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脅迫状(昭和2年発表)
(一)
これは私が探偵となって初めて解決した事件であります。事件そのものには、それほどの珍しさはありませんが、私にとっては忘れ難いものであります。
元来私は医学を修めたのでありますが、犯罪学や探偵術の書物を読むことが好きで、とうとう本職に探偵をやって見ようと決心したのであります。
しかし、日本では私立探偵なるものは、まだあまり重宝がられません。で、開業をしたものの、一向に事件の依頼者はありませんでした。
ある日、日本橋に内科病院を開いている旧友の小森が訪ねて来ました。
「どうだ、大野君、新しい商売は繁盛するか?」と彼は尋ねました。
「まだ、ひとつも依頼がないよ」
「そうか・・・・・・では、僕がひとつ事件を提供しようか」
「どんな事件だ?」
「実はちょっと、不審なことがあるので、わざわざ君を訪ねたのだよ」
こう言って彼は一枚の新聞紙を取り出しました。
「見たまえ、ここに、実業家友田桂一郎氏の夫人の肖像が出ているだろう」
「うむ、この間亡くなった・・・・・・」
「実は肺炎で僕が往診していたんだが、僕の診た人は確かにこれと違っていたよ」
「君は今まで友田夫人の写真を見たことはないのか?」
「僕は実業家の夫人などには平素興味を持たぬからね、病床の顔を見たのが初めてさ」
「病気の時は顔が変わるから、写真とは違うのは当然だろうよ」
「いいや、似たところはあるが、確かに、この人じゃなかった」
「君は、どうして今日までそれを黙っていたのか?」
「夫人が亡くなった晩、朝鮮へ急用で発って、昨日帰ったのだが、留守中の新聞を見て驚いたよ。だから、これはいい材料だと思って君のところへ来たのだ。とにかく、探偵して見る価値はあるぜ」
「やって見よう」
こう答えて私はすぐさま探索にとりかかりました。
友田氏が別の女を夫人だとして発表するについては、何か、深い理由がなくてはならない。ことによると夫人に生命保険でも掛かっていて、この保険金を会社から奪うつもりであったかも知れない。こう思って取り調べて見ると、果たしてY保険会社に五萬圓(※現在の価値で約4,000万円)掛かっていましたが、どうしたわけかまだ死亡の届け出がないとの事でした。
私は茅場町の友田氏の邸宅を訪ねました。すると老婆がたったひとり留守番をしていました。
「奥さんが亡くなってさぞ寂しくなったでしょうね?」と、私は話しかけました。
「本当ですよ。でも奥さまは幸福でした」
「なぜ?」
「悪漢に殺されなくてすみましたから」
「え? それはまたどういうわけですかね?」
「お亡くなりになる四、五日前に! 悪漢から手紙が来て、五月五日になったら殺すと書いてあったのです。それを読んで奥さまは昏倒なさいましたよ」
「五月五日といえば今日ではないですか。悪漢って誰ですか?」
「ピストル強盗の吉田玉吉です」
「あの吉田玉吉が? 吉田はついこの前、刑務所を出たばかりだのに」
「何でも十年ほど前に、奥さまが、こちらへおいでにならぬ先、国許で吉田玉吉がある家に強盗に入って人を殺したのですが、それを奥さまが見ていて、裁判所の証人になられたので、吉田は、牢を出たら、きっと、仇をうってやると言ったそうです」
「奥さんはその手紙を見てから引き続き病気になられたのかしら?」
「よく存じません」
「すると、婆やさんは奥さんを看護しなかったのですか?」
「かねて奥さまに頼んであって、郷里へ帰らせてもらいました」
「それでは死に目に逢わなかったのですね?」
「はい」
「誰が看護したのかしら?」
「ちょうどそのとき国許からみえていた奥さまの妹御が看護なさったそうです」
「その妹さんは?」
「国許へお帰りになったそうです」
「時にご主人は今どちらにみえるでしょうか?」
「四、五日旅行してくると言ってお出ましになったきりです」
私は老婆との会話によって、おぼろげながら友田夫人がまだ生きているだろうと推察しました。
ちょうど、その時、電話がかかってきましたので、私は老婆を制して、代わりに出ました。
「もしもし。婆やかい?」と、先方の男は尋ねました。
「いいえ、僕、友田です、主人です」と、私は作り声で答えました。
「馬鹿な、誰だいたずらをするのは?」
「友田さんですか、失礼しました。僕は私立探偵の大野というものです。吉田玉吉が奥さんを脅迫しましたそうで、それを取り調べに留守宅へ伺いました。時に、奥さんはご無事でございますか、それとも、何か事が起きましたか?」
「ど、どうして、それが・・・・・・・」
「何もかもわかっております。正直におっしゃって下さい」
「実は、家内が、たった今し方、行方不明になったのです」
「あなたは今、どこにおいでですか?」
「麻布霞町十七番地の齋藤という家です。すぐ来てください」
(二)
私はタクシーに乗って、霞町に駆け付けました。
齋藤方を訪ねて、ひと通り事情を述べると、友田氏は、興奮しながら語りました。
「吉田のために、とうとう家内をひっさらわれてしまいましたよ。恐らく殺されたことでしょう。実は家内の妹が突然死にましたので、吉田の脅迫を避けるために、家内が死んだことにして発表し、齋藤の名でここへ家を借りて隠しておきました。今日は脅迫状に書かれている五月五日ですから、十分注意しておれとくれぐれも言い聞かせて、ちょっと用事があって外出したのですが、帰ってみると、家内は居りません。どうして吉田が感づいたのでしょうか?」
「私でさえ感づいたのですから、ほかの人だって感づきます」
「どうしたらよいでしょうか?」
「警察へお届けになるとよろしい」
「警察はいやです」
「なぜですか?」
「公にしたくありませんから」
「では私が捜索致しましょうか?」
「どうぞ」
こう言った友田氏の声は、あまり喜んでいないようでありました。私は家の中を捜索しました。それから家の周りを検査しました。しかし別に変わったところはありませんでした。
が、門の内側にある郵便受箱を見たとき、中に一本の書状があることを認めました。で、早速それを取り出して開いて見ると、一枚の紙片があって、それに、
「いよいよ今日だ! 覚悟せよ」
と書かれてありました。
これを見た友田氏は、一層落ちつかぬ様子をしました。
「これは奥さんがご覧にならなかったと見えますねえ」と、私は尋ねました。
「無論、見なかったでしょう」
「おかしいですねえ」
「なぜですか?」
私はそれには答えないで、家の中へ入り電話を借りて、警視庁へかけ吉田玉吉の動静について尋ねました。
すると、意外にも吉田玉吉は、刑務所を出るなり、間もなく病気になって、いま、S病院に入っているとの答えでした。
私はそれを聞いて、一切の事情をはっきり知ることができました。
「友田さん、もうお隠しになっても駄目です。奥さんのありかを白状して下さい」
と、私は厳かな声を出して言いました。
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友田氏の白状によると、氏は最近、借金に苦しめられて非常に困っていたところ、先日吉田玉吉が刑務所を出たことを知って、かねて夫人から玉吉が入牢する際のことを聞いていたので、これを応用して、夫人を亡きものとし、その保険金を奪おうと企てたのであります。で、自分で脅迫状を書いて夫人を脅し、義妹の死んだのを幸いに、夫人が死んだことにして発表し、夫人を霞町の家へ隠したのです。そして、今日、更に自分で脅迫状を書いて郵便受箱に投じ、夫人を別のところに隠して、いよいよ最後の手段をとろうとするところでありました。
が、実のところ、友田氏は、生来の悪人ではないので、どうして夫人を亡きものにすべきか、その成算は立っておりませんでした。だから、生命保険会社へもまだ届け出てなかったのです。
友田氏の計画は私のために不成功に終わりましたけれども、吉田玉吉が病院へ入っているのを知らなかったのは、氏の大きな手抜かりだったというべきです。