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二十年後(昭和3年発表)
一
「どうぞこちらへ。」
客の松山氏を案内しながら、主人の杉田氏は言った。
「ここはたいへん涼しい風が入りますな」
「はは、山の上でございますから」
「どうも、今晩は色々ご馳走様でございました」と、松山氏は、ベランダに据えられた椅子に腰をおろして、巻煙草に火をつけた。
「いや、何もございませんで、誠にお恥ずかしいことでした。でもまあ、こうしてお近づきになっていただいたことは何より嬉しく存じます」と、緑色のシェードで覆った台付き電燈の置かれたテーブルを隔てて、客と対座しながら、杉田氏は満足そうにほほ笑んだ。
「日中でしたら、この見晴らしは、一層よろしいでございましょう」
「左様でございます。F市全体が眼下に横たわり、その先にI湾が広がっておりまして、晴天には遙か彼方のY島の噴煙も見られます。夜でもご覧のとおり町の灯影がべったり撒かれて、生き物の目のように明滅しているのは、美しいと言うよりも、何かこう、神秘な感じのするものでございます」
「仰せのとおりでございます。夜の街は、いえ、夜それ自身が、神秘なものでございます」
「人間の現在を昼に例えますならば、過去は夜に例えるべきでございますまいか」と、主人の杉田氏は客の顔を覗き込むようにして言った。
「左様でございます」と、松山氏は、何となく寂しそうな笑いを漏らした。
「夜が神秘であるように、人間の過去も神秘なものです」
「同じ街に住んで居り、同じく実業界に顔出していましても、つい、かけ違ってお目にかかる機会もなく、やっと二月前に親炙を得、今日私の拙い招待に快くおいでくださったことは誠に感謝に堪えません。それについて、今、人間の過去の話が出ましたので、かねて一度承りたいと思っていたことですが、あなたが、松山製鋼所を経営され、鋼鉄王として世の尊敬を受けられるに至るまでには、言うに言へぬご苦心とご努力をなさいましたことでございましょうな?」
「いえ、もうどうも」となぜか松山氏は気乗りのしない返事をした。
自分のことを申すのもおこがましいですが、私も、現在のSF電気鉄道株式会社社長になるまでには随分難儀を致しました」
「そうでございましょうとも」
「死ぬような思いをしたこともございます」と、杉田氏は、特に力を込めて、自分のこの言葉が相手にどう響くかを、探るような目つきで言った。
が、松山氏は、何か他事を考えているかのように、物憂くうなづくだけであった。
「ですから、あなたも、きっと幾多の波瀾曲折を経て今日を築かれたことと思います。誠に失礼なことを申して相済みませんが、あなたは右の親指がございません。きっと私は、何か機械にでもはさまれなさったのではないかと想像致すのでございます」
「これですか。これは小さい時分に蝮に噛まれましてな、医者が切断してくれたのでございます」
「何でしたら、一つ過去のお話をお聞かせ願いたいものでございます」
「そうでございますな」と、松山氏は時計を出して、
「おや、もう八時でございますな。実は今晩まだこれからちょっと他所へ・・・・・・」
「まぁ、まぁ、およろしいではございませんか。せっかく初めて来ていただいたのですから、出来ることなら夜更かしでもして、ゆっくりお話を承りたいと思います」
「いや、せっかくのご厚意ですから、私ももっとお邪魔したいのでございますが、何しろ、固い約束がありますから」
「でも、せめて、十時半か十一時まで」
「その十一時に、あるところへ行かねばならぬのでございます」
「左様でございますか。それはどうも致し方がございません。ではいずれまた、近いうちにゆっくりお目にかかることに致しましょう」
「誠にご丁寧なお振舞いにあずかりまして恐縮致しました。おや、だいぶ風が強くなりましたな」
こう言って立ち上った松山氏に従って、
「左様。だいぶ空が暗くなりました。ことによると一雨来るかも知れません」と、同じく天気を気遣いながら、杉田氏は、客の退出を告げるべく、テーブルの上のベルを押した。
二
それから二時間ほどの後、鋼鉄王の松山氏は、F市を隔てた約一里(4km)ほどの海岸の断崖の上に立っていた。が、その服装は、先刻、杉田氏方でのそれとは全然違い、垢のついた紺がすりに、破れた黒の兵児帯を締めた、世にも見すぼらしい姿であった。
が、その見すぼらしい姿を誰も怪しむもののないほど、その付近は寂しかった。昼間でも滅多に人の来ないところであるから、夜分にはなおさら人影は見えなかった。
海は暗かった。今にも降りそうな空模様だったので、I湾一体が混沌たる有様だった、ただ、その断崖が海に面している端から数間控えたところに、単線の電車道があって、電柱に付いているほの暗い灯が、あたりの空気をかすかに照らしだしていたけれど、むろん、その明かりは断崖まで届かなかった。その電車道こそは杉田氏の経営にかかるSF電気鉄道なのである。
一般にこのあたりは波が荒かったが、今夜は風が強いために、断崖にぶつかる水の音は一層すさまじかった。高さは三丈(約9m)に余ったが波のしぶきは雨のごとく降りそそいで、夏の夜とはいえ、涼しさを通り越した。海面には一艘の船も見えず、昼間はよく飛ぶ海鳥も、夜はどこに居るのか声さえしなかった。
「おや、降りだしたかな」
異様な姿をした松山氏は、こうつぶやいて、断崖に生えている太い松の木の根元に腰をおろし、海面に見入りながら巻煙草をふかしはじめた。とその時、後方を電車が走り過ぎたので松山氏は腕にはめた夜光時計を見た。
「ちょうど十時だ。まだ一時間ある。少し来るのが早かった。こんど同じ方向へ行く電車の通る時が約束の時刻だけれど果たしてあの人は来るだろうか」
こう言いながら、松山氏は過去の追憶にふけった。
ちょうど二十年前の今月今夜のことである。松山氏はある女に失恋して、世をはかなみ、この断崖から投身自殺しようとした。今から思えば馬鹿らしいことではあるが、その馬鹿らしいことが冷静を欠いていた当時の心には、決して馬鹿らしくはなかった。彼女を他人に奪われては、もはやこの世に生きる望みはなかった。で、自殺の場所として選んだのがこの断崖であった。その頃はまだ電車道が引けていなかったし、今夜のように雨模様だったので、今夜よりも一層暗く、また、風も今夜よりは一層強く、波の音も一層激しかった。その時、着ていた紺がすりと締めていた兵児帯とが、今現に松山氏によってまとわれているものなのである。
「裏切った女に思い知らせてやろう」
こう思って、断崖に近づくと、ふと、松山氏は、自分より先に、この断崖を訪問している者のあることに気づいた。闇の中でよくはわからぬが、どうやら自分と同じ年輩の男らしかった。はッと思って様子をうかがうと、やがてその先客は、何やら呟いた後、ひらりと身を前方に躍らせた。
「危ない!」
思わず大声に叫んで、松山氏はかろうじて男を引き留めた。
「離して下さい」と男は言った。
「いやいけません。あなたは身投げをするのでしょう。まずその理由を聞かせてください」
「理由は言えません」
「理由を聞かねば離しません」
「失恋です。失恋したのです」
「え?」と、松山氏は思わず手を離したが、その声があまりに大きかったので、今度は、相手の男が不審そうに尋ねた。
「どうなさったのです?」
「私にはあなたの身投げを止める資格がありません」
「それはまたなぜですか」
「わたしも、失恋のために、今夜ここから身投げをしようと思って来たのです」
いつの間にか二人は岩頭に腰をおろして、身の上を語り合った。暗いからお互いの顔は少しもわからなかったけれど、同じような境遇にあることが二人を親密にした。
「女は誰でもそうした薄情なものですかねえ。私の恋した女ばかりがそうだと思ったのは誤りでした。あなたの話を聞いて、私はもう自殺の決心を翻しました」と、先ほどの男は言った。
「いや、わたしも初めて夢の覚めた心地がします。死ぬのは嫌になりました。これからは死んだつもりで働きます」と、松山氏も興奮して言った。
「そうです。お互いに心を入れ替えて働こうではありませんか」
やがて松山氏は提言した。
「どうです。真剣になって働けば、きっと相当な人間になれるでしょう。今後二十年間努力して、お互いに自分の運命を開拓しようではありませんか。で、ここでお約束したいのは、二人がどこでどのような運命に出会っていても、生命さえあったならば、満二十年後の今月今夜、この時刻・・・・・・そうですね。今はもう十一時でしょう。十一時にここで会うことにしようじゃありませんか」
「賛成です」
「顔もよくわからず、まだ姓名も名乗り合わなかったのがかえって面白いと思います。二十年後に会うことを思えば、お互いに励みがつきます」
「それは本当によい思い付きです。生命さえあれば、例え病気中でも、私は人に選ばれて、ここへやって来ます」
「ただ、その時の証拠に、わたしの兵児帯の端をちぎって、二つに割き、これをお互いに保存して示しあうことに致しましょう」と、松山氏は、証拠の品を作った。
「たしかに受け取りました。そして、今日のことはして第三者には口外しないことに致しましょう」
それから二人は握手して、そのまま別れてしまったのである。顔も知らねば名も知らないで。
三
この珍しい約束によって、松山氏は、今この岩頭に現れたのである。自殺を思いとどまってから二十年、その二十年間の苦心は並大抵のものではなかった。松山氏はその時着ていた紺がすりと兵児帯とを記念に残して自己鞭撻の道具とした。そして言わばそのおかげで今日の富を作ったのである。だからその記念の品をまとって約束の男に会いに来たのである。
「あの人は果たして生きているであろうか。二十年間にどんな境遇に変化しただろう。今日の約束を覚えているであろうか」
松山氏は過去の追憶から覚めて何となく心がいらいらして来た。すでに今晩杉田氏に招かれて色々ご馳走になり、杉田氏から親切な言葉をかけられた時から、十一時の約束を思うと、胸が躍って、ともすれば心が上の空であった。
「生きていたらきっと来るだろう。顔も名も知らないけれど、十一時までに現れて兵児帯の片布を示す人がそれだ」
突然電車の音がしたので、松山氏は立ちあがった。
「何だ反対の方向から来た電車か」と、夜光時計を眺め、「まだ三十分ある。雨が少し降り募って来たようだ。こんなくらいならば、近所まで自動車を連れて来て置けばよかった。十一時まで待って来ないようだったら、すぐ帰ろう」
じっとしていては、少し寒いので、散歩しながら待っていようと、袂に手をやって、煙草を取り出すと、その時、向こうから幽霊のように歩いて来る人影を認めた。はッとして思わず岩陰に身を潜め、息を殺して様子を伺うと、影はだんだんこちらへ近寄ったので、さては、約束の人が来たかと、にわかに動悸を高めて目を剥いたが、意外にもその人影は二つであることがわかった。
「これはおかしい」
よく見れば、男と女とである。
二人は無言のまの断崖の端まで行った。
「お蔦」
「はい」
「これがこの世の見納めだ」
「はい」
「足の下には、楽な世界がある」
「はい」
「お前を道連れにするのは・・・・・・済まない」
「・・・・・・」
「なあ」
「いいえ」
「それにしても俺は恨むよ。あの・・・・・・」
「何度言っても及ばぬこと、もう黙って死にましょう」
「おお、そうだ」
男女が飛び込む仕度をしたので、松山氏は飛鳥のごとく躍り出して、男の帯をつかみ、無理に引きずりながら、電車道まで来た。
「誰だ、何をする!」と言う男の怒声。
「あれっ」と言ってついて走る女の悲鳴。
「まぁ落ち着きたまえ」と、松山氏は喘ぎながら言った。
「君たちは死ぬつもりだろう。死ぬには深い事情もあろうが、事情によっては相談に乗ろうじゃないか」
わずかな電燈の光で顔はよくわからぬけれど、男は松山氏の見すぼらしい服装を見て、軽蔑した口調で言った。
「そういうお前は誰だ。なぜ、俺たち夫婦の死ぬのを止めた」
「さては夫婦だったか。俺も二十年前にここで死のうとしたが、急に心を翻して、死んだつもりで働いたんだよ」
「その働く口が無くなったのだ」
「え? それでは解雇されたか」
「そうよ。半月前に松山製鋼所を解雇されたんだ」
松山氏は驚くと同時に、急に親しみを感じた。
「君、俺の顔に見覚えはないか」
男は顔を近づけたが、
「知らない」
「よく見たまえ」
「わからない」
「俺は松山だ。製鋼所の主だ」
意外な言葉に男は目を見張ったが、
「違う違う。松山はこんな服装をしていない」
「これにはわけがあるのだ。落ち着いてよく見たまえ」
男はもう一度見直した。
「やッ、松山だ! お蔦、これが恨み重なる松山だ」
大声に叫んだかと思うと。男は鉄拳を振り上げた。
「待て! 誤解するな!」
松山氏は不意の襲来にかろうじてこう言ったが、次の瞬間頭部に一撃を受けて、どたりと電車線路の上に倒れた。男はひざまずいた。
「しまった! 殺した。お蔦、松山を殺してしまった。もう生きておれん。ああ、ああ」
こう叫んだかと思うと、ばたばた断崖の端に駆けて行った。
先刻から、あまりに意外な出来事に、無言のまま呆然として傍に立っていた女房は、この時、
「ま、まって!」と言って後を追いかけた。
半分の後、二人は断崖から姿を消した。
線路の上には、気絶した松山氏の体が横たわった。もし二、三分の間に息を吹き返さなければ、松山氏も二人と運命を共にしなければならない。しかも、都合の悪いことには、そこがカーブになっていて、例え電車の運転手が松山氏を見つけてブレーキをかけても、到底轢殺は免れなかった。
突然雨の中をごーっという音が聞こえた。
あはや松山氏は・・・・・・
ところが、どういう運のよいことか、電車は松山氏の身体から数尺離れたところで止まった。
運転手は降りてあたりを見まわしたが、やがて松山氏の姿を見るなり、驚いてかつぎ上げ、電車に乗せて再び去った。
四
ふと松山氏が気づくと、自分は電車の中のクッションに、運転手服の男に介抱されていることがわかった。
「おおお気がつきましたか」と、運転手は、嬉しそうに言って抱き起こし、傍のブランデーをコップに注いで飲ませた。松山氏は聞き覚えのある声だとは思ったが、まだ目がぼんやりしているのと、明かりが暗かったので、よくわからなかった。
「ここはどこですか」
「SF電気鉄道の終点M駅です」
「どうも色々お世話になりました。お陰でで命捨いをしました。時に二人はどうしましたか。心中の夫婦は?」
「え? 心中の夫婦?」
「わたしが気絶していた。あの断崖から飛び込もうとしたのです」
「あなたをお助けした時には、誰もあたりに居りませんでした」
「早く人をやって、調べさせてください」
運転手は立ちあがって出て行ったが、程なく帰って来た。
「松山さん。私です。おわかりになりませんか」
言われて松山氏は、じつと運転手の顔を眺めていたが、
「おお、あなたは杉田さん。どうしてそんなに姿に?」
SF電気鉄道株式会社社長杉田氏はにっこり笑って、ポケットに手をやった。
「この布片に見え覚えがありませんか」
「おお、それではあなたが二十年前の・・・・・・」
「お約束通りの時間にあそこへ参り、はからずも気絶中のあなたをお助け致しました」
松山氏は、あまりのことにしばらく言葉がのどにつかえた。
「あの時、断崖でお別れしてから、私は電車の運転手になりました。それから二十年間、色々の苦しい目に遭ってやっと今日の地位を築きました。その記念として運転手服を保存し、今夜はそれを着てお約束を果そうと思いました。実は二月前からご交際を願うようになって、もしやあなたが、あの時の人ではないかと思いましたので今日お招きして、それとなくご様子をうかがい、都合によっては十一時までおいでを願って、私の宅で約束を果たそうかと思いましたが、第三者に口外しないという約束を固くお守りになってお帰りになりましたので、私も断崖へ行く決心を致しました。かねて、うちの電車が十一時に断崖を通過することを知りましたので、昔取った杵柄で、自分で運転して約束の場へ参り、電車を止めてあなたをお探ししたわけでございます。もしそうでなければ、あなたは電車に轢き殺されておいでになったかも知れません、いやもう、危ないところでございました」
松山氏は、杉田氏の語るのを満足そうに聞いていたが、
「それにしても、二十年前にお目にかかった時は、暗くてよくお顔がわかりませんでしたのにどうしてあなたは、私を覚えておいでになったのでございますか」
「そのことですか。断崖でお別れするときに握手致しましたでしょう。その時あなたに親指がないことを知ったのでございます」
言われて松山氏は右手を出した。が、その時、ふと解雇された職工夫婦のことを思って、そのほほ笑みの中に一沫の陰影が漂った。