本文
恋魔怪曲(昭和3年発表)
空はどんよりと曇って、かの俳諧の宗匠たちが、むやみに嬉しがる朧月夜である。
その朧月に柔らかく照らしだされた大都会の、比較的人通りの少ない街をとぼとぼと力なげに歩いていく一個の人影がある。これぞこの物語に、かなり重要な役をつとめる羽黒男爵であって、シャンペンでほてった頬にあたる春の夜風は、常ならば男爵をして、言うに言えぬ快感を覚えさせるのであるが、今宵は、その夜風に、もし形があるものなら、噛みついてやりたいほど、いらいらした心をもって、つい今しがた、K会館の舞踏会から逃げるように抜け出して来たところである。
羽黒男爵といえば、読者諸君は、白髪の老人か、あるいは少なくとも中年の紳士を想像されるかも知れない。が、事実はその反対であって、今年二十五歳になったばかりの、至って温厚な、それでいて、いざとなれば、他人のためにでも、身骨を粉砕して厭わないという程度の熱情を蓄えた、まだ独身の美男子なのである。
華族社会ではそれほど幅は利かなかったけれど、肉親と言えば老いたる母堂一人きりで、かなりの財産家であるから、一部の人々の間には、何びとが男爵夫人になるかと、興味をもって噂され、舞踏会などに出席すると、男爵に向かって、あからさまに媚をよせる女も少なくなかった。
今晩、この青年男爵羽黒晋氏はS侯爵主催の舞踏会に招かれて、例のごとく、多くの若い令嬢たちにちやほやされながら、得意のワルツを踊って喝采を博したが、休憩の時間になってから、まったく思いもよらぬ不快な出来事に遭遇したのである。一口に言えばある予言者に手相を見てもらって、極めて不吉な予言を与えられたのである。そしてこの予言は、後に見事に適中したのであって、平素手相術などを問題にしていなかった青年男爵が、その夜に限って、いたくそれを気にしだしたのは、俗に言う虫の知らせとでも言うものであったであろうか。それはとにかく、作者はこの物語に最も大切な関係をもっている、その不吉な予言がいかなる状態のもとに行われたかを記しておかねばならない。
舞踏会に出席した男子は、いずれも西洋服を着していたが、たった一人、黒の羽二重の紋付羽織に、仙台平の袴を穿いた五十前後の紳士があった。この紳士こそは、郊外に極めて広い邸宅を持っている越野銀三郎という、華族仲間では誰知らぬ者のない易者であって、その予言が不思議によく当たるので、一般上流社会に多数の信者を持ち、かつてはよく政変のときなどに、大命が誰に降るかを占って、政権に恋々たる人々を喜ばせたものである。今はこの国に普通選挙が実行されて政党政治の基礎が定まり、越野銀三郎の出しゃばる余地はなくなったが、易者としての彼は、依然として尊敬され信頼されていた。色が浅黒く 眼が鋭く、頭髪を頸筋まで伸ばして、長い濃い口髭を蓄えた風貌は、初めて会った人にも一種の異様な印象を与えずにはおかなかった。よく言えば尊厳な、悪く言えば曲者らしい態度は、ある者には心からの信頼を促し、ある者には嫌悪の情を催させた。
羽黒男爵は、越野銀三郎を見るごとに心の中で、『虫の好かぬ奴だ!』と呟いた。忘れても越野に身の上などを占ってはもらうまいと決心していた。今晩も、男爵は群集の中に、彼の人を人とも思わぬ姿を見てかなりに不快な感じを起こしたのであるが、微妙な音楽が始まり、シャンドリエの光に照らされた紅緑の酒盃を傾けてからは、いつの間にか彼の存在をも忘れてしまった。ところで、休憩の時間になって、隅の方のオレンジ色の長椅子に腰かけていると数人のモダン・ガール・タイプの令嬢たちが、越野を引っ張ってきて、
「羽黒さん。ぜひ手相を見てもらいなさいよ」
と、口々に勧めたものである。というよりも、むしろ、命令したと言った方が、適当であるかも知れない。
もとより令嬢たちに、何の悪気があったわけではない。
令嬢たちは、越野の口から羽黒男爵が、どんな女を夫人に迎えるかを聞きたかっただけである。羽黒男爵が越野に好感を持っていないなどということは夢にも知らなかったのである。けれども羽黒男爵にとっては、それはひとつの難題であった。だから言わば本能的に、その左右の手を後ろに引き込めたのである。
すると令嬢たちは、この青年男爵が、そうしたことに一種のはにかみを持つとでも思ったのであろう。引っ込めた左の手を、みんなして無理に引き戻し、否応なし越野の前に突き出した。すべてその間、越野は、一言も発することなく、かすかに笑いを浮かべていたが、男爵がもはや致し方なしと観念したのを見るや、静かに、その手のひらを手に取って、しばらくの間、じっと眺めていたが、その顔には、だんだん恐怖の表情が浮かんできて、果ては、その額に汗の玉を並べて、苦しそうに呼吸した。
今までは冗談半分に易者の顔を眺めていた令嬢たちも、さすがに、この状態を見て、驚かざるを得なかった。
「どうなさったのです。越野さん」
令嬢の一人が堪えかねて、こう聞くと、越野は、はッと我に返ったような風をして手を離し、
「いや、何も申し上げないでおきましょう。どうも失礼しました」
言いながら男爵に一礼して去ろうとしたので、令嬢たちは左右からその袂を押さえて、口々に、
「ひどいわ、人の手相を見て、黙って行くのは卑怯だわ」
「いや、どうぞ堪忍して下さい。言うに忍びないからです」と、越野は当惑顔。
「なおさら聞きたいわ。ねえ、羽黒さん」
さっきから越野のただならぬ様子を見て、不吉な予感を抱くと同時に、少なからぬ好奇心をわかしていた青年男爵は、思わず大きくうなずいた。
「しかし」と越野は厳粛な顔をした。
「私が今、手相から判断しましたことは、男爵にとって、この上もない不快な、というよりもむしろ恐ろしいことなのです。ですから、いっそお耳に入れぬ方がよいと思ったのです」
「いや」と男爵は答えた。
「たとえどんな恐ろしいことでも言って頂きましょう。そう聞いた上は、なおさら言ってもらわねばなりません」
「でも、皆さんの前ではむしろ遠慮した方がよいと思います」
「いや、お嬢さんたちさえ嫌でなかったら、僕は構いません」
令嬢たちの中には、さすがに、男爵にとって不吉であるらしい予言を聞くのは気の毒であると思う者はあったが、やはり、好奇心がその場の空気を支配して、結局は、越野の予言を聞くことになったのである。
越野は再び男爵の左の手のひらを取り上げた。
「羽黒男爵、あなたは現に、ある令嬢と深い恋に陥っておられます。しかし、その恋は遂げられるまでには、二人以上の人が死にます。そしてあなたは、ある恐ろしい殺人事件の渦中に巻き込まれます。あなたの手相に現れたことはそれだけです」
呆気にとられた人々を残して、越野は向こうへ去ってしまった。令嬢たちは、しばらくは、言わば度肝を抜かれた形で、互いに顔を見合わせていたが、
「ひどいわ。あんな恐ろしいことを言いっぱなしにして行ってしまうなんて無情だわ。もう一度ここへ引っ張ってきましょう」
「それがいいわ」
揃って越野を引っ張りに行こうとする令嬢たちを、青年男爵はあわてたように制して言った。
「まあ、待ってください。引っ張ってくるに及びませんよ。当たるも八卦、当たらぬも八卦です。僕は少しも気にかけておりません」
「でもあんまりだわ。それにあの人の予言は不思議によく当たると言いますから」
「当たったところが、手相に現れた運命をどうにもしようがないではありませんか。僕はどんな事件にも喜んで直面します」
冷静に言うつもりであったのが、いつの間にか興奮して声が震えていたので、男爵は、照れ隠しにハンカチを取り出して額を拭った。
すると一人の令嬢は、からかうように、
「羽黒さん、おっしゃいよ。あなたの恋していらっしゃる方というのはいったいどなた?」
この言葉が導火線となって、令嬢たちは、一斉に同じ質問を発した。
男爵は一層興奮した。
「嘘ですよ。嘘ですよ。僕には恋人なんてありはしませんよ。だから、その他の予言も当てにはならないですよ」
ちょうどこの時音楽が始まったので、男爵はそれをよい機会として、逃げるようにダンス場を横切り、人の居ない廊下へ出た。そして、一本の柱にもたれて、言わば本当の我に返って、さっき越野から聞かされた予言をじっと考えてみた。すると、言うに言えぬ恐ろしさが胸の底からこみ上げてくるのを覚えた。
「あなたは現に、ある令嬢と深い恋に陥っておられます」この言葉は、実は嘘ではなかったからである。
「どうして越野は自分の恋を知ったのであろう?」と、考えてみても、もとよりわかろうはずはなかった。
「果たして、手相からそれを判断し得たのであろうか?」
どうやら、それを信じなければならぬような気持ちになったことを、男爵はむしろ不思議に思った。占いということを頭から否定して掛かっていたつい三十分ほど前の心が、今はすっかり影を潜めてしまったことを、男爵をむしろ怪しまざるを得なかった。噂に聞いた越野の神通力に、言わば、自分も魅せられたのであろうか。
男爵はこの時、わが恋人のことを思った。東雲伯爵の養女勢都子、これが、越野のいわゆる男爵が、「深い恋に陥って」いる令嬢の名であって、二人の恋は勢都子の養父たる東雲伯爵も、男爵の母堂巴子もまだ知らなかった。
東雲伯爵といえば一時は盲目伯爵の名で貴族院の最も有力な某政治団体の牛耳を執った人である。数年前持病の腎臓炎から網膜炎を併発して盲目となり、それでも構わずに政界に活躍していたが、最近は腎臓炎が増悪して、どっと床に就き、養女勢都子はその看護のために身を捧げ、今夜の舞踏会には出席しなかったのである。
「勢都子さん許してください。あなたがお父さんを看護していることに同情しないで、僕ひとりこうした舞踏会に来たために、越野の不吉な予言を聞いたのです。彼は二人の恋が遂げられるまでに恐ろしい事件が起こると言いました。けれども、二人の恋が遂げられぬとは言わなかったのです。僕はどんな苦しみにも堪えるつもりです。二人の恋を邪魔するいかなる障害をも破って見せます」
男爵は心の中でこう叫んだ。そして、今さらながら、舞踏会に出席したことを後悔した。もはや音楽も、人々の談笑も、何の喜びももたらさぬばかりか、むしろ苦痛に感じられた。しかも払おうとしても払い得ない不吉な予言は、ますます心をいら立たせたので、遂に男爵は、逃げるようにしてK会館を出たのである。
ふくよかな月光と、薫るような夜風とは、幾分か青年男爵の興奮を鎮静させた。そして、男爵は歩きながら、今一度、越野銀三郎の、あの気味の悪い予言を心の中で繰り返した。もしあの予言が、仮に他人に発せられたものとすれば、男爵は、その人に向かって、予言というものがいささかもあてにならぬことを極力説いてその人の無駄な心配を除く事に努めたであろう。また、たとえ自分の身の上のことであっても、誰も知らぬと思っていた恋愛のことさえ最初にすっぱ抜かれなかったならば二人以上の人が死ぬということや、殺人事件の渦中に巻き込まれるということぐらいは少しも歯牙にかけなかったであろう。
ところが、勢都子との恋愛を見抜かれたために、たとえ、越野銀三郎が単なる「当てずっぽう」を言ったとしても、また、あの際勢都子との恋だとは明言しなかったとはいえ、偶然にも、心に保っている秘密と越野の言葉とが一致したことによって、自分が平素持っていたはずの理性は粉微塵に砕かれてしまったのである。そして、越野の予言によって、今にも事件の突発しそうな予感がひしひしと胸に迫るのを覚えた。
「そんな馬鹿なことがあるものか。そんな怖ろしいことが起きてたまるものか」
羽黒男爵は歩きながら、幾度かこう呟いたが、心は越野の予言を無条件で受け入れようとした。そして、しまいには運命の絆とでも言うべきもので、自分の全身が十重二十重に取り囲まれてしまったような気がした。
後になって、その夜のことを回想して見ても、どこをどう通って帰って来たか、また、途中でどんなことに出逢ったか、少しも記憶していなかった。それほど男爵は、越野の予言に全精神を占領されてしまったのである。上流社会の人たちが越野の信者となっていることを嘲笑していた男爵は、いつの間にか言わば越野の傀儡になってしまったのである。
ふと、気がついて見ると、男爵はわが邸宅の近くに来ていた。そして半町(約50m)ばかり手前のところで、つと立ち止まった。自分の家でありながら、何かこう恐ろしいものが住んでいるような気がしたからである。昼間でも寂しい街のこととて、誰一人歩いているものはなかった。ただ、ほの白い月光のみが万物を洗って、あたり一面に墓場のような気味悪さが漂っていた。
羽黒男爵はすっかり酒の気を失った。もし昼の光をもってまともに眺めたら、その顔は壁のように蒼ざめていたであろう。男爵はしばらくの間、根の生えたように立ち止まって、見るともなしにわが家の方を見た。
すると今まではまったく気がつかなかったのであるが、よく見ると、門の前に、黒い人らしいものがうごめいていた。男爵はぎょッとした。
「何者だろう?」
こう叫ぶと同時に、思わずも前方に進んで行くと、黒い人影は門の前をゆるい歩調で行ったり来たりしていることがわかった。その瞬間、男爵の心の中を不吉の予感がさッと通り過ぎた。何かある事件が突発したらしいという想像が、頭の中に閃いたからである。
怖ろしいものに引き寄せられたときの、あの一種不可思議の心理をもって、何が起ころうともままよ、といった元気で、黒い影に近づいて行くと、先方も男爵の足音に気づいたのか、透かし見るような姿勢をしたが、
「おお、羽黒さまでございますか。お帰りを待っておりました」と、声をかけた。
「おお、君だったか」
それは東雲伯爵家の下男健三であった。彼は、左の頬に大きな瘢痕を持っていて初めて会った人はその歪んだ顔に一種の物凄さを感じるのであるが、その心は、伯爵家のすべての人から愛されているほど善良で実直である。勢都子の手紙はいつも健三によって運ばれてくるのであるから、健三を見た瞬間、男爵は救われた気持ちになった。
「お嬢さまからのお手紙でございます」
こう言って、健三は一通の封書を手渡したが、その時男爵は、もしや何か変わったことでもありはしなかったかと、声震わせて尋ねた。
「勢都子さんには別に変わりはないかね?」
「何だか、今日、少しお取り込みの事情があったようでございます」
「えッ? 伯爵がお悪いのか?」
「よくは存じませんが多分、そのお手紙の中に書いてあるだろうと思います」
男爵は健三と別れの挨拶をするのも、もどかしいように、手紙をつかんだまま、門の中へ走り込んだ。
恋人の手紙
晋様!
あなたがこの手紙を読んで下さるときの驚きを思うと、とても書く気にはなれないのですけれど、でも、絶対絶命の場合ですが勇気をふるってペンを走らせます。
ああ、私、何から書いてよいでしょう。恐ろしさと悲しさのために、あたまの中がごっちゃになったように思います。どうせ、書くことはしどろもどろでしょうが、どうか判読してくださいませ。
昨日までは、今朝までは、晋様! 私は世にも幸福な身でございました。それが今日、私の家に起こった出来事によって、私はどうやら不幸のどん底に突き落とされてしまいました。
晋様!
私たちの恋に、除くことのできぬ邪魔が入ったのでございます。と、申すと、あまりに唐突な言い草にあなたはむしろ私の言葉をお疑いになるかも知れませんが、それはまったく、私にとっても、思いもよらぬことでした。あぁ、晋様! 私はなぜ、私たちの恋を父に告げなかったかと、今さらながら後悔に堪えません。父にさえ告げておいたら、こうした恐ろしい運命に見舞われずに済んだかも知れませんのに、あぁ、それも、もはや取り返しのつかぬことになってしまいました。何という悲しい運命でしょう、何という儚い運命でしょう。
おお、私は、いつの間にかひとり合点なことを書きましたのね。まだ、私は、あなたに、今日、私の身に落ちかかってきた運命について書きませんでしたのね。
けれど、私は、何から書いてよろしいでしょう。この恐ろしい出来事をあなたにどう伝えたらよろしいでしょう。私は迷います。私の心は乱れます。ええ、ままよ、順序も何も構わずに、とにもかくにも真相をお知らせ致しましょう。
普様!
あなたはきっと、私が今まで、ある事情を告げなかったことをお怒りになるでしょう。けれどもそれは決して起こりそうもないことに思いましたので、あなたにも申し上げないでおいたのです。ひとつにはその事情を話して、あなたに心配させたくないと思ったからです。どうぞ私の心を察してくださいませ。どうぞ、私の心を憐れんでくださいませ。
あなたには、今さら私の父が義理の父であることを申し上げる必要はありませんが、義理の父であるがために、私は父の言うことに絶対に服従しようと思いました。父は私を実子以上に可愛がってくれました。私はいったい誰を実の両親として生まれて来たのか知りませんが、父は私に向かって、もし私に実の両親の名を告げたならば、父に対する私の感情に隙ができてくるからと言って、決して教えてはくれません。そして私自身も、今まで、それを他人から聞こうともしませんでした。時には好奇心にかられて、わが身の上を知りたいと思うこともありましたけれど、それは父の愛に対する冒とくであると思って決して尋ねようとしませんでした。ですから私は、実の両親に出会っても知らないのでございます。
父がなぜに私を養女としたかについては、あなたにいつぞやお話ししました通り、保という父の実子が五歳のときに何びとかに誘拐されて行方不明になったからであります。母は保さんを生んで間もなく死んだのだそうですが保さんが生きていれば、ちょうど、あなたと同じ年配だということです。その当座二、三年というもの、父は保さんが必ずどこかに生きていてそのうちには帰って来るだろうと口癖のように申していたそうですが、遂に、あきらめて私を養女としたのだそうでございます。ばあやのお勝は、保さんの乳母をしていたのですから、その間の消息はよく知っているはずですが、父から固く口留めされているので、決して、私が今この手紙に書く以上のことを話してくれません。
さて、父はその後政界に奔走して平穏な日のない有様でしたが、先年両眼の明を失ってからは、依然として政治をやめませんでしたけれど、さすがに気が弱くなり、同時に多少迷信深くなり、そして、いつの間にか、保さんが、そのうちには帰って来るという考えを抱くに至ったのであります。
ご承知の通り、父は華族社会に多数の信者をもっている予言者越野銀三郎さんの信者でございます。保さんが帰ってくるという考えを持つようになったのは、きっと、越野さんに占ってもらったためだと思います。私はあなたと同じく、占いというものを信じませんけれど、父はどうしたものか固く信じていたようであります。
これからが、今まで、あなたに隠していた事情なのでございます。あなたに初めてお目にかかったのは、今から八ヶ月ばかり前でございましたわね。何でも、そのまた半年ばかり前のことです。
ある日父は私を居間へ呼んで、厳粛な顔をして申しました。
「わしは今日お前に一生のお願いをするのだ。どうか嫌と言わずに聞いてくれ」
「お父さんのおっしゃることなら、どんなことでも聞きます」
「おおそうか。それは有難い。実は、わしは、かねてお前にも話した通り、そのうちには保が帰ってくると思う。もし、ここ二、三年のうちに帰ってきたら、お前は保と夫婦となってくれ。それがわしの一生の願いだ」
晋様!
盲目の父が真面目に頼む姿を見て、どうしてその場で拒む気になりましょう。ましてその時はまだあなたにお目にかからぬ前でございましたもの、私は、二つ返事で、父を安心させるために、父の願いを聞き入れました。
あなたから、嬉しいお言葉を聞いたとき、私はこのことをあなたに告げなければならぬとは思いましたものの、どうしてそれを話す気になりましょう。保さんはきっと死んだに違いないから決して帰ってくるはずがない。そうすれば父との約束はそのまま立ち消えになってしまう。こう思って私はとうとう今日まで、このことをお耳に入れなかったのです。それと同時に父にも、私たちのことを話さなかったのです。それが今になってみると、私の大きな大きな失策でした。まことに取り返しのつかぬ過ちでした。
こう言えば、もはや、あなたは、私に降りかかった恐ろしい運命が、何であるかをお察しになることでしょう。そうです、保さんが生きていたのです。生きていることがわかったのです。ああ、私の手は震えます。けれど、私は、ここまで書いてきた以上今日、私の家に起こった出来事と、それが起こるまでの事情をできるだけはっきりお知らせ致します。
ここ一月ほど前から、父は持病の腎臓炎が増悪して、父の年来ご懇意に願っている米山道参博士の診察を受け、米山博士の雇ってくださった看護婦が付き切っておりますが、どうもはかばかしく治って行かないばかりか、だんだん重くなっていくので、米山博士は、先日秘かに、私に向かって、警戒を要するとおっしゃいました。今父に死なれたら、私はどうしたらよいかと途方に暮れましたが、悲しんでいてはいけない。できる限りの看護をして、今一度回復してもらうように努力しようと決心したのでございます。
ところが、病気が重くなると共に、父は保さんに一日も早く会いたくなり、越野銀三郎さんを呼んで占ってみましたところ、意外にも三週間ないし四週間以内に、保さんが、ひょっこり現れると申しました。するとそれを聞くなり、父は非常に喜んで、一時は米山博士がびっくりなさったほど、軽快したのでございます。そして、もう今日は保が帰って来るか明日は姿を現すかと、まるでもう、保さんから電報でも来たかのように、越野さんの言葉を信じ切って、待ちに待っておりました。
私は多分越野さんが父の病の重いのを見て、到底三、四週間は持つまいと想像し、いわば、気安めに言われたものだと思いましたが、父があのように喜んでいるところを見ると、私までがしまいには、保さんが帰って来るような気がしました。
今からちょうど二週間ほど前のことです。ある夜父は私を枕元に呼んで人々を遠ざけ、もし保が帰ったら、かねての約束は言うまでもなく守ってくれるだろうなと念を押しました。
晋様!
この時の私の心の苦しかったことをお察しくださいませ。どうして哀れな盲目の父の喜びを覆す気になれましょう。あなたは私をさぞ不甲斐ないものとお思いになるかも知れません。けれど私は、その時もなお保さんは万にひとつも帰っては来ないものと思っていました。だから、父の問いに向かって、約束は固く守ると答えてしまったのです。
ところが、どうでしょう、保さんは、今日の午前九時頃に突然帰って来たのです。洋服姿の立派な青年紳士となって帰って来ました。まるで夢のような出来事です。一時はとても信じる気になれませんでした。しかし、父はもう、待ちに待っていたこととて、ベッドの上に起き上がるなり、思わず、保さんにすがりついて喜びを述べました。
「目の見えぬのが残念だ。目が見えたら、きっとお前の顔には、二十年昔の面影が残っていることがわかるのに」
こう言って父は、成人した我が子の顔を見られないのを嘆きました。それから、私は父によって保さんに紹介されましたが、もうその時は、恐ろしい運命の激変に心がうろたえて、まるで夢中で挨拶しました。
それから私はすぐさま米山先生に電話をかけました。すると先生は診察の時間であるにもかかわらず、すぐ飛んで来てくださいました。そして、父の病室で保さんに紹介されるなり、
「昔の面影がそっくり残っておりますよ。間違いなく保君ですよ」と申されました。
すると父は、何思ったか、しばらく真面目な顔をして、盲人に特有な思案の体をしておりましたが、
「そうだ。保には間違いないと思うが、それでも、念には念を入れなければならない。勢都子、早速ばあやのところへ電報を打って、すぐ帰って来るようにそう言ってくれ。ばあやがひと目見たら、直ちにわかると思うから」
書き遅れましたが、ちょうど一昨日、ばあやは、郷里のN市から、ばあやの親戚のものが死んだという通知がきて、お葬式に帰ったのです。で、父の考えでは、ばあやは保さんの乳母をしていて、身体や顔の特徴をよく知っているはずだから、言わば、ばあやに鑑定をさせようと思ったのです。あれ程信じきっていた父が、どうしてそのように警戒するに至ったか、私には察しがつきませんでしたが、とにかく、私が返信付きの至急報で電報を打つと折り返し返事がきて、明日はどうしても居なければならぬから明日の夜立つという返事が来ました。で、ばあやは明後日の朝着くことになっております。
普様!
以上が、私の頭上に落ちて来た運命の委細です。ただここに、たったひとつ望みのあることは、ばあやが帰って来て、帰宅した保さんは、本当の保さんでなく、偽の保さんだと鑑定するかも知れぬことです。私は、どうしたものか、本当の保さんでないような気がしてなりません。けれど、ばあやが本当の保さんだと言い切ったなら、恐らく父はそれを信用するに違いありません。信用したが最後、私は、父との約束を果たさねばなりません。と言って、今さら、私の恋を失うことは死にまさる苦しみです。あぁ、私はどうしたらよろしいでしょう。本当に迷ってしまいました。まったく心が乱れてしまいました。
さっき、私がばあやからの返事をもって、病室を訪れますと、父は保さんに向かって、
「お前が、誘拐されてから経てきた委細のことは、ばあやが帰ってからゆっくり話してもらおう。それまでは、まあ、ゆっくり休むがよい」
と、申しておりました。父は何となく保さんの正体を疑う様子に見えました。そして私に向かって
「明日は越野さんに来てもらうよう、電話をかけてくれ」と、申しました。恐らく父は越野さんにも保さんの鑑定をしてもらうのでしょう。もし越野さんが保さんに間違いないと言えば、たとえ、ばあやが保さんでないと鑑定しても、父は越野さんの言葉に従うかも知れません。華族の中でも有数な財産家たる東雲伯爵家が、あかの他人にでも奪われたらと、私はそのことも心配でならぬのです。
晋様!
どうぞ、私の苦しい立場に同情して、私の心持ちを責めないでくださいまし。保さんさえ贋者だとわかれば、恐ろしい運命の雲は見事に消えて行きます。いっそ私はばあやが帰ってくれなかったらと思います。越野さんが死んでくれたらと思います。そうすれば、確かに疑惑を抱いているらしい父は、今日帰って来た保さんを本当の保さんだと思わないだろうと思います。
あぁ、ばあやが帰って来ても、贋者だと言うように! 越野さんが占ってもその通りであるように! 私は今、心から天に祈っております。どうかあなたも、祈ってください。
この手紙は健三に持たせてやります。健三は何も知らないので、恐らく、この手紙をも、これまで通りの手紙と思っていることでしょう。いずれ事件の成り行きは、次々にお知らせします。
勢都子
× × × × ×
さて読者諸君! この手紙を読んだ羽黒男爵はどうしたであろうか。それはとにかく、これを発端に東雲伯爵家の世にも奇怪なお家騒動が展開して行くのである。
乳母の談話
東雲勢都子嬢の手紙を読み終わった青年男爵羽黒晋氏は、読者諸君の多分想像されるであろうごとくそのままじっとしていることができなかった。たとえそれが他人の身の上話であっても一肌脱がずにいられぬ性質であるのに、まして、自分の恋が叶うか、または破れるかの瀬戸際に立っては、その手紙を握ったまま、ただ煩悶のうちに、無為に暮らすことは到底堪えられることではなかった。
男爵は慌ただしく手紙をポケットの中にねじ込んで、電話室に走ってタクシーを呼んだ。
「急用ができて旅へ出掛けたと、お母様に話してくれ」
こう女中に言い置いて、男爵は門の外に出て、やがて駆けつけて来た自動車に飛び乗るなり、運転手に向かって、東雲伯爵邸の町名番地を告げた。
もとより、直接勢都子に会うつもりはなく、さっき勢都子の手紙を持って来てくれた伯爵家の下男健三に追いつくためである。自動車は十数分の後、東雲伯爵邸の前に来たが、男爵は、まだ健三が帰っていないであろうと想像し、自動車を半丁ほど後へ退かせて彼の来るのを待ち受けようと決心したのである。
果たして五分経たぬうち、健三は急ぎ足で帰って来たが、男爵が物陰から飛び出すと、しばらくは驚いて朧月夜の光に相手を透かし見ていたが、
「おお、羽黒様! どうして今頃?」
「君に聞きたいことがあって、後を追いかけて来たのだ」
「何でございますか?」
「ばあやのお勝さんの郷里の町名番地を聞かせて欲しいのだ、君が知らなければ、僕がここに来ていることは内緒で、勢都子さんに尋ねてきてくれないか」
「私が知っております」
「え、本当か、それはありがたい」
羽黒男爵は手帳を取り出し、街燈の傍まで健三を引っ張ってきて、健三の言うところを書き込んだ。
「どうなさいますのですか?」
「いや、委細は後で話す。このことは勢都子さんにも言わないでくれたまえ」
言い放って男爵は、健三に会釈し、自動車まで走って、
「C停車場へ!」
と叫んだ。
停車場へ着くと、都合よく八分後にN市行きの汽車が出るところであった。言うまでもなく羽黒男爵はばあやのお勝を訪ねようとするのである。
いよいよ二等車の一隅に腰を下ろすなり、羽黒男爵は、初めて落ち着いた気持ちになって、勢都子の手紙の内容を考えることができた。
勢都子の手紙は、男爵にとってはまったく青天の霹靂であった。K会館の舞踏会の席上で、平素虫の好かぬ易者越野銀三郎から、気味の悪い予言を語られ、少なからず気を腐らして帰ってくると、その予言はまだ、幾時間も経たぬうちに、どうやら現実の運命となって迫ってきた。
思いもよらぬ恋の障害物の出現!
自分たちの恋に、こんな風な邪魔が入ろうとは、夢想だにできなかった。夢想どころか、現になお、汽車の走る音を聞きながらも、何だか夢路を辿っているような心地がした。
死んだとばかり思われていた東雲伯爵令息が、時もあろうに、今頃忽然として現れるとは! すべてが一種のお芝居のように見えた。
そうだ! 確かにお芝居だ。
越野銀三郎が打ったお芝居に外ならぬ!
男爵はこう考えざるを得なかった。
越野は他の多くの貴族を籠絡したように東雲伯爵をも手玉に取ったのだ。妖術を使うか、それとも不可思議な魅力を備えているのか、とにかく一種の力をもって、越野は東雲伯爵の“魂”を己が意のままに操り、伯爵に実子のあることを知って、まず、その実子が帰って来るということを予言し、ついで、伯爵が盲目である事に乗じて、自分の腹心の男を替え玉として出現させたのに違いないのだ。そしてその目的はと言えば、伯爵家の財産を横領する事にあるのだ。
ああ、何という恐ろしい男であろう。
こう思うと同時に、羽黒男爵は、東雲伯爵の態度を歯痒く思わざるを得なかった。越野銀三郎の言葉を絶対に信じて、わが子の帰る日を待ちこがれ、たった一度も怪しまなかったというのは、いかに重病のために迷信的な気持ちになっているとは言え、あまりにも極端に思えてならなかった。
しかし、勢都子の手紙によると、さすがに、「保」と称する男の現れた時、伯爵は多少の疑いを抱いたと見え、無条件にて抱擁する代わりに、乳母の鑑定を待つに至ったことは、自分たちにとって、まだしもの幸いである。
乳母お勝の鑑定を待つまでもなく、現れた保は贋者に違いないのだ。
とは言うものの運命はいかなる方向に転ずるかもわからない。越野の魅力は、乳母をも風靡して、肯定的な鑑定をなさしめるかも知れない。乳母が肯定すれば万事休する訳である。
これはどうしても乳母に会って、あらかじめ警告をしておく必要がある。それに勢都子の手紙によると、乳母は保のことに関しても、勢都子自身のことに関しても、東雲伯爵と同じ程度によく知っているらしい。できることなら、乳母の口からいろいろの秘密を聞いて今回の事件の真相を突き止める材料としたい。
こう考えて、羽黒男爵は、とっさの間に、乳母訪問の決心を固めたのである、ひとつには自分の恋を成就するために、ひとつには東雲伯爵家を、正体の知れぬ人間に奪われないために!
「・・・・・・しかし、その恋が遂げられるまでには、二人以上の人が死にます。そしてあなたはある恐ろしい殺人事件の渦中に巻き込まれます・・・・・・」
K会館の舞踏会の席上で、額に汗の玉を並べて、さも恐ろしいものにでも出会ったかのように、荒い息づかいをしながら語った、越野銀三郎の、この気味の悪い予言が、男爵の耳の底に、やもりのようにくっきりとへばりついていた。
もし今回の東雲伯爵家の事件が越野によって計画されたものであるとすると、ことによるとこの予言は文字通りに実現されるかも知れない。こう考えると、すでにこうして乳母訪問を企てたことが、恐ろしい渦中に入る第一歩ではあるまいかという気がした。
甘んじて運命の指すところに従おう。さすがに青春の血をたっぷり湛えて、冒険心に富んでいる羽黒男爵は、我と我が心に鞭打って乳母に会ったときの場面などを想像した。
汽車は単調な音を立てて、走り続けた。興奮のために、到底眠れそうにないと思っていた男爵も、汽車の揺れ具合のよいのに誘われてか、いつの間にか、うとうととしてしまって、はっきり眼が覚めた頃には、車窓から眺める野原の面に、朝日の光が豊かに浴びせかけられていた。
汽車がN市に着いたのは午前八時を過ぎていた。男爵はただちに駅前の自動車に乗って、昨夜健三から教えられた宛名を運転手に示した。その宛名はN市の東郊であったが、目的の家に着くと、当のばあやは、市中の親戚の家に昨日から泊りがけで葬儀の手伝いに行っているとのことであったので、更に自動車をその方へ走らせ、九時少し過ぎに、男爵は乳母のお勝に会うことができたのである。
その家は商店であって、もちろん、商売は休んでいるが、何となく取り込んでいる様子であった。乳母は男爵の訪問と聞いて、初めは怪訝な顔をしたが、男爵とは一、二度会ったことがあるから、とりあえず、裏の離れ座敷に招じ入れて、用向きを尋ねたのである。
お勝は顔付きから見て六十に近いと思われたが、不思議にも頭には一本の白髪も見られなかった。ぷっくり肥って皮膚が艶々して、「しっかり者」という感じがした。
男爵は自分の用向きを告げるためには、どうしても自分と勢都子との仲を語らねばならず、それはどうも言いにくかったが、幸いに勢都子の手紙をポケットに入れていたのでそれを取り出して読むことにしたのである。そうすれば、東雲伯爵家に起こりつつある事件を詳細に告げることができ、質問のきっかけをも作り易いからである。
まさか自分の留守中に、そのような大事件が起こっているとは知らなかったので、乳母は男爵が手紙を読み終わってからも、一時ぽかんとしていた。
「昨日お屋敷から電報を頂きました時、どういう事情か詳しいことはわかりませんから、今夜出発するようにお返事致しましたのでございます。そんなことでしたら、何とかして今朝にでも立つ都合をすればよろしかったものを、しかし、今になっては、もうどうも致し方ございません」
やっとこう言ったのを、男爵は畳みかけて尋ねた。
「今の手紙で、勢都子さんと僕との仲はわかってくださったことでしょう。それで、僕がこちらへ来ずにおれなかった理由もわかってくださったでしょう。あなたが帰ってからの役目は大変重いのです。あなたは、昨日帰って来た人を本当の保さんだと思いますか?」
「私は坊ちゃまが、どうしても生きておいでになると思っているのでございます。その内にはきっと帰っておいでになると思っていたのでございます。それですから、越野様が占ってくださった時は、私もともどもに喜びました。昨日お帰りになったというのが、あるいは本物の坊ちゃまであるかも知れません」
お勝のこの言葉に、男爵は多少の落胆を感じないわけにはいかなかったが、越野の魅力が、このように乳母にまで及んでいるかと思うと、一層腹立たしくなってきた。
「顔を見ただけで、保さんだということがわかりますか?」
「さあ、それはどうかわかりません。坊ちゃまは今年二十五におなりになるはずですが、五歳のときにお別れしたきりですから、昔の面影はもう残っておらぬかも知れません」
「たとえ、面影が残っていても、他人の空似ということがあるから、しっかり断定はできぬ訳ですね。何か、見覚えのしるしでも、保さんの身体にありませんか?」
「ございます」
「え? ある?」と、男爵は思わず膝を乗りだした。
「はい、右の足の裏に、ちょうど楓の葉のような形をした、薄い紅い痣がございます」
「伯爵もそれをご承知でしょうな」
「ご存じないと思います。奥様のおっしゃるのに、陰に痣のある者は幸福で、その痣のあることはなるべく人に知らさないがよいと申してみえましたから。ああ、それだのに坊ちゃまは幸福どころか、とんだ不幸福にお遭いになったのでございますもの、世の中の言い伝えなどというものは、本当にあてになりません」
「そうすると、右の足の裏を見れば、言わばはっきりした鑑定が付くという訳ですね。どうぞ、昨日帰った男に痣のないようにしたいものだ」
この最後の言葉を、男爵は独り言のように発したのであるが、お勝はそれを聞き咎めた。
「それはまたなぜでございますか?」
「こんなことを言ってはまことにおかしいですが、僕は勢都子さんを他人の手に任せたくないのです。もし、昨日帰った男が、本当の保さんであるなら、勢都子さんとしてはお父さんの意志に従わねばならぬかも知れません。本当の保さんの帰宅は、伯爵家にとってはこの上もなくめでたいことですが、僕たちにとっては悲しいことです」
「そうおっしゃればそうですけれど、結婚は双方の合意でなくてはなりませんから、坊ちゃまがお嬢様と一緒になることを承諾なさらないかも知れませんし、それに、坊ちゃまが、お嬢様とあなたとの仲をお聞きになったら、黙ってはおいでにならぬと思います。坊ちゃまばかりでなく、御前様とても、お嬢さまの秘密をお聞きになれば、無理にとはおっしゃらぬかも知れません」
お勝の言うのも道理であった。男爵は、とかく冷静を欠きがちであったことを恥じた。
「それはとにかく、僕はどうも、帰宅した保さんが本物でないような気がするのです。勢都子さんの手紙によると、伯爵も幾分かは疑っておられるようでもあるのです。僕の考えでは、伯爵の重病を見かけて、誰かがある陰謀を企て、その結果、保さんの替え玉が現れたのではないかと思うのです」
「陰謀とおっしゃいますと?」
「伯爵家の財産を横領する・・・・・・」
「誰がでございますか?」
「さあ、それはもとよりわからんが、僕は第一に越野を怪しいと思うのです」
「まあ、越野さんを!」と乳母は驚いて、
「越野さんは決してそういうことをなさるお方ではありますまい。世間でいろいろなことを評判しますけれど、それはあの方の占いがあまりによく当たり過ぎるからだろうと思います。未来のことまでが手に取るように見えるので、それでかえって恨みをお受けになり、中傷なさるのではありますまいか。これは、御前様がいつもおっしゃっていることでございます」
言われてみればそう解釈のできぬことはないけれど、越野の、人を人とも思わぬ態度を思い浮かべると男爵の胸には、ただ反感のみがむらむらと湧き募るのみであった。
そこで男爵は、お勝に向かって、昨夜K会館で、越野に手相を見てもらったことから、越野の気味の悪い予言を語った。
「まあ、そんな恐ろしいことを」
こう言った乳母お勝の声には、何となく力がなかった。
「そういう訳で、越野は僕と勢都子さんの仲をどうやら知っているらしいのです。だから、万事が、越野の計略で行われているとしか思えないのです」
「でも、越野さんに限ってそんなことはないと思います」
「越野が主謀者でないとすれば、少なくとも越野は主謀者に頼まれてやっているでしょう」
「そうしますと、その主謀者というのは?」
「さあ、それは僕にはわからないです。それを、あなたに聞こうと思ったのです」
「私にはなおさらわかりません」
「それではお尋ねしますが、いったい勢都子さんは誰の娘ですか、伯爵の親戚からもらったのですか、それとも縁のない他人からもらったのですか?」
この質問に、お勝ははたと当惑したらしかった。
「それは、お嬢様にさえ申し上げないでいることですから」
「決して勢都子さんにも話しませんから、聞かせてください、考えようによっては、そちらの方に主謀者があるかも知れませんから」
「そんなことは断然ありません」と、お勝は力を込めて言った。
「それは私が保証します」
「それではなおさら、聞かせてください。僕は伯爵家を思い、勢都子さんを思えばこそ、何かのお役に立ちたいと思って聞くのです」
お勝はそれでも容易に口を開かなかったが、遂に男爵の熱心に動かされた。
「どうかそれでは固く内緒にしてくださいませ。お嬢様にはお父様だけしかありません。そのお父様は、ほかならぬ米山道参博士でございます」
二つの死
お勝のこの答えは、男爵をして、我が耳を疑わせた、お勝は続けた。
「御前様と米山先生とは兄弟のようにご懇意なのでございます。そこで、坊ちゃまの行方が、いよいよわからなくなったとき、お嬢様をお貰いになったのでございます。御前様の万一の場合には財産はお嬢様のものとなり、米山先生が後見をなさることに遺言状ができております。舟木という弁護士が作って、私も証人として立ち会っております。そういう訳ですから、米山先生が、陰謀をなさるというようなことは夢にも思えないのでございます」
して見ればやっぱり越野が主謀者であろうか。男爵はこう考えたけれども、もう口に出しては言えなかった。
それから羽黒男爵と乳母のお勝との間にどんな問答があったか、また羽黒男爵はそのまま帰宅したかどうか、それは追々後にわかることでもあるから作者は筆を移して、その同じ時刻に、東雲伯爵邸にいかなる事が起こったかを物語ろうと思う。
盲目伯爵東雲義正氏が、久しく失われていた我が子の出現によって、精神に非常な興奮を与えられたことは言うまでもないがその興奮は病のためにかえってよくなかったとみえ、令嬢勢都子がその翌朝早く病室を訪ねた時には、父の顔色が一晩中に急に衰えたことを認めた。
伯爵はベッドの上から力ない声で言った。
「勢都子、わしは急に気力が衰えたように思う。ばあやの帰って来るまでには生きておれないかもしれない」
途切れ途切れに発せられる言葉が、いかにも苦しそうだったので、
「お父さま、それではすぐ米山先生に来ていただきましょうか?」
「いや、今すぐでなくてもよい。それよりも越野さんに来て欲しいのだ。もうじき来てくださるだろうな」
「はい、昨晩電話をかけましたら、八時頃にお伺いするとおっしゃいました」
こう答えながらも、勢都子の心は穏やかでなかった。越野が来て、占いによって保を本物であると鑑定したならば、父はそれを信じてしまうかも知れない。伯爵はもとよりそれとは察せず、
「そうか、時に保はまだ寝ているか?」
「はい、起こして来ましょうか?」
「起こさなくってもよい。越野さんが来てくださるまでは会わぬつもりだ。時に、勢都子、お前に内緒でちょっと耳に入れたいことがある。看護婦にしばらく席を外してもらってくれ」
勢都子が目くばせすると、看護婦は病室を出た。
それから、伯爵は、勢都子の近づけた耳の中へ、およそ五分間も何やらささやき込んでいたが、もとよりそれは聞き取れなかった。ただ勢都子の顔に軽い驚きの表情と、決心の色とが表れたことを書き加えておくことにしよう。
午前八時、問題の易者越野銀三郎は、例のごとき羽織袴のいで立ちで現れた。勢都子が直ちに病室に案内すると、伯爵は声をあげて喜んだ。越野はいきなりベッドに近づいて、伯爵の左の手を取って、その手相を見たが、何思ったか、驚愕―――というよりもむしろ恐怖に近い顔付きをした。勢都子は、越野がどんなことを言い出すかと、はらはらしたが、何も言わないで、しばらく伯爵の顔をじっと眺めた。
「越野さん、昨日保が帰って来ました」
伯爵は割合に、はっきりした声で言った。
「そのようですねえ」と、越野の答えは意外にも少しの変調をも帯びていなかった。
伯爵も、やや張り合いの抜けた様子であったが、
「悲しいことに、わしは盲目だから、保の顔を見ることができません。あいにく乳母が留守で明日の朝しか帰りませんから、その前にひとつあなたに保が本物かどうかを占っていただきたいと思います」
越野はにっこり笑った。勢都子は越野がどんな返事をするかと固唾を飲んだ。が、越野の返答はまったく意外であった。
「その占いだけは遠慮しておきましょう。ばあやさんの鑑定が一番確かですから、明日の朝まで待ちましょう」
勢都子は救われた気持ちになったが、伯爵の顔には確かに失望の色が浮かんだ。しかしその失望の色はすぐさま消えた。そして伯爵は何事か無言でうなずいた。
越野銀三郎はそのとき伯爵の耳に口を近づけて二言、三言ささやいた。がやがて伯爵は、勢都子と看護婦とに病室退去を命じた。
およそ十分も過ぎてから、越野は病室を出て電話をかけに行った。すると二十分ほど過ぎてから、伯爵家に意外な人がやって来た。
意外な人とは?
舟木弁護士その人であったのである。
もし羽黒男爵がこの場に居合わせたら、何と考えるであろう? 男爵ならずとも、読者諸君は、舟木弁護士の出現によって、伯爵が、その遺言状の書き替えを行うであろうことを想像されるであろう。しかもその遺言の書き替えが、越野の勧めによったものであろうことは、やはり推定するに難くない。越野はそもそも何を企み、何をなそうとするであろうか。羽黒男爵ならずとも少なからず気が揉めるではないか。
が、何も知らぬ令嬢勢都子は、ことによると我が身の運命に重大な変化が起こるかも知れないということなど、まったく夢想だにしないで、快く舟木弁護士を迎えて、病室へ案内した。
それから、越野と舟木弁護士とはおよそ四十分ほど病室を出なかったが、やがて、舟木弁護士が出てきて勢都子だけを病室に呼び入れた。そして舟木弁護士は勢都子に、伯爵が新しく遺言状を作成したことを語った。
「勢都子」と、伯爵は割合に力のこもった声で言った。
「わしはもうこれで、いつ死んでもよい。今作った遺言状は、わしの死後適当な時機に発表されるわけだが、すべてお前のためを思って、こしらえておいた。万事は越野さんに依頼してあるから、何事も、越野さんの指図を受けて事を運ぶがよい」
「保さんのことはどうなりましたか?」と、勢都子は不安げに尋ねた。
「保のことか、保は乳母の鑑定に任せればよい。もしばあやが鑑定できなかったら、確実な証拠の出るのを待って決めるがよい。そしてもし本物であったら、遺言状とそれから・・・・・・」
ここまで語った伯爵は、突然口をつぐんだ。見ると顔色がただ事ではない。勢都子は慌てて、看護婦を呼びに行き、とりあえず、カンフルの注射を行ったが、もはや時機が遅かった。
かくのごとく、東雲伯爵は、容態の激変によって、我が子と称する男に、最後の言葉を交わす暇もなく永眠したのである。
それからの伯爵家の混雑は、読者諸君の推察に任すであろう。勢都子は悲しんでいる暇もなく伯爵の言葉によって、越野と相談して事を運んだがその実、彼女は羽黒男爵に死ぬほど会いたかった。
遺言状には、果たしてどんなことが書かれてあるであろうか。もしや保さんが本物であったら、結婚をして欲しいというようなことが書いてありはしないであろうか。などと考えると、乳母のお勝が明日の朝帰宅するまでは、やはり安心することができなかった。
急を聞いて駆けつけて来た米山博士は、伯爵の生前に今ひと目会いたかったと大いになげいた。勢都子は今までとは違って、何となく博士に対して、よそよそしい態度をとった。もし彼女が、米山博士を自分の父であると知ったならば、この際、どんなにか心強く思ったであろうに、知らぬこととて、それはまったく歯痒く思われるような応対振りであった。
多分、看護婦から聞いたことであろう。ほどなく博士は、顔色を変えて勢都子のところへやって来た。
「舟木弁護士が来られたそうですが、伯爵は死ぬ前に遺言状でも書き替えられたのではありませんか?」
「おおせの通り、新しく遺言状を作りました」
「そ、それは、どんな遺言状でしたか?」
「存じません。いずれ、明日あたり、舟木さんが発表なさることと、思います」
米山博士はまだ何か言いたげであったが、その時ちょうど越野が近づいたので、口をつぐんで会釈した。しかし、その越野を眺めた眼は、まったく憎悪そのものであった。恐らく、米山博士は越野の勧誘で伯爵が遺言状を書き替えたものと推定したのであろう。
かくてその日は暮れた。通夜のこと、葬儀の手続きそれ等は物語の本筋と関係のないことであるから一切省略することにしよう。
夜が明けた。ばあやの帰る朝である。
勢都子は目の周りを赤くしながら、さぞばあやは父の死を聞いてびっくりするであろうと、とりとめのないことを考えながら、自動車が着くのを今か今かと待ち構えた。
やがて門前に自動車の音がした。勢都子はもどかしくなって、門まで迎えに出た。
「まあ、ばあやとしたことが、よほどくたびれたとみえて、家に着いたのも知らずに眠っている」
自動車のガラス窓を通じて、ばあやの寝姿を見た勢都子は、やがてドアを開いて運転手が揺り起こしにかかったのを微笑して眺めた。
「や、や、この人は、この人はいつの間にか死んでいる!」甲高い運転手の声が、箱の中から突っ走った。
保の悲嘆
読者諸君は、この物語で最も重要な役目をなすべき人物すなわち東雲保は、いったい何をしているのかと不審に思われるであろう。ことによると前回までに保を出さなかったことについて、作者を非難されるかも知れない。けれども、事情をお聞きになったならば、なるほどと合点してくださるであろう。
二十年振りにわが家に帰った保は、いったん盲目の父にすがりつかれて喜ばれたものの、米山博士が現れて
「昔の面影がそっくり残っておりますよ。間違いなく保君ですよ」と証言したとき、何を思ったか伯爵が乳母に鑑定させると言い出したので、それからというものは与えられた一室に閉じこもって、ひたすら謹慎している様子であった。我が家とは言いながら、言わば借りて来た猫のように振舞ってご飯を運ぶ女中たちにさえ同情を寄せられたほど謙遜な態度を守った。
すでに記したごとく、彼は父伯爵の臨終にも立ち会うことができなかった。ようやく父の死後一時間以上を経て、予言者越野銀三郎に案内され、涙ながらに、変わった相好を拝して香を焚いたが、決して余計な口を利かず、人々の邪魔にならないように注意して、行儀正しく念仏を唱えた。
すらりとした背、面長の顔。眼がぱっちりして鼻が高く、華族の若様としては申し分なき容姿であった。よく見ると、故伯爵に似たような所があって、もし故伯爵が盲目でなかったならば、恐らく一目で我が子と断定したのではあるまいかと通夜の人々が思ったほど、通夜の場における保の慇懃な動作は、見る者に好感を与えた。彼の心の中はもとよりわからぬけれど「乳母さえ来てくれれば、人々の疑惑はたちまち消失するのだ」と言ったような落ち着きが、ほのかに認められたのであった。
果たしてこの想像は正しかった。それだけに、乳母の死を知った彼の驚きは大きかった。乳母の死体が自動車から吊り出されて、とりあえず一室に運び入れられたとき、彼は文字通りに乳母の死体に取りすがって、人目をはばからず男泣きに泣いた。単に泣くばかりではなく、あたかも生きた人に話しかけるように、浄瑠璃作者のいわゆる「掻き口説き」を行うのであった。
「ばあや、なぜお前は死んだのだ。お父さんにさえ疑われた私は、天にも地にもお前ひとりが頼りだったのだ。お前に限っては、よもや私を疑いはすまいと確信していたのに、お前に死なれた私はこれからどうしたらよいのだ。お前は私の身体の一部分にある目印を、きっと知っていてくれたであろう。たとえお前が、私の顔をひと目でそれと認めることができないでも、その目印さえ見せたならば、一も二もなく判断が付いたであろうに、お前が死んだ以上、誰にその証拠を示したとて、もはや何の役にも立たぬじゃないか。目の見えぬお父さんが私を疑ったのは無理もないけれど、今になってはかえって恨めしい。この一番大切な時に、お前が死ぬという法はない。なぜ死んだのだ」
「なぜ死んだのかは、私が診よう」
こう言って、入って来たのは米山博士であった。勢都子をはじめ、保の悲嘆の言葉を素直に聞いていた人々は、一斉に新来者の方に振り向いた。昨日米山博士は、越野銀三郎に会ってから、常になく憤慨し、通夜にも残らないで帰ってしまったが、今朝もなお、その目を血走らせて、その声さえいつもの博士に似合わず、妙に尖って聞こえた。
保は涙の顔を上げて席を譲った。博士はしかしながら、保の方を見ないで、勢都子に向かって言った。
「ばあやが自動車の中で死んでいたそうですね。この最も大切な時に死ぬなんて、どうも偶然とは思えないではありませんか」
勢都子は咄嗟の場合で、何と答えてよいかわからなかった。
「死因は徹底的に調べなければなりませんよ」
こう言い放って、米山博士は乳母の死体に近づき、まず脈どころを診て、しかる後、唇、目蓋をあらためた。乳母の顔には少しの苦悶の影もなく、まったく眠っているようであったが、米山博士の顔色は漸次険悪になっていって、あたかも予期していた通りだと言うように二、三度うなずき、さらに胸部をかき開いてじっと見つめていたが、
「勢都子さん、残念ながら、ばあやは普通の病気で死んだのではないようです」
「え? と申しますと?」
「どうやら、他人の手にかかって殺されたようです」
「まあ!」
「はっきりはわかりませんが、毒殺されたらしいです。これから警察へ届けて犯人を捜し、殺害の動機を知らなければなりません」
勢都子は顔色を変えた。今までは、保が本当の保でないようにと希望していたのみであるが、今乳母が殺されたと知るに及んで、我が家に覆い被さっている暗雲、我が身に伸ばされつつある悪魔の手に震えおののいた。何となれば、乳母の変死は、保の出現と何等かの関係がなくてはならぬからである。
米山博士は勢都子の言いためらっているのを見てさっきから悄然として、座っている保に向かって言った。
「保君。さぞ残念だろう。乳母が無事で到着したならば、君はめでたくこの家の嗣子として落ち着くことができたであろうが、乳母を殺した者は、きっと、乳母と君とを会わせては困る者の仕業に違いない。
「ばあやは真実、殺されたのですか?」
「確実な死因は解剖の上でなくてはわからないが、ざっと調べたところでは毒殺だと思われる」
「誰の手にかかったか知れませんが、犯人は確かに伯爵家の敵です」
こう言って死体の方を向き、
「ばあや、お前は恐ろしい陰謀の犠牲となったのだ。お前のかたきは必ず私がとってやる。勢都子さん、どうか、すぐさま警察へ通知してください」
勢都子はうなずいて、重苦しい空気の部屋から出た。彼女はふと、下男の健三に相談して、都合によっては健三を警察へ走らせようと思い、下男部屋を訪ねたが、健三はどこへ行ったか姿を見せなかった。さっき、乳母の死体を自動車から家へ吊りこんだ時、彼は率先して働いたのに、どうした訳か女中に庭の方を捜させても居なかった。
勢都子は何となく悲しい思いをした。伯爵が死に、乳母が死んで、頼りになるのは健三ひとりであるのに、この大切な時に健三が居ないのは、むしろうらめしかった。健三の顔は瘢痕のために見苦しく歪んで、初見の人は薄気味悪く感じるくらいであっても、彼の心は正直そのものであって、真に信頼するに足る人間であった。健三は恐らくまだ乳母の死が他殺であることを知らないであろう。もし彼が真実を聞いたならば、彼こそ本当に、乳母のために復讐しかねないであろう。
勢都子が健三の不在を悲しんだのには、もうひとつ他に理由があった。言うまでもなく健三を通じて、乳母の変死を恋人なる羽黒男爵に知らせたかったのである。彼女は一昨夜男爵に送った手紙が、男爵をしてN市までも走らせたことを知らなかったから、男爵はさぞ、その後の成り行きを聞きたがっているだろうと思った。乳母が変死したことを言ったら男爵はどう思うだろう。
乳母の変死をどう思うどころか、この乳母の変死が後に男爵を苦境に導くとは夢にも知らず、勢都子は健三が現れるのを、焦燥しながら待つのであった。
けれども、健三は外出でもしたのか、十分や二十分では帰って来そうもなかった。で、勢都子はやむを得ず、自ら電話室へ行き、警察に事情を報じた。
勢都子が電話室を出て玄関の方へ来ると、ちょうどそこへ、予言者越野銀三郎の和服姿と、舟木弁護士の洋服姿が現れた。勢都子が取りあえず、乳母が死んで到着したこと、しかも米山博士の診断によると、毒殺されたらしい形跡があるので、今、警察へ報知したことを語ると、越野は眉をひそめて聞いていたが、舟木弁護士と意味あり気に顔を見合わすなり、
「困ったことができましたね。乳母さえ無事に帰ってくれれば、立ちどころに事件は解決すると思ったのに、こうなると、また事が至って面倒になります。しかし、できたことは致し方ありません。けれど、警察の力で果たして事件の真相がわかるだろうか」
越野はその浅黒い顔をうつむき加減にして、右手を上げて首筋まで伸びている黒い髪をつかんだ。彼が物を考えるときにする癖である。それからその長い口髭を二、三度捻って、
「それはとにかく、これから、皆さんの前で、伯爵の遺言状を発表しましょう」
勢都子は越野と弁護士とに従いながら、いったい越野という男が伯爵家にとってためになる人であろうか、それともその反対であろうかを考え、判断に迷った。父伯爵は死ぬまで越野を信頼したらしいが果たして伯爵に買いかぶりはなかったであろうか、もし彼女が羽黒男爵の気持ちを知ったならば、一も二もなく、男爵と共に越野を恐ろしい人と観たであろうが、昨日からの越野の態度ではそれほどの悪感が持てないような気がした。しかし、越野が伯爵の心を動かして作らせたらしい遺言状の内容を見たならば、恐らくそれによって最後の断案を下し得るだろう。それと同時に我が身の運命も決するであろう。父は臨終に「お前のためを思ってこしらえておいた」とは言ったが、果たしていかなる事項が記されているであろうか。こう思うと、彼女の胸は、常になく激しく高鳴った。
遺言状は伯爵の遺骸が安置されている隣の部屋で発表された。集まった者は、比較的濃い親戚関係にある二、三人、伯爵の生前懇意にした数名。これらの人々はいずれも通夜に列して、まだ伯爵家に滞在していたのである。それから肝心の保、米山博士、勢都子、もし乳母が生きていたならば、乳母もこの場に列席したであろうにと思って、勢都子は急に悲しくなった。
やがて遺言状は舟木弁護士によって読み上げられた。ここにはその一々の条文をそのまま伝えないで、その大意を記すことにしよう。
第一に、これまでの遺言状は無効であること。第二に、伯爵の死後、伯爵家の財産は、いったんことごとく勢都子の名義とすること。第三に、もし帰宅した保が真の保であるという証拠が出たならば、勢都子は財産の三分の一を保に分かち与えること、第四に、勢都子は誰と結婚するにしても、必ず越野銀三郎の同意を得ること。
遺言状の肝要な点は以上の四項であった。米山博士が勢都子の父であることを知っておられる読者諸君は、定めし、第四項を読んで不審に思われるであろう。何ゆえに故伯爵は米山博士の代わりに越野銀三郎を選んだのであろうか。そこには何かしかるべき理由があるのか、それともまったく越野の言うままになったのであるか。
財産はことごとく勢都子の名義になるというのではあるけれど、勢都子の結婚すべき人が、越野の承諾を得なければならぬとあっては、勢都子が独身で暮らさない限り、そこに大きな障害物が築かれた訳である。もし、これを羽黒男爵が聞いたならば何と思うだろうか。男爵ならずとも、読者諸君は、勢都子の運命にひとつの暗い影が投げられたことに気付かれるであろう。
その暗い影は、当の勢都子にも察し得られたと見えて、彼女の顔には言うに言えぬ憂色が漂った。彼女は、遺言状の中に、もしや真実の保と結婚せよというようなことが書かれてありはしないかと心配したのであるが、その心配は、別の心配によって置き換えられねばならなかった。もし羽黒男爵との結婚に越野が同意しなかったならばどうであろう。父は恐らく我が身のためを思って、このような遺言状を作ったのであろうが、その父の好意はもったいない言い草であるけれど、まことに有難迷惑である。それにしても、父の生前に、羽黒男爵との関係を耳に入れて置かなかったのは、返す返すも後悔の至りである。と言って今さらどうにも仕様がなく、ただもう運命の導くままに任せるよりほかはないとあきらめるのであった。
勢都子の憂色とは異なり、米山博士の顔には憤怒の色がみなぎっていた。博士は勢都子に全財産を譲られたことについては、もとより異議のないはずだけれど、自分をのけ者にした伯爵の意志には恐らく恨みを抱いたことであろう。ことに越野が自分の位置に取って代わったことは、少なからず、癪に障ったらしかった。
保はというと、遺言の内容を聞いても、いささかも顔色を変化させなかった。彼は謹厳な態度で、熱心に耳を傾け、並みいる人々に好感を与えた。口には言わないけれど、自分が突然帰宅して、伯爵家を騒がせたことは誠に申し訳がないという風に、言わばすこぶる恐縮の体であった。
遺言状の発表が済んで、人々が漸次に部屋を去った時、勢都子と並んで出た米山博士は勢都子を人なき所に呼んで言った。
「勢都子さん、あなたは今の遺言を聞いてどう思います。その背後に、恐ろしい越野の手が働いていると思いませんか、越野は危険人物です。越野は保君が現れると予言し、その予言通り保君が珍しくも帰って来ると、まるで保君が偽者でもあるかのように伯爵に言いつけ、遺言状を書き替えさせたのです。考えてもご覧なさい。あなたは越野の承諾を得なければ誰とも結婚ができぬではありませんか。言わば、あなたは越野の意中の者を押しつけられないとも限らぬではありませんか。それに折角帰って来た保君にしても、随分残酷な遺言だと思います」
「それでは先生は保さんを真実の保さんだとお思いになりますか?」
「それはもとより、私にわかるはずがありません。ただ、初めて見たとき、保君らしいと思っただけです。けれども、乳母が殺されたことをあなたは何と考えます。乳母が来て、真実の保君だと鑑定したならば、それこそもう動きがとれなくなります。だから、だから、乳母を除いたのです」
勢都子はこの恐ろしい言葉を聞いて、思わず米山博士の顔を見上げた。いろいろな考えが一時に胸を襲った。乳母がもしある計画のもとに殺されたとしたならば、乳母に保が偽者だと言われては困るから殺したとも考えられるではあるまいか。勢都子は、こう反駁してみたかったけれど、その勇気がなかった。
「あなたは昨日から、私に対して、これまでと違った素振りをなさるようですね。どういう理由か知らぬが、私はきっと、あなたも越野に何か言われたのだろうと思います。ね、そうでしょう?」
勢都子はいよいよ物が言えなくなってうつむいた。読者諸君は何ゆえ、米山博士が、自分はあなたの真実の父だと言わぬかを歯痒く思われるかも知れない。まったく、勢都子がそれを聞いたならば、彼女はいかに救われた気持ちになるか知れない。それにもかかわらず米山博士がそれを語らぬのには何か深い理由があるのであろう。
「勢都子さん」と米山博士は口調をあらためて言った。
「言いにくいことですけれど、もうこうなってはあなたの耳に入れておかなければならぬことがあります」
さては、米山博士は、父娘の名乗りをするであろうか。しかし、米山博士の言葉は意外であった。
「勢都子さん、越野銀三郎は、あなたの恋人の羽黒男爵に、恐ろしい敵意を抱いているのです!!」
男爵の不運
この言葉は勢都子の全身に雷のごとく響き渡った。恥ずかしさと驚きとで、そのまま脳貧血を起こして倒れるのでないかと思うほど、ふらふらした心地になった。彼女は、どうして米山博士が自分の秘密を知ったかを思って、驚くよりもむしろ恐ろしかった。彼女は、ますます首を伏せた。
「あなたはさぞ、私がどうして、こんなことを知ったかを不審に思われるでしょう。しかし、それは今、申し上げるべき場合でもなく、その必要もありません。ただ越野が羽黒男爵に敵意を持っている以上、あの遺言状の内容も、そのつもりで解釈しなければならぬことをあなたにお告げしておけばよいのです・・・・・・」
その時女中が勢都子を探しに来たので、米山博士は突然言葉を切った。
「お嬢様、ただ今、警察から人がおみえになりました」
米山博士と勢都子とは、女中に従って部屋を出た。
渋尾英一。これが担当邢事の名であった。邢事は、越野銀三郎の申し出によって、越野と勢都子と自分と三人だけ一室に入り、二人から一切の事情を聞き取った。
勢都子がまず乳母の自動車が到着したことから、米山博士の診断に至るまでの事情を語ると、越野は伯爵の死の前後のことから、行方不明になっていた伯爵の遺子が二十年ぶりに現れたことや伯爵の遺言状の書き替えのことなどを逐一物語った。
勢都子はたった今、米山博士から警告されたばかりであるから、初めは越野に一種の恐怖を感じたが、その明晰な言葉と、順序正しい話ぶりを聞いているうちに、いつしか恐怖の念が薄らいでいった。そして、遂には越野が、米山博士の言うような危険人物では無さそうに思われた。
「こういう訳で、伯爵の遺子の出現と乳母の死とは背後に何者かの手が動いて生じたことのように思われます。それゆえ、どうかその点に留意して捜索の歩を進めていただきたい」
最後にこう言った越野の態度には、伯爵家を思う心が十分に表れているようであった。
「よくわかりました」と、渋尾刑事は、必要なことを手帳に書き留め終わって答えた。
「まず乳母の死因を確定する必要があります。毒殺かも知れないというお電話でしたから、大学で解剖してもらった方がよいと思い、人夫を連れて来ました。それから乳母の自動車を探し出して事情を調べねばなりませんが、お嬢さんは、もちろん自動車の番号をお覚えになってはおいでになりますまいね?」
「ところが、幸いに、運転手が名刺を置いて行ってくれました。どうせ警察へお届けにならねばなりませんでしょうから、必要な時に警察の人にお渡しくださいと申して行きました」
勢都子が袂から名刺を取り出して渡すと、刑事はそれを眺め、
「C停車場のタクシーですね」
とつぶやいて手帳の中にはさんだ。
「いや、どうもお邪魔致しました。いずれ後ほど、報告方々、またお尋ねにお伺いするだろうと思います」
こう言って、刑事は立ち上がり、それから人夫に乳母の死体を運ばせて伯爵家を去った。
乳母の死体を門まで送り出した勢都子は、そのまま家の中へ入らないで裏庭の方へ歩いて行った。桜はもう大方散ってしまって、紅いつつじが咲きかけていたけれども、彼女の心は今朝から経験した数々の出来事に疲れ果て、何を見ても、言わば、物憂い感じであった。
彼女は、大きな楓の木の下に設けられているベンチに腰を下ろして、目の前の池で無心に泳ぐ鯉の姿に見入るともなく見入りながら、我が身に落ちかかっている重苦しい運命について考え始めた。
けれども、疲れた心は考えを一点に集中することができず、結局は恋人の身の上にとりとめのない思いを走らせるばかりであった。
突然、後方より近づく足音が聞こえたので、驚いて振り返ると、そこには、保の可憐な姿があった。彼女は咄嗟の間に、どう振る舞ってよいか迷ってしまった。と、保は、恐る恐るベンチの端に腰をかけ、漸次その身を勢都子の方に摺り寄せた。
「お嬢さん、どうか私に勢都子さんと呼ばせてください」こう言って彼は勢都子の顔を覗き込むようにした。
「勢都子さん、私はいったいどうしたらよいでしょう。父に死なれ、乳母に死なれ、こんな悲しい目に出会うくらいならばいっそ私は帰って来なければよかったと思います。私が悪者の手に誘拐されてから、今日まで経て来た、言わば奇しき運命を父に物語ったならば、きっと父は同情してくれたに違いありません。それを父に聞かせることのできなかったのは、残念で、残念でなりません。父はなぜ、私を疑ったのでしょうか。父にさえ疑われる私は、よくよく不徳な人間に違いありませんが、父の疑いと言い乳母の変死と言い、どうも、私は、伯爵家に恐ろしい呪いがかかっているような気がしてなりません。私は何とかして、その呪いを取り去りたいと思います。その呪いを取り去るまでは、この家に留まらせていただきたいと思います。それに、私はせめてあなただけは、私の過去を聞いておいて欲しいと思います。そうすれば私は死んでも満足です。話せば長いことで、到底半日や一日では語り尽くせませんが、せめて今、ここで、聞いてやるとだけ言っていただきたいのです。あなたはきっと、父のように、私を疑ってはくださらないと思います。きっと快く聞いてくださると思います。ね?」
勢都子は返答に躊躇した。保は一層優しい調子で、
「ね、あなたは私のこの願いをも聞いてやらぬとおっしゃる人ではありません。そのお心は私によくわかっているのです。あなたに拒まれたら、私はもう立つ瀬がありません。どうぞ、どうぞ、本当に私の一生のお願いです。ね、ね」
勢都子はだんだん引き付けられて行こうとする自分の心を秘かに叱咤したけれど、口へ出しては何も言うことができなかった。彼女は一刻も早くこの場を逃れたいと思った。
と、その時、池の向こう側に、越野の姿が現れた。それを見ると、直ちに保が立ち上がったので彼女はほっとした。越野はただ黙って、松の木を見上げていたが、保は歩を早めて去ってしまった。で、勢都子も立ち上がって、家の方をさして歩いた。
渋尾刑事が二度目に訪ねて来たのは、それから二時間ほど後であった。今度も、彼は越野と勢都子との二人だけに迎えられた。
「まず乳母の解剖の結果を申し上げます」と刑事は報告した。
「教授の鑑定によると、青酸カリの中毒だそうで、胃の内容を検査した結果、仁丹に混ぜて、毒丸薬が与えられたということです。次に、停車場のタクシーを調べましたら、乳母を運んだ自動車はすぐわかりました。運転手の話によると、ひとりの青年紳士が乳母について来て、乳母を自動車に助け乗せ、その紳士は、運転手に行き先を告げ、そのまま立ち去ったそうです。それからこちらへ着くまで運転手は何も知らずにいたのですが、自動車に乗る時、乳母は確かに生きていたから、こちらへ来る約二十分の間に死んだものと思われます。乳母の身体からは別に仁丹の容器など発見されなかったから、丸薬は自動車に乗る前に飲んだに違いありません。こちらの事情を考え合わせて、乳母が自殺するとは考えられませんから、多分、その紳士に飲まされたものと思います。それも、恐らく、汽車を降りて自動車に乗るまでに飲まされたのだろうということです。さて、その青年紳士ですが、運転手の話によると、ソフト帽のつばを深く降ろしていたので、顔はよく覚えないが、ただ、そのネクタイの柄が特殊なもので、黒の羽二重地に白の太い十字をかすりのように染め抜いたものだというのです」
勢都子はそれを聞くなり、ぎょッとした。というのは、そのネクタイは羽黒男爵が好んでかけるものであるからである。けれど、羽黒男爵がまさかそんな所に居るはずがない。こう考えるか考えぬうちに、越野が言った。
「そのネクタイをしているのは、男爵の羽黒晋氏に違いありません。羽黒男爵は一昨晩K会館の舞踏会の席へ、同じネクタイをかけて来ておられましたから」
「羽黒男爵は何か、こちらと関係があるのですか?」
勢都子は呼吸が絶えるのではないかと思った。
「その質問は、ここにみえる令嬢にしていただいた方がよろしいけれど、それは残酷かも知れませんから私から申します。羽黒男爵と令嬢とは恋仲です」
突然、勢都子の顔色が変わったので、さすがの越野もびっくりして立ち上がった。と、哀れにも勢都子が気絶したので、越野は邢事に介抱を頼んで、自分は冷水を取りに走った。
ようやく息を吹き返した勢都子はやがて一間に寝かされた。うとうととしてはっきり眼が覚めると、彼女は、下男の健三に付き添われていることを知った。
「おお健三!」
嬉しそうに起きあがろうとした勢都子を健三は制した。
「お嬢様、あなたはお疲れになっていますから、今日はこのまま何も聞かないでお休みなさいまし、私がついておりますから、安心して眠ってくださいまし」
勢都子はいろいろのことが聞きたいやら、話したいやらであったけれど、健三の意志を尊重してそのまま黙ってしまった。
ちょうどそれと同じ頃、渋尾刑事は、羽黒男爵邸の門をくぐった。彼は伯爵家で、越野の口から、羽黒男爵と勢都子とが恋仲であると聞き、まさか男爵が乳母を殺すようなことはあるまいけれど、それでも、どんな弾みでそのようなことを行わないとも限らない、とにかく、男爵に会えば、もっと事情がはっきりするだろうと考え、伯爵家を辞したその足で、やって来たのである。
名刺を通じると、女中が言った。
「男爵様は、正午少し前、警察のお方が呼びに見えて、一緒にお出かけになったまま、まだお帰りになりません」
「どこの警察ですか?」
「さあ、それは存じません」
はて、おかしいぞと、刑事は考えた。それもそのはず、男爵はどこの警察へも連れて行かれず、そのまま行方不明になったからである。だが、それはもとより後の話!!
保の過去
東雲伯爵と乳母お勝の葬儀の済んだ翌日、伯爵邸の裏庭の築山の麓にあるベンチに腰かけながら、一見睦まじそうに語っている男女がある。
と言えば、読者諸君は、それが保と勢都子であることを想像されるであろうが、「睦まじそうに」という言葉には不服を唱えられるかも知れない。
ところが、二人の本心は知るに由ないけれど、見たところは確かに睦まじそうなのである。恋人の羽黒男爵に乳母殺しの疑いが掛かり、男爵が、警察の者と自称する男に連れ出されて、そのまま行方がわからなくなったことを知っておりながら、勢都子が今、保の語り出す身の上話を、嬉しそうに聞いているのは、いったいどうしたというのであろうか。もしこの姿を羽黒男爵が眺めたら何というであろうか。男爵の言葉を待たずとも、読者諸君は、彼女も遂に越野銀三郎の妖力に魅せられて、保を慕うようにさせられたのではないかと想像されるであろう。伯爵の遺言状の一節に、勢都子は誰と結婚するにしても必ず越野の同意を得るべしとあったことを思い合わせると、そのように想像するのが当然であるかも知れない。
二人が今腰かけているベンチは、つつじに囲まれた、言わば、人目の届かぬ場所にある。かかる場所を選んだということが、すでに勢都子の心の純潔を疑わせるではないか。それとも勢都子に何か深い考えがあるのであろうか。
「それはまったく苦しい二十年でした」と保は言った。
「五歳とはいうものの、満三歳と少しでしたから、誘拐された当座は、生家のことを覚えていたでしょうが、そのうちにすっかり忘れてしまったのです。そして、今記憶に残っているのは、父なる人に従って旅役者の仲間入りをして、子役に扮して喝采を博した頃からです。役者の稽古がどんなに辛いものであるかは、到底部外者にはわかりません。とりわけ父なる人は厳格でした。今から思えば、真実の父でなかったため、言わば情を離れた仕打ちができたのでしょう。身体には生傷が絶えたことなく、飢え死にをしそうなことも度々でした。私たちは主として九州、朝鮮、満州地方を興行して歩きました。父が、私たちの劇団の頭首でしたから、私を誘拐した関係上、なるべく中央へは近づかぬようにしたのだろうと思います。母は私を生んで間もなく死んだのだと聞かされておりましたが、母の懐かしさを知らぬ私は、別に母が欲しいと思ったこともありません。ただ舞台の上では、これまで幾度となく父恋し母恋しの役を演じましたけれど子役を務める年齢には限りがあります、だんだん成長するに及んで女形に扮装することを覚え、研究工夫を積むに従って、中央の舞台へ出て見たいという欲望が起こったので、度々父に願いましたけれど、父はどうしても許してくれませんでした。とうとうある夜、それは朝鮮で興行中の時でしたが、私は一人で逃げ出しました。ところが、釜山を離れない先に捕まって連れ帰られ、それこそ言語道断の責め苦に遭いました。それからというものは、父の目が厳重に光ったので、私は中央へ乗り出す野心を全然捨てたのであります。
「わしが死んだら、お前はどこへなりと自由に出かけて行って修行するがよい。けれども、そうなった暁には、お前はもう役者などしなくてもよくなる」
機嫌のよい時に、父はよくこう言って意味ありげにほほ笑むのでした。もとより、それが何を意味するかはわからず、父に聞いても、それ以上教えてはくれませんでした。が、とうとう、この言葉の意味が完全にわかる時機が到来したのです」
こう語って、保は、傍らにつつましやかに、しかし熱心に聞き入っている勢都子の顔を、そっと眺めた。二人の視線が出会って、勢都子は慌てて、眼をそらした。あたりは静まりかえって、頭上には、鳥のさえずりがしきりであった。
「去年の冬、父は満州で流行性感冒に罹りました。それから肺炎になって、医者の手当で一時熱は低くなりましたが、間もなく喀血を起こして、医者に肺結核の併発を宣告されました。すると平素は気丈夫な父が急に力を落として、みるみる病気が重くなっていきました。いよいよ助からぬとわかったとき、父は私を枕もとに呼び寄せて、初めて私の身の上話をしてくれました。
あまりに意外な事情を聞いて、私は父が、病気のため精神に異常をきたし、出鱈目を言っているのでないかと疑いましたが、父の顔には真摯な色がみなぎっていました。
「どうしてわしがお前を誘拐したか、お前はその理由を聞きたいだろう。けれど、それだけは永久の秘密として、わしと共に墓場に葬ってくれ。ただ金銭を強請る目的でなかったことだけは話しておきたいのだ。その証拠に、もし金銭を強請っていたら、今まで発覚しないはずがない。わしはお前を伯爵家から奪って、ただの一度も伯爵家へ寄りついたことがない。まったく、言うに言えぬ深い事情があって、お前を誘拐したのだ。しかし、たとえどんな事情があるにせよ、犯罪は犯罪であるに違いない。わしはその心の重荷のために人知れぬ苦労をした。だが、その苦労は、お前のなめた苦労に比べたら何でもないかも知れん。お前は定めし、わしを恨むであろうが、どうか堪忍してくれ。そしてわしが死んだら、わしの持ち物は全部お前に譲るから、それを持って、お前の生家へ帰ってくれ」
たとえこれまで、随分ひどい虐待を被ったとはいえ、死んで行く人をどうして恨むことができましょう。私は、父の罪を一切許す気になって、そのことを告げますと、父はさすがに嬉しそうにうなずいて、
「ああ、これでわしはもう安心して眠ることができる」
と、幾度も繰り返して申しました。
「けれどお父さん」と、私は語調をあらためて申しました。
「私が突然、生家へ帰ったところで、二十年前に別れたきりですから、実父を始め家内の者は、誰も私が保であるということを信じてはくれますまい。それよりか、私は、かねての希望通り中央へ乗り出してこの道を修行したいと思います」
すると、父は頭を振って、
「なに、その点は懸念するに及ばない。お前の顔には、昔の面影がそっくりそのまま残っている。伯爵が見られても、乳母のお勝さんが見ても、ひと目でわかるはずだ。それにお前の右の足の裏にある、あの楓の葉のような形をした薄い紅い痣を、たとえ伯爵がご存じなくてもお勝さんはよく知っているはずだ。伯爵はきっと一日もお前を忘れたことがなく、お前に会いたがっておられるであろうから、真実の保だと認められる認められないは別として、とにかくいったんは帰宅するがよい。その上で認められなかったら、致し方がないから、お前の好きな道に進むがよい」
こう言って、父は死んでいったのであります。その後私は書面を送って父伯爵に事情を告げようかとも思いましたが、それよりも突然帰宅した方が、かえって実父に心配をかけないで済むと思いました。それから父の死んだ後始末に取り掛かりましたが、いろいろ面倒なことがあって、三、四ヶ月はまたたく間に暮れてしまいました。
いよいよ後片付けが終わったので、満州の土地を後にして、はるばる戻ってきました。聞けば父伯爵は越野さんの予言で、私が現れることを予期しておられたとの事、もし父が盲目になっていなかったならば、きっとひと目で私を認めてくれたに違いありません。ところが、どうした訳か、多少の疑いを挟んだとみえ、よそよそしく振舞って、乳母の鑑定に任せると申しました。
私はどんなにか乳母の帰宅を待ち受けたことでしょう。ところがその乳母は無惨にも私に顔を合わせる前に殺されてしまいました。これは必ずや、私と乳母とを会わせてはならぬものの仕業に違いありません。私は、認められる認められないという問題を超越して、乳母を殺した犯人が現れるまでは、ここに留まらせていただきたいと思うのです。乳母を殺したものは、この伯爵家を不幸に導いて私欲を満たそうとする者の仕業にほかなりません。ですから、その悪人を見届けないうちは、安心してこの家を去ることができないのです。
ね、勢都子さん。あなたはきっと、私の願いを聞いてくださるでしょう。伯爵家に垂れかかっている暗雲が一掃されるまで、私をこの家に留まらせてくださるでしょう。先日発表された遺言に従えば、この家はもはやあなたのものですから、あなたの許しを得れば、誰が何と言おうと、私は安心です。どうか私の心を察してください。私の願いを聞いてください」
繰り返される保の言葉に、勢都子は何となく圧迫されるような思いをした。彼女の心の底では、お前の前に居るのは真実の保でないぞと囁くものがあったが、保のいじらしい姿を見て、その過去の経歴を聞くと、保はまったくの偽りを語っているとも思われなかった。
「ね、私の願いを許すと言ってください」
勢都子が返答に迷っていたので、保は促すように言って、勢都子の方ににじり寄った。勢都子は慌てて
「もしあなたが真実の保さんでしたら、三分の一の財産をお貰いになるはずですもの、私には、あなたのお願いを拒絶する権利はございません」
「すると、勢都子さんは、私を真実の保だと思ってくださるのですね」
勢都子はまたもや返答に窮した。
「あぁ、やっぱり、あなたまでが疑っているのですね。それでは、私の右の足の裏にある痣をお目にかけましょうか」
「いいえ、それには及びません」勢都子の声は震えを帯びていた。
「あなたが疑いを抱いてくださっては、私はもはや立つ瀬がありません。残念ながら、この家を去って再び舞台生活に入ります」
こう言って保は深い吐息を漏らしたが、やがて、
「勢都子さん!」
と呼んだ声には、ことに熱情がこもっていたので、勢都子は思わず目を上げた。
「勢都子さん! 私はたとえ財産の三分の一を貰わなくとも、この伯爵邸だけは去りたくないのです」
「・・・・・・?」
「私の心がお分かりになりませんか。私は、あなたの傍に居たいのです。伯爵家の敷居をまたいで、初めてあなたにお目にかかった時、私はもう、それまでの私ではなくなったのです。・・・・・・勢都子さん」
保の呼吸はだんだん激しくなっていった。勢都子はそれをはっきり感じることができた。もし彼女がその時羽黒男爵のことを思い出したならば、彼女は土を蹴って逃げ出すべきであるのに、その気配がなくて、恥ずかしそうにうつむいているのは、どうしたわけであろうか。
やがて、保の手が、徐々に勢都子の手の方へ伸びていった。
突然二人は後方から聞こえた声に引き分けられた。
「お嬢様、さっきから、米山先生がお嬢様をお探しのようでございます」
振り返ると、つつじの枝の間に、下男健三の、左の頬の物凄い傷跡で歪んだ顔が、面をかけたように浮かんでいた。
意外な発見
その同じ夜のことである。
羽黒男爵邸の前に現れたひとつの人影があった。月はもう出ているはずであるが、空いっぱいに厚い黒雲がわだかまっていたので、半丁(※約54m)先は朦朧としていた。
人影は、用心深くあたりを見回していたが、やがて塀の傍に立ち止まったかと思うと、次の瞬間、その姿は塀の中へ飲み込まれてしまった。
塀の中へ入った人影は、母屋の周りを回って、裏の方へ行き、離れの洋館のドアをコトコトと叩いた。
「健三君か、よく来てくれた」
戸を開けてこう言ったのは、まさしく羽黒男爵の声である。
読者諸君は、定めし不審に思われるであろう。警察の者と称する男に連れ出されて行って、そのまま行方不明になったはずの青年男爵羽黒晋氏が、自邸の離れに居るのはどういう訳か、作者は、まずその理由を語っておかねばならない。
乳母お勝の毒殺された自動車が伯爵邸に着いた時、お勝の死骸をかつぎこんだのは、下男の健三であった。それから米山博士が死因を鑑定し、勢都子に向かって警察へ告げてくれと頼んだ時、勢都子は健三を走らせようと思って捜したけれど、健三の姿はどこにも見つからなかった。このことは、読者諸君の記憶しておられるところであろう。
その時、健三は羽黒男爵のもとに走って行ったのである。彼はその前々夜、男爵が乳母の郷里の宛名を自分に聞きに来たことから、男爵が乳母のもとを訪ねに行ったと断定した。それは言うまでもなくその日突然帰宅した保に関連してであることも、健三にははっきりわかった。健三は二、三ヶ月前に東雲伯爵家の下男に住み込み、伯爵を始め、勢都子や乳母に愛され、越野銀三郎が保の帰宅を予言したこともよく知っていた。ところが、健三は、その日に帰宅した保を、真実の保ではないと思った。それは正直な人間の直感とでも言うのか、あるいは別の理由があったのか、保の帰宅を、伯爵家を奪おうとする陰謀の第一階段と睨んだのである。
乳母の死体をかつぎこんだ時、健三はやはり直感的に乳母が誰かに殺されたのであろうと推定した。それと同時に、彼は羽黒男爵のことを思った。男爵はきっと乳母と一緒に帰ったに違いないから、乳母殺しの疑いは当然男爵にかかる。それも陰謀の筋書きのひとつであるかも知れない。これは男爵に警告して、一時男爵に姿を隠してもらい、その間に陰謀の企画者が誰であるかを探った方がよい、こう考えて、取るものも取り敢えず、男爵のもとに駆け付けたのである。
乳母お勝の死を聞いた羽黒男爵は、顔色を変えて驚いた。
「男爵様は、お勝さんと一緒の汽車でお着きになりましたか?」
男爵はうなずいた。
「それから停車場ですぐお別れになりましたか?」
「僕はばあやを自動車へ助け乗せてやるつもりであったが、汽車を出たとき、知った駅員に逢ったのでばあやに改札口で待ち合わせているように告げて、しばらく立ち話をし、それから改札口へ来て見ると、どこへ行ったのかばあやの姿は見えなかった。多分ひとりで出かけたのだろうと思って心配ながらも帰って来たのだ」
それから健三は自分の考えを告げて、男爵に意見を求めると、男爵も健三の意見に賛成して、表面は警察の人に連れられて行ったということにして、離れの洋館に閉じこもるに至ったのである。
果たして、その日渋尾刑事が訪ねて来たので、男爵は健三の推定の正しいことを知った。そしてそれと同時に、K会館の舞踏会の夜、越野銀三郎が手相を見てくだした、「あなたはある恐ろしい殺人事件の渦中に巻きこまれます」との予言が、どうやら実現したことを思ってぞっとした。
越野銀三郎! そうだ! ばあやの死も、やっぱり越野の計画したところに違いない。こう思って男爵は、いよいよ越野に激しい憎悪を抱くと共に、何とかして証拠をつかんで、彼をして一敗地にまみれさせたいと考えるのであった。
一方、健三は、男爵邸から帰って来ると、やがて勢都子が卒倒したと聞いたので、彼は病室に付き切って介抱した。そして、勢都子が熟睡して、気分を回復したとき、卒倒の原因を始め、その日の出来事をことごとく聞き、男爵に疑いがかかっても、決して心配する必要はないと、男爵と自分とが計画した一部始終を打ち明けたのである。
だからこそ、勢都子は、渋尾刑事から男爵の行方不明を耳にしても少しも心配しないのである。
だが、今日の勢都子の保に対する態度は、ある限界を越えていたのではあるまいか。健三は秘かに二人を監視して、つつじの陰の岩の後ろから二人の会話に耳を傾けていたが、最後に保が無礼な行動をなすに及んで、たまりかねて声をかけたのである。保の過去の物語は男爵にそのまま報告してもよいけれど、勢都子の態度を何と言って報告すべきか、健三は少し迷った。
洋館の中へ入り込んだ健三は、あたりをはばかるようにして、まず盗み聞いた保の経歴を記憶のままに物語った。保の右足の裏の痣に語り及んだとき、羽黒男爵は興奮して言った。
「その痣のことは、僕はばあやから聞いた。で、保はその痣を持っているというのかね?」
「疑いになるなら、ここでお目にかけましょうとまで言いましたよ。けれども痣やほくろは人工的に付けることができます。たとえ痣を持っていても、真実の保であるということはできません」
こう言ってから、健三は更に話を続け、勢都子の怪しむべき態度には触れないで、最後に、
「こういう訳で、今日の話からも、誰が陰謀の黒幕となっているかはわかりません」
「僕はやはり越野だと思う」と、男爵はきっぱり言った。
「越野が、伯爵に遺言を書き替えさせて、勢都子さんが誰と結婚するにしても、越野の同意を得ねばならぬようにしたことは、いよいよ、彼の魔手が、その背後に動いていることがわかるよ」と言って、急に激越な調子になり、
「僕は実に越野を殺しても飽き足らんと思うよ。もし彼が勢都子さんと僕との結婚を邪魔するようなことがあったならば、その時には、僕は最後の手段に訴えるつもりだ」
「まあまあ、そんなにおっしゃらないでください」と、健三はなだめた。しかし、越野が主謀者であるとすると、ばあやさんを殺した意味がわかりません」
「なぜ?」
「なぜと言えば、ばあやさんを殺したのは、ばあやさんが保を偽者だと断定するといけないと思ったからです。遺言が書き替えられない前でしたら、その必要があったかも知れませんが、遺言状は、保の出現後に、しかも明らかに越野の意志に従って書き替えられたのですから、保が偽者であると無いとは越野にとっては、さほど重大ではないのです」
言われて見れば確かに一理がある。けれど、越野を差し置いて、誰が、この恐ろしい陰謀を企てよう。保が現れるという予言を第一段として、K会館における自分に対する予言を第二段として、その後は、まったく筋書き通りに事を運んでいるではないか。まず、自分の腹心の徒を保に仕立てて帰宅させ、次いで、他の手下に自分と同じネクタイをかけさせてばあやを殺させ、そのネクタイをかけているのは自分だと刑事に告げ口するなど、どう考えてみたとて、越野が黒幕である。いかにも遺言状を書き替えさせたことは、少し理屈が合わぬけれど、それとて、恐らく、何か深い理由があってのことだろう。
そうだ! と、男爵は考えた。伯爵家の全財産をいったんことごとく勢都子の名義にするように書き替えさせたのは、後に勢都子をわが腹心の徒に嫁がせて、そっくり奪い取るためなのだ。恐らく、保が勢都子と結婚する役を務めるのであろう。
「勢都子さんを取られてなるものか」
思わず小声でつぶやいて男爵ははッとした。
健三は話題を転じた。
「まず順序として、陰謀の黒幕が、いかなる種類の人であるかを考える必要があると思います」 健三は熱心に言った。
「それは言うまでもなく伯爵家に出入りする人だろうと思います。そして、差し当たり、数えるべきは越野と、米山博士と、舟木弁護士だと思います」
「米山博士は数えなくてもいいよ」
「なぜですか?」
男爵は乳母から聞いた秘密を語ろうか語るまいかと、一瞬間躊躇したが、やがて、決心したように、健三の耳に口を寄せて、
「実はばあやから聞いたことだが、勢都子さんは米山博士の実子なのだ」
この言葉は、ひどく健三を驚かせた。
「それは本当ですか。お嬢様はそれをご存じですか?」
「勢都子さんは多分知らないであろう。伯爵も恐らく生前にはそれを言われなかったであろう。もし伯爵の死後、米山博士が直接語ったのだったら、勢都子さんは、きっと、君に話しているに違いないよ。だから、米山博士が、そんな陰謀を企てられるわけはないのだ。このことはばあやも僕に向かって否定したよ」
「それでは次に舟木弁護士について考えてみますか」
「舟木弁護士を僕はよく知らないのだ。けれども、そうした陰謀を企てそうな人には思われんが、どうかね?」
「それは、調べて見た上でなくては何とも言われませんが、あの人の顔付きから判断すると、善人ではないかと思われます」
「そうすると、やっぱり越野が残るよ見たまえ」
「そうですな」と、健三も腕を組んで考えた。
しばらくして、健三は、
「これから私たちは、どういう手順を取って、事の真相を突き止めましょうか?」
これは、男爵にとっても、極めて困難な問題であった。が、その時、ある考えが突然ひらめいたと見え、
「いったい、本当の保さんは死んだのだろうか、まだ生きているだろうか?」
「偽者が現れた以上、本物は死んでいるのが当然でないでしょうか」
「ばあやは、本物の保さんが、きっと生きていて、越野の予言通り、帰宅するものと信じていたよ。だから、帰って来たのは本人かも知れぬと言っていた。それを聞いた時僕もいささか不安を覚えたよ」
「帰って来たのは確かに偽者です」
その声が凛としていたので、男爵は思わず健三の顔を見つめた。健三は慌てて、眼をそらした。
「君は、この頃、いかにもこの点については自信があるように言うね。何か、保が偽者という証拠をつかんだのか?」
「いいえ、別に」と、健三は遮った。が、男爵は、健三が何事かを包んでいるように見てとった。
「すると、帰宅したのが偽者であるとして、彼はいったい何者であろうか、まさか天から降ったのでも、地から湧いたのでもあるまいから、これまで何をしていたかということを探る必要がある。勢都子さんに語ったのは出鱈目であろうから」
「そうです。今日も私は、つくづく彼の様子を眺めておりましたが、もとより、今まで一度も見たことがありません」
「そうだろう、そうたやすく発見されるようなヘマはしないだろう」
こう言ってから男爵は急に元気づいて、
「おお、そうだった。君に託しておいたあのヴェスト・カメラ、あれで、君は、保の写真を撮ってくれたか?」
「はぁ」と、健三は思わず答えたが、次の瞬間、はッとして顔色を変えた。というのは、今日、保と勢都子とがベンチで話しているとき、健三は二人の後ろにいたので、保が横を向いた時に撮ろうと思い、遂によい機会に出会って、二人の姿をカメラに収めたのである。その機会というのは、保が勢都子の手を取ろうとする瞬間であったからである。もっとも、それとほとんど同時に、健三が後ろから声をかけたので、あるいはうまく撮れていないかも知れぬが、もしはっきり撮れていたら、男爵はきっと、激しく憤慨するに違いない。
けれど返事をした以上、最早いかんともすることができない。健三は懐から小さい写真機を取り出して、男爵に手渡した。
男爵は、写真はお手の物であった。
洋館に引きこもってからも、写真の焼き付けに暇をつぶしたが、健三から写真機を受け取るなり、男爵は隣の暗室へ入って、現像を始めた。
三分、五分! 健三は気が気でなかった。
やがて、荒々しくドアが開いて、
「君、保は勢都子さんの手を取ろうとしているのではないか」
健三はぎくりとした。
「畜生!」
あまりに声が大きかったので、健三がおそるおそる見上げると、男爵は、震える手をかざして、電燈の光にフィルムを透かし見ていたが、その目は明らかに血走っていた。
「君、勢都子さんは、この侮辱を許していたのかね。ああ」
と男爵は、濡れたままのフィルムを傍の机の上に投げて、頭を抱えて、どさりと椅子に腰を下ろした。
「やっぱり、そうだ! 越野は勢都子さんの心まで自由自在に操っているのだ。よし、もう我慢ができん」
何をしようと思ったのか、男爵が急に立ち上がったので、健三はその前に立ち塞がった。
「羽黒様、大切な時です。お嬢様は決して、あなた以外の人に心を移されるお方ではありません」
「でも、でも、この写真は?」
「写真よりも、私の言葉を信じてください」
それは一種の威圧的な響きを持った言葉だった。男爵の顔には、後悔の色が見えた。
「早く、その写真を引き伸ばしてください。保が何人であるかを見るのが目的ではありませんか」
男爵は再び暗室の中に入った。
数分の後、男爵は、キャビネ(※127mm×178mm)ぐらいに拡大された写真を手にして出てきた。
男爵は、電燈の光で、その不快な写真を見ていたが、やがて顔色を変え、
「や、この男は、この男は・・・・・・・」
探訪
疑惑の主人公東雲保の引き伸ばされた写真を見て、
「この男は、この男は!」
と叫んだ羽黒男爵の声があまりに大きかったので、健三も思わず立ち上がった。その声によって、確かに保の姿が男爵の記憶の中にあるに違いないと察した健三は、むらむらと好奇心を湧かせて、
「男爵さまは、その男をご承知でございますか?」
「いや、待ってくれよ、待ってくれよ」
男爵は、ほとんど無意識に、こう言ってなおも、写真をじっと見つめていたが、
「確かにそうだ。あの男に違いない」
と、半ば独り言のように言って、写真を机の上に放り出した。
「誰ですか。何という名の男ですか?」
健三の声は、もどかしさに震えていた。
「名前も知らなければ、どこの人間かも知らない。けれども僕の記憶に誤りがなければ、この男が以前映画俳優だったことは確かだ」
健三は不審そうな顔をして、物をも言わず相手の顔を眺めていた。
「君が不審に思うのも無理はない。実はこういう訳なんだ」と男爵は多少興奮の静まった声をして語り始めた。
「君は知っているか知っていないか知らないが、圓城寺という子爵の長男がキネマ俳優になって一時世間の評判となったことがある。圓城寺君と僕とは、古い友達で彼が親達から反対された時僕は大いに弁護に努め、遂に彼の意志を遂げさせてやったんだ。今は事情があって辞めたけれど、一時は大いにファンの人気を得たものだ。その圓城寺君と一緒に勤めていたのが、確かにこの写真に現れている男なんだ。もっとも僕は直接この男を見たことはないが、圓城寺君の所でたくさん写真を見せてもらった時、ちょうどこれと同じようなポーズをしたこの男の写真を見た覚えがある。だから、圓城寺君に尋ねれば、この男の素性がわかり、従って東雲伯爵家を乗っ取ろうとする陰謀の背後の人物も知れようと言う訳さ」
こう言って男爵は喜び勇んだ。
「その圓城寺子爵の所で、これと同じ様な写真をご覧になったのはいつのことでございますか?」
「そうだね。もうかれこれ一年にもなる」こう言って男爵は急に顔色を輝かし、
「そうだ、そうだ、これで東雲伯爵家に現れた保がいよいよ偽者であることがわかった。この上は一刻も早く圓城寺君に会って、この男が果たして彼と一緒に勤めていた俳優であるかどうかを確めねばならん」
男爵は今にも出掛けそうな気配だったので健三は慌てて、遮った。
「男爵様、あなたは今警察の目をくらませて閉じこもり中であることをお忘れになってはいけません。圓城寺子爵家の訪問はどうか明日になさってくださいませ、そして外へお出になる時は念のために変装をなさったがよろしいでしょう」
羽黒男爵は健三の勧告に従った。
「圓城寺君の訪問は明日にするとしても、変装ということは僕にはできない相談だ」
「そのご心配は無用です。変装のことは私に任せておいてください。実はその必要があると思って、かねて変装用の道具を取り揃えておきました」
こう言って健三は懐中から風呂敷包みを取り出して机の上でそれを解いて、中から付け髭だの絵の具だの刷毛だの、小型の瓶だの、その他いろいろな、一見しては玩具としか見られないような物を取り出し傍らに広げ並べた。
「変装道具と言えば、これまでは大がかりな物を要するように思われていましたが、近頃はこの方面の技術が発達して、これだけで充分です。顔の色を変え、痣を作り、生え際を工夫し、髭を適当につけ、目のふちを巧みに彩色すれば、それだけで充分顔の形を変えることができます。それから顔の次に身体の格好を変えねばなりませんが、これは肩のところに布片やその他有り合わせの物で、詰め物をすればそれでよろしいのです」
男爵は健三の説明を、呆れ顔をして聞いていたが、
「君はいったいどうして変装術を心得ているのだ?」
と、むしろ恐れるような口調で尋ねた。それもそのはず、このみすぼらしい東雲伯爵家の下男が、この様なことを知っておろうとは流石の男爵も夢にも思わなかったからである。
健三は寂しく笑って答えた。
「これでも以前は商売柄、変装術を学んだことがあるのでございます」
「えッ、それでは君は何か探偵的な仕事にでも従事していたのか?」
「いいえ」健三はきっぱり否定した。
「その方面の商売ではありません。今はこの様に頬の傷のために、人前へ出せないような歪んだ見苦しい顔をしておりますが、この傷を受けない前は、私もやっぱり俳優をしていたのでございます」
意外な言葉に男爵は思わず健三の顔を見つめた。そしてしばらく躊躇してから言った。
「そうだったのか、僕は実は君が何か深い事情を持っているだろうとは想像したが、まさか君が俳優をしていたとは思わなかった。一度聞こうと思って、失礼に当たるから今まで聞かないでいたが、いったい君の顔の傷はどうしてできたのかね?」
「これですか」と健三は無造作に言った。
「これはちょっとした頬の傷が化膿して、耳下腺炎を起こし手術を受けた傷でございます」
けれども男爵は健三のこの答えには、満足しなかった。彼の左の頬の傷には、もっと、もっと深い事情が絡まっているのであろうと想像した。が、それ以上追求して聞くだけの勇気を持たなかった。
「それで、君は俳優として主にどこで働いていたかね?」
健三はしばらく考えていたが、「もうその話は打ち切ってくださいませ、お話していればいろいろ悲しい思い出もありますし、いずれ時を改めてゆっくりお話し致します。それよりもこれから、この変装道具を使って、貴方に変装術を施してお目にかけましょう」
男爵は直ちに承諾して、健三に顔を任せた。
それから約二十分の間、健三の手は忙しく働いて、男爵の顔はみるみるうちに変わっていった。そして最後に鏡を見せられた時、男爵は一種の凄みを覚えたほど、自分の顔とは似ても似つかぬほど変化しているのに驚いた。
「これは素敵だ。これだったら僕だと気づくものは一人もない。明日この姿で圓城寺君を訪ねたら、定めしびっくりするだろう」
「今夜はこのままお休みになってくださいませ、一晩や二晩でこの変装は変化は致しません。口髭だって容易に取れませんし、顔の色だって一度や二度湯につけてもはげません。それから、右の頬につけた二つのほくろは薬でなくては、とても落ちないのです」
それから健三は、身体の格好を変えることなどを教えて、あすの晩男爵の探訪の結果を聞きに来る約束をして立ち去った。
あくる日、男爵はそのまったく違った姿で、秘かに邸宅を抜け出し圓城寺子爵邸を訪ねた。
子爵令嗣は幸いに在宅で、自ら玄関に出迎えたが男爵が自分の正体を告げ知らせるためにはかなりの時間を要した。
応接室に案内するなり、圓城寺氏は言った。
「君も随分酔狂じゃないか、何のためにそんな馬鹿な真似をして来たんだ。冗談にもほどがある」
「決して冗談ではないよ、冗談どころかうっかりすると僕は最も嫌な所へ行かなければならない、実はその筋のお尋ね者だからね」
「お尋ね者! それでは何か、間違ったことでもしたのか?」
「いいや、決してそうではない。君は知っているかどうか知らんが、東雲伯爵家に今お家騒動が持ち上がって、僕がある人殺しの嫌疑を受けているのだ」
「何、人殺し! おお、それじゃ東雲伯爵は誰かに殺されたと言うのか?」
「いいやそうじゃない、新聞には記事差し止めとでも言うのか、少しも出なかったようだが、実はこういう訳なんだ。君にはもうかれこれ半年も会わなかったが、君自身の身の上にも変化があったように、僕の身の上にも変化があったんだ。もっとも僕の巻き込まれた事件は極めて最近のことではあるが」
こう前置きをして男爵は、東雲伯爵の死の前後の事情、すなわち予言者越野が保の出現を予言したことから、乳母のお勝の死、自分と勢都子の恋愛問題、その他の事情を逐一物語った。
「そういう訳で、僕は乳母を殺した嫌疑を受けているのだ。だから、白昼悠々と闊歩することができず、変装をしてやって来たんだ」
男爵の物語を聞いていた圓城寺氏は、あるいは驚き、あるいは怪しみ、今の世の中には、とても有りそうもない様な事件を聞いて、半ば夢心地になっていたが、この時初めて、我に返って、
「それで君が、危険を冒してまで僕を訪ねた用事はいったいどんなことか?」
男爵は答える代わりに、ポケットから紙包みを取り出して開いた。中には言うまでもなく健三が撮ってきた保の引き伸ばし写真があった。そして、もとより保と並んで撮れていた勢都子の部分は、切り離されていた。
「用事と言うのはこれだよ」
と言って羽黒男爵は、相手の目の前に写真を突き出した、圓城寺氏はいささか面食らった体であったが写真をひと目見るなり、
「や、辰巳五郎だ、どうして君はこんな写真を持っているんだ。これがいったい事件とどう言う関係があるんだ?」
男爵は相手が写真の男を認識した嬉しさに、一時心は有頂天になったが、こう問われてはッとして、
「それなんだよ、その男が東雲伯爵家の二十年前に失われた子として現れたんだよ」
「ええ、それは本当か、ではこの写真はいつ撮ったんだ?」
「昨日の事よ」
「え、昨日? そんな馬鹿なことがあるものか」
「なぜ?」
「だって、辰巳五郎は死んだはずだ」
「何?」今度は男爵が驚く番であった。
「でもこの写真は確かに君の言う辰巳五郎なんだろう。いつか君の所で見せてもらった写真を僕は思い出したんだが」
「無論間違いはない」
こう言って圓城寺氏は立ち上がって、室外へ出て行ったが、やがて数枚の写真を手にして帰ってきた。
「これと較べてみたまえ、君が見たという写真はこれだろう」
男爵は差し出された写真と、自分の持ってきた写真とを比べたが、果たして自分の記憶には誤りがなかった。二つの写真の主は誰が見ても同一人であることを疑い得ない。
「本当に辰巳五郎は死んだというのかね?」
「そりゃ僕は何も彼の死体を見た訳でないから、はっきりした事は言えないが、とにかく会社へは死亡の通知が来たよ。だがこうして生きている所を見れば、あの通知は嘘だったかも知れない」
「ふん」と羽黒男爵は写真を眺めながらじっと考えた。
「それでは何か深い事情があるんだろう。君はそれを知らないのか?」
「いや、知らない事もない。こうして生きているところを見れば、思い当たることがないではない。実は辰巳五郎は女にかけてはひと通りならぬ痴れ者だよ。キネマ会社にいた時女優達といろいろな噂があったばかりでなく、遂にはある人妻と駆け落ちしてしまったんだ。それきりばったり消息が絶え、それから長いこと過ぎて死亡の通知が来たんだ」
「なるほどね、それでは、その駆け落ちしたのはいつだった?」
「確か去年の春頃だった。死亡の通知が来たのは、よくは覚えていないが、冬頃でなかったかと思う」
「どこから死亡の通知が来たかね?」
圓城寺氏はしばらく考えていたが、
「それも、しかとは覚えていない、でも駆け落ち先は確か満州あたりで、死んだのもやはり満洲か朝鮮だったように思う」
羽黒男爵は満足そうにうなずいた。
「それだけ聞けばたくさんだ。で、その辰巳五郎というのは、この男の本名なのかい?」
「イヤ違う、芸名だ。本名は何と言ったか知らん」
「それじゃ無論、どこの生まれだか知るまいね?」
「知らない」と答えてからしばらく考え、
「でもおかしいね、何のために生きておりながら死亡の通知をしたんだろう。まさか辰巳五郎に双生児の兄弟がいるという訳でもあるまいから同一人とみなすべきだろうが、何もわざわざ死亡通知などを発する必要はないと思うが」
「いやそうじゃないよ。今、君の話を聞いて考えてみると、それは深い計画のもとに行われたのだ」
と男爵は自信あり気に言った
「言わば、一挙両得的な計画をしたんだ。辰巳五郎が死んだことになれば、君のいうその人妻と駆け落ちした罪が消えるし、同時に東雲伯爵家の行方不明の嗣子の替え玉として現れるに都合がいいからさ。仮に今君がこの男に会って、声をかけたなら、きっととぼけた顔をして一度も今までに会ったことがないように振舞うだろうよ」
「君の言うのはもっともだ、しかし僕には辰巳五郎が、それほど深い計画をする人物とは、どうしても思われない。なるほど、彼は女を騙すことは上手である。けれど、そう言う、言わば奸悪な智恵を持ってはいなかったはずだ。人妻と駆け落ちしたのも、どちらかと言うと、女に引っ張り込まれた形だったからね」
「無論この男自身の計画ではなく、その背後に主謀者があるんだよ。僕は今、その主謀者が誰であるかを突き止めたいと苦心しているんだ。と言うよりも主謀者についてはもう僕はある断定をくだしてるんだから、その証拠を集めたいと焦っているのだ」
「君の言う主謀者とは誰だい?」
「越野銀三郎よ」
こう言って男爵は、越野が自分に向かって発した予言を始め、越野の怪しむべき行動を残らず語って聞かせた。
圓城寺氏は忠実に聞いていたが、
「そう聞けば越野の態度には、確かに怪しむべき所があるね、けれども越野という人物は、公平に言って、それ程の悪人ではないようだ」
「やっぱり君も越野党か」
「いや決してそう言う訳ではない、彼の華族社会における勢力は実に偉大なものだ。のみならず政治の方面にも相当の影響を与えているようだ。それに彼が時々行う仮面無礼講は何か彼が後に世間に影響を与えるようだ。もっとも無礼講は公然の秘密ではあるが、そういう点から見れば確かに気味の悪い人物だね」
「気味の悪いどころか憎むべき人物だよ。だから僕は辰巳五郎が越野とどう言う関係があるかを知りたいんだ」
「それは僕の所ではわからないよ」
と言って圓城寺氏はしばらく考えていたが、
「いい事がある、実は今話した仮面無礼講が明後日、越野の宅で行われることになっているんだ。僕はそのパスポートとも言うべき切符を二枚手に入れたんだ。その一枚を君に差し上げるから無礼講に出て、それとなく様子を探ってみたらどうか、ことによったら越野と辰巳五郎との関係を聞き出すことができるかも知れない」
「それは有難い、願ってもないことだ。しかしできるなら何とかしてもう一枚手に入らないだろうか、東雲伯爵家の下男健三を一緒に連れて行きたいのだが」
「そいつは、困ったね」と相手は当惑顔に言った。
「無礼講の切符を手に入れることは決して容易でない、よし、それでは二枚とも君に差し上げることにしよう。僕はただ好奇心のために行きたいと思っただけだが、君には重大な使命があるのだから、僕が行くことは差し控えよう」
かくて、羽黒男爵は二枚の大切な切符をもらって帰った。
仮面無礼講
都の郊外にある豪壮な邸宅、ある一部の人からは伏魔殿と軽蔑され、他の人々からは神殿と崇められている。幾町四面の高い土塀をめぐらし、森々たる樹木に包まれた和洋折衷の広大なる建物、これが予言者越野銀三郎の住居である。邸宅の内部は容易に他人の窺い知るのを許さず、一種神秘な雲に閉ざされているかの感があるのは、主人公越野銀三郎の性格と相まって、世の人の驚異と妬みと羨望の的となっているのである。
屋敷の一隅に祀られてある神様は、その名は誰も知らないけれど、その神に祈願することによって彼の予言能力はいよいよ磨かれ発達させられて行くのだと言われている。
繰り返し書いた通り、彼のその尊い予言によって幾多の重大な政治的な方針さえ決定されるのであって、この神秘な邸宅を訪れる者は単に迷信深い華族の人達ばかりでなく、社会的に重要な位置に立つ人々も混じっているのである。
そしてこの不思議な邸宅において、時々催される奇怪な行事の一つに、仮面無礼講がある。これは何月幾日に行うものと定められている訳ではないが、いつも、この無礼講が行われた後に偶然の一致かも知れぬけれど、いろいろと重大な社会的出来事が発生するために、かなりにその筋の人達の注目の的となっているのである。もとより新聞に広告する訳でなく、どちらかと言うと、秘密に行われるのであるが、特別な切符を発行する以上むしろ公然のことであって、人々は争ってその切符を手に入れ、もって伏魔殿、または神殿の雰囲気に浸かろうとするのである。
仮面無礼講というのは、いつも広大な西洋建てのホールで行われるのであるが、そのホールの傍にはいくつもの小さな部屋が存在して、そこでお客達は勝手に陣取って、思い思いの話をし得るようになっているのである。そして人々は、男も女も勝手次第な服装をして、黒い布片で顔を包み、眼と口だけを出して、誰が誰であるか、絶対にわからぬようにしてあるいはダンスをし、あるいはいろいろの密談を交わすのであるが、最後に夜更けに至って、突然すべての電燈が消えるとそこにいわゆる無礼講が発生するのである。その間は正確に五分間、人々は互いにいかなることを話し合ってもよいのである。と言っていずれも地位あり、名誉ある人々のことだから、誰しもが考え易いように、みだらな行為を行う訳ではなく、平素口に出して言えない希望や、あるいは嘆願書をその時に無遠慮に告げ、あるいは手渡すのが主なる目的なのである。
さて、今宵は久し振りに仮面無礼講が行われるのである。その日、羽黒男爵と健三とは、たとえ覆面布を取り去られても認識されないように、変装していずれも普通の洋服で――――なまじ目立つような変装をするよりも、かえって普通の服装の方が良いと思って――――規定よりも一時間ほど遅れて、自動車で乗りつけた。
パスポートを差し出すことによって、二人は直ちにこれも覆面の案内者によってホールに、導かれたその時はちょうど朗々たるオーケストラが始まっていて、シャンデリアの真昼のような光に照らされたホールの内には、幾十となき男女の群れが、各々顔に真っ黒の覆面布をかけ、それぞれ異様なとりどりに珍しい姿をして、ダンスを行いつつあった。それは想像に余る煌びやかな光景ではあったが、同時にまたグロテスクな感じのする一種の物凄さを帯びた場面でもあった。男爵と健三とは忍びやかにホールに入ってひとまず隅の方の長椅子に腰をかけ、静かに人々の交錯する様に目を注いだ。
「この中には国家の重大な地位に立つ人もいれば、身分のかなりに尊い人もいる。かと言えばまた、種々雑多な職業の人もいるだろうし、あるいはことによったらいろいろな意味において危険な人物がいるかも知れない」
こう呟いて男爵は、じっと群集に眺め入るのであった。
羽黒男爵の心は決して落ち着いてはいなかった。健三と二人で、今宵できるならば、東雲伯爵家を横領せんとする陰謀の主謀者が誰であるかということを突き止めねばならないからである。と言うよりもむしろ、越野がその主謀者であるという証拠を握らなければならぬのだ。
一昨日圓城寺氏から仮面無礼講があることを聞いた時、男爵は言わば直感的に今夜の催しが東雲伯爵家の事件と何かの関係があるのだと推定した。それはあるいは全然間違った推定であるかも知れない。越野はあるいは他の目的をもって、無礼講を開いたのかも知れない。従来の例によれば仮面無礼講は必ずある目的のために開かれるのであるから、東雲伯爵家の事件よりももっと大きな事件なり、あるいは目的なりのために開かれたのであるかも知れないけれど、越野を恐るべき敵と思い込んでいる男爵は、きっと何かを嗅ぎ出すことができるに違いないと考え、健三とともに充分下相談を凝らして、言わば敵の陣地へ躍り込んで来たわけである。
二人の計画によると、二人はできるだけ主人公越野の行動に注意を払い、越野に近寄って彼に話かける人物に注意し、できるならば、その話の内容を聞くこと、そしてお互いに報告し合って、しかも自分達は気取られないように振舞うこと、という風に決めてきたのである。
やがてオーケストラが済むと人々は思い思いに群をなして、ある者は設けの部屋に退いて談話を始め、ある者はボーイによって配られる酒盃を傾けて愉快げにはしゃいだ。
その群集の中を主人公の越野は、例のごとき羽織袴で、たった一人覆面布をかけないで悠々と練り歩いた。人々は立ち上がって彼に握手を求めた、もとより彼は近寄る人達が誰であるかを知らぬはずである。けれども彼が覆面布を通して、人々の顔を透視しているかの様に普通のごとく挨拶するのであった。そこにこの不思議な予言者の予言者たる所があるのだが、彼に敵意を抱いている羽黒男爵にとってはその態度がいかにもキザであり、傲慢であるように思われた。
ふと、男爵が振り向くとそこには最早健三の姿が見られなかった。
「おお、健三はもう偵察を始めたのか」
こう呟いて自分も立ち上がって、群集の中を歩いたが、さて誰が誰であるやらまるで見当が付かなかった。越野を取り巻く連中の言葉も、もとより今は通り一遍のものであるらしい。時期尚早の感があった。かれこれするうちに再びオーケストラが始まり人々は踊り始めた。
突然羽黒男爵の前に一人の女性が現れ、男爵の手を強く握った。もとより変装をした上に覆面をしているのであるから、誰であるかはわからない。女は男爵の手を取るなり無理に引き立て、傍らの一室に入った。そこにはすでに二、三組の男女が語らっていた。本来ならば、こうした行為は慎むべきことであるが無礼講のことであるし、顔まで作り変えて来ていることであるし、男爵は女が何をするのかと、好奇心に駆られてついて来たのである。
女は長椅子に腰掛けるなり小声で言った。
「私、誰だかわかっているでしょう。ね、米山先生」
羽黒男爵はぎょっとした。確かにこの女は人違いをしているのである。それにしても、米山先生とは果たして米山道参博士のことであろうか。と、考える余裕もありはせず、女は言葉を続けた。
「ね、先生、早く片付けておしまいになってはどうです」と言って耳に口を近づけ、
「ほっておけば越野はこの上どんな事をしでかすかわかりませんよ。早くあの人の計画をくじいておやりなさい」
羽黒男爵は何と答えてよいかに迷った。確かに女は東雲伯爵家の事件について語っているに違いない。そして自分をかの懐しき恋人勢都子の父と間違えているのだ。だが女は何者であろう。何のためにこんな事を言い出したのだろう。女の心を聞きたくもあるし、さりとて今声を出したらたちまち人違いであることを感づかれてしまうに違いない。
「あら」と、女は顔を近づけた。
「わたし間違えたかしらん、ごめんなさい」こう言って、ふいと立ち上がるなり向こうへ去ってしまった。
男爵は掌中の玉を奪われた気がしてしばらくぼんやりとしていたが、やがて女が今しゃべった短い言葉について考え始めた。彼女が誰であるにしろ、米山博士とよほど親密の間柄であるに違いない。そして米山博士もまた越野の陰謀を暴こうと苦心していることがわかる。
こう考えてきた時、目の前に現れたのは他ならぬ健三の姿である。彼は、あたりをはばかるようにして囁いた。
「羽黒様、今夜の無礼講には米山先生がおいでになっていますよ」
「えッ」と言った声があまりに大きかったので男爵はもちろん健三も周囲を見回した。
「実は」と男爵はたった今自分が米山博士と間違えられたこと、および女の語った言葉を健三に告げた。
それを聞いた健三はしばらくの間、うつ向いてじっと考えながら黙っていた。男爵は言った。
「それにしても、人もあろうに僕を米山博士と間違えるというのは、あまりに不思議な偶然ではないか」
「偶然ではありませんよ」
「え、どうして?」
「実は今晩あなたの扮装をお手伝いした時、私は米山先生を思い出して、髪の毛を同じ程度に白くし、分け方を先生特有にしておいたのです。私も今、髪の毛の特徴から米山先生が来てみえることを知ったのです。やっぱり先生も越野の陰謀を暴こうと思って来てみえるのでしょうか」
こう言ってなおも考えるのであった。
「無論そうだろう。それで米山博士は誰かと話をしていたかね?」
「何かしきりに二、三人の男と話しておられましたが、何だかあたりを警戒しておられるようでしたから、近付くことができませんでした」
「それで君は越野の様子を探って来たのか?」
「それはこれからです」
こう言って再び健三は立ち去った。それから幾度かオーケストラが繰り返され、幾度か舞踏が続けられ、人々は段々と疲労と酒のために形を崩していった。そしてもう本当の無礼講が始まってもよい雰囲気が醸成されはじめた。
男爵は越野に近づいて様子を探ろうとしたが、主人公はどこへ行ったのかその姿が見えなかった。こんなことでは仕方がないと内心大いに焦躁を感じたが、いかんともすることができなかった。いささか疲労気味である。ひじ掛け椅子に腰を下ろすと、そこへ健三が姿を現した。
「どうだった、何か獲物はあったかね?」
「少しはありましたよ」と、健三は言った。
「さっき越野は舟木弁護士と何やらしきりに話していました。私は気づかれないようにして側へ近づきましたが、あまりに声が小さかったので、まとまった話を聞くことはできませんでした。けれども遺言状が、どうとかこうとか、警戒をせねばならぬとかどうとか、そんな断片的な言葉が耳に入りました。そのうちに他の人が入って来たのでそのまま二人は別れてしまいました」
と、その時突然電燈が消えた。それは停電ではなく、予定の無礼講なのである。ホールの隅々から歓声に似た叫びが一斉に起こった。
一分、二分、三分。騒ぎがようやく鎮まって行こうとした時、突然、闇の中から大声に叫び出した者がある。
「大変だ! 早く電燈をつけろ」
でも命令はすぐに実行されなかった。やがて再び大声が繰り返された。
間もなくパッと電燈がついた。ホールの中央、すなわち今叫びの上がったところに、人々の視線は一斉に向けられた。おお! そこには世にも意外な、むごたらしい光景が現出していたのである。
予言者にして、今夜の無礼講の主人公たる越野銀三郎が血に染まって倒れていた。
あまりのことに人々は固唾を飲むばかりだったが、それと同時に死骸の傍に立って血刀を手にして立っている覆面の男に目を注いだ。彼は手にした短刀を不審そうに、あたかも鑑定家が鑑定を行うようなあんばいに、一、二度ひっくり返しては眺めていたが、やがて恐ろしい物を捨てるかのようにぽいと床の上に投げ捨てた。と、群集のうちから。ひとりの男が進み出て自らの覆面をかなぐり捨てた。見るとそれは他ならぬ渋尾刑事である。
刑事はつかつかと今短刀を握っていて捨てた男に近寄るなり、その男の覆面を無理に解いた。現れた顔は? それは読者にとっては意外であるかも知れない。その蒼ざめた顔の持ち主こそは舟木弁護士であった。
予言者の死
青天の霹靂にもたとえるべき、予言者越野銀三郎の横死に、仮面無礼講の面々が、どれだけ大きなショックを与えられたかは、到底想像の及ばぬところである。貴賓紳士の、未だかつて、このような血なまぐさい光景に夢にも出会ったことのない人達は、越野の赤く染まった死体を見て、いずれも唇を真っ青にし、身体をすくめて震えあがった。まして婦人達は、極度の恐怖に襲われて、中には悲鳴をあげながら、ふらふらと気を失ってよろめく者もあった。
この一時的なショックが過ぎ去ると、そこににわかにさざめきが起こった。そして、誰が見ても犯人としか思われない舟木弁護士が、渋尾邢事によっていかに尋問されるか、それに対して、舟木弁護士がいかなる返答をするかと、一同は固唾を飲んで待ち構えた。
もとより、その場に居合わせた大部分の人はそれが舟木弁護士であることも、また渋尾刑事であることも知る由がなかった。けれども、観察眼の比較的よく発達した人々は、犯人とみなすべき男の覆面布を剥ぎ取った男は、警察の人であるに違いないと思った。
がそれと同時に、犯人とみなすべき男の顔に、犯人たるべき恐怖の表情はなくて、一種の驚愕と、当惑の表情がみなぎっていることを見逃さなかった。そして、当の本人すなわち舟木弁護士はその驚愕のために、しばらくは物も言うことができないらしく見えるのであった。
突然、舟木弁護士の唇がほころびた。
「大変です、渋尾刑事! 早く犯人を捕まえてください!」
意外な言葉に、渋尾刑事も周囲の人々も、かえって沈黙を深めるだけで、一層不安な空気を濃厚にするだけであったが、この時、更におっかぶせるように舟木弁護士が言った。
「さっき電燈の消えた時、何者とも知れず私の手に、今投げ捨てたその短刀を握らせて行ったのです。犯人はまだ、このホールの中に居ります。早く、早く逃さぬうちに手配りをしてください」
が、この言葉の終わるか終わらぬ先に、突然さッと電燈が消えて、女たちの鋭い悲鳴と共に、暗闇の中で一大混乱が起こったのである。
それは、まったく文字通りの大混乱だった。そしてかねて仕掛けがしてあったものか、灯をつけようとするいかなる努力も無駄であるのみならず、真っ暗な邸宅から、早くも逃げ出した数人の人があった。続いて、どやどやと押し出して来る客の流れ! それはもう警察の力も、決して及ぶことのできぬ、堤を切った水のごとき勢いであった。そして、遂に越野を殺した犯人として、ただ一人舟木弁護士が濃厚なる嫌疑をかけられて警察の手に残ったに過ぎなかった。
話変わって、暗闇の越野邸から、早い時期に忍び出した人々の中に、羽黒男爵と、東雲伯爵家の下男健三とが混じっていたことは、恐らく読者の推測されたところであろう。二人は途中で、タクシーを拾って、まっしぐらに男爵邸に駆けつけ、男爵の隠れ場所なる、離れの洋館に到着したが、中へ入って変装を解くまで、二人は一言も言葉を交わさなかった。
そして数分の後、机をはさんで対座してからも、ただ顔を見合わせているだけであった。それほど、二人が受けた衝動は大きかったのである。
予言者越野が殺された! この意外な事実を、羽黒男爵は今もなお充分に信じることができぬほどであった。言わばまるで、悪夢を見ているような気持ちであった。他人の運命を予言する人が、自らの運命を避ける事ができず、もろくも凶刃に倒れるとは、何という皮肉な運命であろう。
いつぞやK会館の舞踊会で、自分の手相を占ってくだした予言に、「あなたの恋が遂げられるまでには、二人以上の人が死にます」と言った。その二人以上の人の中に、彼自身が入っていようとは、恐らく気が付かなかったであろう。と思うと、今までひたすらに憎んでいた越野を、今はそれほど憎めないような気になった。
もっとも越野が、何の理由で殺されたかは、まだわからない。越野のような、常に疑惑と不可解に包まれている人間は、いろいろの方面に敵を持っているであろうから、彼が殺された理由が何であるかは容易に推断し得ないとしても、男爵の眼から見れば、舟木弁護士が血潮の付いた短刀を握っていたことによって、あるいは舟木弁護士自身の言葉によれば「握らされた」事によって、越野の死が、東雲伯爵家の相続問題と関係しているらしいと思われてならなかった。
もしそうとすれば、越野を殺したのは果たして誰であろうか。舟木弁護士は短刀を握らされたように言ったけれども、果たしてそうであろうか。それは、神のみが知る秘密ではないか。
問題は仮面無礼講の夜の怪人物
それはともあれ、今まで越野が、東雲伯爵家を横領しようとする、陰謀の張本人であるとでも思い詰めていた男爵の考えは、今やその支柱を失い始めた。越野の死によって、自分と勢都子嬢との間に横たわる一大障害が、意外な方法で取り除かれたことについては、言うに言えぬ嬉しさを覚えたけれども、それと同時に、陰謀の主が他にあると言う自然の推定によって、一種の気味悪さを感じずにはいられなかった。
ことにあの場合、舟木弁護士が発した言葉、すなわち短刀が他人によって、握らされたものであるということが、事実であるとすれば、嫌疑は巡り巡って、自分自身の所へかかってこないとも限らない。
こう思って、男爵は愕然として夢幻的な気分から覚め、自分の前に座っている健三を眺めると、彼もまた同じことを考えていたものか、
「男爵様! うっかりすると、越野殺しの嫌疑があなたにかかるかも知れません」と、興奮しながら口を開いた。
「おお、君もそう考えたのか、僕も今、ちょうど同じことを考えていたところだ。それにしても、僕は今までの考えを翻さなければならない。越野が殺されたとすれば、伯爵家横領の張本人は別に無くてはならない。それはいったい誰だろうか?」
こう言って、男爵は健三の顔をじっと眺めた。が、健三はすぐに返事をしなかった。彼はその時、単に考えに耽っているばかりでなく、多少息づかいを荒くして、さも、ある興奮を覚えているかのような様子であった。実を言うと、彼はタクシーの中でも、家に着いてからも、何となく様子がそわそわしていて、いつもの落ち着いた健三ではないのであった。男爵はすでにそれに気づいていたが、この時、健三の興奮が一層露骨に見えたので、
「健三! もしや君は無礼講の場で、越野を殺した犯人を見なかったかね?」
言われて健三は、ぎくりとしたらしかった。彼は一層息づかいを荒くして、しばらくは急に言葉を発することができないらしかったが、やがて決心したように、
「実は、妙な人間を見たのです」
「えッ、妙な人間とは、どこで? やっぱりあの無礼講の場で?」
健三はうなずいた。
「誰だね?」と男爵。 健三は躊躇していたが、
「それがまったく思いもよらぬ人間です。私だけは知っている男で、お話しする気にはなれないのです。もう少し、よく私に研究させてください。けれども、恐らく彼が伯爵家の財産を横領しようとする張本人であろうと思うのです」
男爵はますます好奇心を刺激されて、
「それは誰だろう。東雲伯爵家のお家騒動の黒幕として挙げるべき人物は、この頃も君と研究した通り、越野か舟木弁護士か 米山博士かの三人で、伯爵家の嗣子保として現れた男すなわちかつて映画俳優であった辰巳五郎は、単なる手先として使われているに違いないが、してみると、君が見たというその男は、やはり僕達が数え上げた人間の中にあるのか、それともまったく別人なのか」
「まったく別人です」
「誰だろう、聞きたいものだ」
「どうかこの答えだけは、もう少し待って下さい。私は一生懸命に研究してみます」
男爵は聞きたくてたまらなかったけれど、健三の固い決心を見てそれ以上追求しなかった。けれども、健三の言うように自分達が考えた人物以外のものによって、恐ろしい陰謀を企てられたという事は、容易に信じ難かった。
「羽黒様!」と、健三は急に厳粛な顔をして言った。
「これは私の想像に過ぎませんけれど、越野は確かに、東雲伯爵家の横領を企てている人間が誰であるかを知りたく思って、無礼講を開いたのに違いありません。それは、私が越野と舟木弁護士との会話を、会場の一隅で盗み聞いた断片的な言葉を、つなぎ合わせて下した判断です。従って越野は、言わば計画の裏をかかれた訳なのです。発見しようとした陰謀の主のために、かえって生命を奪われたのです。して見ると陰謀の主は、越野の智恵をもってすら見抜くことができなかったほど、狡猾な人間なのです。無論、多くの手下を使っていることは疑いありません。乳母を殺したのも、無論同じ手でして、しかも巧みにあなたに嫌疑をかけさせました。今晩舟木弁護士に嫌疑をかけさせたのも同じ手段ですが、その奥にはもっと深い計画が隠されているものと思います。舟木弁護士が、従来の事情を詳しく警察で陳述して、その上短刀が、他人によって握らせられたものであるということを主張したならばどうでしょう。今度はいろいろな事情から、当然あなたに嫌疑がかかってくる訳です。陰謀の主は、もし舟木弁護士が許されれば、必ずあなたの所へ嫌疑がかかるようにと企んだのです。もっとも警察では未だに、あなたが行方不明であるということを知っていますが、かえってあなたが、仮面無礼講へまぎれ込んで来たかも知れぬという疑いを起こさせます。ことに係りの警察官が渋尾刑事であるということはますますあなたの位置を不利にします。ですから、ここ数日間あなたは絶対に外出しないでください。その間に私は、無礼講で発見した妙な人物が、果たして陰謀の主であるかどうかを確かめてきます」
こう言って、健三はくれぐれも男爵を戒めて、間もなく人に知られぬように、男爵邸を忍び出た。
相手は素晴しい恋の魔術者
果たして健三の推定したごとく、警察では舟木弁護士を取り調べた結果、行方不明の羽黒男爵に濃厚な嫌疑をかけた。
すでに乳母を殺したのも、男爵に似た風采の男であるし、また舟木弁護士の言葉によれば、男爵はことさらに越野に対して敵意を抱いていたというのであるから、殺人の動機としては、充分であるという見込みが立てられた。
係りの渋尾刑事は、先日越野に会って、東雲伯爵家に起こった出来事を聞き、その後男爵の行方を探しながら、いろいろ伯爵家に関する調査を行ってみたが、嗣子として現れた男が果たして真であるかどうか、また誰か陰にあって、策動を行いつつあるかも見当がつかなかった。
そうした矢先、急に仮面無礼講が越野の邸宅で催されるということを聞いたので、何か手掛りになるような事が見つからぬかと、当夜は客の中に混じって、観察を怠らなかったのである。ところが、あのような騒動が突発して、わずかに舟木弁護士を拘引し得たわけであるが、その舟木弁護士の条理の立った陳述によって、犯人は、やはり別にあると思わざるを得なくなった。
舟木弁護士の語るところによると、越野は伯爵家の嗣子であると名乗って現れた男を、真実のものであるとは信じなかった。従って、多分その背後に何びとかの手が動いているに違いないと推定した。それゆえ、彼は伯爵が遺言状を書き換えると言った時、事の真相がわかるまで、越野が伯爵家の基礎を動かぬように、言わば、保護者の立場に立った訳であって、無礼講を開いたのも、何とかして陰謀の主を知ろうとするためであった。もとより越野は、いかなる手段で、それを知るかと言うことについて、舟木弁護士にも話さなかったから、今はもはや知るに由ないが、恐らく越野は、陰謀の主のために、計画の裏をかかれて殺されたに違いないと言うのであった。
渋尾刑事は、舟木弁護士の陳述から、その陰謀の主が、羽黒男爵であるとまでは思わなかったけれども、前に述べたような理由で、とにかく羽黒男爵を探さねばならなかった。
一方男爵は、健三の推定通りに我が身に嫌疑のかかってきたことを知って、注意深くその身を持していたが、無礼講の行われた夜から二、三日過ぎても、健三がさっぱり姿を見せなかったので、だんだん不安を感じるに至った。
健三は妙な人物を見たと言って、すこぶる興奮していた。しかもその妙な人物が、伯爵家横領を策動している人物であるというに至っては、いよいよ奇怪なことに思われた。
ことに同じ家に住む保と、勢都子とのことを思うと、脳髄の熱くなるのを覚えた。よもや勢都子が、そのストレンジャーに心を奪われることはあるまいけれども、相手は言わば恋愛の魔術者である。圓城寺氏の語るところによると、彼辰巳五郎はその道にかけては容易ならぬ曲者である。
すでに彼は、ある不快な写真が示すがごとく、勢都子に、普通の道から一歩踏み出た態度をさえ取っている。
焦燥が募るにつれて、男爵の胸には一層焦燥を募らせるような疑惑が生じ始めた。それは辰巳五郎が、真実の東雲保でありはしないかという疑惑であった。辰巳五郎がかつて映画俳優であったとしても、彼の戸籍が明らかになっていない以上、東雲保でないという証拠はないはずだ。
五歳の時に誘拐されたというのであるから、どうせ誘拐した主が本名を名乗らせるはずはなく、もし辰巳五郎が、真実の保であるならば、勢都子が一種の義理を感じないとも限らない。そう考えると、男爵はいても立ってもおられぬような、いら立ちを覚えるのであった。そして、健三の来訪を首を長くして待っていた。
越野銀三郎の横死は、早くも勢都子の耳に入って、しかも舟木弁護士が、その嫌疑者として拘引されたことは少なからず彼女を驚かした。越野の死によって、あの気にかかった遺言の一箇条が取り除かれ、もはや誰と結婚しようとも、文句をつける人は無くなったが、それと同時に、伯爵家を包む暗雲がいよいよ濃くなって行くのを覚え、女心にこの先自分の運命が、どうなることかと心細く思うのであった。
ただ幸いに、信頼すべき健三によって慰められ、忠告され、かつ男爵の消息を聞いて、どこまでも伯爵家のために、けなげに戦わねばならぬと決心したものの、越野殺しの嫌疑が、男爵に濃厚にかかったことを知るに及んで、大いに心を苦しめ始めた。
そうした心痛の際に、勢都子の最も頼らねばならないはずの米山博士を、どうした訳か、彼女はそれほどに頼っていそうに思われなかった。
一方米山博士も、何となくよそよそしい所が見えてきた。そして越野が殺されてからも、ばったり、姿を見せなかったが、ようやく二、三日を過ぎたある日の午後、伯爵家を訪ね、勢都子の部屋に入って、いきなり、
「勢都子さん、おめでとう。とうとう、伯爵家にとっての危険人物が殺されましたね。誰が殺したか知らぬが、東雲家にとってはこの上もない幸いですよ。もうあなたも誰に遠慮することなく、自由に結婚ができますね。ははは」
勢都子はこの無遠慮な博士の言葉に、しばらくは答えを発することができなかった。米山博士の顔にはいつもに似合わぬそわそわしたような興奮の表情が浮かんでいた。眼鏡の奥に光っている眼が異常に充血し、あご髭が妙に乱れていた。
「保君も幸福です」と、博士は畳みかけて言った。
「せっかく二十年ぶりに帰って来たのに、まるで替え玉であるかのように難癖つけられ、その上大切な証人たるべき乳母をさえ殺されてしまい、もし越野が生きていたら、追い出されるか、まかり間違えば、殺されないにも限らぬ危ない運命を逃れたのは、伯爵家にとってこの上もない福運でした。もし伯爵が今日まで生きておられたら、恐らく保君を認めて、その結果あなたと保君とを夫婦にして、伯爵家は永久に栄えたであろうものを、それだけは誠に残念でなりません。しかし」と一層声を強く、
「あなたと保君とが夫婦になられることは、越野が亡くなった今日では、決して不可能なことでなくなりましたね」
こう言って博士は、探るような目つきで勢都子を眺めた。勢都子は博士の言葉を聞きながら、すでに腹立たしさを感じていたが、この時きっぱりした口調で、
「たとえお帰りになった保さんが、本当の保さんであっても、そしてまた、たとえ父が生きておりましても、父の意志には従うことができなかったかも知れません」
「おお、それではあなたは、羽黒男爵と結婚するつもりですか?」
勢都子はこの短刀直入な言葉に、はっとしたが、同時に強くうなずくことを忘れなかった。
「そうですか」と、博士はとぼけたような口調で言った。
「それでもあなたは保君にして、まんざら他人とは思われない態度をしているではありませんか?」
「ええッ」
「私は保君とあなたとが、親密に話しているところをたびたび見ましたよ」勢都子は何か言おうとしたが博士はそれを遮って、さらに続けた。
「あなたは、羽黒男爵をそれほどに思っておられるが、その羽黒男爵は乳母を殺した犯人として、嫌疑をかけられ、警察の眼をくらまして、姿を隠しておられると言うではありませんか。そしてその上今は越野殺しの嫌疑をさえかけられて捜索されているではありませんか。たとえ無実の罪であるとはいえ、そういう人と結婚するのは、亡き伯爵に対して相済まぬ気はしませんか?」
勢都子は耳の底ががんと鳴るように思った。男爵が身を隠した真相を知っているだけに、そしてまた、男爵がいささかも二つの殺人事件に関係のないことを確信しているだけに、彼女の胸の中には、憤怒の炎が燃え上がった。
「それでは先生は、私に保さんと結婚せよとおっしゃるのですか?」
「いや、なに」と、流石の米山博士もいささか狼狽して言った。
「何も私に、あなたの結婚に関して口出しする権利がある訳ではありません。しかし仮に羽黒男爵が有罪であると決定されたらあなたはどうしますか?」
「そういう事は絶対にないことと思います」
「けれど、それは何とも言えませんよ」
「たとえ有罪と決まりましても、私の決心は翻りません」
「おお、それでは死刑になっても?」
「ええ?」勢都子は耳を疑った。
「あ、いや、羽黒男爵にもしものことがあっても?」
「とおっしゃると?」
「は、は、は、は」米山博士は気味の悪い笑い声を投げて、呆気にとられた勢都子を残したまま、部屋の外へ立ち去った。
その夜、勢都子の居間では、勢都子と保とが熱心に語り合った。
彼女は、米山博士が残して行った薄気味の悪い笑みに激しく胸を打たれて、心に受けた痛手は、夜になっても容易に去らなかった。彼女は早く健三に会って、博士の謎の言葉を伝えたく思った。
ところが、いつも探索に出掛けて、夕方には必ず帰る健三が、どうした訳か夕方になっても姿を見せなかった。で彼女は、止むを得ず憂鬱の情を癒すために、戸外へ出たのであるが、空には雲がいっぱいにみなぎって、薄寒い風が肌に染みたので、彼女は間もなく居間へ退いて、灯をつけながら、じっと独り物思いに沈んだ。
その部屋は、亡き伯爵が彼女の居間として造ってくれた洋式の、美しく飾られた八畳敷くらいの大きさを持った居間であった。
そして彼女が恐ろしい幻想に囚われていた時、ドアをノックする音がしたので、ぎくりとして立ち上がると、次の瞬間ドアが開いて、入って来たのは保であった。
勢都子は気のせいか、保の顔にも今までにない一種の興奮状態と見るべき表情が浮かんでいるのを認めた。そしてそれと同時に、勢都子は急ににっこりと笑って、極めて愛想よく保を迎えた。
米山博士の前で、今日あれ程に羽黒男爵に対するはっきりした態度を示しておきながら、今保を迎えるに、あたかも恋人を迎えるがごとく、振る舞うのはどうした訳であろうか。
彼女は保の手を取らぬばかりにして、長椅子に腰かけさせ、自分はその傍に寄りかかった。
「勢都子さん! 私はもう絶体絶命です。今晩こそは、最後の決心を固めて来ました」
「最後のご決心とは?」と、勢都子はわざと、とぼけたような風をして言った。
「そんなに私を焦らさないでください。私の心は、もうあなたによくわかっているはずです。今晩は勢都子さんから、決定的な返事を聞くまでこの場を動きません」
「まあ、大変な勢いでございますね」保は一種異様な眼光を勢都子に浴びせた。そして勢都子の手を握った。不思議にも勢都子はそれを拒まなかった。すると保は、更にその顔を近付けようとした。
その時勢都子は、まるで悪夢から覚めたような風に、軽く全身を揺すって、相手から顔を遠ざけながら、きっぱりした口調で言った。
「保さん! 私はどうしても、あなたが本当の保さんではない気がします。また、たとえあなたが真実の保さんでなくとも・・・・・・・」彼女は恥ずかし気に目を伏せた。
「ええ? それでは、たとえ私が替え玉であっても、あなたは私の意に従ってくださいますか?」勢都子は保の顔を見上げながら、肯定するように首を動かして、
「ね! ですから、どうぞ本当の事を聞かせてください」
保はしばらく言い迷っていたらしかったが、やがて決心したように、
「それでは言いましょう」
が、その時正面のカーテンが、静かに動いて、その中からひとつの顔が覗いた。
「まあ、米山先生」
彼女はこう叫んで、保と共につと立ち上がったが、その時、二人の後ろに爆薬の破裂するような音が起こったかと思うと、米山博士は「うん」と叫んだまま、カーテンの外へつんのめった。
二人はこの思いも寄らぬ出来事に、ほとんど機械的に同時に振り返ると、ピストルを手にした下男健三の、血相を変えた姿を認めた。
「おお、健三!」勢都子はただ、それだけしか言うことができなかったが、はっと空気の動揺を感じて振り向くと、傍に立っていた保は、飛鳥のようにドアの方へ走り寄り、たちまち部屋から逃げ去ってしまった。
「まあ!」勢都子はただ、こう叫ぶよりほかに仕様がなかった。
「お嬢様!」健三はピストルを投げ捨てて言った。
「心配しないでください。逃げる奴は逃げさせておきましょう。死んだ男は、死んだ男で相当の罰を受けただけです」
勢都子は何が何やらわからなくなって、健三の顔を見つめた。
「お嬢様! 今までここにいた保は、真実の保ではありません。この間つつじの花の側で、彼があなたに物語った経歴はあれは本当です。しかし、それは真実の保が経験したところでして、彼自身は、去年まで内地で暮らしていた辰巳五郎という映画俳優だったのです。お嬢様はこの頃、保が彼の誘拐者で、彼の父と名乗っていた男から、臨終の際素性を語られたことをお聞きになったでしょう。ところでその時、保以外の男がその話をすっかり盗み聞いたのです。彼はやはり、保と同じ劇団に加わっていた俳優ですが、それが保を亡き者にして、自分なり、あるいは自分の腹心の徒なりを、伯爵家に住み込ませて横領しようと試みました。そして彼は、機会を待ってある日まったく知られないように、ピストルで保を撃ちました。それからすぐさま上京して機会を狙い、東雲伯爵家の事情を逐一研究して恐ろしい計画を企てました。すなわち、伯爵家の伯爵に近寄るためには、米山博士に接近するに越したことはないと思い、米山博士邸に住み込みましたが、いつの間にか彼は、それこそ身の毛もよだつ兇事を敢えてしました。
こう言って健三は、つかつかと米山博士の死体の前に近づいたかと思うと、それを仰向けに直して左の頬のピストルの穴から流れた血を、ハンカチで拭い、眼鏡をとり外し、ついであご髭を引っ張ると、意外にも米山博士とはまったく別人の顔が現れてきた。
「これです。この男です。いつの間にか米山博士を殺して、自分が成り替わっていたのです。米山家でも、伯爵邸でもそれを誰も気づかなかったほど、この男は変装に巧みであったのです。米山博士をいつ殺したか、どうしたかは警察の手によって、今後探り出されるよりほかありません」
「ああ、それで初めてわかったわ」勢都子はわずかに言い出すことができた。
「お父さんは保さんが帰って来た時、米山博士が『保君そっくりだ』と言われたのに不審を抱いて、私に、米山君は保の幼年時代を知るはずがない。だから、米山博士に警戒せよと告げ、それから越野さんを呼んで、遺言状を書き替えてもらったのよ」
「おお、悪人にも手抜かりがありますね。たったそのひと言で、伯爵様に気づかれたのですか――――手抜かりと言えば先夜越野邸の無礼講で、私はこの男が、ふと素顔を現した所を見てしまったのです。それが米山博士に扮装していると言うことは、その時はまだわからなかったけれども、とうとうこの頃中に知ってしまったのです。それによって、彼が陰謀の主人であると察してしまいました。乳母を殺したのも、越野を殺して、舟木弁護士に短刀を握らせたのも、無論この男の手下の仕業です。ただ今カーテンの中で聞いておりましたが、お嬢様が偽の保に好意を示されたのは、わざと彼に近づいて、彼を白状させるつもりでございましたね。羽黒男爵も、さぞ喜びなさいましょう。私もこれで、私の任務を果たしたように思います。この上は私はすぐさま警察へ自首するつもりですが、その前に、ただひと言お嬢様に申しあげておきたいことがございます」
こう言って、彼は右の靴下をぬいで、
「失礼ですが」と言いながら、足の裏を示した。そこには、楓の葉の形をした赤い痣がついていた。
先刻からぼんやり心に浮かんではいたものの、勢都子は今さらながら驚きの目を見張った。
「殺したとこの男が考えた真実の保は、ただ左の頬に、見苦しいピストルの痕を残しただけで、再び生き返ったのです。そして彼は伯爵家の下男として、伯爵家を保護するために住み込み、遂に同じ手段で復讐しました。これで、一切は解決しました。私は潔く法の制裁を受けます。これから羽黒様に来ていただくことにして、後で警察へまいります。羽黒様は、何よりも先に、真実の米山先生がお嬢様の実のお父さんであることをお告げになるでございましょう」