本文
一つの欠点(大正3年発表)
(一)
小泉五郎は、逃げるようにして、階段を走りあがり、F旅館のわが部屋に戻った。
彼は今まで秋の夜の冷たい空気の中を歩いて来たのであるが、彼の脳味噌は、ぶつぶつ泡を吹き上げはしないかと思うほど、煮え返っていた。その感じは、想像力の強い彼にも、何と形容してよいかわからぬものであった。時々神経の末端へ脳の方から、電波でもあろうかと思われるようなものが、ぴくりぴくりと響いてきて、その都度、筋肉がぶるぶるっと震えるのであった。
彼は部屋へ入って、どさりと座布団の上に身体を落としたまま、しばらくの間、硬直したように動かなかった。彼はそのまま石にでもなってしまうのではないかと思った。卵の白味が熱に会って固まって行くように、全身の筋肉がこわばって行くのではないかと思った。そして、筋肉が凝固して行くとき、その中の汁が押し出されて汗になるのではないかと思うほど彼の背中には汗が流れ始めたのである。
彼は何気なく障子にはめてあるガラスに眼を注いだ。そして、それと同時に、彼は飛び上がらんばかりに驚いた。真上から電燈に照らされた自分の顔は、頬骨の下がげっそりとこけて、誰かの絵で見たメフィストフェレスの顔にそっくりであったからである。まるで頭蓋骨を見るかのような凄惨な表情は、一時、彼の心臓の鼓動を停止させるほどであった。
場末の旅館であるから、電車の音は聞こえて来なかったが、付近はかなりに騒々しく、その騒々しさを形作る一々の物音が彼の神経に激しく堪えたのであった。彼は、廊下を通る宿泊の客や女中の足音にもびっくりした。今にも佩剣の音が聞こえて、どさどさと、人々が踏みこんで来やしないかと気が気でなかった。しかし、彼は立ち上がる勇気がなくなった。あたかも腰の抜けた人のように一寸も動くことができなかった。
彼は、今から、一時間ほど前に人を殺して来たのである。
彼を捨てた女を殺してきたのである。
彼は彼女を殺すために、計画に計画を重ねた。過去およそ二年間というものが、彼女殺害の計画のために費やされたといってよい程であった。だから、その殺害には、わずかの手抜かりもなかったはずである。彼が犯人であるということは、どんな名探偵でも探り出すことはできないであろうと思うほど、犯罪は巧妙に行われたものである。それにも関わらず、彼は、今にも逮捕されやしないかとびくびくせざるを得なかった。彼の理性は、どこまでも彼の身の安全を保証したかに関わらず、彼の良心は、彼に、激しい恐怖を与えたのである。
彼はもちろん、良心の存在についてしばしば考えを巡らせた。しかし彼は、その良心が、これ程までに、人間の心を変化させようとは思わなかった。彼は彼女を殺して後、今に至るまで悔恨の念には少しも駆られなかった。のみならず、彼女を殺した事は、何となく彼に満足の念を与えた。だから、彼のこの恐怖が、良心の呵責のために起こるものとは彼は考えなかった。それはまったく理由のない恐怖であった。今にも地震が起きはしないかと恐れるときのような、いわば、払いのけることのできない恐怖であった。
理由のない恐怖であるだけ、それは彼のまったく予定しないところであった。彼はいったい何のためにこの恐怖が起こるかを見てみようとした。が、彼の、麻のように乱れた心は冷静に思考を巡らす余裕を与えなかった。
女の家からF 旅館まで、それはおよそ一里あまりの距離であった。彼はその間、どこをどう通って来たかを知らなかった。女を絞殺して女の家を抜け出したことまでは記憶してはいるが、その間のことはまるで白紙を見るように、何の印象も記憶も残っていなかった。ただ気がついて見ると、いつの間にか、F旅館の前に立っていたのである。
夜はだんだんとふけて行った。付近の物音が少しずつ減って行って、按摩の笛の声がいやに激しく彼の心に届いた。彼は見るともなしにあたりを見回した。と、薄暗い部屋の隅に、女の顔が幻覚となって現れた。
その顔! その美しい顔に執着を起こしたのがもとで、彼は遂に殺人の大罪を犯すに至ったのである。
(二)
彼女はもと、浅草、××劇場の女優で、一人の老婆と共に、殺されるまで、郊外のOという丘の家に住んでいた。
村田照子! その名は、いかにファンの間にもてはやされたことか、その村田照子の愛を独占した三年以前の彼、小泉五郎はいかに幸福であったことか。が、彼女は毒婦であった。彼女は芝居で、毒婦に扮装することが巧みであったと同時に、彼女自身が心からの毒婦であった。いわば、彼女は生地のままに舞台で活躍したのであるから、彼女の芸が真に迫ったのも無理はなかった。そして、彼女の美貌が、見るものを悩殺しないではおかなかったから、彼女の芸は凄いほど引き立ったのである。
その美しい彼女をわがものにした小泉五郎は、その頃得意の絶頂にあった。彼は静岡県の財産家の一人息子に生まれ、中学を卒業すると上京してW大学に入ったが、在学中に村田照子と関係し、ちょうどその時分、両親が相次いで没したので、彼は巨万の財産を相続し、あり余る金をもって照子と同棲し、愛欲の乱舞に日を送ったのである。
彼はもちろん大学を半途で退いた。そしておよそ一年余り過ぎて、ようやく眼が覚めて見ると、彼は親譲りの財産のことごとくを女に絞り取られて女に捨てられていた。ある日、女は、他に愛人を作って、彼を置き去りにして姿をくらましてしまったのである。
彼は血眼になって女の行方を捜したけれども、どこへ行ったか彼女の消息はさっぱり知れなかった。彼女は上海へ渡ったという説を唱えるものもあれば、ロスアンゼルスで彼女を見たと言うものもあった。
幸福の絶頂から、不幸の谷底へ突き落とされた五郎は、彼女に対する復讐を思い立った。すなわち彼は照子を殺そうと決心したのである。彼女がどこに居ようとも、彼は、彼女を探し出して殺そうと覚悟したのである。
その時の彼は、外国へ出かけるだけの金さえ所有していなかった。しかし、彼は照子が外国へなどは行くまいと思った。東京に異常な憧れを持っている彼女は東京のどこかに隠れて住んでいるだろうと直感した。で、彼は根気よく、東京市中を捜したのであるが、どうしても知れなかった。もちろん、照子の出ていた××劇場へも幾度となく尋ねに行ったが、その都度人の冷笑を買うばかりであった。
すべて人間の感情というものは、時間と共に薄らぐのが原則である。復讐のごときも、時日の経過と共にだんだん和らいでいく。ところが小泉五郎の復讐は決して尋常なものでなかった。彼の復讐はかえって一日一日に増して行ったのである。愛欲のヴェールに覆われて無我夢中になっていた頃が、日と共に後悔になってきたとき、それと同じ調子で復讐の念は肥大していったのである。
ところが復讐の対象たる照子はどこへ姿を隠したか知れなかった。そこで彼はとうとう一策を思いついたのである。想像力の豊富な彼は、村田照子をおびき出す方法を考え出したのである。
照子が久しく姿を見せないのは、彼の復讐を恐れたからである。と、想像した彼は、偽りの自殺をすることによって照子をおびき出すことができると考えたのである。しかも偽りの自殺をするということは、一方において、照子を殺した時に逮捕を免れる手段でもあった。自殺をしたものが殺人を行うことは考えられないことであるからである。
彼は自殺の場所として浅間山の噴火口を選んだ。
ある日、浅間山の噴火口の付近で、彼の遺書と遺留品とが発見された。遺書の中に彼は村田照子に捨てられて、悲観のあまり自殺することをこまごまと書き綴ったのであった。
すると果たして、彼の予期したことが起こった。新聞は、ちょっと大きな見出しで、小泉五郎の自殺を報じ、小泉五郎を自殺させた村田照子は、その後行方不明であると書いたのである。
五郎は自殺の狂言を行うと同時に、名を島木由三と変えて、東京へ舞い戻った。彼はなまじ髭を伸ばしたり、眼鏡をかけたりして身許をくらますよりも、そういう小細工をしないで、心をまったく島木由三という別人にしていればよいと思った。世の中の多くの変装者は、顔のみを変えて、心を別人にしないから、すぐ化けの皮が表れるのだ。世の中に瓜二つといってよいほど似た顔はたくさんある。だから、心さえ別人にしていれば決して化けの皮は表れるものでない。というのが、彼の想像力から割り出された議論であった。
彼はそれゆえ、これという変装をしないで、東京市中を歩き、村田照子の行方を捜索した。しかし照子はなかなか姿を現さなかった。彼は新聞の演芸欄に照子の名が出ていはしないかと熱心に探したが、それも駄目であった。
ところが、彼は遂に照子のありかを突き止めることができたのである。それは彼が照子に捨てられてから二年の後のことで、今日から約ひと月前のことである。すなわち彼女が、郊外のOという丘の家に、ある人の妾として、雇いの老婆と共に住んでいることを彼は発見したのである。
彼女が、それまでどこに姿を隠していたかは、もとより彼にはわからなかった。あるいは彼の直感した通り、東京のどこかに潜んでいて、彼が自殺したということを知って、もう安全だと思って姿を現したのかも知れない。あるいは人の噂のごとく、上海か、ロスアンゼルスの方へ、しばらく行っていて、もう帰ってもよい時期であると思って、出現したのかも知れない。
いずれにしても、照子のありかを突き止めたとき、しかも、彼女を他人の妾として発見したとき、彼の復讐の血は、にわかに沸騰し始めた。彼は一日も早く彼女を殺してしまいたいという衝動に駆られた。小泉五郎は自殺して居ないのであるから、たとえ警察が彼女と彼の以前の関係を調べて、小泉五郎に嫌疑を抱いても、自殺して居ない人間を犯人とみなすことはできないことである。だから、殺害の現場で取り押えられない限り、自分は絶対に安全である。こう考えると、彼は、ある種の殺人者がしばしば経験するような、犯行前の一種の陶酔状態に陥るのであった。
彼はまず照子の日常生活について、よく研究した。そしておよそ一ヶ月かかって、彼女の動静を探り、いつ殺害するのが、いちばんよいかということを知ってしまったのである。
彼は用心のために、田舎から、東京見物に来た風を装って場末のF旅館の一室に滞在し、三日過ぎた今晩、彼は照子の家に行き、老婆の不在な折を見て、家の中に忍び入り、電光石火の早業で、家の中にあった手拭いもって照子を絞殺し、そして、誰にも見られることなく、まんまと目的を達して、首尾よく、旅館に戻ったのである。
(三)
「十三番さん、お客様でございますよ」
部屋の真ん中に石化していた彼の身体は、こう言って障子を開けた女中の声に、ちょうど、ゴム毬の弾むように、座布団を蹴って飛び上がった。
「え? お客様って誰?」
「警察の人ですよ」
彼はぎょっとした。
「何?」
「まあ、そんなに顔色まで変えなくたってよいのですよ。このへんの宿には、よく淫売が入るといって、時々臨検があるのですよ」
「そうか」と、彼は初めて胸を撫でおろした。
やがてひとりの警官が彼の部屋の前に立ちどまり、
「島木さんですか?」と尋ねた。
「そうです」
「どうも、夜分遅くに騒がせてすみませんでした」
こう言って警官は女中と共に向こうへ行ってしまった。
しばらくすると、女中が布団を敷きにやって来た。
「まあ、あなたまだお休みにならなかったんですのね。随分お顔色が悪いですこと」
「警察の人なんか来て脅すからさ」
「だって、あれは仕方がありませんよ。それにこのへんは随分物騒ですから」
「物騷って、どんなことかい?」
「この間も、お隣りの宿に人殺しがありました」
「人殺し?」と彼は思わずも大きな声で叫んだ。
女中はびっくりして彼を見つめた。
「まあ、あなたは、男のくせに気が小さいですねえ」
「田舎ものだからさ」
こう言って彼は笑おうとしたけれども、どうしたわけか、その笑いが喉に引っかかって出てこなかった。
「お休みなさい」
女中は布団を敷き終わると、立ったままの彼に挨拶してさっさと出て行った。
彼は女中の無邪気な心が羨ましかった。今朝までは、今日の夕方までは、彼もまた無邪気であった。たとえ彼の心が照子殺害のために緊張していたとはいえ、恐怖感というものは特になかった。ところが今はどうであろう。
「警官」とか、「人殺し」とかいう言葉に対して、以前には何の恐怖も起こさなかったのに、今は心臓が左右位置を転ずるかと思われるほど強い反応を呼び起こすとは。彼は、自分の心の変化がいったい何にもとづくであろうかを知りたかった。しかし、それは無駄な努力であった。彼の混乱した頭は、思考の力を失い、畳の上に投げられた彼の影にさえ、彼は、一種の恐怖を覚えたのである。
それのみならず彼の幻覚は一層激しくなって行った。彼は自分の影に、絞首台にぶら下がった姿を認めた。壁一面に血痕が飛び散っているような幻覚をも起こした。彼はもうじっと立っていることができなくなって、畳の上をあちらこちらと歩き回った。すると、自分の足音が、言うに言えぬ不気味な響きを発したので、彼はとうとう、布団の上にごろりと横になって、頭を抱え、眼をつむった。
ふと身体に寒さを感じて、眼を覚ますと、彼はむくりと起き上がった。いつの間にか彼は眠っていたのである。起き上がって彼は、じっと耳を澄ましてあたりを見回した。世間はしんとして、これという音も聞こえなかった。時計を見ると二時半である。電燈の光がいやに黄色く見えて、彼は黄疸を病んだ時のような、重苦しい気分を感じた。
今頃はもう犯罪が発見されて、警察は東京中に非常線を張ってしまったに違いない。こう思うと、彼は息詰まるような感じを起こした。果たして彼等は犯人の見込みをつけたであろうか。何かの手掛かりを得たであろうか。
すると、彼は、何だか自分が大きな手抜かりをしてきたような気がしだした。どんな手抜かりをしたであろうか。と、色々、思い巡らしてみたが、もとより思い浮かぶはずがなかった。手抜かり! そんな事を一切するようなはずはない。自分がもし誰かに見つけられていたならば、今頃はとっくに逮捕されているはずだ。
しかし、彼は少しも落ち着くことができなかった。で、彼は、衣服を着たまま、寝間着に着換えることをもしないで、寝床の中にもぐり込んだ。そして、あちらこちら寝返りを打った。自分はもう永久に眠ることができないのかも知れない。というようなことさえ考えたのであるが、彼の疲労した神経は、いつの間にか、彼を苦しい眠りに引き入れてしまった。
彼が目覚めたときは、午前八時半であった。彼は手を叩いて寝床の中から女中を呼び、新聞を持って来させた。彼は、やがて運ばれた新聞を震える手に持って開いて見たけれど、殺害の記事はどこにも見当たらなかった。
彼は安心したような、また、極めて不安のような気持ちがした。ことによるとまだ犯罪が発見されていないかも知れない。こう思うと彼は布団の中にくるまったまま、穴へでも入りたいような思いになった。
彼は女中に向かって、今日は気分が悪いから、朝飯も昼飯もいらない、このまま晩まで寝床にいるつもりだが、夕刊が来たら、すぐ持って来てもらいたいと言った。そして彼は布団の中に深くもぐって、熱病にでも苦しんでいるかのように、ため息を漏らした。
眠るともなしにうとうとしていると、彼は女中の声にはっとして眼を覚ました。女中は約束通り夕刊を持って来たのである。
彼は布団の上に置かれた夕刊を、しばらくの間、手に取り上げなかった。やがて腫れ物にでも触るように、そっと取り上げて、仰向きになったまま開いて見ると、そこには四段抜きの大きな見出しで殺人事件が報じられてあった。
彼はそれを貪るように読み始めた。死体発見の顛末、臨検、死体検案のことなどが詳しく報じられてあったが、犯人についての記載はなかった。雇い婆さんと、照子の旦那が、召喚されて取り調べを受けているということのほか、これという注目に値することは書かれていなかった。無論、嫌疑が被害者と以前に関係のあった小泉五郎に掛かっているなどという文句はどこにも見えなかった。
彼は新聞の記事に幾度も繰り返して目を通した。しまいには眼がぼーっとし始めた。で、彼は新聞紙を畳の上に置いて、眼をつむって仰向いた。色々な光景が頭の中を往来した。照子の絞殺死体、それを発見した老婆の狼狽した姿、警官の顔、警察医の検査ぶりなど、代わる代わる眼の前に浮かんだ。
探偵は、犯人の手掛かりを得るために、照子の持ち物のすべてを探したことであろう。その中には小泉五郎に関係をもったものもあったに違いない。で、警察では彼の行方を尋ね、そして彼が自殺してすでにいないことを知ったであろう。
そうだ! 小泉五郎はもうこの世にはいないはずだ。自分は小泉五郎ではなく島木由三というまったく新しい存在ではないか。こう考えると彼は、むやみに恐怖することの愚かさが、われながらおかしかった。
彼はいくらか安らかな気持ちになって、布団を抜け出した。秋の日は暮れかけて、部屋には電燈がついた。彼は女中に夕飯を運ばせて、飢えを癒したが、さて、外出する勇気は少しもなかった。
当分、宿にいて形勢を観望しよう。新聞を見て、いよいよほとぼりの冷めた頃、静かに宿を出て将来の方針を立てよう。こう決心をして、彼はその夜から「籠城」を始めたのである。
あくる日の朝を待ちかねて、彼は事件がその後いかに発展したかを見ようとした。ところが新聞には意外にも、殺人事件の記事が、どこにも発見されなかったのである。彼は幾度も繰り返してすべてのページを探したが、それは無駄な努力であった。
恐らく、記事差止の命令を受けたのであろう。
それはいうまでもなく警察の一段の活動を意味しているのであるから、恐怖は再び頭をもたげた。警察は果たして有力な手がかりを得たのであろうか。万が一にも自分を逮捕しに来るようなことはあるまいか。
その日の夕刊にも翌日の朝刊にも、照子殺しの記事はなかった。それと同時に、彼のところへ訪ねて来る警官もなかった。彼は不安と安心との間を行き来した。
このまま、この事件は迷宮に入ってしまうであろうか。それとも警察では犯人を逮捕する成算があるであろうか。
この新聞紙の沈黙は彼の心をだんだん暗くして行った。この不気味な記事差止はいつまで続くであろうか。こう思うと、彼の心は少なからずいらいらした。といって、彼はどうすることもできなかった。ある時には彼は警察へ行って、事件が如何に発展したかを聞いてみたいような気になった。またある時には、照子の家の付近をさまよって、それとなく様子を探ってみたいような気になった。しかし彼はもとよりそれを敢えてする勇気がなかったのである。
こうした不安のうちに日は容赦なく経ったが、新聞の沈黙は依然として続いた。また、誰一人彼を訪ねて来る者はなかった。彼はもう大丈夫だと思った。いっそ、このF旅館を出て、大道を闊歩しようかとも考えたけれど、新聞に何か記事の表れるまでは何となく危険であるような気がしたので、この殺人事件に関する新聞記事が表れるまで、彼は旅館に滞在しようと決心したのである。
すると、彼の想像した通り、二週間ほど過ぎたある日の朝刊に、照子殺害事件の記事が突如として、四段抜きの大見出しで表れたのである。
(四)
「真犯人逮捕さる」
この言葉を読んだとき、彼は彼の眼を疑うほどびっくりした。しかも彼が、なお一層驚いたことは、犯人の写真として掲げられてある肖像に、まがいもなく彼自身の顔を発見したことである。換言すれば、その写真は、彼自身の写真にほかならなかったのである。
しかし、その肖像には、彼のまったく知らぬ名が記されてあった。
「小室淳一!」
しかもこの小室淳一は某会社員であって、郊外のR町十番地に細君と共に一戸を構えている男なのである。
新聞の記事によると、小室淳一はかねて照子の旦那の眼を盗んで、照子と情を通じていたが、最近女が変心したので、それを恨んで照子を絞殺したというのであった。
彼は何が何だかわからなくなった。新聞に掲げてある写真は確かに自分の顔である。少なくとも三年ほど前、すなわち照子と同棲していた頃の顔に生き写しなのである。してみるとこの小室淳一なる男は、自分に生き写しであるに違いない。自分には双生児の兄弟はいないから、おそらく他人のそら似であろう。それにしても、自分と同じ顔をした男を照子が情夫としていたということは、照子の性質として、確かに有り得ることであるから、小室が真犯人と認められたのも決して無理ではないかも知れない。
かくて彼の想像力は、この新聞記事を以上のごとく解釈することによって、彼にいく分かの安心を与えたが、それと同時に、真犯人が自分であるにも関わらず、小室が冤罪によって逮捕されたことは気の毒な思いがした。恐らく小室は無罪の証拠を挙げることができ、二、三日のうちには放免されるであろう。あるいは、ことによると、起訴されて公判を受けるかも知れない。こう思うと、彼は自分の身の危険を忘れて、一種の好奇心に駆られるのであった。
彼はその日の夕刊を待った。
ところが、夕刊には、この事件に関する一行の記事も発見されなかったのである。それのみならず、翌日の新聞にも、また翌々日の新聞にも、まるで忘れたかのように掲載されていなかった。すなわち、新聞は再び「沈黙」を始めたのである。
彼は、来る日も来る日も、新聞を探して、疲れると、いつも、先日の「真犯人逮捕記事」の載った新聞を広げて読むのであった。すると、その都度、自分に瓜二つと言ってよい小室や小室の細君がどんな人間であるかを知りたく思った。
小室は逮捕されてから果たして放免されたであろうか。小室の細君はどうしているであろうか。日を経るに従って、彼は小室の様子を知りたいという好奇心にだんだん征服されて行った。小室が有罪と定まらない以上、自分の危険は去らないけれども、もはや、その危険を顧みていられないほど、その好奇心は激しくなった。
で、遂に彼は、「真犯人逮捕」の記事を見てから五日目の夜、久しぶりにF旅館を立ち出て、郊外のR町十番地の付近へやって来たのである。
小室の家はすぐ知れた。新しい木の門標に、「小室淳一」の名が小さく電燈の光に照らされていた。門柱と玄関との間には植え込みがあって、家の中の様子はもとよりわからなかった。町とはいいながら、木森に取り囲まれた家が、彼方此方にあるだけで、あたりは人通りもなく、ひっそり静まりかえっていた。
彼は門の前に立ったまま、しばらく動かなかったが、もとより中へ入る気はなかった。で、彼は行き過ぎて付近の暗い木陰に身を寄せて、様子を窺っていると、突然、彼の後から、
「もし、貴方!」
と低い声で呼ぶものがあった。見れば、ひとりの女が、どこから来たのか、つかつかと彼のそばに近寄った。彼はあまりのことに、びっくりしてしばし言葉を発することができなかった。
すると女は、彼に近寄るなり、彼の手をぎゅっと握って言った。
「ああ、よかった! とうとう帰って来たのねえ。留置場を破って逃げて来たのでしょう? さっきから警官がうちへ張り込んでいるのよ。だから、わたしはここであなたを待っていたの」
彼は、確かに人違いをしているらしいこの女の言葉に何と答えてよいかわからなかった。しかし女は、それと知らず、なおも語り続けた。
「この二、三日、きっとあなたが逃げ出して来ると思って待っていたのよ。来ればすぐ高飛びができるように、もう汽車の切符まで買ってあるの。人殺しは無実の罪だけど、取り調べられた日には、二人の素性が知れて、事が面倒ですからねぇ」
この言葉を聞いて、初めて彼は、この女が小室淳一の細君で、彼を良人と間違えているのだとわかった。そして、小室淳一の写真が彼と瓜二つであることもよく了解することができるように思った。
「さあ」と女は彼の手を引っ張るようにして言った。
「ぐずぐずしていると、張り込みに来た警官に捕まるといけません。あそこの森の中で、二人で姿を変えましょう。変装の道具はここに持ってきました。あなたは盲人になるのです。そして私が手を引いて歩くことにしましょう。市中へ入ればタクシーを雇って停車場へ行きましょう」
彼は、あまりのことに、どぎまぎしながら、ただ女のなすに任せた。彼はうっかり口をきいて女に発見されるといけないと思って、ただ、「うん、うん」とうなずくだけで、何も言わなかった。しかし、女は逃走ということに心を奪われているのか、少しも疑うことなしに彼の手を引いてずんずん進んで行った。
彼は歩きながら、いろいろなことを考えた。想像力が強くて冒険の好きな彼は、むしろこの女の良人となりすまして、共に駆け落ちするのも面白いと思った。彼女のさっきの言葉によると、小室淳一は、表向きは会社員でありながら、その素性は彼女のそれと共にどうやらよくないものであるらしい。留置場を破って逃げるということによっても、小室が前科者であるらしいことが察せられる。いずれにしても、小室が今日、留置場を破って逃げた事は事実であって、ちょうどその日に、偶然自分が小室の家の様子を窺いに来たのも、何かの因縁である。と思うと、彼は何となく一種の愉悦を感じるのであった。
しかし、真実の小室に出逢ったら自分はどうなるであろうか。また、彼女が、人違いを発見したらどうなるであろうか。彼はそれを思うと、内心はらはらした。が、まあいい、成るがままにしよう。
いつの間にか二人はある森の中に入っていた。光といえば、ただ星の光だけであったがそれでも別に歩行には差し支えなかった。
「さあ、早速ここで変装しましょう」
こう言って女は風呂敷き包みから、何かを取り出した。「こちらへ顔をお出しなさい。眼鏡をかけてあげます。この眼鏡は黒い紙をレンズに張った塵除けですから、これをかければ、盲目同然になります。汽車の中へ入るまでは不自由でもあなたは盲目になっていらっしゃい」
眼鏡をかけ終わると彼女は更に、
「それからこれが、折り畳みのできる杖です」と言って、彼の手に金属製の杖を握らせた。
「これから私もちょっと変装します」
こう言って彼女は、しばらくの間、何事をか行った。
「もうこれで大丈夫。少し歩きにくいかも知れないけど、しっかり私の手につかまっていらっしゃい」
初めのうち、何だかとぼとぼして歩きにくかったけれども、間もなく彼は馴れてしまった。
およそ五、六丁(約550~650m)歩いたと思う頃、多少繁華な町へ出たのか、かなり人通りが多かった。人中を歩くことは、多少気が引けるように思われたが、塵除け眼鏡をはめているということは、彼女に正体を発見される恐れがないから、至極好都合であった。事実、彼女は、明るい街に来たにも関わらず、人違いを発見しなかったのである。
やがて、彼女は一台のタクシーを見つけて呼んだ。タクシーが来ると、彼女は彼を助け乗せ、何やら運転手に告げて、彼と並び腰かけた。
「人のあまりいないS停車場から乗ることにしました」
やがて自動車は、快速力を出して走った。彼は身体を上下に揺られながら、愉快な気持ちに浸かった。後ろ暗い過去を持つ女と冒険することは、今の彼にとってはむしろ望ましいところであった。たとえ人違いがわかったとて、笑って済むだけである。そう思うと、彼は、照子を殺したことなどすっかり忘れて、将来に出逢うであろうことの数々をそれからそれへと夢想するのであった。
やがて自動車は止まった。
彼女に手を引かれて降りてみると、あたりは比較的しんとしていた。
「さあ、こちらへいらっしゃい。待合室へ行きましょう」
彼は彼女に手を引かれたまま、建物の中へ入って、ベンチに腰を下ろした。
「この通り切符はもう買ってあるのですよ。ちょっとこれを持っていてちょうだい! はばかりへ行ってきますから」
こう言って彼女は、彼の手に二枚の切符を握らせながら、彼のそばを去った。
ところが彼女はいつまで経っても帰って来なかった。そして停車場らしい物音が少しも聞こえなかったので、彼は初めて不審を起こしたのである。
急いで彼が塵除け眼鏡を取って見ると、待合室と思ったのは、二坪ほどの狭い部屋で、そこには誰ひとりおらず、電燈がかすかに照っているばかりであった。
はっと思って、彼は手に持たされた汽車の切符を眺めた。するとそれは二枚とも小形の名刺であって、その一枚には、
警視庁女探偵、廣井百合子
と書かれてあり、もう一枚には、小さな文字で、裏と表に次の言葉が書かれてあった。
「小泉五郎さん。ここは××署の一室です。あなたは旧名村田照子の殺害犯人として逮捕されました。小室淳一は架空の人物で、新聞紙上の写真も、R町十番地の家も、みなあなたを引き寄せるための計略に過ぎませんでした。被害者の家で私たちはあなたの写真を発見して、あなたに嫌疑をかけたところ、自殺なさったとわかりましたが、女の直感によって私は、あなたが生きていると断定しました。それと同時に犯人はあなたよりほかにないと思って、あなたを誘い出す手段を講じました。この文句は、あなたが逮捕されることを信じて、あらかじめ書いておきます」