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更新日:2021年10月30日公開 印刷ページ表示

直接証拠(大正15年発表)

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(一)

 

××大学工学部教授、西村純一博士が、高利貸岩井仙吉を殺害しようと決心したのは二ヶ月前のことであった。五千圓の借金は到底支払うことが出来ず、それかといって、これまでに築き上げた名誉と地位に傷をつけたくはなかったからである。ひそかに教室の実験用の器械を抵当に入れたのは、返す返すも失敗であったが、今更どうすることも出来なかった。

博士はまだ独身であって、両親も兄弟も、その他何の係累とてなかったが、自分の身体と名誉を愛することはほとんど狂的と言ってよい程であった。学生時代から頭脳は人並外れて優秀であったが、両親の愛というものを知らなかったために、その心は極めて冷ややかであった。そして、いかに頭脳が優秀でも身体が弱くては何にもならないことを知って、学生時代から衛生に注意し、借金したのも実は、うまいものを食べたいためであった。しかしながら決して酒や煙草や女には近づかなかった。酒や煙草や女は身体を損なうものと解釈したからであって、ひたすら、各種のスポーツによって身体を鍛え、三十三歳の今年、二十貫に近い堂々たる体格を所有することが出来たのである。

大学を卒業してから二ヶ年間S教授に従って毒ガスを研究し、後二ヶ年間海外留学を命ぜられ、帰朝後論文を提出して工学博士となり、翌年教授に任ぜられた。その間に、岩井から借りた金はだんだん殖えて、遂に今年になって五千圓(※現在の価値で約四百万円)に達したのである。五千圓の金は、他から借りられないことはなかったけれども、極端なるエゴイストの常として、他人に頭を下げることに、いかにも堪えられない侮辱を感じるのであった。それかといって、俸給からあまし出すことは出来ず、しかも利子は加速度をもって殖えて行き、ことに最近、岩井から抵当物の処分をすると脅かされたので博士は遂に岩井を殺害しようと思い立ったのである。

頭脳の明晰な西村博士は、この二ヶ月間、犯罪学の書物や刑法の書物を読んで「殺人」について研究した。氏は殺人者の伝記を読んだとき、ハーヴァード大学の化学教授ウェブスター博士が友人のパークマン氏から金を借り、せっぱ詰まって教室で殺害し、死体を焼却した事件を知って、苦笑せざるを得なかった。何となれば、博士もおぼろげながら、岩井を教室へ呼び寄せて殺そうと思っていたからである。しかし博士はウェブスター教授のごとき、まずい事は決してやらないつもりであった。ウェブスター教授は死体を切断して、一部分ずつ暖炉で焼却したが、全部を焼き尽くさないうちに教室の小使のために発見されてしまった。その時すでに頭部は焼き棄てられてあったが、灰の中に義歯が残っていたため、それによってパークマン氏であることがわかり、教授は逮捕された。また西村博士は農学士山田某の犯罪にも苦笑した。何となれば、やはり、あの事件も自分と同じような動機によって行われたからである。山田学士は鈴木某を自宅へ呼び寄せ、ベースボール用のバットで撲殺し、しかる後死体を切断して行李詰めにし、郷里の河に投じたが、直ちに発見され逮捕され、遂に刑場の露と消えてしまった。何というまずい計画であろう。この二人に限らず、多くの殺人者の失敗は、いずれも死体の処置の不完全によっていることを博士は知ったのである。

人を殺しても、その殺された死体が発見されなければ、罰せられることはないのであるから、問題はただ死体を完全に消失させればよいのである。無論死体を完全に消失させても、法律上、いわゆる直接証拠があれば、やはり刑罰を受けねばならぬかもしれないが、直接証拠を無くすることは、死体を無くするよりも容易であるはずであり、また、死体を完全に無くしさえすれば、被害者が生死不明ということになるから、何よりもまず死体の処置に全力を注ぐべきであると博士は考えたのである。

博士はもちろん、良心の呵責ということについても考えて見た。多くの殺人者は良心の呵責に堪えかねて色々なヘマを行い、また、自首するのであるが、博士は自分の心を振り返って見て、良心の呵責などはありそうにないと思った。良心の呵責に苦しむようなものは、人間が弱く出来ているからであろう。ラスネールはどうだ。ランドールはどうだ。彼等には毛頭もさような現象は見られなかったではないか。自分の神経も恐らく彼等と感じように出来上っているつもりだ。スポーツで鍛えた神経は良心の呵責に堪えられないほどデリケートではないはずだ。でもラスコルニコツフは凶行前までは、自分と同じような考えでいたが、いざ殺人を行って見ると、良心の責め苦に逢った。しかし自分は決してラスコルニコツフではない。自分の最も大切な名誉を保護するために、その最も大切な名誉を賭して取り掛かる仕事である以上、自分は恐らくいまだかつてないほどの冷静を保ち得るであろう。

かくて殺害の計画は整ったのである。博士は五千圓の金を大学で御渡ししたいから、来たる六月×日土曜日の午後、証文を持って来てくれと岩井仙吉を呼び寄せたのである。土曜日は午前で終わるのであるから、誰もおらず、殺人には極めて好都合であった。

 

(二)

 

凶行は博士の階下の実験室で手早く行われた。博士は自分にマスクを掛け、岩井に毒ガスを嗅がせると、岩井はうんとも言はず数秒で絶命した。博士はまず彼の衣服を脱がせて炉に投じて焼き払い、帽子、こうもり傘、下駄をも運んできて焼いてしまい、金属製のものはるつぼで溶かした。それから三和土の床の上で動物解剖用の道具をもって死体を切断し、かねて拵えておいた苛性ソーダの濃厚な溶液に投じて溶かし、溶かした液はこれを薄めて流してしまい、歯は別に器械をもって粉砕し、およそ三時間掛かって、岩井仙吉を、完全に、この世の中から消滅させてしまったのである。もちろん、岩井の持ってきた鞄の中には、博士の関係した証文以外に色々なものがあったが、それもことごとく灰となってしまい、床の上の血も薬品と水とによって完全に洗い去られてしまった。

かくて凶行は計画された通りに遂げられたが、ここにたった一つ、西村博士の予期しないことが起こった。それは何であるかというと、死体切断の際、血のついたメスの先で、誤って左の食指の先端の外側をわずかに二分ばかり傷つけたことである。冷静な博士も切断中はかなりに緊張していたと見え、死体の処分や、床上の血痕の掃除などを終わって、手を洗い、はじめて血が滲み出ているのに気付いたのである。痛みも別に感じないくらいであったが、博士は念のために絆創膏を貼った。

予定の中に入れていなかったこととて、いささか気にならないではなかったが、しかし、これが直接証拠になるはずはないと思った。手に傷をしたことが死体を切断した証拠にならないことは、ちょうど、かのランドールが裁判官に向って「ストーヴの存在することが、死体を焼いた証拠とはなりますまい」 と皮肉を言ったのと同じである。こう考えると博士の顔には軽い笑いが浮かんだ。そして博士は、ホッと溜息をつきながら、教授室に入り安楽椅子にしばらく身を埋めて一休みし、やがて姿見鏡の前で、服裝を検査し、何食わぬ顔をして教室を出たのである。

兇行の後、博士は、悔恨の情どころか、一種の快感をさえ覚えた。ちょうどそれは、難しい論文を書き終ってほっとした時の気持ちに似ていた。ただ、常にない疲労を感じたので、女中と二人暮しの家に帰るなり、夕飯も食べずに寝てしまった。夕飯も食べずに寝るということは何かの証拠になりはしないかと思ったが、こうしたことはありがちであるから、安心して眠りにつくことが出来た。

翌日はいつもより三十分も余計に寝過ぎた。博士は多くの殺人者が、兇行後、被害者の夢を見ることを思い浮かべ、自分がぐっすり寝たことにむしろ不審を抱くぐらいであった。そして、これはやはり自分の神経がしっかりしているためであると考え、我と我が冷血性を賛美せずにいられなかった。

夢には見なかったけれども現実の博士の頭には、岩井仙吉の記憶がまざまざと浮かんだ。油ぎった皮膚を持っていながら、小柄な痩せた体格の持ち主で、額は禿げ上り、目は狡猾そうに輝き、常に口元に意地の悪い笑いが浮かんでいた。六十歳になるまで独身で暮らしたのも、妻帯すれば金が要るからだと語っていたくらいの男で、涙などはどこにもなく全身これ貪欲の塊と言ってよい程であった。それにも関わらず彼が大学を出たばかりの医学士を養子として迎えたことは不思議な点であったが、恐らく、利にさとい彼は、その医学士に開業でもさせて、うんと儲けさせるつもりであったかも知れない。

博士は日曜日の午前中、岩井仙吉に関するとりとめのない考えに耽っていたが、ふと気がついて、心の内で言った。

「いけないいけない。こんなことを考えるのは、やはり殺人というものの、一種の後作用であるかも知れない。後作用があるところを見ると自分の冷血性は徹底的でないかも知れない。危険だ。危険だ。忘れよう。忘れよう・・・・・・」

 

(三)

 

月曜日の午後、二人の警官が西村博士をその教室に訪ねた。博士は、いよいよ来たな、と思いながら、応接室に招き入れた。

「はなはだ突然でございますが、岩井仙吉さんが、土曜日にこちらをお訪ねしませんでしたか?」と背の高い方の警官は言った。

「見えましたよ」と博士は冷静に答えた。

「何時頃でしたか?」

「そうですねえ、三時頃でした」

「それからいつ帰りましたか」

「四時少し前だったと思います。岩井さんがどうかしましたか?」

警官は今一人の警官と、チラと眼を見合わせた。

「実は土曜日から行方不明なのです」

「ほう、そうですか、どこへ行ったのでしょうか?」

警官は言いにくそうにしていたが、やがてポケットから一枚の紙片を取り出した。

「失礼ですが、ちょっと教室を捜索させて頂きたいので、この通り令状を・・・・・・」

「ああなるほど、どうぞゆっくり捜して下さい。御案内しましょう」と博士は無雑作に立ち上った。

「一昨日、岩井さんとはやはり応接室でお会いでしたでしょうか?」

「いいえ、実験室へ来てもらいましたよ」と、いかにも淀みなく博士は言った。博士は正直に答えることが、最も安全な策であることを、知っていたのである。

「では、実験室から拝見させて頂きます」

二人の警官は、一昨日殺害の行われた実験室に入って、拡大鏡を取り出しながら、無言で隅々を捜しまわった。博士は心臓の鼓動さえ高めることなしに、彼らのなすところを見守ることが出来た。彼らは血痕がありはしないかと三和土の床の上を綿密に調べたが、もとより、何の発見もなかった。それから、教室の各室を調べ、最後に如才なく下駄箱の中をさえ捜したが、証拠となるものは何もなかった。

再び応接室に戻ってから、背の高い方の警官は言った。

「岩井さんは何の用でお伺いしたでしょうか?」

「借金を返済するために、こちらへ来てもらいました」

「岩井さんはその金を受け取って帰りましたか?」

「そうです」

「その金はいくらでしたでしょうか?」

「五千圓です」

「現金か、あるいは小切手でお払いになりましたか?」

「現金です」

「証文はお持ちでしょうか?」

「不要になったから焼いてしまいました」

しばらくして、他の警官が言った。

「失礼ですが、その指はいつ御怪我なさいましたか?」

「一昨日です」と博士は絆創膏の貼ってある左の食指をわざと前に突き出して答えた。

警官は皮肉な笑い方をして言った。「解剖用のメスで傷つけられたのではありませんか?」

「よくあたりましたねえ」と博士も笑った。

「そのメスを拝見出来ないでしょうか?」

「よろしいとも」こう言って博士は実験室へ行き、岩井の死体の切断に用いた解剖用の道具を持って来て見せた。

警官はメスを手に取って拡大鏡で調べた。

「だいぶ刃がこぼれておりますねえ」

「度々使いますから」

「何に御使いになりますか?」

「毒ガスの実験に使用する動物の解剖に用います」

警官はいかにも軽い調子で尋ねた。「これで人間の死体を解剖なすったことはございませんか?」

「まだありません」と博士は顔色も変えないで答えた。

やがて警官は辞し去った。警官を送り出した博士は心中で言った。

「ふん、どんなに彼等が冷血性でも、とてもおれには及ぶまい・・・・・・」

 

(四)

 

新聞は高利貸し岩井仙吉が行方不明になったことを報じた。工科大学に西村教授を訪ねて以来、誰も顔を見たことがないというので、世間の視線は西村博士に集まったが、博士は、どこを風が吹くと言わんばかりの態度で、毎日教室に出勤した。警察では一方に岩井の行方を捜し、一方に西村教授を監視し、大学の教室を始め、西村教授の自宅をも再三捜索したが、何一つ証拠を得ることが出来なかった。このため岩井が生きているか死んでいるかさえもわからなくなり、警察では岩井自身の出現するのを待つか、または死体の発見されるのを待つよりほか、なすべき手段がなかった。

岩井家に養子に迎えられた若い医学士、岩井春雄は、女中と共に養父の行方を気づかいながら、度々警察へ行って、その後の事件の進展を尋ねるのであった。養父は金銭の貸借関係のことを平素少しも春雄君に告げなかったので、西村教授に貸金のあったことも、警官から聞いたくらいであった。春雄君は皮膚科の教室に勤務していたが、養父が行方不明となってからは、一時休暇をもらって、自分で、警察と力を合わせて、養父の運命を探ろうと決心した。春雄君は学生時代から犯罪学に興味を持ち、大学を卒業したならば、法医学を修めようと思ったのであるが、岩井から懇望されて養子となり、皮膚科学を修めることにしたのである。春雄君の実父は岩井の友人で、岩井から金を借りていたので、主として父を救うために、春雄君は養子となったのであるが、住み込んで見れば、養父は決して世間で評判するほどの無慈悲な人間ではなく、深い理由があって、冷静な性質となったのに過ぎなかった。ことに春雄君に対しては、実父にもまさる程の親切を尽くしてくれたのであるから、こうして行方不明になって見れば、何をさし置いても捜し出すことに全力を尽くそうと決心したのである。そこで、金庫を開けて、貸借関係のある先を取り調べ、警察の人々に探ってもらったのであるが、ようとして消息は知れなかったので、いよいよ養父は殺されたに違いないと思うに至った。しからば養父は誰に殺されたのであろう?

養父が西村博士を訪ねて以来行方不明になったことから考えて見れば、まず西村博士を疑わなければならない。ことに警官の話すところによると、当日は五千圓の現金を渡すために呼び寄せたということであるし、なおまた、西村博士が養父の訪ねた日に、左の食指を、しかも解剖用のメスで傷つけたということも、はなはだ怪しむべき事情である。けれども肝心の直接証拠がないから、警察でもどうすることもならないのである。恐らく、西村博士は養父の死体を完全に消失させたがため、わざとそういう怪しい事情を警官に示したものであろう。して見ると、西村博士はよほどの怪物でなくてはならない。よし、そういう怪物であるならば、どこまでも戦ってやろう。そうだ、敵を征服するには、まず敵に近づいておかねばならない。こう考えて、春雄君は養父が行方不明になってから二週間の後、西村教授を大学に訪ねたのである。

岩井医学士はまず応接室に通された。

「父は実験室でお目にかかったそうですから、実験室を拝見できないでしょうか?」

「どうぞ」こう言って博士は気軽に案内した。岩井学士はあたりを見まわして言った。

「どうも父がまだ、この部屋にいるような気がしてなりません」

「と言うと、この部屋で殺されなさったと言うのですね?」

「はあ」

「そして、私が殺したと言うのですね?」

「はあ」と、学士は博士の顔をじっと見つめた。しかし、博士の顔はびくともしなかった。春雄君は、博士が思ったよりも遥かに強い人間であることを知って驚いた。

「しかし、証拠がないじゃありませんか?」

「証拠は取り除けば無くなります」

「無くなればやはり致し方がないじゃありませんか?」

「だから、取り除かれた証拠を見つけ出そうと思うのです」

「どうか遠慮なく見つけて下さい」

「いえ、ここで見つけようとするのではありません。証拠を見つけるためには、それだけの資格がなくてはならんと思いますから、まずその資格を作ろうと思います」

「ほう、それはどうするのです?」と、博士はさすがに不審そうな顔をした。

「私はまず法医学を修めようと思うのです。ことに殺人の行われた部屋そのもの、性質を研究して見ようと思います」

「それは面白いですねえ」

「時に、」と学士は博士の左手に目を注いで言った。「父がお訪ねした日に、食指に傷をなさったというのは本当ですか?」

「そうです」こう言って博士は、岩井学士の目の前に左手を差し出した。傷はもとより治っていて目に見えるか見えぬくらいの瘢痕があった。

「なる程、これが、父の死体を切断なさる時に出来た傷ですか?」

「そうじゃありません。その日の朝出来たのです」と、まるで世間話をしているような態度で博士は答えた。

「いや有難うございました。何だか、直接証拠が見つけられるような気がして来ました」

「それは結構です。どうです、これからすぐその直接証拠を見つけられては?」

「さあ、それは少々困難だと思います。五年掛かるか、十年掛かるか、私の研究次第だと思います」

「そうですか、そんな気の長いことですか」

「まったく気の長い話です。しかし私も養父には、ひとかたならぬ恩を受けておりますから、証拠を見つけるまでは、何年掛かっても研究を続けたいと思います」

「大いにおやりなさい」

「そして、幾年かの後、あなたが犯人であるということを見届けるのは、きっと愉快だろうと思います」

「定めし愉快でしょう。しかし、そうなると私はあまり愉快ではありませんねえ。が、反対に何年過ぎても証拠が上がらないとなると、それを見ていることは、私に取って愉快この上もありませんねえ」二人は苦笑した。しかし二人の心は水火の如く争っていた。

 

(五)

 

一月過ぎ、二月過ぎ、三月過ぎても、養父は姿を見せなかったので、岩井医学士は、養父が殺されたことを確信すると同時に、西村博士を憎む情が日増しに激しくなった。

岩井学士は、西村博士に告げたごとく、皮膚科教室を辞して法医学教室に入った。しかし、法医学を修めることは実は直接証拠の探究のためではなくて、年来の希望を果たすに過ぎなかった。けれども、西村博士が養父を殺したという直接証拠は必ず見つかるであろうと思った。否、見つけねばやまないと覚悟したのである。

半年を過ぎたある日、春雄君は西村博士を訪ねて、実験室で話した。

「どうです、研究は進みましたか?」と博士は気軽に尋ねた。

「いや、中々進みません」と春雄君は相手の顔を見つめて言った。「昨今、血痕の研究をやっております。私の考えでは、一度血液が物体に付いたならば、たとえ拭い取り洗い取った後でも、必ず反応を示すだろうと思い、その反応を研究しておるのですが、中々容易ではありません。もし成功したならば、この実験室の物体を検査させて頂こうと思います」

博士はチラと床の上に目をやった。「そうですか。それは面白い研究ですねえ。しかし、たとえ、この実験室の物体に人間の血液の付いた痕を証明したとて、必ずしも、お父さんがここで殺されなさったという証拠にはなりませんですねえ」

「仰せの通りです。いや、私はただ、私の研究の経過をお話ししに来たばかりです」

実験室を辞し去った学士は心の中でつぶやいた「ふん、辛抱くらべだ。そのうちには、あの冷血そのもののような顔に、恐怖の色を浮べさせないでおくものか」

更に半年が経過した。警察はもはや手を引き、世間はこの事件を忘れた。今や、西村博士と岩井学士との二人きりの戦いとなった。

「どうです。血痕の研究は?」と、岩井学士の訪問を受けた博士は尋ねた。

「なかなか思わしく進みません」

「早く完成したいものですねえ」

「まったくです。しかし近頃は少し方面を変えて人相学、ことに殺人者の人相の研究をしています」

「ほう、それは面白いですねえ。どうです、私は殺人者らしい人相を備えていますか?」

博士はわざと顔を近づけ、じっと睨んで言った。「あなたの目は確かに殺人者に定型的なものです」

「そうですか。それじゃ、これから人を殺す運命にあるのですね?」

「いいえ、その目は既に殺人を行ったタイプです」

「そうですか。しかし、そうかと言って私がお父さんを殺した直接証拠にはならないようですねえ。」

「無論そうです」

岩井学士が去ってから西村博士はつぶやいた。「いつまで過ぎたって、何の研究が出来るものか、それに時を経れば経るほど直接証拠は稀薄になるのが定則ではないか。我輩の神経は、岩井学士ぐらいのために、ビクともさせられるものではない」

それから一ヶ年の後、岩井学士は例の如く西村博士を訪ねた。

「どうです人相学の研究は?」と、博士は尋ねた。

「近頃はまた方面を変えて、殺人者の罹る病気について研究しております」

「それは面白そうな研究ですねえ」と、博士は常になく目を輝かせて言った。「で、殺人者はどんな病気に罹るものですか?」

「言うまでもなく、殺人者は大部分死刑に処せられますから、無期懲役その他のものについての統計を取って見ますと、一番多いのが胃癌、その次が肺結核です」

これを聞いた博士は妙な表情をした。「そうですか、胃癌とは痛快ですねえ。しかし、殺人者の病気と直接証拠とはどういう関係があるのですか?」

「もちろん何の関係もありません。仮にあなたが胃癌に罹られたとしても、あなたが殺人者たる証拠にはなりません。けれども、もし胃癌に罹れば、それで万事解決されたと同じではありませんか。殺された者も冥するでしょうから・・・・・・」

学士が去ってから博士はつぶやいた。「要するに何の研究も出来ないのだ。しかし、病気のことを言い出されたのは少々心にこたえた。おれは身体と名誉とは世界中で何よりも一番愛するからなあ。なあに、おれは、胃癌や肺結核に襲われるような体質じゃないんだ」

帰途についた岩井医学士の顔には微笑が浮かんだ。「有望だぞ。病気の話をしたらさすがに顔色が変わった。今にもあの顔の色を極度に変化させてやろう。いや、まったく有望だ!!」

 

(六)

 

二年の後、岩井医学士は西村博士を訪ねた。養父が行方不明になってから実に四年の歳月が流れたのである。

「久しぶりですねえ。どうです研究の方は?」

「やっておりますよ。実験が忙しいもんですから、ついついご無沙汰いたしました」と言って、学士は博士の顔や身体をじろりと眺めた。「近頃はまた方面を変えて実験病理学の研究をやっております」

「どんなことをするのですか?」

「兎やモルモットに黴菌を植えてから病気の起こる日数を研究するのです。例えば結核菌を、皮膚にすり込んだり、空気とともに吸わせたり、あるいは血液の中へ直接注射したりして見ますと、直接血液の中へ入った時が一番早く発病します。どんな潜伏期の長い病原菌でも、血液中に入ると、かなりに早く発病します」

「それが直接証拠とどういう関係がありますか?」

「もちろん、何の関係もないはずですが、ただ例のごとく、研究のお話を申し上げたのに過ぎません。それに、近々私は欧米に留学しようと思います」

「ほう、そうですか、やはり直接証拠の研究ですか?」

「まあそれに関連したようなことです。主として精神分析学と催眠術とを研究して来ようと思います」

「なるほど、精神分析学で殺人者の精神を分析したり、殺人者に催眠術をかけて白状でもさせようというのですね?」

「そうとは限りません」

「とにかく、まあ十分研究して来て下さい。何年滞在の予定ですか?」

「三年の予定です」

「お体を大切に」

「ありがとう存じます」

岩井学士の洋行中、西村博士は一年に一度の割で、絵ハガキを受け取った。そのいずれにも

「帰朝すれば、必ず直接証拠を発見します」という文句が書かれてあった。前の二度は、これを受取ったとき、「ふふん」とあざ笑ったが、三度目には、いよいよ不日帰朝すると書かれてあったために、常になく興奮を覚えたのである。

もっとも、博士が興奮を覚えたのには、他に重大な理由があった。三度目のハガキを受け取ったのは一月の半ばであったがその年は常にない寒さであって、左手に少しばかりの霜焼けができたからである。しかも激しい寒気がいつまでも続いて、容易に治らず、人一倍健康を気にする博士は、そんな些細なことにもかなりに気を腐らせていたのである。

「果たして、岩井は直接証拠を見つけるであろうか?」常になく、そんな疑問さえ心に浮かんだ。そして岩井学士に逢うことが何となく厭に思われた。

「これはいけない」と博士は絵ハガキを切れ切れに裂いて言った。「おれには強い神経があるはずだ。殺害してからもう七年にもなるではないか。どんなに欧米で研究して来ても、直接証拠は見つかるまい。そうだ、早く逢って、大いに嘲弄してやろう」

 

(七)

 

それは、 肌の凍るような2月上旬のある日のことであった。洋行から返った岩井学士は、約束のごとく、実験室に西村博士を訪ねた。学士は果たして約束通り直接証拠を見つけることが出来るであろうか?

「これは久しぶりですねぇ」

こう言った博士の声は常に似ず力がなかった。またその顔には何となく元気がなかった。岩井学士ははっと思い、

「まったくのお久しぶりです」と言いながら博士の顔をじっと見つめ、それから身体中を眺めたが、博士の左手を見るなり急にその目は輝いた。

「おや、 左手をどうかなさいましたようですねぇ」と学士は興奮のため、声を震わせて尋ねた。

「今年は寒いものですから、霜焼けができたのです。時に直接証拠は発見できましたか?」

岩井学士は、胸に手を当てなければならないくらい興奮した。

「とうとう直接証拠を発見しました!!」

「え?」とさすがの博士も少し顔の色を変えた。

「ああ、常になく驚きましたね? こうなると失礼ながら勝利はこちらのものです」と学士は意地悪そうに博士を見つめた。

「どこに証拠があるのです?」と、博士は声を絞るように言った。

「証拠はあなたのその霜焼けです!」

これを聞くなり、博士は思わず左手を後ろに引いた。サッと血の気が顔から去った。

「西村博士、その霜焼けこそ、あなたが父を殺された直接証拠なのです。私は今日のこの日をどんなに待ったことでしょう。法医学教室での研究も、外国での研究も、すべてはあなたのいわゆる直接証拠とは無関係だったのです。あなたは法律上の直接証拠を意味しておられたでしょうが、私は医学上の直接証拠を意味していたのです。あなたのような冷血的な殺人者に対して法律上の直接証拠を挙げ得ないことは始めからわかっていました。ただ私は医学上の直接証拠が必ず得られるという希望を、始めから持っていたのです。五年過ぎるか十年過ぎるかわからないが、とにかくそのうちには証拠が現れて来るだろうと信じておりました。この希望と確信とを持ち得るものは、養父の秘密を知っている私以外に、この世に一人もありません。私の養父には恐ろしい病、すなわち癩病がありました。養父が冷たい性質であったのもそのためですし、私が養子に迎えられて皮膚科を修めたのもそのためです。私は毎日、養父に昇汞水※の注射をして、かろうじて病気が外部に現れることを防いでいました。それゆえ養父の体内には癩菌が一ぱい繁殖していたのです。

ところがあなたは養父を殺して死体を切断し、その際指を傷つけられました。いかに聡明なあなたでも医学を修めておられないために、それには気づかず別に特種の消毒を施されなかったでしょうから、癩菌は傷口から血中に入ったに違いありません。そこに私は希望を抱いたのです。かつて私は、実験病理学のお話をして、血中に入った黴菌は、早く病を起こすことを申し上げたつもりですが、癩菌の如きは、潜伏期が十数年または数十年も掛かるのが普通でして、血中に入った場合はどれだけ掛かるか、私も知りませんでしたが、今日初めて七年掛かるということがわかりました。時々お目にかかりに伺ったのは、あなたに癩病の症状が現われて来やしないかを見るのが主な目的で、研究の話は付け足しだったのです。私は皮膚科にいまして、癩病を研究しておりましたから、癩の症状は一目でわかりますが、あなたのその霜焼け様の皮膚の変色は癩病の定型的症状です。これが直接証拠でなくて何でありましょう。これでお約束通り直接証拠を御目にかけることが出来、養父に対する義務を完全に果たしました。あなたは法律上の死刑よりもなお一層怖ろしい刑罰を受けられることになりました。ではもうこれで再び御目にかかる必要はなくなりましたから永久にお別れ致します・・・・・・」

絶大なる恐怖のために、椅子の中に身を埋めた博士を後に残して、岩井医学士は、極めて、軽快な歩調で、教室の門を出た。

翌日、西村教授が、教室で毒ガスを吸って倒れているのが発見された。人々は自殺か過失死かの判断に迷ったが、岩井学士だけは、教授の死の真相をはっきり知ることが出来た。

 

 

昇汞水(しょうこうすい)・・・昇汞(塩化第二水銀)と食塩とを等量に混ぜ、水で約千倍に薄めた溶液。作中の時代、殺虫剤や消毒液、防腐剤として使われていたが、毒性が強いため、現在では使用されていない。

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