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更新日:2022年2月14日公開 印刷ページ表示

姙術魔(昭和2年発表)

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プロローグ

 

麻酔から覚めると、女は、ベッドの上にむっくり上体を起こして、しばらくの間、怪訝そうにあたりを見回した。無意識の世界から意識の世界に移ったときの空虚な心が、その目の色に表れて、ガラス窓から入って来る光線に、まぶしそうに瞬きながら、女は麻酔前の意識の閾に踏み返ろうとした。

その時さッと診察室の扉が開いた。そして、医師が威勢よく入って来た。その姿を見るなり、女は、慌てて、乱れた前を掻き合わせながら、

「ま、先生、いつの間に、あの診察台から、ここへ移りましたでしょう」と、両頬に急に赤みを帯ばせながら尋ねた。

医師はにっこり笑って言った。

「とうとう、お気が付きましたね。ほんの少しばかり嗅ぎ薬を用いただけですのに、それが、馬鹿によく効いて、手術が済んでも、なかなか目をお覚ましにならなかったものだから、診察台では、窮屈だろうと思って、そっとベッドの方へ移してあげました。しかし、この嗅ぎ薬は、ほかの麻酔薬と違って、覚め際には、吐き気も頭痛も起こらないはずですが、どうです、ご気分は?」

「はァ、おかげさまで」こう言って女は、その透き通るように白い右腕をもって、鬢のほつれ毛を掻き上げ、静かにベッドから降りて、立ち上ろうとした。けれども、まだ腰の神経が、十分、麻痺から回復しなかったと思えて、ふらふらとよろめきながら、思わずベッドに腰掛けた。人好きのする丸ぽちゃの顔が、寝起きに見るような、重たそうなまぶたのために、却って、その美しさに一種の凄味を加えるのであった。

「しばらく、そこで静かにしていらっしゃい」と、医師は、両手を出して、押さえつける真似をして言った。

「あの、もう、何時でございましょうか」と、女は、怖れるようにして、医師の顔を覗き上げながら尋ねた。

医師は懐中時計を出した。「五時十五分です」

「まあ」と女は目をむいた。「では、私もう一時間も覚えなしになっていたのでございましょうか」と、急に心配そうな表情をした。そして、何やら言い迷っているようであったが、やがて決心したように言った。「それで、いかがでございましょう、手術の結果は?」

「なに、手術と言うべきほどのものではありませんでした。ほんの少し掻爬(※病的組織などを掻き取ること)しただけで済みました。もう二、三度行えば十分です。大した痛みはないはずですが?」

「はァ」と言って、女は、下腹部にその感覚を集めるような表情をして言った。「今のところ何ともございません。それで、何でございましょうか、先生のお考えでは、私に子供の出来る見込みはございましょうか」

「無論ありますとも」

「先刻もお話しました通り、主人はもうあきらめておりますけれども、私はどうしても子供がほしいのでございます。で、こうして、主人に内緒に、ご診察を受けに来て、せっかく、先生に手術をしていただいたのですから、何とか妊娠致したいと思いますが、これで幾分、私も心強くなりました」

言いながら、女は立ち上がって、帰り支度をした。二十五、六の、芸者あがりと見えるような、それでいて、どこかにうぶなところのある容姿を、医師は、見とれるように眺め入った。

「どうも、お邪魔でございました」

しとやかに会釈して、診察室を出て行く女を、医師は扉のところまで送り出しながら、「二、三日過ぎたら、間違いなくおいでなさい」

と、声を掛けてにやりと、悪魔のような笑いを漏らした。三月末の、窓から入って来る夕暮れの弱い光線の中で、その笑いは、むしろ、悪魔をも、ぞっとさせずには置かぬものであった。

 

(一)

 

婦人科医黒瀬小太郎が、叔父を殺そうと決心してから、もう半年余りも過ぎた。叔父は七十を越しているのに、その頑固な気性と相まって、その身体も頑健に出来ていると見え、容易に死にそうに思われなかった。それなのに叔父の死ぬのを当てにして借りた金は、恐ろしい勢いをもって増えて行ったのである。

叔父が死ねば、たった一人の身内である彼が、当然叔父の財産を相続すべきはずであった。債権者たちも、それをよく知っていて、彼に金を貸したのであって、別にそれほど激しく催促はしなかったけれど、高利によって増えて行く借金は、彼の恐怖の種となり、持って生まれた彼の悪人たる素質が作用して、彼に叔父殺害の決心を生ぜしめたのである。

けれども、人間を殺害するに際して、いかに冷静な者でも、その決心は容易に出来ても、それを実行するのはすこぶる困難である。もとより、殺害行為そのものは、さほどの苦心も努力も要しない。しかし、人を殺せば、自分も死ななければならぬ。死なないまでも牢獄の人となって一生涯を棒に振らねばならぬ。叔父はもう、年が年であって、それほどこの世の中に必要な人間ではないけれど、その必要のない人間を殺しても、法律は決して容赦をしない。だから、ある目的をもって人を殺そうとするには、あらかじめ、法律の制裁から逃れる工夫を凝らさなければならぬ。そこに多大の苦心を要し、従って、殺人の実行が困難となるわけである。

黒瀬小太郎は、医学を修めただけに、犯跡によって、いかに犯人が発見され易いものであるかをよく知っていた。死体が他殺であると決定されたならば、もはや犯人は早晩発見されるものであらねばならぬ。犯人の発見されなかった殺人事件は、昔から稀ではないが、それはむしろ例外に属すべきものであって、そのような例外を頼みにして事を行なうのは、この上もない危険である。だから、発見されないように人を殺すには、どうしても、死体が他殺であると決定されぬように殺さねばならない。すなわち、医師が鑑定した結果、自然な死に方であるか、または自殺したと判断するように仕向けなければならないのである。

人を殺して、自殺したように見せかける方法は、多くの殺人者に、しばしば応用されたところである。そして、その方法は、多くの場合、殺人者の失敗に帰した。それほど、その方法は陳腐でもあり、また困難でもあるのだ。従って、被害者に自殺を装わせることは、やはり危険であると言わねばならない。

そこで、人を殺して法律の網をくぐる最も有効な方法は、被害者が、自然な死に方、すなわち病気によって死んだと見せかけることである。小太郎は、最初に毒殺について考えてみた。いかにも、ある場合には、毒死のように見えるけれども、それは、絶えず自分が、犠牲者の傍に付いていて、診察をする医師に、中毒であるということを感づかせないようにせねばならぬ。もし死因に疑わしいところがあって、死体が解剖に附せられた場合には、毒は直ちに発見されてしまう。

小太郎は久しく叔父の家に出入りしないのであるから、突然叔父を訪ねて毒を与えることは、ピストルや刃物によって叔父を殺すのと同一である。もし叔父が心臓病にでも罹っておれば、何か叔父の心にショックを与えるような方法を取って、心臓麻痺を起こさせることが出来ないとは限らぬけれど、叔父はあの通り達者であるし、あれだけの年齢まで、あの健康を保ち得るのは心臓の強い証拠であるから、到底そのような手段はとり得ないのである。

こうして彼は色々考えたあげく、叔父を真実の病気に罹らせて死なせることに決心した。彼は、叔父が、今までこれという大病に罹ったことを聞かなかった。だから叔父を伝染病に罹らせたならば、叔父の死ぬプロパビリティ(可能性)は多いと思った。伝染病に罹らせるには、伝染病を起こす黴菌があればよい。黴菌を手に入れることは、医師である彼にとって極めて容易なことである。で、彼は、チフス菌をもって叔父を殺すことに決心したのである。

同じ伝染病のうちでも、ペストやコレラは特種な時期にしか起こらないから、もしペスト菌、コレラ菌をもって叔父を殺したならば、その発生の経路を調べられる恐れがあるけれども、チフスは至るところに発生しつつあるから、毛先ほども疑われることがない。

その上、チフス菌は、人体内に入ってから、一定の時日の後でなくては病気を起こさない。すなわち通常二週間または三週間の後でなくては、熱が起こらないのである。この点が、毒を用いるよりも遥かに安全である。毒ならば、服用して幾時間かの後には必ず症状が現れるから、当然疑いを招きやすいけれども、たとえ叔父と一緒に物を食べても、チフス菌を叔父の食物に投じた場合には、二週間後に発病するやら三週間後に発病するやらわからぬので、疑われる危険は毛先ほどもない。

そこで、ただ残る問題はいかにして叔父と会い、いかにして叔父の食物の中にチフス菌を投じるかということである。叔父に悟られないように毒を与える最も確実な方法は、チフス菌を混ぜた食べ物を自分も叔父も食べることである。それならば叔父に決して悟られるはずはない。

けれども、チフス菌は叔父同様に摂取すれば、自分もチフスに罹る危険がある。だから、自分だけは、チフス菌を食べても決してチフスに罹らないようにしなければならぬ。それには、チフス菌で作ったワクチンをもって、自分の身体を免疫すればよい。すなわち、度々繰り返してチフス・ワクチンを注射すれば、もはやチフス菌を飲み込んでもチフスには罹らない。

こう考えて小太郎は、自らチフス菌を培養してワクチンを作り、それをもって、わが身体を免疫したのである。

だから、小太郎が、叔父を殺そうと決心してから、自分の身体を免疫するまでに、相当の時日を費やさねばならなかった。

ところが、免疫は出来上っても、叔父に接する機会はなかなか来なかった。久しく会わなかった叔父のところへ突然出かけて行ったとて、叔父はなかなか気を許さないであろう。叔父は雇いの老婆と二人きりで暮らしているから、うっかりしたことをすれば、老婆に気付かれる恐れがある。で、小太郎は適当な機会の来るのを待たねばならなかった。そして、いつの間にか彼は、殺害の決心をしてから半年ばかりを過ごしたのである。

 

(二)

 

しかしながら、彼の殺害の実行を延引せしめたものは、以上の理由ばかりではなかった。実は、その他に、もう一つ大きな理由があったのである。

その理由を物語るために、作者は「プロローグ」に、彼の診察室におけるある日の出来事を写したのであるが、その時の女を、不思議にも彼は忘れ得なかったのである。

想像力の発達した読者諸君は、彼が、叔父を殺すような悪魔的計画をする人物であることから、彼がその時診察室においていかなることを行ったかを、容易に推定されるであろう。彼は子を求めようとして、彼に診察を受けた女に、手術するという口実で、麻酔剤を嗅がせ、許すべからざる罪悪を行ったのである。

そもそも彼が婦人科医となった動機そのものが、すでに不純なものであった。元来、彼が医学を志したのにも不純な動機に寄ったと言えば言い得るのであるが、とにかく、彼は、彼の卑しき獣性を満足させんがために、婦人科を専攻することにしたのである。

彼は女を頭から馬鹿にしていた。女は性欲の対象に過ぎぬものだと思った。貞操とか恋愛とか、そうしたものは、彼にとっては、道ばたの木切れにも等しかった。そして、彼のこの悪魔的な考えは、麻酔剤のために、粘土の塊のように力なく彼の前に横たわって、彼の自由に任せる女の姿を見る度ごとに、益々深められて行くと同時に、いよいよ彼が罪悪を繰り返す誘因となったのである。

実際彼は、今まで、機会あるごとに、この恐ろしい犯罪を行って来たのである。そして、遂には、西洋中世の暗黒時代に子を求めんとして神殿に参籠する女たちに、神の御名によって子を授けた神官たちのように、その行為に対して何の後悔をも感じないに至った。

かくて彼の診察室は神殿となり、彼は神官となった。ただ神殿においては、深夜の暗黒に神がさらさらと歩み寄って、子を授ける術を施し給うのに、彼の診察室では、白昼の光の中で、悪魔がその毒牙をふるって、子を授ける術を行った。

彼は自分の施術した女に対して、少しも心を動かさなかった。もともとその獣性の満足をのみ目的としたのであるから、それは彼にとってまったく路傍の人に等しかった。ところが、どうしたわけか、彼が三月の末に取り扱った女に対してだけは、不思議な愛着を感じ始めたのである。

もとより、彼女は美しかった。けれども、これまでの女で彼女よりも美しいものは幾人もあった。また、彼女はやさしかった。けれども、やさしい女は前に幾人もあった。それなのにあの二十五、六の丸顔の女だけが、不思議にも彼の心を深くかき乱したのはなぜであろうか。それは、彼が、別れ際に「二、三日過ぎておいでなさい」と言ったにもかかわらず、それっきり遂に姿を見せなかったためであろうか。今までの女の多くは、恐ろしい汚辱を受けるとは少しも知らずに、彼の命ずるままに彼の診察室を訪ねて来た。けれども中には、一度きりしか来ない者もあった。そしてその女に対して、彼は、何の執着も持たなかったのに、あの女に限って、日を経るにつれて、焦燥を感じたのはなぜであろうか。

「もう一度、あの女に逢いたい」

こうした望みが、彼の心の中で一日一日膨らんで行ったのである。

世に、己が職権を利用して悪事を行うほど憎むべきことはない。ことに彼に弄ばれた女は、少しも身に汚辱を受けたことを知らないのであるから、その罪は一層大きい。だから、たとえ法律の網を巧みに逃れても、遂には何らかの形において罰を受けるに至るものである。このような場合、昔の人は「阿漕が浦に引く網の」度重なる(※人知れず行う隠し事も、度々行えば人に知れてしまう)ことをもって、発覚の理由としたけれども、それよりむしろ運命の命ずるところと言った方が至当であろう。そして、わが黒瀬小太郎が「彼女」に執着を感ずるに至ったのも、むしろ、「運命」をもって説明するのが、至当であるかも知れない。というのは、彼は彼女によって、言わば致命的な制裁を受けるに至ったからである。

彼は診療簿によって、彼女の名が「土屋弘子」であることと、その住所がS区R町十二番地であることを知って、わざわざ訪ねて行ったけれども、R町には十二という番地が存在しないばかりか、土屋という姓の家は、そのあたりに一軒もなかった。恐らく、彼女は彼女があの日診療所で語ったごとく、その主人に内緒で来たため、その住所も姓名も、出鱈目のものを用いたのであろう。

それにしても、彼は主人のある女を捜してどうしようというのであるか。それはもとより彼自身にもはっきりした心がわからなかった。ただもう、むやみに逢って見たかったのである。もう一度彼女の豊満な肉体を我がものにしたかったのである。

初め彼は彼女が少なくとも半月か一月の後には、もう一度彼の該察所を訪ねるであろうと予期していた。ところが一月経っても二月経っても、彼は再び彼女を見ることが出来なかった。それかといって、彼は彼女をどこに探してよいかわからなかった。まさか、広い市中を戸別に調べることも出来ない。それかといって、人の出さかる街を歩いて、偶然彼女と逢う機会を得るのは、なおさら望みのないことである。

こうして彼は日ごとに苛々しさを増した。彼が、彼女に「手術」を施したのは、彼がその叔父を殺そうとして、自体の免疫に取りかかって一月ほど経って後のことであるが、一時は、彼女のことで心がいっぱいになっていたため、叔父を殺そうとする心が押さえ付けられたかのようであった。けれども、彼女を診療してから四ヶ月余りを経た今日、もはや彼女に逢う望みがほとんど無いと決まると、彼の焦燥は、やがて、猛然として、叔父殺害の心を蘇らせるに至ったのである。

もう彼は、叔父に会う機会をただぼんやり待っていることが出来ないような気がした。彼女に逢い得ないという絶望の心は、叔父を憎む心を倍加した。だから、彼は、いかにしたらば、叔父と会談して、叔父と食事を共にする機会を作り得るかを考え始めたのである。

ところが、その機会は思わずも早く作ることが出来た。それは彼自身が工夫した結果ではなくて、言わば「運命」の与えてくれたものであった。というのは久し振りに、まったく久し振りに、叔父から手紙が来て、来たる八月×日は、七十二の誕生日に相当するから、お前を招待して心ばかりの祝宴を開きたいという通知を受取ったからである。

 

(三)

 

これまで、叔父は一度も誕生祝いなど催さなかった。また、たとえ祝い事があっても滅多に彼を呼ばなかった。それなのに、今、叔父が誕生日の祝いをして、しかも彼を招くというのは、どうしたことであろう。彼はどう考えても、叔父の心の変化を説明すべき理由を見出すことが出来なかった。だから彼は、ただ叔父の死ぬべき時節が来たのであると思い、叔父は何も知らずに、かの夏虫のように、飛んで火に入る哀れな運命に見舞われたのであると思った。

彼はこの招待状を受け取るなり、新たにチフス菌を培養し、それでワクチンを作って、念のために注射した。そして、当日までに強い毒性を有するチフス菌を培養し、当日になって、叔父の大好物である葛饅頭を買い、そのひとつひとつの餡の中へ菌を注射して持って行くことにしたのである。先方へ行って、その饅頭を雇いの老婆に渡すと、老婆はそれを菓子器に盛って出す。それを叔父と二人で、食べれば少しも叔父に悪計を気づかれずに、チフス菌を飲ませることが出来るわけである。

彼は、恐ろしい土産を携えて叔父の家の門をくぐった。玄関へ出迎えたのは、見知りの老婆であった。彼は直ちに叔父の居間に案内された。

その日は妙に蒸し暑くて、彼の内心は何となく苛々した。彼は努めて平静な態度を装って、久し振りに叔父と対座した。

「やあ、よく来てくれたなあ、さあ、暑いから、楽にしてくれ」

いかにも機嫌良く老人は彼を迎えたが、その顔は少しやつれていて、回復期患者のそれのようであった。

「まことに久しくご無沙汰を致しました。時に、叔父さんは、どこか悪かったのではありませんか」

「うむ、さすがは医者をしているだけに、よく当たったなあ、実は先月病気をしたんだ」

「それはいけませんでした。ちっとも知らなかったものですから、お見舞いにも来ず、失礼しました」

「なに、わざと知らせなかったのだよ。しかしまあ、おかげでもと通りの元気になった」

「結構でした」と言いながら小太郎は、持って来た包みを開いた。「しかしそれでは、叔父さんの好物の葛饅頭も、召し上がって頂けぬかも知れませんねぇ」と、心もち声を震わせた。

「それはありがとう。いや、大いによばれるよ」

こう言って、叔父は彼の方へ手を差し出しながら、竹の皮の包みを受け取り、それを開いて手づかみで食べた。

彼はさすがにはッとして、急に物言うことが出来なかった。彼はいよいよ叔父が死ぬべき運命に見舞われたことを知ったのである。老人は、口を動かしながら言った。

「俺は、お前も知っている通り、昔から食べ物には無頓着だった。それが、先だってから事情あって、食べ物に気を付けるようになったら、却って病気に罹ったよ。いや、まったくつまらぬ目に遭ってしまった」

「病気は何でしたか?」

「なに大した病気ではなかったが、俺にとっては一生一度の大病だったよ」

「え?」と、彼の全身は緊張した。

「医者はパラチフスだとか言ったよ」

彼は思わず、大声を発しようとしたが、危うく踏ん張った。彼は目の前が真っ暗になる気がした。というのは、彼のせっかくの計画が、叔父のこの言葉によって微塵に砕かれたのだからである。パラチフスに罹ったものは、チフスに罹ることが稀である。たとえ罹っても多くは生命を失わない。

叔父は彼の顔色の変わったのも知らず語り続けた。「先月の始めから三週間ほど床に就いたよ。しかしおかげでもう何でも食べられるようになった」

なぜ、もっと早く殺害を実行しなかったか。と、彼の心に後悔の念がむらむらと起こった。「彼女」さえ彼の心を迷わさなかったら、と、思えば、今は、呪わしい彼女であった。

叔父は快活に続けた。「俺が病気前に食物に気を付けるようになったのは、急にこの世に執着が出来たからだよ。お前に話すと笑われるかも知れぬが、実はこの年になっても浮いた気がやまず、三年ばかり前に、妾を置いたのだよ。世間の口がうるさいものだから、ほかのところへ囲って置いたのだが、その女が妙にやさしい気性で、この春から、とうとう妊娠したのだよ」

「えッ?」と、彼は思わず大きな眼をむいた。彼の頭はその時、コノワタのように乱れた。

「驚くのも無理はない。何しろ、俺は昔から一度も子に恵まれなかったのだが、これで俺にも財産を譲る跡継ぎが出来たわけだ。だから生まれた子に対しても長生きをしてやらねばならぬと思って、身体を大切にしかけたのだよ。ところが、あべこべに、大病に罹ってしまった。けれどまあおかげで助かったから、今日は、病気の全快祝いと、跡継ぎの出来たお祝いを兼ねて、誕生祝いをしようと思って、一人しかない身内のお前に来てもらったのだ」

彼の全身は、山湖に立つさざ波のように震えていた。殺害の計画が失敗に帰したばかりでなく、当てにしていた叔父の財産さえも、今、目の前で消し飛んでしまった。彼は発狂しそうであった。ぱッと叔父に飛び掛かって、その咽喉を力まかせに絞めたいような衝動に駆られた。

しかし、叔父は反対にますます愉快げに語った。「そういうわけだから俺が病気になったとき、女をこちらへ呼んで介抱させたのだ。それから、女を入籍させて、正妻にしたのだよ。だから、今ではずっとこの家に同棲させているのだが、何とかして無事に産み落させたいものだと思う。それにしても不思議なのはこの年になって、よく子が出来たものだと思うよ。何しろ、俺はもう子の無いものとあきらめきっていたのだからなあ。お前はこの方面のお医者をしているが、こういうことは、世の中にたまにはあるものなのかい?」

こう聞かれても、小太郎はにわかに返答することが出来ず、ただ痙攣的に引きつったような笑いを漏らすだけであった。

そのとき、彼の後ろにあたる隣室に足音がしたかと思うと、叔父は急に笑顔を作ってその方を見て言った。

「おお、お前来たか。これが俺の一人きりしかない甥だ。小太郎、今お前に話した家内だ。会ってやってくれ」

小太郎は、鉛のように重たくなった首を振り向けて見た。

その瞬間、彼は脳貧血を起こして、めまいを感じ、思わず身体を後ろに反らせて畳の上に危うく両手をついて支えた。

そこにはちょうど敷居の向こうに、彼が今日まで夢にも忘れず探し求めた彼女、すなわち彼に子を授けられた「土屋弘子」が無邪気な笑顔を作って立っていた。

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