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更新日:2021年10月30日公開 印刷ページ表示

得意な容疑者(昭和4年発表)

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「犯人はその最も得意な時に自分を裏切るものである」

福原検事は口癖のようにこう言うのであった。犯人は恐ろしがらせて白状させようとするのも時に有効な方法であるが、冷血な犯人は恐怖を与えたくらいではビクともしないものであるから、そのような犯人に出会った場合には、どうしても犯人を得意がらせなくてはならない。というのが福原検事の持論なのである。

が、福原検事がその道の人々から尊敬されている理由は、このような持論の持ち主であるということよりも、むしろ、心理的探偵法の研究者であるということである。心理的探偵法というのは、もと米国のハーヴァード大学の教授であったミュンスターベルグ博士が大成した一種の探偵方法で、容疑者の取り調べに当たり、一定の形式に従ってその心理を検査し、犯人であるか否かを判定することである。これには色々な方法があるが、福原検事が最も好んで行うのは、容疑者に向かって犯行の現場を記述した文章を読み聞かせ、それを再び語らせる方法である。例えば現場の机の上に白い花瓶があって、それに百合の花が挿してあったとする。尋問者はそれをわざと書き間違えて「紅い花瓶に桔梗の花」が挿してあったと言って読み聞かせる。単にそれだけならば、容疑者に言わせても間違えないが、現場の長い記述のうちの一部分として書いてあるので、もし容疑者が真犯人であれば、現場を目撃してその印象が深く脳裏に刻まれているために口述の際、うっかり「白い花瓶に百合の花」が挿してあったと答え、いわば間接的に自分の罪を白状するわけである。

福原検事はつまりこの「現場誤記」的心理探偵法が得意であったのである。そしてこれまで、この方法を応用することによって多くの犯罪者を恐れ入らせて来た。もとより、心理的探偵法ばかりでなく、同時に色々な臨機応変的な方法を講じて成功したのであるが、福原検事に取り扱われる容疑者は必ず一度は、心理探偵法を試みられるのであった。

さて、話変わって、ここに屋島という貧乏な大学生がいた。彼はドストエフスキーの「罪と罰」を読んで、たちまちある高利貸しを殺す決心をした。屋島は小さい頃から、世の辛酸をなめつくして来たために、その先天的冷血性が近ごろいっそう透き通ってきた。彼が七兵衛と名づけた「無情」と評判の高利貸しを殺す決心をしたのは、別に個人的に怨恨があるわけでもなく、また債務関係のためでもなかった。まったく「罪と罰」の影響を受けたにほかならない。が、いったん決心すると、言わばそれが強迫観念となって、目的を果たすまでは、苦しくて苦しくてならなかった。

もとより屋島は命を惜しんだ。人一倍彼は「生」に執着があった。だから彼は七兵衛を殺すにしても、自分の生命を犠牲にする気は少しもなかった。といって殺人の嫌疑を他人に向けるような手段を講ずるのではなく、ただ自分が殺したという証拠を残さぬようにすればよいと思ったのである。

それについて、彼は十分に自信があった。もっともこれまで人を殺した経験はなかったが、自分の冷血性をよく知っている彼は、中学生の頃から好んで読んだ探偵小説の知識を応用すれば証拠を残さずに殺人を遂行することぐらいなんでもないことだと思った。

でも、さすがに実行の段階になると、色々予期しない困難が起こった。七兵衛を路上で殺すのがいちばん安全であるが、思わぬ邪魔が入らないとも限らず、したがってとっさにそれに対応策を講じなければならないことになるので、もし計画通りに遂行しようと思えば、どうしても七兵衛をその自宅で殺すよりほかはないと思った。

それには七兵衛の家を訪ね、七兵衛に会って、そしてその内部の模様を十分観察したほうがかえって得策であると思った。で、彼はある日適当な口実を設けて巧みに七兵衛に会い、しかも家内の様子を十分探ってきたのである。

それからおよそ二週間、いかに安全に七兵衛の家に忍び入りうるか、いかにして現場に証拠を残さずに七兵衛を殺しうるかを研究して、もう大丈夫という自信ができたとき、ある夜まったく計画した通りに七兵衛を殺してきたのである。

それから数日の間、屋島はいたって冷静に暮らすことができた。新聞に書かれている犯人推定の記事を読んで、ひそかに微笑をもらさざるをえなかった。けれども七日目に、検事局から呼び出しを受けたときは、さすがにいくぶんか興奮せざるをえなかった。

「そうだ、何でもないんだ。自分があの二週間前に七兵衛を訪ねたので、検事は参考のために自分を呼び出したに過ぎないんだ」

こう考えると彼は再び冷静になって、何の恐れもなく検事局へ出頭することができた。

果たして、予期した通りであった。が、七兵衛殺しを担当しているのが福原検事であると知った時、屋島は、警戒しなくてはならないと思った。しかしその日は福原検事の質問に何の淀みもなく答えることができて無事に帰されたのであった。検事の質問の要点は、何故突然七兵衛を訪ねたのかというものであったが、それはかねて用意しておいた通りに説明して福原検事を納得させることができた。

だが、直感とでも言おうか、福原検事が、どうやら彼に多少の疑いを抱いているらしいことを屋島は見逃さなかった。

「きっと、もう一度呼び出して例の心理探偵法を応用するのだろう。よし、それならばこちらにも対応策がある」

こう考えて、彼はまたもやいつもの冷静さに立ち返ることができた。

すると、三日目の朝、検事局から呼び出しがあった。

「いよいよ心理検査だな。何、恐れることがあるものか」

福原検事は、屋島に向かって、いたって優しい態度で、弁解するように言った。

「あなたを容疑者扱いして申し訳ないが、犯人がまったく分からなくて、事件が迷宮に入ろうとしているので、やむをえず一応、心理検査を行わせていただきます」

「どうぞ」屋島は簡単に答えた。

検事は机の引き出しから、一枚の紙きれを取り出した。

「これが、七兵衛の殺された現場の記述です。これを読みあげますから、よく聞いていてください。・・・・・・犯人は縁側から、障子を開けて八畳の座敷に入った。天井から垂れ下がった電灯の笠は緑色のカットグラスで、五燭光の球が光っていた。七兵衛は蝶の模様の付いた更紗の布団を着て、床の間の方を枕にして眠っていた。犯人は膝行して枕元に近づいたが、ちょうどその場にあった煙草盆を左手で脇へ動かし、それから・・・・・・」

屋島は聞いていながら心の中で笑いを禁じ得なかった。彼は隣の部屋から襖を開けて入ったのである。電燈の笠は緑色のカットグラスではなく乳白色であった。また布団は蝶の模様ではなく蜻蛉の模様であった。ただ膝行しながら枕もとの煙草盆を左手で動かしたのは事実である。

彼は微笑みながらも、検事の観察推定の鋭いことに驚嘆せざるをえなかった。そして「わな」の伏せ方の巧妙なことにも感心した。けれども、要するに、「子どもだまし」である。こんなトリックに引っかかってたまるものか。

こう思って彼は謹聴した。検事の説明は更に進行していよいよ殺人行為の所になった。それはまったく事実通りであった。まるで検事がどこかの隅から覗いていたのではあるまいかと思われるほど真に迫っていた。

さすがに、屋島は当夜の光景を思い出して、一種の鬼気迫るものを感じた。

「だが」と屋島は考えた。真実が述べられていればかえって口述の際に都合がよいではないか」

 検事は読み終わって訪ねた。

「どうです、わかりましたか」

屋島はちょっと返答に迷った。

「もう一度読みましょうか」

その時屋島は考えた。読んでもらうより、一度書いたものを見せてもらったほうがはっきりと記憶に残るはずである。

「一度それを私に読ませてくださいませんか」

検事は屋島の顔をじろりと眺め、しばらく躊躇していたが

「お見せしては、心理検査の効果が薄いですが・・・・・・」

そう言って、彼はその紙切れを屋島に渡した。

「いよいよ、こっちのものだ」屋島は心で凱歌を奏しながら貪るように読んだ。

それから二十分後、屋島は読んだ文章を陳述した。

それは一字一句も間違っていないと言ってもよいほどであった。

「実に見事です」と福原検事は言った。が、「もう帰ってもよい」とは言わなかった。彼は立ち上って隣室へ行ったがしばらくしてから帰ってきた。

「実は」と検事は厳かに言った。「あなたに心理検査をしたのは他の目的があったのです。あなたのような頭のよい人には心理検査は何の役にも立ちません。実はさっきあなたがあの紙切れを貸してくれと言われたとき、こちらの目的は達したのです。あなたが言われなくてもこちらからお渡ししようと思っていたのです。あなたはあの紙の質が特別なものであったことに気づかなかったのですか。あれは指紋を採るのに最も適した紙です。今、別室で薬液に浸してありますから、もうしばらく過ぎると、あなたの左手の指紋がはっきり表れます。その指紋と、現場の煙草盆に残っていた指紋とを比較すれば、犯人が誰であるか決定されるわけです」

検事の言葉を聞いた屋島は、この恐ろしいトリックに確かに顔が青ざめるのを覚えた。が、ふと理性を取り戻すなり、むらむらと得意の念が起こった。馬鹿な、そんな用心はちゃんとしてあるんだ。

「ははは」と彼は笑って言った

「ちゃんとゴムの手袋をはめてやったんですよ。煙草盆に指紋が残るはずがない・・・・・・」

はっと気づいたが、もはや遅かった。

 

「犯人はその最も得意な時に自分を裏切るものである」

数日後、福原検事は、屋島の例を挙げて平素の持論を同僚に語った。

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