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更新日:2024年10月31日公開 印刷ページ表示

物言う林檎(昭和2年発表)

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(一)

 

皆さんは、英国の数学者アイザック・ニュートンが、林檎が落ちるのを見て、地球の引力に考え及び、遂に万有引力の法則を発見したことをご存じでしょう。それは今からおよそ二百五十年前のことでありますから、ニュートンより以前に林檎が木から落ちるのを見た人はどれくらいたくさんあったか知れません。それなのに、それらの人々はそのことから、地球に引力があるということに考え及ばなかったのであります。換言すれば、ニュートンだけが、林檎の語る秘密を聞いたわけであります。林檎は平等に、すべての人に向かって、「私の落ちるのは地球の引力によるのです」と語っていたのですが、残念ながら、ほかの人たちは、その林檎の語る言葉を聞き分けることができなかったのであります。

私たちはお互いに、事物の語る秘密を聞き取るだけの力がなくてはなりません。優れた学者になるにはもちろん、私たちが世渡りをするにあたって、いかなる場合でも、この能力は必要なものであります。で、私はこれから、みなさんに事物の語る秘密を、どんな風に聞き出すべきかということについて、ひとつのお話をしようと思います。それは偶然にも林檎に関係したことでして、ある犯罪の現場に残された、食べさしの林檎から、探偵が、見事に犯人を推定したというお話であります。

 

(二)

 

事件は麴町の露本という、某会社の重役の家に起こった悲劇でありまして、その露本家の一人娘のさだ子嬢が白昼何者かに絞殺されたのであります。

それは五月の第一日曜日の午後でした。外出した女中が五時頃に帰って来ると、今年二十歳になるさだ子嬢が、奥の客間の畳の上に無残にも仰向きに死んでいたので、びっくりして、電話で警察へ告げ、警察からは、時を移さず、係の人が駆けつけて、現場の臨検に取り掛かったのであります。

探偵の主任となって来たのは、最近その名がしきりと響き渡った常岡氏であります。氏は現場の検査に取り掛かる前に、死体を発見した女中のお時に、露本家の現在の事情を簡単に尋ねました。

主人の露本氏は、今朝、大磯の別荘に滞在中の夫人を見舞いに行き、夜遅く帰る予定でありました。夫人はこの春から腎臓炎に罹って、別荘で静養中だったからです。で、あとには令嬢と女中と今年二十二歳の書生の橋田と、三人が留守番をしましたが、昼飯が済むと、令嬢は、女中と書生に向かって、夕方まで暇をやるから、「活動写真」でも見て来るがよいと、お金までくれたので、お時と橋田は喜んで思い思いのところへ遊びに出かけたのであります。

お時は、さすがに家が案じられたので、早く帰って裏口から入ると、台所にお茶を沸かしたあとがあったので、誰かお客様でもあるのかと、客間の方へ行くと、家の中はひっそりと静まりかえっていたが、何となく様子が変なので、障子を開けて見ると、令嬢が首に赤い紐を巻かれて、座布団の脇に仰向けに倒れていたのであります。

「お嬢さんは今日、誰か訪ねて来ると、おっしゃらなかったかね?」と、常岡探偵は最後にお時に尋ねました。

「いいえ、別に何ともおっしゃいませんでした」

「そう、それじゃ、用があったら呼ぶから、台所の方へ行っていて下さい」

「あの、大磯へこれから電報を打ちに行きたいと思いますが」と、お時は言いました。

「書生さんはまだ帰らんのかね?」

「帰りません」

「それじゃ、そのことは、こちらでやるから、あんたはどこへも行かないようにして下さい」

こう言って、常岡探偵は警官の一人に命じて、電報を打たせにやり、自分は同行の人々と共に客間に入りました。

令嬢は確かに訪問客を相手にしていたとみえ、座布団が二つ部屋に持ち出され、それぞれその前には茶托に乗せた空茶碗と、林檎の食べさしの乗った皿とがあり、皿の上にはなお、林檎をむくための、象牙の柄のついたナイフが乗っていました。

一緒に来た警察医の鑑定によると、以後約一時間を経過しているとのことでした。それゆえ令嬢は午後三時半頃に殺された訳であります。首に巻かれていた赤い紐は、確かに令嬢のものらしく、常岡探偵は、それを解いて詳しく検査しました。

それから探偵は、客に出された方の茶碗を茶托のまま取り上げて、指紋の有無を検査していましたが、林檎の皿を取り上げるなり、一種の満足な笑みがその頬に浮かびました。というのは、皿には、干からびかけた、林檎の皮の切れ端と芯と、四分の一に切った皮の付いたままの一片とがあり、その断面に、食べかけてやめた歯の痕がはっきり付いていたからであります。

探偵はナイフを取り上げて、同じく指紋の有無を検査し、やはり軽く首を横に振って、やがて、そ のナイフの先で、皿の上の林檎の皮をひっくり返して検査しておりました。それからこんどは令嬢自身が、食べ残した皿の上を検査しました。そこにも同じく、四分の一の切れ端と、干からびかかった皮と芯とが乗っておりました。

これだけの検査を済ますと、常岡探偵は、別室へ、女中のお時を呼んで尋ねました。

「この赤い紐は誰のだか見覚えはないかね?」と、令嬢の首に巻かれていた紐を見せました。

「お嬢さまの腰紐です」と、お時は言下に答えました。

「お嬢さんは、今日、これを体に着けておいでになっただろうか?」

「いいえ、今朝確かにお嬢さまの居間の衣桁に掛けてありました」

探偵はうなずいて、しばらく考えてから言いました。

「お嬢さまのお友達・・・・・・男のお友達の中に、前歯の下歯が一本、半分欠けになっている人はないだろうか?」

この質問を聞くなり女中は、急に興奮した顔つきになって言いました。

「あります、あります、雁谷さんです」

「雁谷さんとは?」と、探偵もさすがに嬉しそうに尋ねました。

「旦那様の出てみえる会社の社員です」

「お嬢さんとは仲がよかったかね?」

「以前はよくこちらへみえましたが、何でも、お嬢さんをお嫁にもらいたいと旦那様にお頼みになったら、旦那様は大へんご立腹になったそうで、それ以後こちらへはおいでになりません」

「それはいつの事だったね?」

「三月の末頃でした」

「その雁谷さんの住所を知っているかね?」

「はい、一度、お嬢さまのお使いで行ったことがあります」

常岡探偵はお時に雁谷の住所を聞いて、それから、警官の一人に、自動車で雁谷を連れて来るように命じた。

「雁谷さんには、決してお嬢さんが殺されたことを言わないようにしてくれたまえ」

探偵は、雁谷を呼びに行く警官に、こう注意をしました。

 

(三)

 

三十分たたぬうちに自動車は帰ってきました。

「何のために、僕をこちらへお呼びになったのですか?」

常岡探偵を見るなり、雁谷は、なじるように言いました。探偵はなだめるように、玄関脇の応接室に連れこみ、二人きりになってから静かに言いました。

「実はこちらのお嬢さんが、今日、何者かのために殺されなさったのです」

この言葉を聞くなり、雁谷はまるで、棍棒をもって脳天を打たれたかのように、身をすくめて、そばの椅子に腰をおろし、恐ろしいものでも見るごとく、探偵の顔を眺め入りました。

「驚きになるのも無理はありません」と、常岡探偵は沈着な態度で言いました。

「何しろ、今日、久し振りで、あなたがお訪ねに・・・・・・」

「嘘です、嘘です」と、雁谷は遮りました。

「ねえ、本当のことを言ってください。さだ子さんが殺されたというのは嘘でしょう?」

「嘘でない証拠に、この通り私たちは犯人捜査に来ているのです。そして、捜査の結果、あなたが今日、こちらの令嬢をご訪問なさったということがわかった・・・・・・」

「そんなことはありません。僕は来ていません」と、雁谷は興奮して言いました。

「お隠しになるのは、あなたのためになりません。あなたは今日、お嬢さんと共に林檎をお食べになったでしょう。その食べさしの林檎に付いていた歯の痕から、お嬢さんを訪ねた客は前歯の下歯が半分欠けた人だということを知ったのです」

雁谷は思わず右手を口元に持って行って歯を隠そうとしました。それと同時に、その顔は急に 土のように蒼ざめました。

「どうか正直におっしゃってください。さもないと、あなたを犯人として拘引します」

「言います、言います」と、雁谷は、声を絞り出すようにして言いました。

「僕が今日こちらを訪ねたことは、こちらのご両親はじめ皆さんに絶対に秘密なのです」

「そのことは私も察しております。あなたはお嬢さんとの関係からこちらのご主人に出入りを禁じられていたでしょう。しかし、お嬢さんはあなたを恋して、今日ご主人が大磯へ行かれたのを幸いに、女中と書生とを夕方まで外出させ、その後へ、あなたを呼び入れなさったのでしょう」

「そうです。そうです。ですから、僕がさだ子さんを殺す訳がありません」

「それは、何とも言えませんよ」と、探偵は冷静な態度で言いました。

「到底、結婚が許されぬとなれば、男はどんなことをしないとも限りませんから」

「それはひどい言い方です」と、雁谷は恨むように言いました。

「現に、今日、僕たち二人は、どんな障害に出会っても必ず結婚すると誓いました」

常岡探偵はしばらく考えてから言いました。

「それでは、今日あなたがこちらへおいでになってから、お帰りになるまでのことをすっかりお話しください」

「こちらへ来たのは一時半頃でした。初めはこの部屋でさだ子さんのピアノを聞いていましたが、それから僕たちは奥の座敷へ行って話しました。さだ子さんは自分でお茶をたて、林檎をご馳走してくれました。僕たちは雑談にふけりましたが、三時頃に僕のところへ電話が掛かりました。そして家の者の代理だが、大切なお客さまがみえたから、すぐ家へ帰ってくれと言って切られてしまいました。僕がこちらへ来たことは家の者にも内緒でしたから不審に思いましたが、何だか帰らずにいるのも気がとがめるので、さだ子さんはしきりに止めましたけれど、とにかくいったん帰ってみることにしました。ところが家で聞いてみると誰も電話を掛けたものはなく、大切なお客など誰も来てはいなかったので、さては、誰かにいっぱい食わされたのだと思いました。で、僕は再びこちらへ来ようと思いましたが、ちょうど、そこへ友人が来て話しこみ、かれこれするうちに、自動車が迎えに来たのです」

「あなたがこちらにみえたとき、誰かお客がありはしませんでしたか?」

「誰も来ていないようでした」

「その電話の声に、聞き覚えはなかったですか?」

「聞いたような声だとも思いましたが、さっぱりわかりません」

「男の声でしたか、女でしたか?」

「男のようでした」

常岡探偵はじっと考えていましたが、やがて言いました。

「よく答えてくださいました。恐れ入りますが、もうしばらく、こちらにいてくださいませんか」

「承知しました」

それから、常岡探偵は、電話室へ行き、交換局を呼び出して、三時頃に露本家へ掛かった電話はどこからだということを聞きました。その結果、それは露本家から三丁(約327m)と離れていない街角の公衆電話からであるということがわかりました。

電話室を出た探偵は満足そうにうなずきました。そして独り言のようにつぶやきました。

「林檎が物を言うんだ。林檎が物を言うんだ」

さて、皆さん、林檎の食べさしは、探偵に、何を告げたでしょうか。令嬢を殺した犯人はそもそも誰でしょうか。

 

                         (四)

 

常岡探偵はもどかしそうに、時々懐中時計を出して見るばかりで、その後は何の捜索も致しませんでした。

六時少し前になると、書生の橋田が帰って来ました。彼は警官達の姿を見て、きょろきょろしていました。

「君が橋田君ですか、ちょっとこちらへ来てくれたまえ」と、常岡探偵は馴れ馴れしそうな態度で別室に伴って行き、対座して言いました。

「君の留守中にお嬢さんがとんだ災難に遭われたので、こうしてみんながやって来ているんだ。君は今日、何時頃に家を出たかね?」

橋田は落ちつかない様子をして言いました。

「十二時半頃です」

「それからどこへ行ったかね?」

「浅草の金龍館へ行きました」

「金龍館に今まで居たのかね?」

「はい」

「実はねぇ、君たちの留守中に、雁谷という人がお嬢さんを訪ねて来たのだ。どうも、その雁谷君が怪しいんだが、君は雁谷君を知っているかね?」

「知っております」

「前歯の下歯が欠けていることも?」

「はい」と、書生は力強く言いました。

「そうだろう。君も知っているはずだ。ところで君、悪いことはできないものだよ。林檎の食べさしにちゃんとその痕が付いていたのだからねぇ」

こう言って、常岡探偵はじっと書生の顔を見つめました。書生はあわてて顔を伏せました。

「しかし君、その歯の痕について、ちょっと不思議なことがあるのだよ。僕が、雁谷君とお嬢さんの林檎の皿の上を見ると、どちらにも、皮の付いたままの四分の一の切れ端がひとつずつあったんだ。そして雁谷君の切れ端の断面にはっきりと、その歯の痕が付いていたんだ。ところがだ、雁谷君の皿の上には、中央の種のある、いわゆる芯の食べ残しが四つあったのだ。その四つを合わせると、ちょうど林檎ひとつ分の芯ができるのだ。そして、お嬢さんの皿の上には、その四分の一の芯が二つしかないんだ。それで僕はこう考えたのだよ。これは、雁谷君が林檎を食べてしまったから、お嬢さんが自分の前に残っていた半分を二つに切って、その一片を雁谷君に与えたに違いないと。ねぇ、君、そう考えるよりほかはないだろう。そこで、雁谷君はそれを受け取って、がぶりと食いつき、歯の痕を残して、食うことをやめたに違いないが、さて、それまで、必ず皮をむいて食べていた人が、その時に限って皮ぐるみのまま、食いつくものだろうか。この点が、僕にはどうしても解せんのだ。君、君ならばこれをどう考えるね?」

橋田は探偵の言葉を聞いているうちに、ますます興奮したようでありました。

「僕、僕にはわかりません」

と、声を震わせて答えました。

「そりゃ無理もないねえ、そこで、僕は考えたのだよ、これは、きっと第三者が、いたずらに、雁谷君の歯の痕を林檎の断面へ付けたのだということを。すなわち、お嬢さんの皿の上に乗っていた半分の林檎を二分して、そのひとつの断面に歯の痕を付け、それを雁谷君の皿の上に置いたのだろうと思ったよ。細い板切れがあれば歯の形ぐらいすぐ作れるからねえ。それで、円形に一枚ずつ痕をつけて行けばよい。そして、そのうち一枚だけ抜かして行けば、雁谷君の下歯の痕が立派にできあがる訳だ。

さて、その第三者なるものは、何のためにこんないたずらをしただろうか。それが面白半分でないことは言うまでもないから、どうしても、自分がお嬢さんの首を絞めて、その罪を雁谷君に被せるようにしたとしか考えられないのだ。

すると、その第三者はいったい誰だろうかということになるねえ。林檎にわざと雁谷君の歯の痕を付けたところを見ると、雁谷君をよく知っている者に違いない。また、お嬢さんの首を絞めた赤の腰紐はお嬢さんの居間にあったのだから、家の勝手をよく知っている者に違いない。してみるとそれはいったい誰だろうか?」

橋田の顔はだんだん血の気を失って行きました、彼は何か言おうとしても、言えないようでした。

「橋田君、君は今日、金龍館へは行かなかっただろう。三時頃に三丁先から自動電話を掛けて雁谷君を家に帰らせ、そのあとでお嬢さんを殺し、林檎に小細工をしただろう、ね。君、僕の言うことに間違いはなかろう?」

「違います。違います。僕は知りません」と、橋田は激しく抗弁しました。

「君はかねてお嬢さんを恋して容れられず、今日、雁谷君とお嬢さんとが、固く誓ったのを立ち聞きして殺意を起こしたのだ」

「いいえ、いいえ・・・・・・」

「よし、それじゃ、致し方がない。今まで君に話さなかったけれども、実はお嬢さんは早く女中に発見されたので、息を吹きかえしたのだよ。これから奥へ行ってお嬢さんに会おう」

これを聞くなり、彼は朽木のように畳の上にうずくまったが、やがて、顔をあげて得意げに言いました。

「そんなはずはありません。お嬢さんは確かに死んでいました」

はっと思ったが、もはや後の祭でした。橋田は、探偵の罠に掛かって、はからずも我が身を裏切ってしまいました。

それから間もなく、橋田は一切を白状しました。それは探偵の推定と少しも違いませんでした。

 

×      ×      ×      ×

 

その二、三日後、常岡探偵は、部下の者に言いました。

「犯罪者は、いつでも小細工をするから、そこに手ぬかりがあって、必ず、しっぽを出すのだよ。今度の事件で、もし橋田が、林檎の上に歯の痕を付けなかったら、あるいは発覚しないで済んだかも知れん。それにしても、悪いことはできないものだ。言わば食べさしの林檎が橋田の犯罪をすっかり僕にしゃべったようなものだからねぇ・・・・・・」

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