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更新日:2021年10月30日公開 印刷ページ表示

邂逅(昭和3年発表)

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 覆面の盗賊は苦もなく、ねじふせられて、この家の主人の寝巻姿の前に、力なくうずくまった。すでに背中に合わされた皺だらけの骨々した手が、かなり高齢であることを思わせたが、やがて主人が、その覆面の布きれを取り除くと、案の定よぼよぼの白髪頭と痩せこけた老顔とがあらわれた。そして右の目の下にある一銭銅貨大(約二・八センチ)の黒いあざが、少しその人相を険悪にしていた。

「どうぞお許しを願います」

 電灯の光を、まぶしそうに避けるようにして、老人はその首筋の皺のような細い声を出してこう嘆願した。

 金持ちによくあるタイプの、でっぷり太った主人は、さすがに息づかいも荒く、老人の嘆願の言葉にかまわず、寝巻の帯を解いて、老人を引きずりながらそばの柱に縛り付けようとした。

「どうぞ、お許し下さいませ」と、老人は少しも抵抗しないで、神妙にうつむきながら、主人が身体に帯を巻く間言い続けた。「これからはきっと改心しますから、どうぞ今回はお見逃しを願います。私はもう七十を越しておりますから、いっそ刑務所で暮らしたほうが楽でございますが、私には三十年前に別れた一人の子どもがございます。それに会うまでは死にたくありません。まだ刑務所へ行きたくありません。実のところ今までは一度も人さまの家へ盗みに入ったことはございませんでしたが、二、三日食べるのもままならず、ふとした出来心でとうとう、こんな間違ったことをしでかしました。もう二度とこのような恥ずかしいことは致しません。たとえ飢え死んでも正直な道を通ってまいります。どうぞ一生のお願いでございます。わが子に会うまでお助けを願います」

その声には確かに誠実な色があらわれていた。また、その言うことも恐らく真実であろう。こう思うと主人は何となく一種の哀れさを感じたが、またたちまち冷静な理性が甦った。そうだ、どんな盗賊でも捕えられればたとえ内心でどう思っても、表向きはひたすら改心の態度を示して憐みを乞うであろう。今まで金銭を乞いに来る者の言葉に釣られて同情し、あとで裏切られて腹を立てたことは数え切れないほど沢山ある。たとえ老衰した盗賊であっても、うっかりその言葉を信用してはならない。こう思うと、かえっていっそう憎々しく思えたのであった。

「おいおい」と、主人は隣室の方に向かって大声で怒鳴った。「誰か、早く警察へ電話をかけてくれ」

その言葉が終わるか終わらぬ時、静かに襖があいて夫人が入って来た。四十前後のどことなくしっかりした顔つきをした彼女は、盗賊と顔を見合わせるなり、驚いてその場につっ立ったが、すぐさま気を取りなおして言った。

「あなたちょっと」

こう言って、右手で夫をまねいた。

「何だ? 電話はもうかけたか?」

「かけます。かけますからちょっとこちらへ来て下さい」

その言葉が有無を言わせぬ調子だったので、主人は盗賊を縛った帯の結び目を確認して夫人の意に従った。

次の間へ入るなり夫人は小声で言った。

「あなた、あの老人を許してやって下さいませんか」

主人はこの意外な申し出に、思わず妻の顔をながめたが、

「いやいかん」ときっぱり答えた。

「私のお願いでございます。どうぞ見逃してやって下さい」

「なぜそんなことを言う?」

「あなた、あの老人を警察へつき出すと、あとで、この家へ迷惑がかかります」

「ええ?」

 夫人は一層声を低めた。「あの老人は、実は私の・・・・・・父でございます」

「何?」

「びっくりなさるのも無理はありません。あれは確かに、三十年前に行方不明になった父でございます。普通ならば会ってもわかりませんが、あの右の目の下のあざが、はっきり記憶に残っております。さっきあの老人が三十年前に別れたわが子に会いたいと言ったのを立ち聞き、今顔のあざを見て、私はぎょっとしました。このまま警察の手に渡って、取り調べが進んだら、私との関係が明るみにでないとは限りません。そうなるとこの家の名折れになります。せっかく頼りない身の上を救い上げていただいた私が、ご恩を仇で返すようなことになっては申し訳がありません。普通の時なら懐かしいお父さんと名乗りたいところですが、かりそめにも罪を犯した人を父とは呼べません。父はこのまま永久にわが子に会えなくなる訳ですが、それだけは、今夜のことに対する報いでございます。家内の父がこうした悪人であることがわかっては、さぞかし無念でございましょうが、それだけはご勘弁下さって、どうか老人を許してやって下さいませ」

さっきから、運命の皮肉を痛感して、頭に血がのぼっていた主人はこのときやっと考えをまとめた。

「けれど、このまま逃がしてやっても、またよそへ押し入って警察に挙げられたら、やっぱり同じことではないか」

「ひいき目か、恐らく二度とはやらないでしょうけれど、迷惑がかかるのを知っていて、警察へ突き出すのは心苦しゅうございます」

「お前の勝手にするがいい」

主人はため息をついて、最後にこう言った。

 

樹木が死んでいるかと思われる街を、老人は泥酔した人のように、ひょろひょろ歩いて行った。星の多い秋の夜空から冷たい空気が沈んで来て、老人の骨の髄まで沁み渡ったが、心の中では人の情けの温かさをつくづく感じていた。

しかし、たとえ夫人の情けで一旦は釈放されたとはいえ、明日からどうして暮らしてよいかを思うと、暗い気持ちにならざるを得なかった。捜しているわが子にいつ会えるか知れないばかりでなく、実はその生死さえもわからないではないか。こう思うと、あのまま警察へ突き出されて刑務所へ送られていた方が、はるかに幸福だったかもしれない。

「惜しいことをした」

こう呟いて、ふと我に返ると、後ろから人が駆けて来る音が耳に入った。

「何者だろう?」

 振り向くと同時に向こうから声がかかった。

「ちょっと待ってください」

 老人はぎくりとした。

「へ? 私でございますか」

 見ると、一人の青年が立ちどまって、息をはずませながら、懐の中から紙包みを取り出した。

「あの、このお金を、お母さんからお前さんに渡してくれということです。」

こう言って、青年がその紙包みを老人に渡そうとすると、老人はちょっと躊躇して相手の顔を見つめたが、すぐさま事情を悟った。

「へ? それでは私がいまお邪魔したお宅からでございますか、そんなことをしていただいては、どうにも。いや、許していただいてさえいるのに、これはどうも。しかしせっかくでございますから頂戴しておきます」

こう言って、紙包みを受け取るなり、老人はそれを幾度も押し頂いた。

青年は、老人が盗みに入った家の一人息子で、某高等学校の生徒であった。彼は先ほど父母の会話を盗み聞きして、何となく一種のロマンチックな気分になっていたが、母に意を含められて、紙包みを老人に渡して来いと言われた時は、母の心づくしを嬉しく思い、自分の祖父を見るという好奇心も手伝って一生懸命に後を追って走って来た。しかし、目の前にいるみすぼらしい老人を見ると、今までのロマンチックな心は去って反対に、同情の心がむらむらと起こり、「おじいさん!」と叫んで慰めてやりたいような気がした。けれども「これを渡したら、何にも言わずにすぐ帰っておいで」といった母の戒めの言葉があやうく、その衝動を遮った。

で、そのまま帰ろうとしたが、そのときふと一つの誘惑を感じた。

「お前さん、わが子を訪ねるということだが、本当ですか」

「はい」と老人は正直にうなずいた。

「その娘は何という名ですか」

「へ?」と、老人はためらった。青年は母の名を聞くだろうと思って緊張したが、老人の答えは意外であった。

「あの私には娘はおりません、捜しているのは一人きりのせがれでございます。」

どうして走り出す気になったか、自分にも分らなかったが、気がついてみると青年はわが家の前に来ていた。そしてすべてが母の慈悲心と機知によって作られた芝居であることを知って、涙ぐましいほどの感激を覚えた。

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