ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 蟹江文庫 -現代語訳版・小酒井不木作品集- > 跳ね出す死人(大正14年発表)

本文

更新日:2022年1月14日公開 印刷ページ表示

跳ね出す死人(大正14年発表)

PDFダウンロード [PDFファイル/538KB]

(一)

 

桜の花がひらひら散った。

本郷曙町の実業家、津田仙蔵邸の庭園を散歩しているのは、令嬢雪子と工科大学生種村静也とである。夕暮れ近い春の風は肌に冷たかったが、二人のうつむきがちの顔に、何となく沈んだ色が漂っているのは、寒いためばかりではない。雪子は今恋人の静也に、世にも悲しい話を伝えているのである。

「母が生きていてくれたら!」雪子は先刻から、この言葉を幾度となく繰り返した。

三年前に母を失った雪子は、今朝突然、父の仙蔵から、父の親友山本才吉と結婚せよと宣告されたのである。雪子が、母の遠縁にあたる静也と相思の間である事は、仙蔵もまんざら知らぬではなく、静也に対してすこぶる好感をさえ抱いていた。それなのに、仙蔵がだしぬけに、我が子を、人もあろうに自分の旧友山本才吉に嫁がせようとするのは、何か重大な理由がなくてはならなかった。だから雪子は、父に向かってその理由を話してくれと言った。けれど父は、それについては何も語らず、始めは、父の命に背くつもりかと叱ったが、雪子がいつまでもウンと言わないでいると、しまいには、嘆願的におれの頼みを聞いてくれと言った。

山本才吉は、雪子の父仙蔵より十歳も年齢が若い。けれど今年二十二歳の雪子とはまだ二十も違う。そればかりでなく雪子はこの山本という男を心から嫌った。今から半年前山本才吉は、あたかも地から湧き出たかのように東京に姿を現した。父はそれまで山本の名さえも口にしなかったのに、山本が訪ねてからは、旧友だと言って親密に交際し、間もなく山本の紹介だと言って女中のお豊を雇った。お豊は極めて我儘な女で、自分勝手に家を空けることも度々あった。それにもかかわらず、父は他の女中に辛くあたっても、お豊だけを庇った。それにお豊には、人相のよくない兄があって、度々出入りするばかりか、最近は雪子に秋波を送るようにさえなった。雪子は幾度か父に向ってお豊とその兄とを遠ざけるように頼んだが、仙蔵は山本の手前、雪子の言うことを聞かないのみか、遂には、雪子をくれという山本の非道な願いをさえ承知したのである。

「いくらお父さんでも、そりゃ無理だ。で、雪さんは結局どうします?」と静也は不安げに尋ねた。

「本当に困ってしまうわ。父は沼津に急用が出来て、先刻出かけましたが、明日の晩帰って来るまでに決心して置けと言うのですもの。わたしどうしたらいいのかしら」

「どうするもこうするもない。きっぱり断ってしまいなさい」

「けれど父にあんなに頭を下げて頼まれると・・・・・・・」

「それじゃあ雪さんは僕を愛してくれないですか?」

「それをおっしゃるとわたし・・・・・・」雪子はハンカチを目にあてた。

静也はしばらく唇を噛んで、黙っていたが、やがて決心したように言った。

「山本だって物の道理のわからぬ人間じゃないでしょう。僕は今夜山本に、私たちの関係を話して、縁談の申し込みを撤回させて来ましょう」

雪子は驚いて顔を見上げた。

「そんなことなさってはいけません・・・・・・父が却って心配しますから」

「お父さんもあんまりです。あなたは僕の愛を犠牲にしてもお父さんの意志に従うつもりですか?」

「わたし、あなたとお別れするくらいなら死んだ方がいい」と雪子は小声で言った。

「それだけの決心があれば僕は安心です。僕はきっと山本を説き伏せて来ます」

「けれど山本という人は、他人の言うことなど、聞き様もないと思うわ」

「大丈夫です。いざと言えばテニスで鍛えたこの腕があります」と言って静也は左手で右の腕をポンと叩いた。彼は大学のテニス選手である。生一本な物に熱しやすい彼は、あるいは腕力に訴えないとも限らない。こう思って雪子はぞっとした。

「そんなことをなすってはいけません」彼女はきっぱりと言った。

「一命を捨ててかかればどんなことでも出来ます。雪さんを人手に渡すぐらいなら、僕も生きてはおらん」

と、静也はいよいよ熱心に大声に言い放った。

雪子は何を思ったか急に泣き出した。静也はその姿を見て、あまりに自分の言葉の過激だったことを後悔し、雪子の肩をさすってやさしく言った。

「いや何、雪子さん。僕にだって、理性はある。心配しないでいい」

いつの間にか、日はとっぷり暮れて、夕闇は二人を包んだ。静也は急に思い出したように言った。

「今日は土曜日で七時半から、日比谷の平野屋で庭球部の会があるんです。明日の晩、僕が来るまでは何も考えないで待っていて下さい。いいですか」

それから、静也は玄関へ回り、そこに置いてあった袋入りのラケットをかついで、雪子の家を辞した。雪子は彼の制服姿が闇の中に消えて行くまで見送った。

夕食の後、雪子が居間に入って机の前に座っていると、女中のお豊が顔を出した。三十ばかりの凄みのある顔をした、いわば、渋皮の剥けた女である。

「お嬢様、私 今晚ちょっと兄の家へ遣ってもらいます」

「まあ、父が留守だのに」

「お澤さんとお志摩さんと二人の書生がいるのですもの、大丈夫ですわ。明日の朝早く帰って来ます」

こう言って彼女は雪子の返事を待たず、さっさと支度にとりかかった。

お豊が外出するなり、雪子の弟、清が雪子の部屋に入って来た。

「姉さん、僕これから活動(※映画)を見て来るよ」

「お前までがまあ。今日はいけません」

「だって明日は日曜だもの、僕も楽しみがしたい」

「まあ、この子は、お父さんに言いつけますよ」

「それじゃ僕も、姉さんと種村さんがあんなに楽しんでいたことを言い付けるよ」こう言うが早いか、ばたばた駈け出して行った。

清は今年十二になる快活な少年である。別に、さしたる不良性はなかったけれども、活動写真が大好きで、それにかぶれて極めて冒険好きであった。彼はよく、夜分外出して、帰りが遅くなると、塀をとび越え、裏戸を開けて、家人の知らぬ間に自分の寝室へ入るのであった。母が生きていたらもっとおとなしく育ったろうにと雪子はいつも思うのであった。清の去った後で、雪子は亡き母のこと、静也のこと、悲しい結婚問題などを考えて、長い間ぼんやり座っていた。

 

(二)

 

雪子に、無理な結婚を申し出た山本才吉が、神田駿河台の自宅で、何者かのために殺されたという報らせが警視庁へ届いたのは、その同じ夜の十一時頃であった。佐谷警部は時を移さず、二名の刑事と警察医とを連れて現場に急行した。

山本の家は門を入ると、広い庭があって玄関に通ずる道の両側には植木がいっぱい茂っていた。この邸宅には半年ほど前まで、某大官が住んでいたが、その大官の死後、無職の山本才吉が住み込んだのである。家屋は平屋建てで、さほど大きくはなかったけれど、現在の家族は、主人山本のほかに、三十歳ばかりの食客兼書生の久米と、雇いの婆さんとの二人であるから、むしろ広過ぎるくらいであった。

書生の久米は、玄関の次の間で、警部の一行に向かって死体発見の顛末を物語った。雇いの婆さんは毎週土曜日埼玉在の郷里へ帰る習慣であるので、今はいない。主人山本は朝から在宅して、昼間は別に訪問客はなかったが、今晚九時半頃大学の制服を着て、ラケットを携えた男が、工科大学生種村静也という名刺を出して主人に面会を求めた。今まで来たことのない学生であるから、主人は明日来てくれと断ったけれども、たってお目に掛かりたいと言ったので奥の居間で面会することになった。

しばらくすると段々二人の声は荒くなった。書生の久米がコーヒーを持って行くと、二人は畳の上に対座したまま、真っ赤な顔をし合って渋面を作っていた。その時主人の山本は書生の久米に向かってウィスキーを持って来いと言ったが、あいにく飲み切らしていたので、その事を話すと、主人は、すぐ取り寄せよと命令した。そこで久米は二人を家の中に残して淡路町まで走り、約十五分ほどして帰って来ると大学生の姿は見えず、主人は畳の上に仰向きになって死んでいたのである。

「この家には電話がないかね」と、久米の話を聞き終わった警部が尋ねた。

「あります」

「ウィスキーぐらい電話で取り寄せられるじゃないかね」

久米は少し躊躇して言った。

「夜分ですから、買いに行きました」

警部はうなずいた。「その大学生とご主人とは、何で議論しておられたかね?」

「よくは聞こえませんでしたが、津田さんのお嬢さんをどうとか、こうとか言う声がしました」

「津田さんとは?」

本郷曙町の津田仙藏さんのことで、主人のお友達です」

警部は手帳を出して何やら書きこんだ。それから一同は奥の間へ行った。和服を着た死体は床の間の前に、座布団から半身を乗り出して仰向きに横たわり、顔を横にしていたので後頭部の傷が、電燈の光ではっきり見えた。死体の傍にはラケットが一挺あって、網を張った卵形の枠がへし折れていた。血は畳の上のそこかしこに、二、三点ずつ散在しているだけであった。

警部はあたりの捜索に掛かった。隅の机の上には種村の名刺が置かれてあったが、そのほかには別にこれという変わったものを発見しなかった。医師はラケットと後頭部の傷と検査して、致命傷はラケットによる打撲傷であると鑑定した。ところが、死体の右の手に、女の長い髪の毛が一本握られていたので、彼はそれを警部に示して、意味ありげに微笑んだ。

「おかしいですね。それじゃ死体は解剖に附することにしましょうか?」と警部が尋ねた。

「そうして下さい」

おかしいと言えば、ラケットを座敷まで持って来るのも変ですね。しかしとにかく、種村という大学生を一応取り調べねばなりません」

こう言って、警部は、種村の名刺に書かれてあった本郷森川町××番地の下宿屋へ、一人の刑事を走らせ、もし植村が帰っていなければ、帰るまで待って、警視庁へ同行するよう命令した。

それから警部は、簡単にその他の部屋々を検査して、もう一人の刑事に、朝まで死体の番をしているよう命じ、警察医とともに警視庁へ引き上げた。それは午前一時少し過ぎであった。

 

(三)

 

午前三時半頃、佐谷警部は、山本方に張番をさせておいた刑事から、電話で意外な報告を受け取った。それは、山本の死体が、いつの間にか、何者かによって、現場から運び去られたというのである。

死体の紛失! 佐谷警部はこれまで、このような奇怪な事件に出会ったことは一度もない。時を移さず山本方へ駈けつけて事情を聞いて見ると、警部が去ってから間もなく、久米は刑事に向かって、出し残りのコーヒーを熱くして、寒さを凌ごうではありませんかと勧めて、二人で飲みながら話をしていると、いつの間にか二人は眠ってしまった。最初に久米が寒さのために目を開いて、はっと思ってあたりを見ると、刑事は高いびきで眠り、死体が無くなっていた。そこで驚いて刑事を揺り起こしたというのである。

「誠に申し訳がありません」と刑事は、蒼白い眠そうな顔をしておずおず言った。

「実に相すみません」と久米も言った。「多分犯人が、死体を盗み出すために、コーヒーの中へ睡眠薬を入れたのだろうと思います。何しろ婆さんがいないので、台所で何をされてもわかりません」

警部はしばらく腕組みをして考えた。何のために犯人は死体を隠したか。死体を隠したのは果たして犯人であるか、それとも他の人間であろうか? いずれにしても、この疑問に答えるためには、邸宅の内外を残らず捜索しなければならなかった。

警部はまず、家の中の各室や押し入れの中を捜したが、死体はどこにも見つからなかった。そこでいよいよ邸内の地面を捜そうと思い、単身懐中電燈を持ってまず玄関の前から門にかけての地面を検査し、それから、家の周囲をひと回りした。昨日降った雨に地面はまだ多少柔らかくなっていたので、たくさんの足跡が付いていた。もちろん誰の足跡ともわからず、靴、下駄、日和下駄などの跡が見られたが、そのうちでも警部の目を引いたのは、鋲のたくさん打ってある靴の跡であった。警部はそれを、何ということなしに、大学生種村の靴跡だろうと思った。そしてその靴跡をよく調べて見ると、一度門を入って出て行った靴の持ち主は、今一度門を入って来た形跡が確かにあった。二度目には出て行ったかどうかははっきりわからなかったけれど、その靴跡は家の周囲に沿って、裏の台所口の近くまで続いて付いていた。台所から三間(約5.4m)ほど隔たったところに物置部屋があったが、その物置部屋と台所口の中間のところに、同じ靴跡が、たくさん重なりあって付いていた。なおよくその附近を調べて見ると、靴跡のそばに柳行李を置いた跡がはっきり見られた。そして柳行李は物置部屋の軒の下の方へ引きずられた跡が付いていた。軒の下は地面が固いから、跡がよく付いてはいないが、麻縄のごみがあるところを見ると、行李はそこで縛られたものらしかった。

そのほかには別に目立った足跡はなかった。女の日和下駄の足跡ははっきり付いているが、ただ台所口を出入しているだけで別に怪しい点はなかった。ただ、おもての植込みの中に、十二、三の少年の靴跡があるのが不思議に思われたけれど、それはただ、附近の子供が遊びに来たのかもしれない。

足跡の捜索が終わると、警部は念のために、物置部屋の中を検査しようと思った。そして物置部屋の戸に手を掛けようとすると、家の中から刑事が出て来て、本郷の下宿屋を調べに行った刑事から、警部に電話口へ出てもらいたいと言って来たと告げた。

先方の刑事の電話によると、種村は、今まで一度も夜分外泊したことがないそうなのに、今夜に限って今に至るも帰って来ない。ところがたった今種村のところへ電話が掛かって来たので、刑事が種村の替玉になって電話口へ出ると、女の声で、「山本才吉さんが殺されて、あなたに嫌疑がかかっているから、早く逃げなさい」と言った。「誰ですか」と聞いても先方は返事をしないので、「逃げます」と言うと女は電話を切った。それから交換局を呼び出して聞いて見ると、お茶の水の自働電話からだということであった。

「よろしい」と警部は電話で返事した。「時に君。種村はいつもどんな靴を履いているか、女中が起きていたら、ちょっと聞いてくれたまえ」

しばらくすると、種村は鋲をたくさん打った靴を履いているという返事が来た。

「それじゃ、朝までに種村が帰らなかったら、曙町の津田邸を訪ねて、詮索して来てくれたまえ」

こう言って警部は電話を切った。

いよいよ、種村が行李を運び出したに違いない。死骸の入った行李を! こう思って、色々のことを考え出した警部は、とうとう物置部屋の捜索を忘れてしまった。もし警部が物置部屋の戸を開けていたら、これから述べる雪子の災難はあるいは起こらなかったかもしれない。

 

(四)

 

雪子は一晩中よく眠られなかった。うとうととしたかと思うと、恐ろしい夢を見ては、はっと眼を覚ました。彼女は夜の明けるのを待ちかねて起き上り、庭園を散歩したが、何となく寂しさを感じたので、家の中へ入って清の寝室の襖を開けた。すると意外にも寝床はもぬけの殻で、しかも昨夜帰って寝た形跡がなかった。今まで夜分いくら遅くなっても、帰って来ない事は一度もなかった。どうしたのであろう? こう考えて彼女の重たい頭は一層重くなった。

と、その時女中のお志摩が来客のある旨を告げた。客というのは警視庁の刑事で、女中が、ご主人は留守だと告げると、お嬢様にお目にかかりたいということであった。雪子は非常に驚いたが、清のことが気に掛かるので、とにかく、応接間へ通して会うことにした。

「早朝からお伺いして申し訳ありませんが、最近種村さんがお訪ねになりはしませんでしたか?」と刑事は尋ねた。

雪子はこの意外な質問に、少なからず当惑したが、

「昨日の午後、お見えになりました」と答えた。

「昨日? そうですか。その時山本さんのところへ行くとでもおっしゃらなかったでしょうか」

「いいえ別に」雪子は、「そうです」と言う気になれなかった。

刑事はしばらく黙って考えていたが、

「実は昨夜山本さんが殺されなさったんです」と言った。

「ええッ!」雪子は飛び上がらんばかりにびっくりした。

「誰が殺したのですか?」と彼女は警部の顔を見つめて息を凝らした。

「何でも昨晩九時半頃に、種村さんが訪ねて行かれ、段々議論が激しくなって、その結果種村さんがラケットで山本さんを撲殺なさったらしいのです」

雪子は全身に冷水を浴びせかけられたような気がした。耳がガーンとして、気が遠くなるように感じた。

「嘘です嘘です。種村さんは人を殺すような人ではありません」と彼女はほとんど夢中に言った。

「けれど種村さんは今朝になっても下宿に帰られないのです。私は今まで種村さんの下宿にいて、こちらへお伺いしたのです」

雪子の顔は蒼ざめた。彼女は恐怖のために一言も言い出すことが出来なかった。

「まさか、種村さんが、お宅へ来ておられるようなことはありますまいか?」

「見えていません」と雪子はきっぱり言った。

「山本さんと種村さんとは、あなたのことで議論をなさったのです。それについてあなたに何かお心当たりはありませんか」

雪子は胸を太い針で刺されるように思った。

「別にありません」と彼女は小声で言った。

刑事は雪子の心配そうな顔を見て同情の心を起こし、立ち入って聞くことを止めた。

「ゆうべ、あなたは、ずっとお宅においでになりましたか?」と刑事は話題を変えた。

雪子はホッとしながらも妙な顔をした。

「はあ、なぜそんなことをお聞きになりますか?」と彼女は反問した。

「いえ、ちょっと思い当たることがあったのです。いや、どうも失礼しました。もし種村さんがお見えになりましたら、お知らせ下さい」こう言って彼は名刺を渡して去った。

刑事が去ってから間もなく、昨晩兄のところへ行ったお豊が、慌ただしく雪子の部屋へ駆け込んで来て、あたりを見回してから小声で言った。

「お嬢様、大へんなことになりましたよ。種村さんが山本さんを殺しなさったんですって」

「嘘だよお前、そんなことがあるものか」雪子は腹立たしそうに言った。

「それがね、お嬢様、実は私、ゆうべ種村さんに会ったのです」

「え?」 と雪子は驚いた。

「私が兄の家へ行って、兄の用事で外出しましたら、ばったり種村さんに会いました。そう十一時頃でしたでしょうか。大へん蒼い顔をして、ふさいでいらしたので、どうなすったかと聞くと、山本を殺して来たから、自首しようか自殺しようかと考えてるんだ、けれど、その前に雪さんに逢いたいが、どうせ手が回っているだろうから、曙町へは行けないとおっしゃるんです。で、私がお勧めして、とにかく、兄の家までいらっしゃいと言ってお連れ申して来てあるのです。ですから、これから、私といっしょに兄の家まで行って下さい。種村さんはお待ちかねです」

雪子はむやみに悲しくなって前後の判断をしている余裕がなかった。彼女は早々に支度をして、お豊に連れられて家を出た。

 

(五)

 

本郷元町の△△番地へ来ると、お豊は雪子に言った。

「兄の家は表からも入られますけれど、目立つといけませんから、裏の方から入って行きましょう」

二人は薄暗い便所のようなところを入った。お豊が台所口を開けると、お豊の兄の留吉が出迎えた。

「お嬢さんよく来てくれましたね、へへへ」留吉は意味ありげな、気味の悪い笑い方をした。雪子は何となく嫌な気持ちに襲われて、お豊に付いて来たことを後悔したが、それでも静也に逢いたい思いが先に立って、留吉の案内で座敷へ入った。けれど座敷には麻縄で縛った大きな行李がひとつあるきりで、静也の姿は見えなかった。

「種村さんは?」と雪子はお豊を顧みて言った。

「種村さんって誰?」とお豊はとぼけた。

「あら、どうして?」と雪子はぎょっとした。

「種村なんか居るものか」と留吉はいきなり雪子の手を取って抱きしめた。

「あれーっ」

お豊はハンカチを取り出して雪子に猿ぐつわを噛ませた。兄は兵児帯で雪子を縛った。

「雪子さん、いや雪子、お前は今日から俺の妻になるんだよ」と留吉は雪子と対座して言った。

「ここへ来たが最後、袋の鼠同様だ。何しろこの家は捜しに捜して見つけた隠れ家だからなあ。で、お前が俺の言うことを聞けばよし、さもなきゃあ、お前も死体になって、この行李といっしょに、明日は遠い所へ連れて行かれるんだ」こう言って彼は、行李の方をじろりと睨んだ。

「事情を話さにゃわかるまいが、俺はとうからお前に惚れていたんだよ。山本の奴め、いい気になってお前を横取りしようとするから、自業自得で殺されたんだ。それにしても、種村の青二才め、今頃は血迷って、どこかをうろついているだろう。なあ、お豊」

「そうよ兄さん,ゆうべ電話を掛けたら、声まで変えて、すぐ逃げると言ったわ」と、お豊はしゃあしゃあした声で言った。

「雪子、これからお前は俺の妻になるんだから、何もかも聞かせてやるよ。お前と種村とが、いい気になって、昨日庭で話していたのを立ち聞きしていたんだ。で、妹は早速小石川の俺のところへ来て、それから二人で山本のところへ行ったんだよ。山本はお前の親父の弱点を握っているので、妾のお豊をお前の家に住みこませ、色々事情を探らせては、親父から金を搾り取っていたんだ。とうとう山本はいい気になってお前にまで手を出そうとしたんだ。それが奴の運の尽き。だが、山本も悪党に似合わず目が鈍い。お豊は、とうの昔に山本の書生の久米といい仲に・・・・・・」

「兄さん、そんなことまで言うのはおよし」

「何だい。恥ずかしい柄でもないじゃないか・・・・・・さて、雪子、どうせ近い内に俺たちは山本を片付けてずらかるつもりだったんだ。けれど俺はその前にどうしてもお前を手に入れるつもりで時節を待っていたんだ。ところが、その時節が案外早く来たというものさ。ゆうべ俺たちは山本の家で、種村が来るのを待っていたんだ。やっこさん、案の定ラケットを下げて、ぷんぷんしてやって来たよ。そして山本と散々喧嘩をして、久米がラケットを隠しておいたのも知らずに帰って行ったよ。その後でお豊が、山本の部屋へ行って、甘ったるく、しなだれ掛かると、山本も気を腐らしていたので、乙な濡れ場が始まったのよ。その時久米がラケットで山本の頭にがんと一打ち食らわすと、うーんとほざいたきりお陀仏さ。ところが警察のひよっこが、山本の手にお豊の髪の毛が引っ掛かっていたのを見つけて解剖のなんのと抜かすじゃないか。解剖されちゃ、事が面倒だから山本の死骸を行李に詰めて、これこの通り、ここまで頂戴して来たんだ。警察の阿呆め、今頃はてんてこ舞いで死人を捜しているだろう。だが何がわかるものか。もうじき久米が、山本の有り金をさらって、ここへやって来るはずだ。そうすると今夜、俺たちはお前を連れて四人連れ、行李の山本もいっしょに汽車で、落ち行く先は上海という寸法さ。何? 上海か? 上海はお前の親父が、悪銭をしこたま貯めた由緒ある土地さ。お前もそこへ行けりゃあ嬉しいだろう。何? 嬉しくない? おい雪子、目を明け、もしお前が俺の言うことを聞かなきゃ。ギュッと一締めにして行李二つでおさらばだ。なあに、死骸なんぞ、ここにほおっておいたっていいけれど、上海へ落ちつくまでに、見つけられちゃあいささか面倒だからなあ。これさ、雪子わけがわかったら、うんと言いなせぇ」

「兄さん、芝居掛かりだわねぇ」とお豊がからかった。

「馬鹿、この場で冗談言う奴があるか」

雪手は先ほどから、あまりの怖ろしさに目をつむってうつ向いていた。と、その時、台所の方でゴトリと物音がした。

「ありゃ何だ?」と留吉は、聞き耳を立てた。

「鼠だよ、兄さん」とお豊は言った。

留吉は雪子の傍にすり寄った。

「おい、早く返事をしないか」

こう言って彼はまたもや雪子を抱いて接吻しようとしたので、雪手は猛烈に抵抗した。

「やさしいと思ったら、案外骨のあるアマだなぁ。よし、それじゃ、最後の手段だ。まず山本の死骸を拝ましてやろう」

留吉は、懐の中から短刀を取り出して鞘を払い、行李を縛ってある麻縄をぷつりぷつりと切った。

この途端、隣の部屋にどさどさ、人の足音が聞こえた。

「兄さん、お逃げ!」と言って、お豊が駈け出そうとすると、雪子の弟清を先頭に、佐谷警部と今一人の刑事とが入って来て、やにわにお豊をねじ伏せて縄を打った。

留吉は出口を塞がれているので逃げるにも逃げられなかった。彼は短刀を閃めかして、大声で怒鳴った。

「よし、もうこうなったら絶体絶命だ。俺を逃がすかさもなければ、雪子をずぶりと刺すかだ」

こう言って、留吉は雪子の咽喉元に短刀を差しつけた。

清は流石に子供である。この有様を見て、佐谷警部に取りすがった。

「警部さん、姉さんが死んではいけない・・・・・・」

留吉に近づけば雪子は殺されてしまう。さすがの佐谷警部も進退に窮した。

すると、この時、死体の入れてある行李の蓋がむくむくと持ち上がった。

「あっ」と言ったのは、縛られていたお豊である。留吉は何事かとお豊の方を眺めた。

その時遅し、彼の手に持っていた短刀は、行李の中から飛び出した男の手に払い落された。

山本の死体が生き返ったのだと思いのほか、立ち上がったのは制服制帽、靴ばきのままの種村静也であった。

次の瞬間、激しい格闘が始まった。けれど、腕っぷしの強い種村と経験のある警部とのために留吉は難なく逮捕されてしまった。清はその間に雪子の傍らに走り寄って、猿ぐつわと兵児帯とを解いた。

「姉さん、もう大丈夫だよ」と清は言った。雪子は張り詰めていた気が一時にゆるんで、そのままぐったりとなった。

 

(六)

 

留吉兄妹を、街に待たせてあった警視庁の自動車で送り出してから、佐谷警部が戻って来ると、静也と清とは、雪子に水を与えて、懇ろに介抱していた。雪子は間もなくもとの元気に返った。

「どうもご苦労様でした」と静也は警部に向かって言った。「いや、僕も随分苦しかったですよ」

「どうして行李の中へ入っていたんですか」

と警部は不審そうな顔をした。「僕は山本の死体だとばかり思っていました。いったい山本の死体はどこにあるのでしょう?」

「物置部屋ですよ。まあ一応僕がどうやって死体の身がわりになったかを聞いて下さい。昨晩山本さんの家を出るとき、少し興奮していたので、うっかりラケットを置き忘れて来たんです。途中でそれをふと思い出し、引き返して山本さんの門を入ると、植込みの中に子供の影がちらつきました。何だかおかしいなと思うと、家の中でウーンと人のうめく声がしました。そこで、持ち前の冒険心がむらむらと起こって、裏口の方へ回ると、女の声がぼそぼそしました。そこで物置部屋の陰に忍び込んだり、植込みの中へ入ったりして様子を窺っていますと、やがて警察の人達が来ました。こりゃ大へんなことが起こったに違いないと思うと、間もなく警察の人が帰られましたが、家の中からは誰も出て来ませんでした。そのうちに台所口から二人の男が行李を吊り出して来て、地面に置いたまま中に入って行きました。多分麻縄を取りに行ったのでしょう。僕は、行李の中に何が入っているかと思って蓋を取って見ると、驚いたことに山本さんの死体です。僕ははっと思いました。山本さんが殺されたとすると嫌疑は僕にかかる、こりゃ、どうしてもこの死体の行く先を見届けねばならぬと、咄嗟の間に考えたのです。海の中へでも捨てられた日にゃ大へんですけれど、そんなことを考えている暇もなく、とりあえず死体を物置部屋へ移して、僕自身が行李の中へ入りました。すると、間もなく家の中から人が出て来て、行李を縛りましたが、横にしたり、縦にしたりしたので、もう少しで悲鳴をあげるところでした。それから僕は一人の男の背中に背負われ、女が付いて来て、この家まで運ばれたのです。それにしても清君、よくここがわかったねえ」

清は得意気に言った。

「種村さんが昨日姉さんと話をしているところをお豊が立ち聞きしていたんだ。それを僕が見つけたんだ。夕飯がすむとお豊が兄の家へ行くと言って出たので、僕はお豊の後をつけたんだ。そうするとお豊は小石川の兄の家へ寄ったが、じきに兄と二人で山本の家へ行ったんだ。僕、山本の家の植込みの中で二人が出て来るのを待っていたら、種村さんがやって来たので、いよいよ面白くなって、家の周りを回っていたよ。それから先は種村さんが今話した通りだ。僕は種村さんにも見つからないようにしていたので、種村さんが行李の中に入っているとは知らなかった。お豊の兄が行李を担いでお豊が側に付いて出て行くのを僕が後からつけて行くと、途中でお豊は自働電話を掛けたよ。二人はこの家の表口から入ったので、そのうちにはどちらかが出て来るだろうと思って待っていると、朝になっても戸は開かない。まさか裏から出入りが出来るとは思わなかった。そのうちにお巡査さんが来たので、番を頼んで、警視庁へ行き、わけを話して警部さんに来てもらい、裏口から入ったよ。

姉さんが来ていようなどとは、ちっとも知らなかった」

「山本さんの家の書生はどうしました?」清の語るのを嬉しそうに聞いていた静也は、この時警部に尋ねた。

「清君の話ですぐ逮捕されました。今頃は悪人たち三人とも警視庁にいるでしょう。いや、清君の話を聞かねば、もう少しであなたを犯人とするところでした」と警部は言った。

そのとき清は雪子の顔を覗き込み、

「姉さん、もうこれからは、僕が活動を見に行っても小言を言わぬことだよ」と言った。

雪子は嬉し涙にくれて、弟を抱いた。

 

*       *      *      *       *

 

静也と雪子との婚約に雪子の父仙蔵が喜んで同意したことは言うまでもない。読者は仙蔵が何ゆえに山本才吉の無理な願いを聞き入れねばならなかったかを知りたく思われるかも知れぬが、それは別の物語であって、この物語はこれでおしまいである。

Adobe Reader<外部リンク>

PDF形式のファイルをご覧いただく場合には、Adobe社が提供するAdobe Readerが必要です。
Adobe Readerをお持ちでない方は、バナーのリンク先からダウンロードしてください。(無料)