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更新日:2021年10月30日公開 印刷ページ表示

劇場の事変(大正15年発表)

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これから書き記そうとする事件は、私がN新聞の記者となってから間もなく突発したもので、私にとっては極めて思い出の深いものであります。

私は伊勢のM町の相当の資産家の一人息子として生まれました。父は銀行を経営していましたが、私が中学を卒業した年に破産し、それがもとで、心配のあまり、父も母も相次いで没し、一時私は、田舎の親戚の家に寄寓していましたが、一生涯田舎にくすぶることは、どうしても堪えられなかったので、二十歳のとき、いわゆる、志を立てて上京したのであります。

私が上京したのには、一つ重大な理由がありました。それは何であるかと言いますと、父が長年信任して銀行の監査役をやらせていた男が、東京ですこぶる羽振りをきかせていたからであります。こう言うと、私がその男を頼って上京したのかと思われるかも知れませんが、実はそうではありません。その監査役をしていた男というのが、実は父の銀行の破綻を起こした張本人でして、何でも人の噂によると、銀行の金を巧みにごまかして、それを資本に実業界に入り、今では、東京でかなりに有名な男となっているのですから、言わば、両親を間接的に殺した犯人といっても差し支えなく、私にとっては、仇敵にほかならないのです。で、私は何とかして立身出世をしてその男を見返してやりたいと思ったのです。

さて、上京して見ると、想像とはまったく違い、なかなか立身出世の道が見つかりませんでした。五ヶ年間というもの随分苦労して、二十五歳の今日、やっとN新聞の社会記者にまで漕ぎつけたのです。その間の苦労を物語るだけでも一篇の長篇小説が出来あがるくらいですが、この物語とはあまり関係がないから、申し上げないことに致します。

私は中学時代から、多少文筆に自信を持っていましたから、新聞記者は、今までおこなって来た各種の職業のうち、一番私に適しておりました。私の入社した新聞は、俗にいわゆる「赤新聞」(※低級な興味本位の新聞)に属すべきものでして、私たちは、何か突飛な事変が起こればよいがと、日々ひそかに乞い願いました。と言うのは、例えばセンセーショナルな殺人事件でもあれば、それを面白おかしく報道して、読者を増やし、かねて自分たちの月給をも増やすことが出来るからであります。私は警察回りをしていました関係上、よく殺人事件に出会い、私の記事が人気に応じて、重役の受けもよかったから、私はひそかに功名心を燃やしていたのであります。

しかし、私が入社当座に遭遇した殺人事件は別にこれという特徴のないものでしたから、私は何とかして珍しい事件に出会いたいものだと思っていたのです。すると、果たして入社後四ヶ月目に、珍しい殺人事件が突発しました。

 

(二)

 

沙翁劇場主絞殺さる

目下開演の「マクベス」劇観覧中

凶行は昨夜十時二十五分頃

犯人未だ縛に就かず

 

とは、事件のあった翌日、すなわち三月五日発行のN新聞の社会面に、四段抜きで載った私の記事の見出しであります。

沙翁(※シェイクスピア)劇場とは、田中清三という、東京の実業界でも幅ききの富豪によって昨年Y町に建設されたもので、沙翁劇のみを行うことになっておりますから、いつもそんなにたくさんの客はないのであります。劇場は純西洋式でして、貴賓室はめったに使用されないのでありますが、事変の当夜、劇場主田中清三は、その貴賓室に陣取って観覧していたのであります。

田中は、芝居の始まるちょうど八時に、貴賓室に入りました。貴賓室は隣の座席と壁で隔てられておりまして、ことに芝居の開演中は観客席の電燈が消えるのですから、殺人が行われても、観客に気づかれないのであります。なおまた、その夜は、貴賓室の隣の座席が空いていましたから、犯人は比較的容易に犯行を遂げたらしいのです。

さて、田中は、その夜に限って、貴賓室の廊下に近い座席を選んだのであります。もし、彼が舞台に近い座席を選んでいたならば、あるいは殺されずに済んだかも知れませんが、運命というものは致し方がないもので、言わば、彼は殺されるべき運命にあったのかも知れません。

劇場の係の者の話によると、その夜九時頃彼の長男松雄が訪ねて来て、一緒に観劇していたそうであるが、彼の死骸が発見されたときには、松雄は居なかったそうであります。

十一時に芝居がはねたので、係りのものが、挨拶に貴賓室へやって来ると、田中は椅子に腰かけたまま、眠ったような風をしていたそうです。で、起こすのも気の毒に思ったけれど、時間が遅いので、そばに近寄って見ると、驚いたことに、首の周りに、細い麻の紐が巻き付けられていました。はっと思って、田中の身体を揺すり動かして見ると、もはや冷たくなりかけていたので、大騒ぎとなり、ただちに警察へ電話がかけられ、係官が出張して取り調べを始めました。

急報によって私が駆けつけた時には、すでに死体は貴賓室から運び出されて、階下の応接室に置かれてありました。私は現場の検査を行った警察官に、捜査の模様を尋ね、凶行の時間、凶器、その他、上述したような事情を聞き取り、それに幾分か私の想像を交えて、極めて扇情的な記事を作りあげたのであります。

 

(三)

 

その翌日から、私の精神は非常に緊張しました。私はこの事件がいかに発展するかに、好奇の心を湧かせました。

田中清三を殺した犯人は果たして誰であろうか。劇場のことなので、ずいぶん多くの人が入っていたのであるから、その捜索は容易でないと思いました。しかし、清三の長男松雄が一緒に観劇していたということから、まず松雄の取り調べが真っ先に行われるであろうと思いました。

私は、松雄が簡単な取り調べを受けるばかりでなく、恐らく犯人嫌疑者として逮捕されるであろうと思いました。のみならず、私は松雄が父殺しの犯人ではあるまいかとさえ考えました。というのは、最近、清三と松雄父子の間があまり面白くないということを伝え聞いていたからです。松雄はK劇場の女優と関係し、清三がそれを快く思わぬばかりでなく、その他に金銭上のことでも衝突をしていたということだったからです。このことは沙翁劇場に関係ある人には周知のことで、それが警察の耳に入らぬはずはなく、従って松雄の身はよほど危うくなるに違いないと思いました。

果たして、翌日警察署へ行くと、田中松雄が呼び出されて来ていました。彼は昨夜よく眠らなかったのか、美男で評判の彼の顔が、蒼白色を呈して、目の周りに黒い輪が出来ておりました。彼は間もなく新聞記者立ち合いの上で尋問されることになりました。

「田中さん、あなたは昨夜、九時頃から父上と一緒に観劇なさったそうですから、父上の変死の前後の事情をよくご承知だろうと思います。それをここでお話し下さい」と署長は尋ねました。

「僕はちっとも知りません」

「なぜですか。一緒におられたではありませんか」

「いいえ、僕は十時頃に劇場を出ました」

「劇場を出てどこへ行きましたか」

松雄は何思ったかしばらく躊躇していましたが、やがて決心したように言いました。

「愛人の家に行きました」

「愛人とおっしゃると?」

「K劇場の小村春子という女優です」

「すると、ゆうべ春子さんとお逢いになったのですね?」

「いいえ、逢いません。春子はK劇場に出勤中だったのです」

「では、あなたは何しにそこへお行きになりましたか」

「実は、少し気になることがあったからです」

「それはどんなことです」

「十時頃に僕に電話がかかったのです。電話口へ出て見ると、小村春子さんの家へ今晩十時半に逢いに来る男があるから、お気をつけなさいと言って、すぐ切ってしまいました」

「その電話をかけたのは誰でした?」

「僕の知らぬ人の声でした」

「男の声でしたか、女の声でしたか」

「確かに男の声でした」

「で、あなたはどうしましたか」

「用事が出来たからと言って父と別れ、R町の春子の家へ行きました」

「歩いて行きましたか、あるいは何かに乗って行きましたか」

「電車の便利がよいので電車で行きました」

「電車の中で、誰か知った人に逢いませんでしたか」

「誰にも逢いません」

「それからどうしました?」

「春子の家の向い側に立って様子を窺っていました」

「怪しい男は十時半に春子さんを訪ねて来ましたか」

「来ませんでした」

「で、あなたは春子さんの家を訪ねましたか」

「いいえ、一時間ばかり、見張っていましたが、はじめて誰かにいたずらをされたのだろうと思い、何だか恥ずかしくなって、そのまま自宅に帰りました。すると女中が出迎えて、父が劇場で殺されたことを告げたのでびっくりしたのです」

署長はしばらく考えていましたが、やがて、

「で、あなたは、あなたの今おっしゃったことを証言すべき人を出すことが出来ませんか」と尋ねました。

「出来ません。しかし僕の言ったことはみんな真実です」と、松雄は力を込めて言いました。

すると署長は急に真面目顔になりました。

「田中さん、十時頃にあなたのところへ電話がかかって来て、すぐあなたが外出されたことは、劇場の係りの人が証言しています。しかしあなたは二十分経つか経たぬに再び劇場へ帰ってきました。それも劇場の係りの人が証言しています。あなたはそれをどう説明しますか」

「それは僕ではありません。係りの者が見違えたのでしょう」

と、松雄は顔色を変え、声を震わせて言いました。

「それに」と署長は松雄の顔を覗き込むようにして言いました。「あなたの父上の死んでおられた状態を見るに、椅子に腰掛けたまま絞殺されていたということは、犯人が父上のよく知った人であることを意味しています。それはすなわち、あなたよりほかにないと思います」

「違います。とにかく僕ではありません」

「田中さん」と署長は厳かに言いました。「お気の毒ですが、私はあなたを父上殺しの犯人嫌疑者として逮捕します」

 

(四)

 

田中松雄が父殺しの嫌疑で逮捕されたということが新聞に出るなり、世間の興味はむらむらとこの事件に集まって来ました。ことに私は、田中父子の関係を比較的よく知っていたため、他の新聞よりも遥かに詳しく報道し、N新聞は急にその読者を増して、社長はじめ大喜びでした。そして大きな事件に出逢いたいという、私の入社以来の希望は、言わばこの事件で達せられたと言ってもよいほどでした。

しかし、一日と過ぎ二日と過ぎても、田中松雄の犯罪は確定しないようでした。すると四日目の午後、私は警察署で、有名な私立探偵大山敏郎氏に会いました。何でも、田中松雄の側から探偵を依頼されたということでした。大山氏はもと警視庁の刑事を長らく勤めたことがあって、その時分すでに腕利きとして尊敬されていたのですから、私立探偵になってからも、警察では氏に一歩を譲っているのであります。

私は、氏の名はかねてからよく聞いておりましたが、氏の探偵ぶりを見るのは今回が初めてでした。私は氏が今回の事件に加わったのを見て、案外に事件が複雑化していることを知りました。田中松雄が氏に探偵を依頼したところを見ると、松雄はことによると、この事件には関係がないかも知れぬと思ったからです。いずれにしても、大山氏がいかにこの事件を解決するだろうかと、私ははなはだしく好奇心に駆られたのであります。

私が大山氏に会ったときは、すでに氏が沙翁劇場の殺害現場を検査したあとでした。私が何か面白い発見がありましたかと尋ねると、氏はにこにこ笑って首をふりながら、

「別に何も新しい発見はありませんでしたよ。しかし」と言葉を切って私の顔をじっと見つめながら「昨夜あの貴賓室で、私は生まれて初めて、あんな大きなの気味の悪いものを見ました」と言いました。

「それは何ですか」

「大きな夜光時計ですよ。腕時計なら当たり前のことですが、掛時計に発光するものがあろうとは思いませんでした。劇場のことですから玉振りではありませんが、貴賓室の内側に掛かっていて、観客席がまっ暗になっても時間だけは貴賓室の人に正確にわかるのです。しかし、まっ暗の中で、あんな大きな時計が、燐光を発しているところを見ると、あまり気味のいいものではありませんよ」

「そうでしょうねぇ」と私は言いました。「私はまだ見たことはありませんが、その時計の話を聞いたことはあります」

「あなたでもあれをご覧になったら、きっと気味が悪くなりますよ。時に私はこれから、電話交換局へ行きますが、何だったら一緒に来ませんか」

私は願ってもないことと、喜んで、大山氏について電話交換局に行きました。

大山氏が電話交換局で調べたところによると、果たして夜十時頃に劇場へ電話がかかったのであるが、それをかけたのは、劇場のすぐ横にある自動電話だとわかりました。

「どうです」と大山氏は言いました。「電話をかけたのはやはり、田中松雄さんの言う通り、松雄さんをおびき出すためだったのです。従って、その電話をかけた者が犯人でなくてはなりません。犯人は電話をかけてから、松雄さんが出て行くところを見届け、時を計って、松雄さんに扮裝して劇場へ入り、松雄さんの父君を殺したのに違いありません」

「しかし」と私は反抗しました。「その犯人が松雄さんに扮装したところで、すぐ見つかるではありませんか」

「ところが夜分のことで、ことに松雄さんのと同じような外套の襟を立て、松雄さんの被っているような鳥打帽を、目深に被って来ればわかるものではありません」

「けれど、松雄さんの父君はすぐ感づくでしょう?」

「いや、犯人はなかなか賢くって、感づかれないような方法を取りました」

「どんな方法ですか」

「松雄さんは平素特種な香水を使っているのです。 巴里製の「アントアネット」といって、めったにほかの人は使わぬそうで、その香りだけでも松雄さんだということがわかるくらいだそうです。ですから、犯人はその香水を沁ませたハンカチでも持って、電燈のついていない時機を選んで貴賓室に入ったに違いありません。すなわち犯人は、香水の匂いで田中清三氏をまんまとごまかしたのです」

私はさすがに大山氏の推理に敬服せざるを得ませんでした。

もし田中松雄が犯人でないとすると、真犯人は誰であろう? 私は事件がいよいよ複雑化して来たのを覚えました。それと同時に、またもや記事が増えるのを心で喜びました。

時計を出して見ると、ちょうど最終版の夕刊締め切り時間が迫っていましたので、私は大山氏と別れて新聞社へ駆けつけ、大山氏と共に経験した出来事を例の如く扇情的な筆法で書きました。

ところが、その夜遅く、私が下宿へ帰ると下宿のおかみは、一本の封書を手渡しながら、

「今晩八時頃に大山という人が見えて、先刻まであなたを待って見えましたが、お帰りにならぬので、この置き手紙をして行かれました」と言いました。

私は何となくはっとして、封書を開いて見ると、一枚の紙片に次のような文句が書かれてありました。

津田さん

今日は失礼しました。おかげで犯人はわかりました。もし、犯人が誰であるかお知りになりたければ、明日午前十一時半にS町カフェ・バリーヘ来てください。正午に犯人をお目にかけますから。

大山敏郎

 

(五)

 

私はこれを読むなり、急に胸の動悸が激しくなるのを覚えました。犯人は果たして誰であるか。またいかにして大山氏は犯人を捜し出したか。カフェ・バリーがこの事件といかなる関係を持っているか。

先から先へと色々なことを考えて、その夜はあまりよく眠ることが出来ませんでした。あくる日私は、大山氏の手紙にあった通り、午前十一時半にカフェ・バリーへ行きますと、大山氏はにこにことして出迎え、奥の一室へ私を伴いました。

「ここは私の来つけのカフェでして、この部屋では、どんな大声で話しても決して脇へは話し声が洩れないのです。ですから、重要な用事のあるときにはいつもここへやって来るのです」

私は大山氏とテーブルを囲んで対座しながら、早く犯人の名が聞きたかったので、

「真犯人は誰でしたか」と尋ねました。

すると大山氏はにこり笑って、

「正午になったら、ここへ来ますよ。まあ、コーヒーでもゆっくり飲もうじゃありませんか」

こう言って、ちょうどその時女給によって運ばれたコーヒーを私に勧め、自分もすすりにかかりました。

私は何となく心が落ち着かないので、コーヒーを飲む気にもなりませんでしたが、とにかく、茶碗に口をつけて、早く時間が経てばよいがと心で祈りました。

長く長く感じられた三十分も過ぎて、遂に正午が来ました。

「どうです、もう正午です。犯人は誰です?」と、私は喘ぐように尋ねました。

大山氏は立ち上って入口の扉のところへ行き、そっとそれを開けて再び閉め、中から鍵を回して誰も入らぬようにしました。

「犯人はここへ来るというではありませんか?」と、私は不審な思いをして尋ねました。

「犯人はもう来てますよ」

「え?」と私はぎくりとして言いました。

「津田さん、田中清三さんを殺したのはあなたです」

私は椅子から飛び上らんばかりに驚いた。

「じょ、じょうだんを」と、私は声を枯らして叫びました。

「冗談ではありません。誰が冗談でわざわざあなたをここへ連れてくるものですか。私はただあなたの自決を促すためにここへ来て貰ったのです。警察へ告げてあなたを逮捕してもらうのは訳ありませんけれど、私立探偵となると、自然、警察とは違った考えを持って来るものです」

私は何だか目の前のすべてのものが廻転するように思いました。

「しかし、私が犯人であるという証拠がないじゃありませんか」

大山氏はじっと私の顔を見つめて言いました。

「実は、昨晩、あなたのお留守に伺ったとき、僭越ではありましたが、あなたの行李(※竹や籐などを編んで作られた籠・鞄)を捜させていただきました。そして、「アントアネット香水」の匂いがすることを確かめました」

私はびっくりしました。

「それはあんまりひどい・・・・・・」

「しかし」と大山氏は言葉を続けました。「私があなたに疑いを抱いたのは、貴賓室に掛けてある夜光時計を見た時からです。あの夜光時計は、実は止まっていたのです。久しく貴賓室を使用しなかったので、先夜、田中清三さんが入られた時も、係りの人は時計を巻くのを忘れていたのです」

「時計が止まっていたことが、私が犯人であるという証拠になりますか」と、私は声を震わせて言いました。

「証拠にならぬかも知れません。しかし、時計は偶然十時二十五分で止まっていました。もし、時計が動いてたならば、恐らく私の注意を惹かなかったでしょうが、止まっていたために私の注意を惹いたのです」

私はさっぱり大山氏の言葉を了解することが出来ませんでした。

「お分かりになりませんか」と大山氏は優しく言いました。「あなたはもう忘れてしまっておいでになるかも知れませんが、この殺人事件がN新聞に最初に報告されたとき、N新聞にだけあって他の新聞にない文句が載っていました」

こう言って山本氏はポケットから、N新聞と、もう一つ他の新聞とを取り出し、私の書いた記事のところを開いて、指で示しました。

「これをご覧なさい。あなたは、『凶行は昨夜十時二十五分頃』と見出しに書いているのに関わらず、他の新聞はどれも皆凶行は昨夜九時から十一時までの間と書いているのです。初めてこの事件の記事を各新聞で読んだとき、すでに私はこれに気づいて、変だと思ったのです、ところへ、貴賓室の時計が十時二十五分で止まっていることを見たので、さてはと考えたのです。そしてこれは多分犯人が凶行後、ふと顔をあげて時計を見、その印象が深く頭に残ったのに違いないと推定したのです。それから私はあなたに嫌疑をかけ、ゆうべお留守へ伺って、私の疑いを確定しました」

私は何か言おうと思っても、声が喉につかえて出ませんでした。

「偶然あの夜光時計が、凶行とほとんど同じ時間の十時二十五分で止まっていたというのが、そもそもあなたの運の尽きでした。もし一時とか二時で止まっていたなら、あなたも、止まっていることに気づいて、十時二十五分頃とは書かなかっただろうと思いますから。・・・・・・どうです。私の推理が誤っておりますか。私はただこれだけあなたに申し上げて、あとはあなたの自由意志に任せようと思います」

こう言って私がうなだれている間に、大山氏は去ってしまいました。

 

(六)

 

田中清三を殺したのは大山氏の推定のごとく、この私です。田中清三こそは、かって、私の父の銀行に監査役をしていた男なのです。私は上京後彼の盛名を聞いて、密かに不愉快に思ってはいましたが、始めは彼を殺そうなどとは思わなかったのです。

ところが新聞社に入って、煽情的な記事がしきりに欲しいと思い出すと、いつの間にか、彼を槍玉にあげようと決心したのです。そしておよそ一ヶ月間、彼と彼の周囲の人物をよく研究し、彼の経営している沙翁劇場へも度々出入りしたのです。職業が新聞記者だったので、探査するにはすこぶる便利でした。その結果彼が彼の長男松雄と仲のよくないこと、松雄が女優と関係していることを聞き、いつか松雄に扮装して凶行を遂げようと、その時機を狙っていたのです。そして松雄と同じ色の外套と鳥打帽子を古手で買い、凶行の前日には、某所の会合の席上で特種の香水の沁ませてあるハンカチを松雄のポケットから盗み出しました。かくて兇行は、すでに述べたような手順で、少しの手落ちもなく行われたのですが、清三の頸を絞めて、ふと、夜光時計に目をやると十時二十五分だったので、それが深い印象となって、つい記事の見出しにまでうっかり書いてしまったのです、まったく大山氏から示されるまでは、私は少しも気づかずにいたのです。また、大山氏以外には何人にも気づかれなかっただろうと思います。

いずれにしても大山氏のために、私の罪は暴かれてしまいました。そして大山氏は私の自由意志に任せて去ってしまいました。自由意志に任せるとは、言うまでもなく、自首するかまたは自殺するかの二つのうち、一つを選べということです。

私はそれゆえ自殺することに決心しました。両親はいないし、復讐は遂げたし、世の中が何となく厭になったからです。

私は今、この一篇を、言わば遺書のつもりで書いているのです。一つには、これによって田中松雄を無実の罪から救うためでもあります。彼の父にこそ、恨みはありましたが、彼には深い恨みがないからです 。

これで私は書くべきことの大体を書き尽くしたと思います。これから私は、用意のモルヒネを飲み、永久の眠りに就こうと思うのであります。

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