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更新日:2025年8月18日公開 印刷ページ表示

安死術(大正15年発表)

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 御話の本筋に入る前に、安死術とは何を意味するかということを、ちょっと申し上げておこうと思います。といっても、別に難しい意味があるわけではなく、読んで字の如く「安らかに死なせる法」というに過ぎないのでありまして、英語のユータネシア(Euthanasia)の、いわば訳語であります。「安らかに死なせる法」とは、申すまでもなく、とても助からぬ病気ならば、死に際に病人をむやみに苦しませないで、注射なり、服薬なり、あるいはその他の方法を講じて、出来るだけ苦痛を少なくし、安楽に死なせることを言うのであります。何でもユータネシアはローマ時代には盛んに行われたものだそうで、トーマス・モアの「ユートピア」の中にも安死術によって人を死なせることが書かれてあるそうであります。日本において安死術について考えた人が古来あったかどうかを私は知りませんが、必要に迫られて安死術を行った医師は決して少なくはなかっただろうと思います。

さて、私はT医科大学を卒業して二年間、内科教室でB先生の指導を受け、それから郷里である美濃の山奥のH村で開業することに致しました。元来、都会の空気をあまり好まない私は、ぜひ東京で開業せよという友人たちの勧告をしりぞけて、気楽な山村生活を始めたのですが、辺鄙な地方に学士は珍しいというので、かなり繁昌し、十里も隔たった土地から、わざわざ診察を受けに来るものさえあり、私も毎日二里や三里ずつは、馬に乗って往診するのでありました。

内科の教室にいました時分から、私は沢山の患者の臨終に出会って、安死術ということをしみじみ考えたのであります。決して助からぬ運命を持った患者の死に際に、カンフルを始めその他の強心剤を与えて、弱りつつある心臓を無理に興奮させ、患者の苦痛をいたずらに長引かすということは果たして当を得た処置ということが出来るであろうか。癌腫の患者などの臨終には、むしろモルヒネを大量にでも与えて、苦痛を完全に除き、眠るが如く死なせた方が、どれほど、患者にとって功徳になるか知れないではあるまいか。と、考えるのが常でありました。実際、急性腹膜炎などの患者の苦しみ方は、到底見るに堪えぬほど悲惨なものであります。寝台の上を七転八倒して、悲鳴をあげつつもがく有様を見ては、心を鬼にしなければ、強心剤を与えることは出来ません。また、脳膜炎に罹って意識を失い、疼痛だけを激烈に感じるらしい患者などは、万が一にも回復する見込みは無いのですから、一刻も早く安らかに死なせてやるのが、人道上正しいのでありますまいか。

そもそも人間が死を怖れる有力な原因は、死ぬときの苦しみ、いわゆる「断末魔の苦しみ」を怖れるからだろうと私は思います。死に際の、口にも出せぬ恐ろしい苦痛が無かったならば、人間はそれ程に死を怖れないだろうと思います。大抵の老人は、口癖に、死ぬ時は卒中か何かで、苦しまずにポックリ死んで行きたいと申します。死が追々近づいてくるにつれ、死のことを考えるのは当然のことですが、死のことを考えるとき、最も初めに、心に浮かぶのは安らかに死にたいという欲望にほかなりません。オーガスタス大帝も、「ユータネシア、ユータネシア」と叫んだそうですが、もしお互いに自分が不治の病にかかって、臨終に激しい苦痛が来たとしたら、恐らくその苦痛を逃れるために死を選ぶにちがいないだろうと思います。まったく、私の経験に照らして見ましても、そういう例には度々遭遇したのであります。多くの場合、家族の人たちが、患者の苦しむのを見るに見かねて、どうせ助からぬ命でしたら、あのように苦しませないで、早く楽に死なせてやって下さいませんかと頼むのですが、時には、患者自身が、早く死なせて下さいと、手を合わせて頼むような場合がありました。

 しかし、現今の医師たるものは、法律によって、いかなる場合にも、患者を死なせる手段を講じてはならぬことになっております。すなわち、もし安死術を故意に施したならば、相当の刑罰を受けなければなりません。ですから、医師は誰しも、たとえ、無闇に苦痛を増すに過ぎないということがわかっていても、とにかく、カンフル注射を試みて、十分間なり二十分間なり余計に生きさせようと努めるのであります。従って、「臨終といえばカンフル注射」というように言わば無意識的に試みて、患者の苦痛などを問題にしないのが、現今の医師の通弊なのであります。しかし、これは医師が悪いのではなく、むしろ法律が悪いといった方が至当であるかも知れません。こういうと、中には、カンフル注射を試みて奇蹟的に回復する例もあるから、絶望だと思ってもカンフル注射を試みるのが医師たるものの義務ではないかと反対される方があるかも知れません。しかしながら、それは病気によります。急性肺炎などの場合にはカンフルが奇跡的に奏効することがありますが、悪性腫瘍にはその種の奇跡は起こりません。しかも悪性腫瘍に限って、苦痛は甚烈なのであります。で、真実にその苦痛を察したならば、到底、我関せずという態度は取り得ないはずであります。欧米各国では、医学上の研究に用いられる実験動物が無暗に苦痛を受けるのは見るに忍びないというので、いわゆる生体解剖反対運動が盛んに行われているぐらいでありまして、ことに英国では、事情の許す限り、動物に施す手術は、麻酔状態で行わねばならぬことになっているそうですが、動物の苦痛ですらこのように問題になるくらいですから、いわんや人間の苦痛について、ことに医師たるものが、細心の注意を払わねばならないのは、当然のことであります。元来、医術は病苦すなわち病気の時の苦痛を除くのが、その目的の一つでありますから、安死術はすべからく、医師によって研究され、実施されるべきものである。と私は考えたのであります。

 けれども、内科教室に厄介になっている間、私は一度も安死術を施そうとはしませんでした。法律にそむく行為をあえてして、もし見つかった場合に、私一人ならばとにかく、B先生はじめ、教室全体に迷惑をかけては済まないと思ったからであります。それゆえ、不本意ながらも、他の人々の行うとおりに、心を鬼にしながら、多くの患者に無意味な苦痛を与えたのであります。そして、かようなことが度重なるにつれ、一日も早く都会を去って、自分の良心の命ずるままに、自由に活動の出来る身になりたいものだと思うようになりました。ことに郷里には、母が一人、私の帰るのを寂しく待っていてくれましたので、二年と定めた月日が随分待ち遠しく感じられました。

 いよいよ、郷里の山奥に帰って開業するなり、私は多くの患者に向かって、密かに安死術を試みました。ほとんどすべての場合に私はモルヒネを大量に用いましたが、さっきまで非常に苦しみあえいでいた患者は、注射によって、ほどなく、すやすやと眠り、そのままいわゆる大往生を遂げるのでありました。もちろん、私は家族の人々に向かって、患者の回復は絶望である旨を告げ、でも、出来得る限り、苦痛を少なくして、一刻でも余計に生かす方法を講じるのであると言って、モルヒネを注射したのでありますが、患者がいかにも、安楽な表情をして眠ったまま死んで行く姿を見ると、家族の人々は口を揃えて、患者の臨終が楽であったのは、せめてもの慰めになると言うのでありました。妙なもので、そうしたことが度重なると、「あの先生にかかると、誠に楽な往生が出来る」という評判が立ち、かえって玄関が賑やかになるという有様になってまいりました。西洋のことわざに「藪医者は殺し、名医は死なせる」とありますが、なるほど安らかに死なせさえすれば名医にはなれるものだと、つくづく感じたことであります。これは実に皮肉な現象でありまして、病人を生かしてこそ名医であるべきなのに、死なせて名医となっては、はなはだくすぐったい感じが致しますが、この辺が世間の心理の測り知れない所だろうと悟りました。

さて、そういう評判が立って見ると、決して患者を苦しませてはならぬと思うものですから、一層しばしば安死術を行うことになりました。しかし、私自身の家族のものにも、安死術を行うことは絶対に秘密にしておりましたので、何の支障もなく、およそ九年ばかり無事に暮らして来ましたが、とうとうある日、ある事件のために、安死術を行うべきであるという私の主義が破られたばかりか、医業すらも辞めてしまうようなことになりました。何? 私の安死術が発見されたためにですって? いいえ、そうではありません。まあ、しまいまで、ゆっくり聞いて下さい。

 その事件を述べる前に、一応、私の家族について申し上げなければなりません。郷里で開業すると同時に私は同じ村の遠縁に当たる家から妻を迎え、翌年義夫という男児を挙げましたが、不幸にして妻は、義夫を生んでから一年ほど後に、腸チフスに罹って死にました。え? その時にも安死術を行ったのかですって? いいえ、腸チフスの重いのでして、意識が混濁しておりましたから妻は何の苦痛もなく死んで行きました。妻の死後、母が代わって義夫を育ててくれましたので、私は後妻を迎えないで暮らしましたが、義夫が七歳になった春、老母は卒中で倒れ、その後間もなく、私は不自由を感じて、人に勧められるままに郷里に近いO市から後妻を迎えたのであります。自分の子を褒めるのも変ですが、義夫は非常に怜悧な性質でしたから、継母の手にかけて、彼の心に暗い陰影を生じさせてはならぬと、心配致しましたが、幸いに後妻は義夫を心から可愛がり、義夫も真実の母の如く慕いましたので、およそ一年間というものは、私たちは非常に楽しい平和な月日を送ったのであります。私たち三人の外には、看護婦と女中と、馬のお守りをする下男とが住んでおりましたが、いずれも気立てのよい人間ばかりで、一家には、言わば明るい太陽が照り輝いておりました。

ところが、その明るい家庭に、急に痛ましい風雨が襲って来たのであります。それは何であるかと申しますと、妻すなわち後妻の性質ががらりと変ったことであります。彼女はまず非常に嫉妬深くなりました。私が看護婦や女中と、少しでも長話しをしていると、私を始め彼女たちに向かって、露骨に当り散らすのでありました。次に、義夫に対して、非常につらく当たるようになりました。少しの過失に対しても、激しい雷を落としました。私は、多分、妊娠のために生じた一時的な心情の変化だろうと思い、そのうちには平静に返る時期もあるに違いないと、出来得る限り我慢しておりましたが、妻のヒステリックな行動は日ごとに募り、遂には義夫に向かって、「お前のような横着な子は死んでしまうがよい」とさえ言うようになりました。しかし、義夫は非常に従順でありまして、はたで見ていてもいじらしいほど、母親の機嫌を取りました。女中や下男が義夫に同情して、義夫をかばうようにしますと、それがまたかえって妻の怒りを買い、後には、大した理由もなく義夫を叩くようになりました。私も困ったことが出来たと思い色々考えて見ましたが、恐らく分娩までの辛抱だろうと思って、義夫に向かって、それとなく言い含め、お母さんが、どんな無理を言っても、必ず「堪忍して下さい」とあやまるように命じましたので、義夫は、私の言いつけをよく守って、子供心にも、かなりの気苦労をするのでありました。幸いにその頃、義夫は小学校へ通うようになりましたので、妻と離れている時間が出来、義夫にとってはむしろ好都合でありました。

 学校は私の家から五町(※約500m)ほど隔たったところにありますが、途中に十丈(※約30m)ほどの険しい断崖がありますから、入学して一ヶ月ほどは女中のお清に送り迎えさせましたが、後には義夫一人で往復するようになりました。私が夕方、往診から帰ると、馬蹄の音を聞いて、義夫は嬉しそうに門まで出迎えてくれます。その無邪気な顔を見るにつけても、妻の無情を思い比べて悲しい気持ちにならずにはおられませんでした。

ある日のことです。それは梅雨時の、陰鬱な曇り日でありました。「どんよりと 曇れる空を見て居しに 人を殺したくなりにけるかな」と啄木の歌ったような、いやに重くるしい気分を誘う日でして、山々に垂れかかった厚い黒雲が、悪魔の吐き出した毒気かと思われ、一種の不気味さが空気いっぱいに漂っておりました。その日も私は、かなり遠くまで往診して午後五時頃非常に疲れて帰って来ると、いつも門まで迎えに出る義夫の姿が見えませんので、どうしたのかと不審に思いながらも、下男が昨日から、母親の病気見舞いのために実家へ行って留守だったので、自分で馬を廐につなぎ、それから家の中に入ると妻は走り出て来て、ぷんぷん怒って言いました。

「あなた、義夫は横着じゃありませんか、遊びに行ったきり、まだ帰りませんよ」

「どうしたのだろう、学校に用事でも出来たのでないかしら」

 学校に用事のあるわけはないと知りながらも、なるべく、妻を怒らすまいと、土間に立ったまま私はやさしく申しました。

「そんなことがあるものですか。わたしの顔を見たくないから、わざと遅く帰るつもりなんですよ」

めったに遊びに行くことのない子でしたから、私の内心で言うに言われぬ不安を覚えましたが、妻の機嫌を損なっては悪いと思いましたから、「お清にでも、その辺へ見にやってくれないか」と申しました。

「お清は加藤と使いに出ておりませんよ」と、にべもない返事です。加藤というのは看護婦の名です。

 その時、門の方に、大勢の人声がしましたので、私は怖ろしい予感のために、はっと立ちすくみながら、思わず妻と顔を見合わせました。妻の眼は火のように輝きました。

「先生、坊ちゃんが・・・・・・」

 戸外に走り出るなり、私の顔を見て、村の男が叫びました。泥にまみれた学校服の義夫が、戸板に乗せられて、四、五人の村人に運ばれて来たのです。

「・・・・・・かわいそうに、崖の下へ落ちていたんですよ。まだ息はあるようだから、早く手当を・・・・・・」

 それから私がどういう行動を取ったかは、今、はっきり思い出すことが出来ません。とにかく、数分の後、義夫は診察室の一隅にあるベッドの上に仰向きに寝かされ、枕元に私と妻とが立って傷口を検査しました。村人の帰った後のことで、あたりはしんとして、カチカチという時計の音が胸をえぐるように響き渡りました。義夫はうつむきに崖下の岩にぶつかったと見え、右胸前部の肋骨が三、四本折れ、拳を二つ重ねた程の大きさの、血に塗れた凹みが出来ておりました。義夫は眼をかたくつぶったまま、極めて浅い呼吸を続けておりました。脈拍はほとんど触れかねるくらいでしたが、でも、聴診すると、心臓は明らかに鼓動を繰り返しておりました。

 私は、機械のように立ち上り、中央のガラス製のテーブルの上に置かれた、強心剤すなわちカンフルの瓶と注射器とを取り上げました。「あなた、何をなさる? 義夫を苦しめるつもり?」と妻は声をふるわせて私をさえぎりました。

 恐らく私はその時ちょっと躊躇したことでしょう。また恐らく私の理性は、平素、安死術を主張しながら我子の苦痛に対しては同情しないのかと、私の耳許でささやいたことでしょう。しかし、いずれにしても、私の十年来の主義はその瞬間に微塵に砕かれました。人間には、理性による行為のほかに反射的な行為があります。今、その反射的行為は、理屈を考えている余裕をさえ私に与えませんでした。

 私は妻を押し退けて、義夫の腕に三筒注射しました。妻はしきりに何とか言っていた様子でしたが、その言葉は少しも私の耳に入りませんでした。見る見るうちに、義夫の唇の色は紫から紅に移り変わって行きました。「しめたッ」と私は心の中で叫びました。第四筒を注射すると、義夫はぱっちり眼をあきました。

「義夫、わかるか?」と、私はのぞき込んでたずねました。

彼は軽くうなずきました。私の眼からはらはらと涙がこぼれました。すると義夫は口をもがもが動かしかけました。多分何か言おうとしているのです。

 突然、妻はその右の手を伸ばして、あたかも窒息させようとするかのように、義夫の口と鼻とを覆いながら強く押しつけました。

「何をするッ!」と、私は力まかせに妻の肩をつかんで後ろへ引き退けると、その拍子に妻はどたりと尻もちをつき、ガラス製のテーブルをひっくり返しました。ガラスの割れる激しい雑音は、義夫をも驚かせたらしく、彼は軽く唸りながら、物を言いかけました。私は、世の中のあらゆることを忘れ、全精神を集中して、彼の口元を見つめました。

「・・・・・・お母さん・・・・・・堪忍して下さい。・・・・・・お母さんに突き落されたとき・・・・・・僕、すぐ、死ねばよかった・・・・・・」

 がんと脳天を斧で打たれたほどの激動を私は覚えました。あたりが急に暗くなり、気が遠くなりました。しかし、私は義夫の口から出る臨終の血の泡をかすかに見ました。そうして、背後で発せられた妻の発狂した声をかすかに聞きました。

「オホホホホ、だから、強心剤など使ってはいけないというのに……オホホホホ」。

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