現し、はからずも警視庁で山村博士と共に犯罪探偵に従事するようになったのである。山村博士は、学者にありがちの理論家であるが、島崎刑事は徹頭徹尾実際家である。山村博士が理論で探偵の歩を進めて行くのに反し、島崎刑事は、実地で事を解決しようとする。だから二人が協力すると、理想的な「探偵」が出来上るのである。
「で、君は、単純な溺死とは認めなかったのだね?」と山村博士は刑事の報告を聞き終わって尋ねた。
「それを決めるのは君の役だよ」
「しかし、死体をいじくれば大抵わかりそうじゃないか」
「けれど、だいぶ腐敗していたからねぇ」
「陸へ上げたときに水を吐いたかね?」
「それがおかしいんだ。少しも水を吐かなかった」
「もっとも、溺死体だって、必ずしも水をたくさん飲んでいるとは限らぬが・・・・・・」
博士の言葉は、ドアをたたく音に遮られた。給仕が、死体の到着したことと、解剖の用意の出来上ったことを告げに来たのである。
博士と刑事と助手とが解剖室へ入ると、死体は猿股ひとつにされて解剖台上に横たわらせてあった。山村博士は、まず傍に掛けてあった着衣と兵児帯とをあらため、後、死体の検査に取り掛かった。死人は栄養が非常によくて、きれいな歯が揃っており、筋肉はたくましく発達していた。猿股にはまだ水が相当に掛かっていて、下腹部から股にかけての皮膚にぴったり、くっついていた。山村博士は何か大切なものでも開くかのように、丁寧に猿股の紐を解いて、徐々に足の方に脱がせて行くと、その途端に、死体の方から山村博士の左手の甲へ、一匹の蚤がぴょんと飛びついた。立ち会っていた島崎刑事はもとよりそれに気が付かなかったが、博士はあたかもそれを予期していたかのように手早く、右手の食指で、取り押さえ、岡田助手に小さなガラス瓶を持って来させて、生きたままその中へ入れた。蚤は雌であって、尻の方がかなり大きく、いっぱい血を吸っているらしかったが、窮屈な世界から、自由な天地へ出たのを喜ぶかのように、ぴょんぴょん飛び回った。
この蚤こそ後に、この複雑な事件を解決する唯一の鍵となったのである。もし山村博士がこの蚤を捕えそこなったならば、恐らく大犯罪者を取り逃がしてしまうことになったであろう。
山村博士は、更に注意して猿股をさがした。けれどもはや、そのほかには蚤はいなかったのでいよいよ刀を執って、解剖に取りかかった。
順序として博士はまず胸の皮膚を切り、骨を開いて、肺を取り出した。が、意外にも肺の中には一滴の水もないばかりか、肺は非常な貧血を起こしていた。すなわち溺死の徴候は少しもなかったのである。
「島崎君、溺死でも、そのほかの窒息死でもないよ」 と博士は口元に皮肉のような笑いを浮かべて言った。
「ふむ」
刑事は腕組みをしてしばらく考えた。
「窒息死でないとすると死因は何だろう。身体のどこにも傷らしいものがない」
「まあ待ちたまえ」
やがて博士は腹部の解剖に取りかかった。が、腹壁を開くなり、博士は刀を握ったまま驚いた顔をしてしばらく、腹腔内を見つめた。というのは腹の中に血が一ぱい溜まっていたからだ。
「恐ろしいたくさんの血だ。大動脈でも破裂しなけりゃ、これほどの出血は起こらぬ」
博士はこう言って、助手に、その血を取り除かせ、やがて、胃や腸を持ち上げて、腹部大動脈を調べたが、その時、
「やっ」という異様な声をあげた。
「何だい?」と刑事は驚いて尋ねた。
博士はそれに答えないで、手早く胃壁を切り開いて見せた。
博士が驚いたのも道理、胃の後壁には一挺のナイフがぐさと刺さって、それが大動脈をも傷付けていたからである。
(二)
胃の中のナイフ!
博士と刑事とは、しばらくの間、顔を見合わせて呆然としていた。腹にも背中にも傷がなかったからこのナイフは、どうしても口から飲み込んだものでなくてはならぬ。
博士は黙ってナイフを出して手に取った。それは銀の柄のついた長さ四寸(※約12cm)幅四分(※約1.2cm)ばかりのナイフであって、先端は多少尖っていたけれど刃はついてはいなかった。だから、物を切るのに使うナイフではないのである。
「このナイフは何に使うものだか、わかるかね?」と博士はそれを皿の上に乗せて刑事に渡した。
「待ってくれ」 と言って刑事はじっとナイフを見つめながら考えた。
博士はそれから手早く腸やその他の臓器の解剖を終わり、
「死後少なくとも三日は経過している。死因は大動脈からの内出血だ。そのナイフが致命傷を作ったのだ」と言った。
「ふむ、すると、呑みこんだナイフが胃を傷付け、更に大動脈を傷けたんだね。変わった自殺方法もあったものだ」
「自殺じゃないよ」
「え? だって、他人がこの男に無理にナイフを飲み込ませるなどということは考えられぬ」
「しかし死体は川の中にあったじゃないか。水の中でこうした自殺をするとは思われないから、死体は川の中へ投げ入れられたと見るのが至当だろう。して見ると他人の手が掛かっている」
「だが、ナイフを吞んだのは少なくとも自発的だろう」
「それはそうさ。だから、自発的に呑んだところを、誰かが前からぐいと押したかもしれぬ。それに胃の中はアルコールの匂いが盛んにするのだ。死ぬ前に酒をしきりに飲んだらしい」
「酒をたくさん飲んだとすれば、やけ酒かもしれぬ。して見ると自殺説が成り立つ」
山村博士はしばらく考えてから言った。
「それはとにかく、君は、ナイフを呑むような人間をいったい何だと思う?」
「さあ? 気違いだろうか?」
「そうじゃあるまい。普通の人間でもナイフを呑むということは出来にくいのに、気が違ったら、なおさら喉は通りにくかろう、だから、この男はナイフを否むことを習慣としていたとしか考えられない」
「そんな人間があるかい?」
「たくさんにはないが、たまにはあるはずだ・・・・・・もう一度死体の衣服をよく調べて見よう」
こう言って山村博士は、掛けてあった単衣の裾のあたりを熱心に捜していたが、しばらくしてから、「あった、あった」 と言った。
「何が?」と刑事は歩み寄って尋ねた。
「これだよ」と言って、博士は指先で二、三本の毛をはさんで見せた。ちょっと見ると、馬の毛かとも思われるもので、確かに人間の毛ではなかった。
「岡田君、これを顕微鏡で調べてくれたまえ」 と博士は言った。
岡田助手は顕微鏡検査にかけては山村博士に劣らぬ技量を持っている。岡田君は、その毛を受け取って小さいガラス板の上に乗せて顕微鏡にかけた。
「岡田君、わかったか?」としばらくしてから博士は尋ねた。
「わかりました」 とはっきりした答え。
「何の毛だね?」
「象の毛です」
(三)
「象?」と島崎刑事は目を丸くして叫んだ。
「そうだろうと思った」と山村博士は落ち着き払って言った。「僕は馬か、猿か、象の毛だろうと思った」
「じゃ、この男は動物園の番人か?」
「動物園の番人はナイフを呑まぬよ。だが君は今までに毛の生えている象を見たことがあるか」
島崎刑事ははたと返答に困った。なるほどそういえば毛のある象は滅多に見ないものである。
「象は大きくなると毛がほとんどなくなるが、小さい象にはまだ相当にあるものだよ」と山村博士は言葉を続けた。「だから、こういう場合には、若い象の毛と考えた方が至当だ。すなわちこの男は若い象を取り扱っている所に関係があるんだ」
「どこだろう」と島崎刑事は頭をひねった。
「若い象を取り扱う所で、ナイフを吞む・・・・・・」
「わかった!」と刑事は叫んだ。
「そうだろう」
「ではこの男は、今浅草の千歳座で興行中の大正曲馬団の役者か?」
「そうだと思うよ。特に今、東京にはそういう見世物が来ていないから」
「それじゃこれからすぐ調べて来る」と島崎刑事は出かけようとした。
「ああ、ちょっと待ちたまえ。君に見せたいものがある」こういって博士は助手の方を向いた。「岡田君、一昨日の報知新聞を持って来てくれたまえ」
博士は取り寄せた新聞を開いて、しばらく記事を捜していたが、
「これを読んで見たまえ」と指さしながら言った。
刑事は読んだ。
大正曲馬団の二の替わり。山桜齋松月の率いる大正曲馬団は、明日から二の替わりを出すことになった。一座の花形であった象使いの松花とナイフ吞みで評判の松刀と、人気者で猿使いの道化師松猿とが、事情あって引退したので、二の替わりでは、新顔を加えて、珍しい曲芸を出すことになった。人気役者三人が同時に引退したことは、同団に取っての非常な打撃だが、かねて一座のうちには内紛があって、それが表面に表われたに過ぎないのであると。
「ふむ」と言った刑事の目は輝いた。「引退した三人のうちのナイフ呑みが、死体となったわけだね?」
「そうらしい」
「こりゃ、事件は中々複雑になった。とにかくこれから浅草へ行って来よう」
こう言って刑事が出て行くと、山村博士は岡田助手に向かって、
「さあ、これから、あの蚤の食っている血を分析して見よう」 と言った。
岡田君は蚤の入れてあった瓶の口にクロロホルムを含ませた綿をあてると、蚤は見る間に動かなくなった。そこで同君はその蚤を取り出し、生理的食塩水を入れた小皿の中でつぶして、中の血をその食塩水に溶かした。
「蚤の食っている血が、人間の血か、象の血か、猿の血か、それだけを調べてくれたまえ」
これを調べるには、かねて馬の血なり、人間の血なりをそれぞれ別の兎に注射して、その血清を取って置き、いざ試験というときに、その血清を試験管に少し取り、蚤の血の溶液を加えると、蚤の食った血が人間の血なれば、人間の血を注射して作った兎の血清と反応して白濁を生ずるのである。
岡田君は、式に従って小さな試験管を取り出し、それぞれの動物の血を注射して作った兎の血清を、氷室の中から取り出して来て一定量ずつ分配し、その各々中に、蚤の血の溶液を適当量ずつ加えた。
反応はすぐにでも現れるけれど、数時間後に見るのが最も安全であるから、博士はその間に腸の内容物などを顕微鏡で調べたが、別に、これという珍しい発見もないらしかった。
(四)
午後五時頃博士は、蚤の血液分析の結果を見た。すると予期した通りであったものか、その顔には満足の色が浮かんだ。と、そこへ島崎刑事がにこにこしながら威勢よく入って来たのである。
「どうだった?」と博士は尋ねた。
「まあ、聞きたまえ、事情はこうだ」
大正曲馬団から姿を隠した三人のうち、一座の花形とされていた象使いの女、松花は団長の妾であったが、この女はすこぶる多情で、これまで一座の誰彼となく情を通じ、最近はナイフ吞みの松刀と怪しい仲となり、はたの見る目もつらいほどふざけることもあった。ナイフ呑みとはナイフを二、三本呑んですぐ吐き出す術であって、かなりに危険な芸当である。松刀は年が比較的若いけれども一座のうちにかなりに勢力があって、最近では曲馬団の総人員六十何人のうち約半数が団長派、残りの半数が松刀派に属し、舞台の上ではお互いに平和を装っているけれども、楽屋や、合宿所では、少しのことに睨み合いが始まった。ことに、松刀と松花との仲が露骨になってからは、団長松月と松刀との間はますます険悪になって、今にも、事件が起こりそうであった。ちょうど今日から四日前、すなわち第一興行の済んだ晩、一座のものは、慰労の宴を張ったが、その席上で二人は大喧嘩をやり、もう少しで血を流すところであった。
と、その翌日から、松刀松花の姿が合宿所から見えなくなったので、一座の者は二人が手に手を取ってドロンを決め込んだのだと思った。
ところが、そのあくる日、松刀と松花の居なくなったことを知って、猿使いの道化師松猿が姿を隠したのである。松猿と松刀とは双生児であって、松猿は松刀を「兄、兄」と呼んでいたが、ちょっと見ると、どちらがどちらかわからぬので、それを種に色々の芝居を仕組んで見物客をやんやと言わせたものである。松猿の仕草は如何にも滑稽で、猿を非常に上手に使い、道化師としては申し分のない男であった。しかしながら、内心は非常にやさしく、第一猿をむやみに可愛がって寝食を共にしたくらいであるが、猿に対してばかりでなく、兄思い、師匠 (団長) 思いで人々から好かれていた。
しかるに兄と師匠との間が前述のようになったので、松猿はひとり心を痛めていた。兄に味方をすれば師匠にすまず、師匠につけば兄にすまぬ。だから、松花と兄とが姿を消したと知って非常に心配し、「師匠にすまぬすまぬ」と言い、「いっそ兄の代わりに腹を切って師匠への申し訳にしよう」 などとさえ言っていたということである。だから松猿が姿を消したと知った一座のものはきっと松猿が自殺したに違いないと想像した。
「こういうわけだから君」と島崎刑事は語った。「逃げた松刀が今、この通り死体になったとすると当然恐ろしい事を考えねばならぬじゃないか。松刀は女を連れて逃げる程だから、自殺するとは思われない。だから、ナイフを呑んだ所へ、ぐっと腹を押しつけられて殺されたに違いない。すると殺したのは誰だろう。まさか松花が手を掛けるようなことはあるまいから、犯人は団長の松月よりほかにはない。それに合宿所の方で聞いて見ると、松月は宴会のあった晩一時頃に帰ったそうだが、宴会のはねたのは十時頃で、十時から一時までの松月の行動を誰も知らないんだ。しかも死体の腐敗程度から考えて見ると、その晩に殺されて川へ投げられたと見ても差し支えなく、ことに胃の中に酒があったというのだから、僕は松月に同行を求めて、今別室に待たせてあるんだよ」
山村博士はうつむきながじっと考えていたが、しばらくしてから口を開いた。
「松刀と松猿とは双生児だというから、死体は松猿かも知れぬじゃないか。ことに松猿が自殺したという噂さえあるというのだもの」
「けれど松猿にはナイフは呑めまい」
「練習すれば呑めるよ。しかし、ここで僕等が議論をしているより、団長に死体を見てもらった方が早わかりだ」
(五)
大正曲馬団長山桜齋松月は死体の置いてある部屋に連れられて来た。岡田助手は顔に掛けてあった白布を除いて、松月に見せたが、松月は、松刀か松猿かのどちらかに違いないけれど、兄の方か弟の方かよくわからぬと言った。
「何か二人を見分ける目じるしはないかね?」と山村博士は尋ねた。
「右の頬の鼻の脇にほくろのあるのが兄の松刀ですが、ちょうどそこの皮がむけているのでわかりません」
「この衣服は兄のだろうか、弟のだろうか」
と、博士は、掛けてある衣服を指さして尋ねた。
「兄弟とも同じ衣服を着て同じ帯を締めていましたから、よくわかりません」
「このナイフに見覚えがあるかね?」と博士は皿の上のナイフを見せた。
「これは松刀が舞台で呑んで見せるナイフです」 と松月は即座に答えた。
「松刀はこのナイフをいつも自分で持っていたかね?」
「自分で持っていることもあり、松猿に預けて置くこともありました。同じナイフが五本ありますが、舞台ではたいてい三本しか呑みませんでした」
それから松月は島崎刑事の部屋で博士と刑事の尋問を受けた。
「君は松刀と松花が逃げてから、その行方を捜さなかったかね?」刑事は尋ねた。
「あの女には持ちかねていましたから、捨てておきました」
「でも君はこの間の宴会で、松刀と女のことで大喧嘩をしたそうじゃないか?」
松月は少し顔を赤くして言った。
「あんまり人を食った振る舞いをしましたので、つい一杯機嫌で、言葉が荒くなりました」
「宴会の済んだのは何時だね?」
「十時頃でした」
「君はみんなと一緒に合宿所へ帰ったか?」
「いえ、ちょっと、用があって脇へ回りました」
「どこへ行ったかね?」
「それは申しあげられません」
「君、隠してはいかん。隠すと松刀殺しの嫌疑がかかるよ!」
松月は目をむいて驚いた。
「ご冗談を」と彼は苦笑した。
「冗談でない、松刀はナイフを呑んだところを押さえつけられて殺されたのだ」
「本当ですか?」
「そうとも、だから何もかも言いたまえと言うのだ」
「たとえ私が犯人と見られましても、それだけは申し上げられません」
「では何時に合宿所へ帰ったかね?」
「一時頃だと覚えています」
「松刀と松花はその時帰っていたかね?」
「あとで聞きますと、宴会がはねると、みんなと別れてどこかへ行ったそうですが、それをきり帰りません。けれど、こうして死んだところを見ると、松花にでもやられたのでしょう」
「松花はそんな悪い女だったかね?」
「そのくらいのことはしかねない女です」
島崎刑事はじっと考えてから尋問を続けた。
「君は松猿の居なくなったのをどう思う」
「わかりません。気の小さな男でしたから、只今の死体を見たときに、松猿が噂通り自殺したの だと思いました」
「松猿と松花との間は何ともなかったかね?」
と、これまで黙って傍に居た山村博士が尋ねた。
「そんなことは少しもないようでした」
「松猿の使っていた猿は?」と博士は更に尋ねた。
「松猿は一日だって猿と離れていられぬくらいでしたから、無論猿も持って行きました」
博士は島崎刑事の方を向いて言った。
「島崎君、ちょっと話したい事があるから、この人に待っていてもらって僕の部屋へ来てくれたまえ」
二人きりになると博士は言った。
「君は、本当に、松月を松刀殺しの犯人だと思うのか?」
『だって、松月がその夜の十時から一時までの行動を話さなきゃ、嫌疑は晴れぬよ」
「そうか、だがね、ちょっと不思議なことがあるのだ」
「何だね?」
「あの死体の猿股に居た蚤は、猿の血を食っていたんだ!」
(六)
「え?」と島崎刑事はびっくりした。「それじゃ死んだのは松猿か?」
「死体に居た蚤が猿の血を食っているとすりゃ、そう考えるよりほかはないじゃないか」
「けれど、死体をここへ運んで来る途中で飛びついたのかもしれん」
「だって猿の血を食つている蚤はめったにおらん」
「松猿が死んだとすりゃ、自殺に違いないが、そうすると、ナイフを呑んでから、自分で腹をぐっと押さえただろうか」
「そうじゃないよ。やっぱり他殺だ」
「え? 松猿が殺されるとは、いよいよわからない。まさか・・・・・・」
刑事の言葉は扉をたたく音で遮られた。給仕が入って来て、大正曲馬団の松鳥という人がお目に掛かりたいといって来た旨を告げた。
「こちらへお通ししてくれ」
やがて、二十七、八の男が給仕に連れられて入って来た。
「何の用かね?」
「団長はまだこちらにおられますか?」
刑事は黙ってうなずいた。
「もはやご承知でございましょうが、姿を隠した道化師の松猿君から、一昨日私のところへ手紙が来まして、もし師匠が警察へ拘引されるようなことがあったら、師匠に同封の手紙を渡してくれということでしたから、今、持って参りました。どうかお渡しを願います」
「松猿はどこに居るかね?」
「手紙には住所が書いてありませんでした」
「その手紙を持って来たかね?」
「はあ」
刑事が消印を調べると浅草局であり、日付は松猿の姿を消した日、すなわち松刀と松花とが逃げた翌日の最後便である。
刑事と博士とは手紙を持って来た松鳥を待たせておいて、刑事の部屋に帰り、刑事は松猿の手紙を松月に渡した。
松月はその場で封を切って読んだが、その顔には見る見る明るい色がさし、読み終わるなりにこにこして、その手紙を刑事に渡した。
刑事は読んだ。
書き置きの事
師匠さん。どうか兄の罪を許してやって下さい。私はこれから兄の代わりになって自殺します。ですから兄と松花姉さんの行方を捜さないで下さい。
いよいよ自殺しようと決心したとき、私の心は晴れやかになって、道化役者として、人気を博した以上、道化役者らしい死に方をして世の人々をあっと言わせてやろうと思いました。いつぞや、隅田川の上流へ釣りに行ったとき、尾久村の付近に、一本の大きな松が、堤防から、川の方へ斜めに生えていることを見ましたので、私はあの松を私の死に場所に決めました。私はかねて兄と同じくナイフを呑む練習をしたことがありますから、その松の頂上へ登って、そこでナイフを呑みます。そして松の上で機械体操の真似をやってその拍子に腹をぐっと押せば、腸に傷がつくから死んで川の中へ落ち込み、溺死者として、川下へ漂着するだろうと思います。ところが解剖されると、腹の中からナイフが出るので、世間の人をあっと言わせることが出来るだろうと思います。
けれどもし私の死骸が長い間水の中にあって、腐敗したとなると、兄と間違えられるかもしれません。さすれば自然師匠さんに迷惑が掛かるかもしれません。こう思って私はこの書き置きを師匠さん宛てに書き、親友松鳥君に託しておきます。どうかこれからは、団員諸君が仲よく暮して行かれんことを祈ります。くれぐれも兄と姉さんの罪は、許してやって下さい。
松猿
(七)
「君、道化師に一本参ったね? これでもまだ君は他殺説か?」と島崎刑事は松月と松鳥を帰してから山村博士に向かって言った。「さあ、夕飯でも食べて、ゆるゆる話そうじゃないか?」
「何を? 愚図愚図していると、大物を逃してしまう」
こう言った博士の顔は、電燈の光に照らされて一種の凄みを帯びた。島崎刑事はびっくりした。
「え? だって先刻、君は松月を帰してもよいと言ったじゃないか」
「松月に罪はないさ、だが松猿の死は自殺じゃないよ」
「それじゃ、松刀が殺したのか?」
「そうだ。松刀と松花を捕まえにゃならん」
「しかし、もう三日も経っている」
「いや、まだ東京にいるか、たとえ東京を去っても、遠くへは行っておらぬ」
刑事は直ちに手配をしようとした。
「君、猿を連れた夫婦連れを捜したまえよ」
と、山村博士は言った。
「猿を?」と刑事は意外な面持ちをして尋ねた。
「そうだよ。松猿を殺したなら、猿のやり場がないじゃないか?」
「だって猿を殺すぐらいわけのないことだ」
「ところが犯罪者というものは、人を殺すほどの悪党でも動物は殺さぬよ。それに、君あの書き置きには、生前それほど可愛がった猿のことが一言も書いてないじゃないか?
「それじゃ、あの書き置きは松刀が書いたのか? けれど、松月は先刻松猿の手蹟だと言ったぜ」
双生児の手蹟は時によく似る事があるものだよ」と、博士は意味あり気な顔をして言った。
翌日の午後、島崎刑事は嬉しそうな顔をして、実験室へ入って来た。
「君、おかげで、松刀と松花を捕まえて、今停車場から連れて来たところだ。二人は京都駅で発見されたよ。猿を鉄道に託していたので、すぐわかった」と、刑事は額の汗を拭きながら山村博士に語った。
「それはよかった。で、尋問は?」
「これから、君に立ち会ってもらって始めようと思う」
「よろしい」としばらく山村博士は考えていたが、
「君、ちょっと先へ行っていてくれ、僕はあとから直ぐ行く」
博士はそれから脱脂綿にアルコールを含ませて手を拭き、それを握ったまま、岡田助手に何事をかささやき、しばらく過ぎてから、助手と共に島崎刑事の部屋に来た。
見ると、部屋の一隅に三十ばかりの男と、二十五、六の蓮っ葉な女とが並んで腰かけていた。
博士は男の傍へつかつかと歩き寄った。
「君が大正曲馬団の松刀君ですか?」
こう言ったかと思うと、博士はいきなり男の右の頬を、アルコールを含ませた綿でぐいとこすった。不意を襲われた男が、「あッ」 と言って立ち上がろうとすると、この時早く岡田助手は男の手にかちりと手錠をはめた。
傍にいた女はこの光景を見て逃げ出そうとしたが、その時走り寄った島崎刑事のために、難なく捕えられてしまった。
「島崎君、大正曲馬団の道化師松猿君を紹介する。これが兄松刀を殺した犯人だ!」と、山村博士は力を込めて言い放った。
見るといままで男の右の頬にあったほくろは、跡形もなく拭い去られていた。
(八)
もはや逃れられぬ運命と覚悟した二人は、その場で罪状を逐一自白した。
大正曲馬団長松月の妾であった象使いの松花は、ナイフ呑みの松刀と情を通じ、最近は、向島に一軒の家を借り、婆さんを雇って逢い引きを続けていたが、多情な彼女はいつの間にか、道化師の松猿とも関係し、遂に松猿松花の間に、真剣な恋が成り立った。松猿は道化師であるだけ、さすがに巧く人目を誤魔化して来たが、松刀だけはいつしかこのことを感付いて、松花を我が物にするため、彼女を連れて逃げる計画を立てた。松花は言うまでもなく不賛成であったが、不服を言うと気の荒い松刀は彼女を殺しかねないので、表面はそれに同意して、その実、松刀を除こうという怖ろしい決心をしたのである。ナイフを呑ませて殺すという手段は彼女の考えた事であって、表向き善良な性質を装って、内心悪党の松猿は一も二もなくそれに賛成した。
松刀は第一興行が済み次第逃げることにしていたので、いよいよ当日には、午前中に雇いの婆さんに暇をやって、荷物をまとめた。松刀は宴会に出ることに気が進まなかったが、胸に一物ある松花がしきりに勧めたので、その言葉に従って、とうとう席上で団長と大喧嘩をした。
松猿は、かねて打ち合せてあった通り、宴会から一足先に松花たちの「かくれ家」に忍び込んだ。押し入れに入って二人の帰るのを待っていると、ほどなく二人は帰ったが、喧嘩に気を腐らせた松刀は、松花に向かって更に酒を出せと命じた。
「お前さんのような酒癖の悪い人には本当に愛想が尽きてしまった」 と松花は言った。
「何? 酒飲むのがなぜ悪い?」
「お酒を飲みゃ、売り物の芸事だって自然駄目になるわさ。そうなった日にゃ連れ添うことは出来ぬじゃないの?」
「馬鹿言え、酒を飲んだって芸当は立派に出来らぁ」
「おや、それじゃ酒に酔ってもナイフを呑んで吐き出せるの?」
「あたり前だ」「では、やって見せてちょうだい、そうすればこれからいくらお酒を飲んでも堪忍してあげる」
「よし」松刀は行李から例のナイフを取り出し、立ちながら鮮やかにぐっと呑んだ。すると松花は、隠し持っていた風呂敷を彼の頭にすっぽり被せて力任せに引っ張ったので、酒に酔っていた松刀はもろくも畳の上に仰向きに倒れた。と、この時押入から出た松猿は、兄の腹の上に尻を乗せてぐいと押したのである。
松猿と松花とはそれから死体の所持品をすっかり取り出して、押し入れの中に寝かせ、松猿だけは図々しくも、合宿所に帰った。そしてあくる日、猿を連れて、松花の「かくれ家」に帰りその夜友人の松鳥に宛て手紙を出した。
夏のことであるから、死体ははや三日目に著しく腐敗した。実は彼等は松刀の右の頬のほくろを取るために、腐敗するのを待っていたのである。松猿が指の先でそっと頬に触ると、皮膚はすぐ様めくれて来て、少しも人力を加えた跡が見えずに、目的を達する事が出来た。で、松猿は夜陰に乗じて、大胆にも死体を背負い、付近の隅田川に捨てたのである。そして二人は、早朝、支那へ渡るために東京駅をたったのである。
松猿は死体を捨てに行く時まで、猿と戯れていたので、その猿の血を吸った蚤が松猿に飛びつき、更に死体に移ったことを、もとより彼は知る由もなかった。
(九)
「君は松猿が松刀を殺したということを始めから知っていたのか?」と、二人きりになったとき島崎刑事が尋ねた。
「まあそうだ」と山村博士は答えた。
「でも、あの松猿の書き置きさえ松刀の書いたものだと言ったじゃないか?」
「そんなことは言いやしないよ。松猿の書き置きに猿のことが書いてないことを君に注意させようと思っただけだ」
「すると君は、あの書き置きを見て松猿を怪しいと睨んだのか?」
「いや違う。蚤からだよ」
「え? 蚤だ? だって蚤は猿の血を食っていたから、死んだのは却って松猿と思われるじゃないか?」
「そうじゃないよ。蚤が生きていたという事から判断したんだ。蚤は水中ではせいぜい十六時間しか生きない。だからあの死体は過去十六時間以内に水に投げられたものだ。ところが、腐敗の程度から見ると、どうしても死んでから、三日以上経っている。すれば当然、陸で殺されて、二、三日過ぎてから水に入れられたものだ。で、道化師の書き置きは嘘だということになる」
「けれど蚤は必ずしも水の中に居たとは限らず、衣服の表面に居たのかもしれん」
「たとえそうとしても、蚤の食った血というものは、そんなに長い間蚤の身体の中にあるものじゃない。せいぜい八、九時間のものだ。だから犯人は、死体が発見された前夜にはまだ東京に居たことになる。それに猿の蚤が居るくらいでは犯人はよほどの猿好きでなくてはならん。そこで僕は、犯人は猿を連れて逃げるだろうと思ったよ。犯罪者が動物に対して異様な執着を持っていることはこの例からでもわかる」
「なるほど、では今度の事件は一匹の蚤によって解決されたわけだねぇ、それにしても団長の松月は、なぜ、宴会の晩の行動をあんなに隠したのかしら?」
「それは君、芸人の事だ、人に言えぬ秘密もあるよ。松花に少しも未練を持たなかったのも、そのへんのことが関係しているだろうじゃないか・・・・・・いや、こういふことは君の穿鑿の領分だ。僕にはやっぱり、蚤の研究ぐらいが相応しい仕事だ、はははははは」