本文
名探偵(大正15年発表)
(一)
田西壺之助君は外国語学校の支那語科を卒業し、はじめ銀座の何とか洋行に勤め、それから鉄道省の役人になったり、某生命保険会社の社員になったりしましたが、生まれつき、物事に飽きっぽいので、三月と続けて、同じ職業に従事することができませんでした。けれどその田西君が、たったひとつだけ飽きないことがあります。それはすなわち探偵小説を読むことでして、支那語以外に英語も達者でしたから、手当たり次第に海外の探偵小説を読み、役所だろうが会社だろうが仕事をそっちのけにして耽読するのですから、自然、居にくくなったのも無理はありません。もっとも、田西君には親譲りの財産があって、生活に差し支えないのですけれど、ぶらぶらしていてはろくなことを始めかねないだろうと、友人たちが心配して、いっそ、私立探偵になってはどうかとしきりに勧めましたので、同君も乗り気になって、日本橋のK町に女中と二人暮らしの、言わば形ばかりの探偵事務所を開いたのであります。
ところが、いざ開業して見ると、田西君の予想とは違って、私立探偵というものは、探偵小説で読むほどロマンチックなものではないとわかりました。日本ではまだ私立探偵なるものを一般世人が信用しないのか、あまり依頼者がありません。かといって「探偵のご用はありませんか?」と、戸別訪問する訳にもいかず、また、依頼もされぬのに事件のあった所へ押しかけても行けず、田西君は日々、探偵小説を読むよりほか、することはありませんでした。
「素晴らしい殺人事件でも起こってくれるといいがなあ」
毎朝そう思っては新聞を見るのでしたが、たまたま評判になるような事件があっても、警察の手に任されるだけで、たとえ事件が迷宮に入っても、誰も田西君のところへは依頼に来ませんでした。
「私立探偵なんてつまらない。実世界には、もっもっとロマンスがあってよさそうであるのに一向に無いじゃないか。やっぱり、探偵小説を読んで、架空の探偵が活躍するのを見ていた方がどれほど面白いか知れやしない」
開業してから一月経つか経たぬに、はや、田西君は私立探偵なるものに厭気がさしました。しかし友人たちは、もう少し辛抱せよと勧めましたので、渋々ながら退屈な日を暮らしておりました。
すると、ある冬の日の午後のことです。田西君の事務所へ、ひとりの二十五、六の男が、息を弾ませながら逃げ込んできました。
「ああ、どうか助けて下さい」
こう言いながら男は、田西君の案内も待たず、つかつかと応接室に入り込み、ストーブの前の椅子にどかりと腰を下ろしました。男は帽子も被らねばマントも着ていませんでした。あたかも誰かに追っかけられて来たかのようでしたが、誰も訪ねて来るものはなく、また、男はさほどそわそわする様子もありませんでした。眼がはなはだ鋭く、髪がかなりに伸び、頬が痩せこけていましたが、何者とも判断することができませんでした。男は両手で頭を抱えながら、まるで田西君の存在に気づかぬように「ああ」と太い溜息をつきました。田西君はただ呆気にとられて見ていましたが、やがて、
「どうしたのです、誰かに追われてきたのですか?」と尋ねました。
男はきょとんとした顔をして田西君を見つめていましたが、しばらくしてから、悲しそうに両手で顔を覆いながら言いました。
「僕の、僕の恋人を、世の中の人がみんなして奪おうとしています。僕は悲しいです。どうか助けてください」
こう言ったかと思うと、男はすすり泣きを始めました。
「恋人とは誰ですか? どこに居るのですか? さあ、もっと心を落ちつけてお話しなさい」
男は涙に光る眼をしばたいて、
「恋人はあそこに居ます」と、ガラス窓の方を指しました。
「え?」と、田西君はびっくりしました。戸外には北風が木の葉を揺すっているばかりで、人影などは見えませんでした。
「あれがわかりませんか、僕の恋人は戸外で寒さに震えています。世の人はこぞって、恋人を虐待します。ああ、可哀そうです。どれ、この暖かい部屋へ呼び入れてやりましょう」
男はつと立って、ガラス窓の傍へ歩み寄って、それを開けました。
「さあお入り、さぞ寒かったろう」
しかし、何人も入ってはきませんでした。田西君はいささか気味が悪くなって、ぼんやりとして見ていました。すると間もなく男は窓を閉めて再びもとの椅子に腰かけました。
「どうしたのです。誰も入ってはこないじゃないですか?」
「これがわかりませんか? この可憐な恋人の姿が見えませんか? ああ、世の人は何という薄情者ばかりでしょう。せっかく、助けて貰おうと思ったあなたさえ、僕の恋人をいじめようとするのですか? おや、貴様は、恋人に接吻したな、こん畜生!!」
あっという間もなく男は田西君に飛び掛かりました。どたりと椅子ぐるみに、田西君はリノリウム敷の床の上に仰向きに倒れました。男は田西君の頸を締めようとしましたので、田西君は全力を尽くして抵抗しました。
と、その時、白い手術衣をまとった男が、同じく息を弾ませて、入ってきましたが、この有様を見るなり、たちまち踊りかかって、田西君に馬乗りになっている男を、無理に引き離しました。
「いや、どうもとんだご迷惑をかけて済みませんでした」と、手術衣の男は詫びました。田西君はやっと起き上がって、塵を払い、
「いったい、ど、どうしたんですか?」と尋ねました。
「この男は精神病者なんです。私はこの近所のS病院の精神科の医員ですが、さっき、看護人が少し眼を離した間に、この患者は逃げ出したのです。どうも本当にお気の毒でした」
患者は急におとなしくなって、うつむいて立っていました。精神病者と聞いては、田西君も怒れず、ただ苦笑するばかりでした。
「この人はいったい誰に恋しているのですか?」
「あ、それを言い出してあなたに暴行したのですか。みんな同じ手でやられるのですよ。それが実に奇抜なんです・・・・・・」
「なんだか、恋人が戸外で寒がっているから、窓を開けて入れてやるのだと言いましたが、誰も居ないので気味が悪くなりました」
「まったくです。この患者の恋人は眼に見えんのです」
「え? 眼に見えぬ恋人とは誰ですか?」
「空気なんですよ。空気を恋人にしているのです」
「空気!」と言ったきり、田西君は、二の句がつげぬほど呆れかえりました。
(二)
しかし、この事があってから、田西君は、世の中を見る眼が変わってきました。実世界には自分のとても想像の及ばぬロマンスがあるのだと思い始めました。ロマンスがあっても、それを人は見つけ得ないだけであると考えました。で、田西君は、明日から、暇さえあれば、町を散歩して、ロマンスを見つけようと決心したのであります。
翌日は好天気でしたから、田西君は朝飯を済ますと、すぐ散歩に出ました。街上の人々はもちろん、電信柱までが、何か大きな秘密を持っているように思えました。
ふと、Y町の某医院の前を通ると、中からひとりの人相の悪い男が、空の薬壜を手に持って出てきました。
「ハテな」と田西君は考えました。
「病人ならば医院の中から、空の薬壜を持って出て来るはずがない。こいつ怪しいぞ。そういえばあの顔は犯人型に属している。よし、ひとつ後をつけてやろう」
こう決心して田西君は、今にどんな素晴らしいロマンスが眼前に展開するかと、燃えるような好奇心をもって、気づかれぬようについて行きました。男は、つけられていようとは夢にも知らず、急ぎ足でせっせと歩いて行きました。
「犯罪者にしては恐ろしい度胸の据わった奴だ」
こう呟いて田西君がたくさんの街を曲がってどしどしついて行きますと、やがて男は一軒の店へ入りました。近寄ってみると、それは硝子器製造販売店でありました。
「あッ、いけない。犯罪者ではなかった。壜の見本を持って注文に来たんだ」
田西君の夢みたロマンスは見事に破れてしまいました。しかし田西君は悲観しませんでした。そして熟考の結果、ロマンスの一番多そうな場所、すなわちN停車場へ行くことにしました。
停車場へ来て見ると、果たして、大きな秘密を持っていそうな人がうじゃうじゃ集まっておりました。
「面白い面白い。あそこの隅に居る女は、両親の眼を盗んで恋人の所へ逢いに行くんだ。あの背の高い男は銀行の金を使い込んで逃げる所だ。それからあの婆さんは嫁をいじめ殺して、その嬉しさに今日はお寺へお礼回りに行ったんだ・・・・・・」
この様に先から先へひとりひとりについて考えて行くと、田西君は面白くてなりませんでした。田西君の考えでは、人間の直観ほど正確なものはない、始めて見た時こうだと考えたなら滅多に間違うものではないというのでした。さっき、薬壜で間違ったのは、なまじ推理を行ったからである。何とかして、自分の直観の正しいことを証明する方法はないかとしきりに眺め回していますと、ふと異様な人物が見つかりました。
ひとりの支那服をまとった支那人が、何かしきりに探すような風をして、あちらこちら小走りに歩き回っていました。田西君はそれを見て、
「阿片の密輸入者だ!」と直観的に判断しました。そして、その直観の当否を確かめて見ようと決心しました。そこで田西君は、つかつかとその支那人の傍に歩み寄り、得意の支那語を使って、
「もし、あなたは何を探していますか?」と、尋ねました。支那人は立ち止まり、田西君の顔を見て、変な表情をしましたが、返事をしないで、何となく落ち着かぬ様子を示しました。田西君は自分の直観の正しかったことに、得意を感じながら、
「君は怪しい人間でしょう。僕にはよくわかっていますよ。幸いに支那語は誰にもわからないから、ここで僕にだけ本当のことを白状しなさい」
男はみるみる顔色を変え、全身を震わせました。田西君はここだと思って、
「君は阿片の密輸入者だろう。僕と一緒に来たまえ」
こう言って田西君は男の手を取ろうとしました。男は本能的に身を引きましたが、その時にこりと笑い、
「あの、失礼ですが便所はどこでしょうか?」と、流暢な日本語で尋ねました。
この意外な言葉に、田西君は倒れんばかりに面食らいました。
さっきから、何やらわからぬ言葉でお話しでしたが、あれは支那語でしょうか。私は九州人ですが、支那服が好きだから着ているだけで、支那語はちっとも知りません。さっきから、便所へ行きたくてならず、しきりに探しましたが見つかりません。ご承知ならば教えていただけませんか?」
田西君は背中に冷水をかけられたかの様に思いながら、便所のありかを教えてやりました。
(三)
直観というものにしみじみ絶望を感じて、田西君が事務所へ帰ったのは、午後三時過ぎでした。このような当てにならない直観では到底探偵の資格はないと思って、机の前にぐたりと腰を下ろし、ふと傍を見ると、平素愛読している、石川雅望の、「しみのすみか物語」が眼につきました。田西君は何気なくそれを手に取って広げて見ると、偶然、「桶屋の話」が現れました。
桶を作って売る男が、ある日、激しい風の吹くのを見て、細君に向かい、
「お金持ちになる運が向いてきたから、神棚へ燈明を上げてくれ」という。細君は不審に思って、
「風が吹いて桶屋が繁昌するとはどういう訳ですか?」と聞くと、男は答えて、
「風が吹けば砂埃が起こって人の眼に入り、眼病が流行って盲目ができる。盲目ができれば法師となるから三味線が要る。三味線は猫の皮で作るから、猫が殺される。猫が殺されりゃ鼠が増える。鼠が増えれば桶をかじる。桶をかじれは桶屋が繁昌するではないか」 と言った話であります。
田西君は思わず微笑しました。
「そうだ。探偵はこのコツだ。これは推理というよりもむしろ連想作用だ。探偵には推理や直観はなくても連想作用さえあればいいかも知れんぞ。よし、これからは探偵の際、連想力を働かせて見よう」
こう決心したとき、激しく電話のベルが鳴り出したので、受話器を取り上げて聞いて見ると、F町の加藤という銀行家の夫人の声で、盗難事件について、是非探偵をお願いしたいから、すぐ来て欲しいというのであった。
いよいよ連想力を働かす時機が来たわいと思いながら、田西君は探偵用の道具を入れた鞄を携えて、あたふた加藤家を訪ねると、書生が出迎えて応接室に案内され、間もなく、夫人と対座しました。
「田西先生、本当によくおいでくださいました。先生ならばきっとこの事件を解決してくださるだろうと思ってお願いしたのでございますよ。ここだけのお話ですが、警察の人はまったく駄目でございましてね」と、夫人は、「先生」と呼ばれて恐縮している田西君を尻目にかけ、ひとりで喋り続けました。
「もう事件が起こってから十日にもなりますけれど、いまだに警察の手では犯人が挙がりません。主人の書斎の金庫から、私の宝石類を盗まれたのでございますが、警察の人が言うには、犯人は家内の者か、または家の様子をよく知っている者らしいというのです。しかし、何ひとつ手掛かりは見つからなかったらしいのですよ。ですから、その手掛かりを見つけていただきたいと思いまして、先生をお願いしたのです。先生ならばきっと見つけてくださいますわねえ」
警察の見つけ得なかった手掛かりを、果たして見つけることができるだろうか、それに十日も過ぎていてはなおさら困難だ、これはいっそ体よく断ろうかと思っていると、夫人はさらに言葉を続けました。
「本当に私、先生をお呼びして、もう宝石が戻ったように安心しましたのよ。先生のお顔を見て、先生なら手掛かりを見つけてくださるという確信を得ましたのですもの。さあ、どうか書斎まで来てくださいませ、金庫をお目にかけますから」
引きずられるようにして、田西君は夫人の後から書斎へ入りました。見ると正面にラファエルのマドンナの絵の複製が額の中に入れて掲げられ、その下のところに問題の金庫が置かれ、その他には書棚やテーブルや椅子が並べられてありました。
田西君はつかつかと金庫の傍に寄り、何よりも先に、指紋を検査しようと思って、鞄の中から道具を取り出して、用意の粉末をふりかけました。すると随分たくさんの指紋が現れましたが、中に、左手の親指の指紋がひとつ、特に田西君の注意を引き、田西君はこれこそ犯人の指紋だろうと思いました。
「お宅様は幾人暮らしですか?」
「主人と私と書生と女中の四人暮らしでございます」
それを聞いて田西君は、直観的に書生が怪しいと思いました。
「ちょっと書生さんに来てもらって下さい」
やがて書生は夫人に伴われて入ってきました。
「君、左手を出してくれたまえ」と、田西君は書生の左の親指の指紋を採ろうと思って、命令口調で申しました。
書生は左手を隠すようにして少し躊躇しました。田西君は心の中で、自分の想像の当たったことを喜びました。その時夫人が、
「早くお見せなさい」と注意したので、書生は渋々ながら、左手を田西君の方に差し出しました。
「あッ?」と言って田西君は驚きました。それもそのはず、書生の左の親指は根元から切り去られておりました。
「ど、どうしたのですかこれは?」
「小さい時に蝮に噛まれたので、医者が切り取ってくれました」と書生は紅い顔をして答えました。
「もうよろしい」と、田西君は全身に冷や汗を流しながら、書生を返しました。
「直親はいけないのだ。そうだ、連想力を働かせるはずだったのだ」と、田西君は我と我が心を叱咤して金庫の扉を開け、内部を検査し、それから、書斎を眺め回しましたが、連想の種となるものは何ひとつありませんでした。
金庫―――宝石―――犯人―――
などと連想してみた所が、犯人は誰だかわかりませんでした。田西君はハンカチを出して額の汗を拭い、ホッと苦しさの太息を漏らしました。
「まあ、先生、どうやら手掛かりを見つけてくださいましたようですわねえ。嬉しいですわ。どんな手掛かりでしょうか?」
「手掛かりって、まだ何も見つかりません」
「いいえ、先生は隠していらっしゃるわ。ね、先生、聞かせてください。良人が帰ったら喜ばせてやりたいですから」
「本当にまだ何も・・・・・・」
「嘘ですよ。警察の人は手掛かりを見つけなくても見つかったような風をしますが、先生は見つかっても、それを隠しておいでになるのですわ。私、よく知っていますよ。ちゃんとお顔に書いてあるのですもの」
田西君は穴があったら入りたいような思いをした。
「ね、先生、早く聞かせてください」
絶体絶命です。田西君は、何とか言わねばならぬと思い、苦しまぎれに、
「手掛かりはこの額です」と言い放って、マドンナの像を指しました。赤子を抱いたマドンナは、田西君の苦境を笑っているかのように見えました。
夫人も意外な思いをしながら、しばらくマドンナの像を見つめていましたが、やがて、
「あッ、そうでしたか、そこまでは気がつきませんでしたよ。早速これから警察へ電話をかけます」と言いながら、小走りに出て行きました。
出鱈目の手掛かりを警察へ知らせられてはたまるものでないと思い、田西君はこっそり抜けだして、一目散に逃げて帰りました。
すると、その夜、加藤夫人から電話がかかりました。
「先生は随分お人が悪い。黙ってお帰りになりましたのねえ。でも、おかげさまで、犯人が知れて宝石はみんな戻りました」
「え? 本当に? それは結構でした。どうして知れました?」
「あら、先生が教えてくださったではありませんか。マドンナの額が手掛かりで・・・・・・」
「へえ?」と田西君はびっくりしました。
「先生がマドンナの額だとおっしゃった時、私は、あの絵の赤子を見て小学校時代を思い出し、小学校にあった大きなシュロの木を思い出しました。それからシュロ箒を思い出し、先の女中を思い出しました。先の女中はよくシュロ箒を壊しましたから、それから先の女中の情夫を思い出したんですよ。よく家へ来ましたが人相の悪い男でしたから、主人も私も嫌って、女中に暇を出したのです。で、私はあの女中の情夫こそ犯人に違いないと思い、警察へ電話をかけて探してもらったところ、果たして盗んだ宝石を持っておりましたそうです。実際先生の慧眼には驚きましたよ。まったく、先生は名探偵でございます。いずれゆっくりお礼に上がりますが、とりあえずちょっとお知らせしました。さよなら」
田西君は狐に化かされたような顔をして、しばらくその場にぼんやりたたずみました。
しかし、このような大成功を収めたのにもかかわらず、田西壺之助君は、どうした訳か、翌日から私立探偵を廃業しました。ただし、その後も探偵小説を読み耽ることだけは決して忘れませんでした。