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網膜現像(昭和4年発表)
男は女の死体を見下ろしながら、平然と突っ立った。
大理石造りの台の上に置かれた肉付きのよい女の身体は、たとえ完全に血の気を失って透き通るように白かったとはいえ、頸部の深い索状痕と、両眼の上に重たく載せてあるガーゼがなかったならば、まるで眠っているとしか思えなかった。
男を案内してきた二人の警官と、法医学者の鳥井博士と、検事の小原氏は一斉に男の顔を見守った。
が、男はまるで無表情であった。
「おい山木!」と、やがて小原検事は沈黙を破った。「お前は自分の殺した死体のそばへ来ても、後悔の念は起こらんのか」
「私は人を殺した覚えがありません。一体この女は誰です?」
こう言いながら山木と呼ばれた男は、つかつかと死体の頭部に近寄って、眼の上に置かれているガーゼを取り除こうとした。
小原検事は慌てて遮った。
「ふふ」と検事は苦笑した。「よくそんなに知らん振りが出来たものだ。お前がこの女の愛人であったことは、何人もの証言がある。それだけで十分だが、出来るならお前に白状してもらおうと思ってここへ連れて来たんだ。いかに強情なお前でも、自分の手で絞め殺した女の死体の前では、じっとしては居られないからなあ」
「ですが、身に覚えのない罪は引き受けられません。こんな女は見たこともありません」
「おいおい」と検事は脅かすような口調で言った。「あまり強情を張るとためにならんぞ。お前が他に愛人を作ったためにこの女が激しく嫉妬して、それをうるさく思ってお前がこの女を殺したことまで、こちらではわかっているんだ。いつまでも手数をとらせず、潔く白状したらどうだ」
「それは何かの誤解でしょう」と、男はひるまなかった。「きっと私は誰かの罠にはめられたに違いありません。思えば恐ろしいことです。検事さんのお立場にもかかわることです。十分注意して真犯人を捜されたらよいでしょう」
どこまで図々しい男かと、小原検事は舌を巻いた。
その時、警官の一人が口を出した。
「この男は決して吐きませんよ。たとえ絞首台の上に乗っても否定し続けるでしょう」
すると小原検事は、それまで黙って二人の会話を聞いていた鳥井博士と意味ありげにうなずきあって言った。
「やむを得ない。それでは最後の手段をとることにしよう。お前は十分教育のある人間だから、ここにおられる鳥井博士のことをよく知っているだろう。鳥井博士がこれまで、色々新しい犯罪検証法を発見して世界的な名声を博されたことは広く世間に知れ渡っているが、最近鳥井博士は、更にまた新しい犯人捜索法を発見されたのだ。それは何かというと、一口に言えば、人間の眼の網膜を写真のフィルムのように現像する方法なんだ。人間の眼はカメラと同様で、網膜はフィルムの役割を果たしているんだが、人間が生きている間は一旦網膜に映した像は次の瞬間に消えてまた他の像を映すという風に絶えず新陳代謝しているんだ。しかし、人間が死ぬときには、最後に網膜に映った像だけは、そのまま永久に保存されるわけだから、もし遺体の網膜を現像することが出来たならば、その人が生前の最後に見たものが、明らかに網膜に映っているということになる。例えばここで人殺しがあったとする。そしてその犯人がわからないとする。その場合、もし網膜を現像することが出来るならば、必ず犯人の顔なり姿なりが現れるから、これまでのように遺体を解剖してその死因などを確かめなくても、いきなり眼球の網膜を取って現像しさえすれば、立ちどころに犯人がわかり、同時に、動かぬ証拠を提供する訳だ。ところでだ。鳥井博士はその網膜の現像方法を遂に発見なさったのだ。なんとお前、その発見がいかに重大なもので、かつ犯罪者にとっていかに致命的な恐ろしさを持つものであるかがわかるだろう」
小原検事は言い終わって、じろりと山木を睨みつけた。と、今まで冷静そのものであったような両眼に、一種の不安な色がただよい始めた。検事の長い説明が彼を苛立たせたのか、それとも、網膜現像という新発見が彼の心を乱したのか、彼の両眼は落ち着きを失って、ともすれば遺体の方へ視線が吸いつけられたのであった。
「もう、お前にはわかっているだろう」と、検事はたたみかけるように言った。「この部屋は遺体解剖室なんだ。以前なら直ちに解剖が行われるはずなんだが、もはやその必要はなくなったんだ。この遺体についても同様で、鳥井博士はただ眼だけを解剖されたんだよ。だからこの通り、目の上にガーゼが載せてあるんだ。わかったかね」
山木は少しずつ内心の興奮を増していくようにみえた。彼は両手を握って、また離した。そして依然として黙って鳥井博士に眼を向けた。額が広く、目が鋭く、濃い口髭を生やした、見るからに聡明な博士の顔に、彼はたしかに一種の圧迫を感じたらしかった。博士は網膜を現像して何を見つけただろう? といったような好奇心がだんだん彼の興奮を高めて行くようであった。
「網膜は先ほど現像が終わって、今別室に置いてあるよ」と、小原検事は、山木と反対に、いよいよ落ち着いた調子で言った。「けれども、どんな像が現れたかはまだ鳥井博士もご存じないんだ。知っての通り、網膜は極めて面積の小さいものであるから、その像も、肉眼で見るには、あまりに小さすぎる。で、はっきり鑑定するには拡大投影機を使わなくてはならん。今隣の部屋にその用意をさせているから、これからお前も一緒に行って、この女の死に際に、網膜にどんな像が映ったかを見ようじゃないか」
その時、技師らしい男が入って来て、用意のできた旨を検事に告げた。
「さあ行こう」
山木は突っ立ったまま動こうとしなかった。
「どうしても一緒に行かなくてはなりませんか」と、言った声はかすかに震えていた。
「お前が無罪であるなら、なにも躊躇することはないじゃないか」
やむなく、山木は人々と共に隣室に入った。そこは四方が真っ暗で、正面に四角な幕が張られ、こちらには大きな投影機が、アーク灯※の青白い光線を放っていた。
暗室に入るなり、鳥井博士は投影機に乗せてあった硝子の皿を取って、検事と山木に示した。皿の中には、膜状のものがふわふわと水の中に浸かっていた。
「これが女の網膜です。これを硝子の板の上に張ってそれから投影機にかけ、あの幕に映します」
こう言って博士は二分も経たないうちに、必要な操作を終えた。
「いよいよ映します。そこへ腰かけて下さい」
腰かけまいとする山木を、検事は無理に椅子に腰かけさせた。
シューッ!
というアーク灯の音が聞こえた。そして次の瞬間、幕の上には雲のようなものがあらわれた。
やがてその雲のようなものから、だんだんはっきり物の形があらわれた。
おお!
そこには! そこには!
ピントをぼかした写真のように、だが、間違いもなく、山木の顔が・・・・・・
突然、山木は立ち上がった。
立ち上がったかと思うと、
「ははは」と笑った。彼はもう、逃れられぬ証拠をつきつけられて発狂したのであろうか。
「ははは」と彼は続けた。「嘘です、嘘です。あなた方は私をだまそうとしているのでしょう。私の顔が女の網膜にあらわれるはずがありません」
「何故?」と、小原検事は鋭くたずねた。
「だって、私は、女が眠っているときに殺したんですから・・・・・・」
幾時間かの後、小原検事は鳥井博士と二人きりで語った。
「それにしても先生の名案には恐れ入りました。網膜現像とは実に奇抜なことを考えなさったものです」
「いや、私は遺体を検査したときに、どうも女が睡眠中に殺されたのではないかという疑いを持ったので、強情な山木を白状させるために思いついたんです。もっとも網膜現像ということはかねてから私の考えているところで、将来あるいはその方法が発見されるかも知れません。だが、とにかく、白状したのは結構でした」
「私は山木が死体の眼の上のガーゼに手をかけようとしたとき、びっくりしましたよ。眼は解剖も何もしてないんですからね。それにしてもあの硝子皿の網膜の様なものは何でしたか」
「フィルムです。フィルムを湯の中に入れたので、あんなふうに見えたんです。警察で撮った山木の写真を、私が適当に撮りなおしたのです。昔は迷信的な方法を使って犯人を白状させたものでしたが、今時の、ことに教育のある人間は、科学的な方法を使わないといけないことが、これでよくわかりました」
「おかげさまで助かりました」検事は満足そうに言った。
※注釈 アーク灯・・・アーク放電を光源に用いたもので,電灯として最初に用いられた。放電灯とも言う。