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更新日:2021年10月30日公開 印刷ページ表示

指紋研究家(大正14年発表)

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(一)

 

裁判の結果、××造船会社員小山道也氏は無罪を宣告されて、先日久し振りに我が家に帰ったが、婦人冬子を殺した犯人は、依然としてわからないので、心は何となく落ち着かなかった。帰宅した当座の数日間は、友人たちの慰労の宴に招かれて、しみじみ考え込む暇もなかったが、今こうして、たったひとり、晩秋の夜長に、いとしい妻の殺された部屋に座っていると、彼女の面影が目の前にちらついて、非業の死によって二十四年の生涯を終わった彼女の薄幸を悲しまずにはいられなかった。

彼女は誰に殺されたか?

自分はひとたび、彼女を殺した容疑者として、法の裁きを受けたけれども、天地神明に誓って、彼女に手を下さなかったことを断言する。とは言うものの、自分が果たして、彼女の死に全く無関係だと言えるであろうか。彼女は、自分の留守の夜に殺されたではないか。もし自分が留守にさえしなかったならば、彼女はあるいは非業の死を免れたかもしれない。

しかし・・・・・・と、小山氏は、電燈の光によって、畳の上に描かれた、寂しげな我が影を見つめながら考え続けた。彼女はなぜ、あの晩、自分の留守に、女中に暇を与えて、郷里へ一晩泊りに帰らせたのであろうか。彼女はまるで、非業の死を遂げるべき運命の渦中へ、わざわざ飛び込んで行ったと言ってもよいではないか。

それにしても・・・・・・と小山氏は考えを一転した。友人の弁護士秋田恒三君の今回の骨折りは尋常一様でなかった。実際、秋田弁護士の献身的な努力がなかったならば、自分は有罪の宣告を受けたかも知れない。検事松井重雄君の、あの峻烈な論告は、今思ってもぞっとする。松井検事は言わば、死に物狂いで、自分を罪におとそうとしたのである。自分はなるほど、松井検事に対して誠にすまぬことをしている。けれど、私の憤りを、公の場所で晴らそうと企んだ検事の心は、いささか常軌を逸してはいないだろうか?

小山氏は先から先へ考え続けた。東京郊外の夜は、寺院の中のように静かに更けて行った。

 

(二)

 

最初に冬子夫人の惨死を発見したのは、小山道也氏自身であった。小山氏が前夜他所に泊まって、翌日午前九時頃に帰って来ると、夫人は普段着のまま、座敷に仰向けに倒れていた。頸部から流れ出た血は、畳の上に渋団扇ほどの大きさの溜まりを作っていた。兇器があたりに見つからぬこと、箪笥の引き出しが一つ引き出されたままになっていることによって、小山氏にもおよその事情が察せられた。

小山氏の急報によって、程なく警察と検事局から、取り調べの人々が駆けつけた。捜索の結果、夫人が箪笥の中に秘蔵していた朱鞘の短刀の鞘だけが引き出しに残されていることと、夫人が常に右手の薬指にはめていた金の指環が抜き取られていることとが発見され、なお警察医の取り調べた所によると、夫人は殺される際別に抵抗したと思われる形跡がなく、頸部の傷は、鋭利な短刀様のもので左から右に向かって横につけられ・・・・・・無論、凶器が現場にないから自殺とは言い得ないが・・・・・・他殺であるとすれば、犯人は、夫人を後ろから抱えて凶行を演じたと推定すべく、なお凶行の時間は前夜十二時前後だろうとのことであった。

で、凶器は、多分夫人の秘蔵していた短刀であろうと推定され、指環が紛失しているところから、犯人は盗賊で、彼が座敷の箪笥を開けていたとき、夫人が他の部屋から入って来たので、いきなりそこにあった短刀を取って夫人を殺し、指環を奪って逃げ出して行ったのであろうとされたのである。

これで事件がすめばよかったけれど、そうはいかなかった。この事件を担当した松井検事は、強盗説を否認して、恐ろしくも小山氏を冬子夫人殺しの犯人として告発したのである。松井検事の説によると、小山氏はいったん家を出てその夜遅く帰宅し、夫人を殺して強盗のしわざと見せかけ、翌日何食わぬ顔をして帰って来たのだと言うのであった。

この松井検事の説に対して、小山氏が、殺害の行われた時間に、他の場所に居たという証拠を挙げさえすれば一も二もなく容疑は晴れるのであるが、小山氏は、もし自分のその夜の行動をあからさまに言ってしまえば、ある人の名誉を傷つけなければならぬゆえ、例え有罪の判決を受けてもそればかりは言うことが出来ないと言って説明を拒んだため、問題は極めて複雑となったのである。

その小山氏が口に出して言えぬ理由を、松井検事はよく知っていたのである。それは何であるかというと、一口に言えば、小山氏は松井検事の夫人と道ならぬ関係を結んでいたのであって、小山氏と松井夫人とは、その夜も某所で会っていたのである。そのことを松井検事は知っていたから、小山氏が口に出せない羽目にあることに付けこんで、言わば復讐のために小山氏を罪に陥れようとしたのである。もとよりこれは小山氏の想像した所に過ぎないが、とにかく松井検事は、小山氏が殺害当夜の行動を明らかにし得ないことを主要なる理由とし、なお、凶器として夫人の短刀が選ばれていることなどを挙げて、小山氏を犯人と見なそうとしたのである。

かくのごとく、小山氏が窮境に陥ったとき、小山氏を救うべく奮然と立ったのは小山氏の友人なる秋田弁護士であった。

「君、奥さんはもしや自殺したんじゃないかい?」と、秋田弁護士は、最初の会見のとき小山氏に訪ねた。

「え? なぜ?」と小山氏はびっくりして尋ね返した。

「僕は事情を聞いて、奥さんが自殺していたのを君が発見し、奥さんの名誉のために凶器を隠し、指環を抜き取って、他殺と見せかけたのではないかと思ったんだよ」

「いや決してそうじゃない。僕が発見したときには、もう兇器も指環もなかった。」

「そうか、それじゃ、やっぱり強盗のしわざだね。だが、君はなぜ、当夜の行動を説明し得ないのだ」

「それだけは君にも話せない」

と小山氏はきっぱり言った。

秋田弁護士はしばらく考えていたが、やがて、

「わかったよ。・・・・・・松井君はずいぶん卑怯だねぇ」

と言った。

図星を指されて小山氏はびくっとした。

「ええっ?」

「僕には事情がよくわかってるよ」

小山氏はますます驚いた。「君、知ってるのか?」

「薄々感づいてる」

「どうして知ったか?」

「弁護士にも第六感はあるよ」

と、秋田氏はなぜか寂しい笑い方をした。

二人の間にしばらく沈黙が続いた。

秋田氏は言った。

「よし、松井検事がそういう卑しい復習的行為をするなら、僕にも考えがある。あくまで戦って、必ず勝って見せるよ」

こうして、秋田恒三氏は、小山氏の弁護の任に当たったのである。

 

(三)

 

秋田弁護士も、松井検事も、小山氏も、同じ年に東大の法科を出た友人同士であった。

秋田氏はまだ独身であるが、三人は、大学卒業後それぞれその職に就いてから、親しく交際して、お互いの家庭に出入りしていた。

ところが最近になって、小山氏と松井夫人との道ならぬ関係から、小山氏と松井検事との間に不快な障壁が出来、遂に、今度の事件によって、小山氏は松井検事に論告されることになり、秋田弁護士によって弁護されるという、くしき運命の下に置かれたのである。

秋田弁護士は極めて快活な性質で、女のことなどには平素無頓着であったから、小山氏は、自分と松井夫人との関係を、秋田氏が感づいていたことをすこぶる意外に思った。

「秋田君はどうして知ったのだろう」

という疑問は、小山氏の胸に今でも解かれずに残っているが、とにかく、秋田氏がそのことを知っていてくれたことは、その時、小山氏にとって百万の味方を得たように嬉しかったのである。

裁判の模様はここに書く必要がないから省略するけれども、新聞紙に詳しく報ぜられたためかなりに人々の興味をひき、ことに秋田氏の熱心な弁護ぶりは人々の賞賛を博した。

秋田弁護士の論点は第一に、小山氏が夫人を殺すべき動機が見つからないこと、第二に直接証拠が何一つ発見されないことであった。

で、結局、裁判長は証拠不十分によって、小山氏の無罪を宣告したのである。

 

          ×       ×      ×

 

無罪になったけれども、小山氏の心は落ち着かなかった。なぜなら冬子夫人殺害の謎は、依然として解かれなかったからである。

妻は果して誰に殺されたか?

兇器は何人の手にあるか?

指環は誰が持っているか?

その指環は殺害の前日まで、冬子夫人の美しい指にはめられていたことを、小山氏はよく記憶していた。それはエンゲージ・リングの一種であるが、普通のものと違って、背部の中央が方形の微小な箱になっていて、その蓋をあけると、中には小山氏の小さな写真が納めてあった。冬子夫人はそれを大切にして、ことに、最近は、小山氏が冗談に見せてくれと頼んでも、私の大切な人が入っているのだから、貴方にも見せられないと笑いながら答えるほどであった。

それを思うにつけても、小山氏は今、冬子夫人にはなはだ済まぬ気がしてならないのである。夫人は、小山氏と松井夫人との関係を知らないらしかった。あるいは知っていたかも知れぬが、一度も、あてつけがましいことを言わなかった。冬子夫人がそれほど、良人を愛していたのにかかわらず、夫人を裏切って、道ならぬ恋に夢中になっていたかと思うと、小山氏は、じっとしておれぬほど、悔恨の念に駆られるのであった。

松井検事の、弱点に乗じての論告には腹が立ったけれども、もし仮に自分の妻が友人と不義していたならどうであろうか? ・・・・・・小山氏は何となくぞっとした。「松井検事を責めることは出来ない。自分だったら、その友人を八つ裂きにしたかもしれない。

こう思うにつけても、よこしまな恋に目がくらんで、夫人の身を思わなかったことを、小山氏はやるせないほど残念に思うのである。

「俺が悪かった。冬子堪忍してくれ」

小山氏は思わずも、こう叫んだ。

この上は彼女を殺した犯人を知り、彼女の死の真相を知るのが、彼女に対するせめてもの供養であらねばならぬ。

しかし。

自分に、どうしてそれだけのことを知り出す力があろう。

冬子は何ゆえにその夜、女中を郷里へ返したのであるか?

冬子は果たして強盗のために殺されたのであろうか?

??? あとから、あとから、色々な疑問が浮かんだ。女中は今日急用が出来て郷里へ帰ったので、広い家には小山氏一人きりである。夜は更ける。頭は熱する。ともすれば冬子夫人の姿が目の前にちらついて、小山氏の想像力は白熱した・・・・・・。

 

(四)

 

ふと、小山氏が耳をすますと、みしりみしりという音が聞こえた。それは確かに人の歩く音である。小山氏はぞっとした。自分一人しかいないこの家に、人の足音が聞こえようとは。小山氏は、てっきり、それが冬子夫人の亡霊であろうと考えたのである。

足音は段々座敷の方へ近づいて来た。やがて襖へ手をかける音がした。ついで襖の開く音・・・・・・白装束に乱れ髪! と思いのほか、そこへ現れたのは、洋服を着た年の頃三十ばかりの男であった。

あまりの事に、小山氏はわが目を疑って、しばらくは、不意の来客の方を向きながら、物を言うことが出来なかった。

男はつかつかと小山氏の前へ来て座った。

「突然、夜分にお伺いいたしまして、はなはだ失礼ですが・・・・・・」

「君は、だ、誰です?」

「実は先刻から、入口で声をかけておりましたが、御返事がないので、格子戸に手をかけましたら、苦もなく開いたので、こうして黙ってお目に掛かりに参りました」

「確かに戸には錠を下ろしておいたはずだが・・・・・・」

「いいえ、それは覚え違いで御座いましょう。時に、あなたが小山道也さんでございますか」

こう言って男はじろりと小山氏の顔を眺めた。

「そうです。しかし何用あって、無断で上がって来たんですか?」

「非常に大切な用事で参ったのでございます。奥さんが殺されたのに、その犯人が依然として知れないので、さだめし御心配のことだろうと、お慰め方々お伺いしたのでございます」

「君は何ですか?」

「一口に言えば、指紋の破究家とでも申しましょうか」

「指紋?」

と小山氏はオウム返しに尋ねた。「あ、それでは探偵さんですか?」

男はにっと笑った。

「まあ、それに似たようなもので御座います。私は、犯人の知れぬ事件を調べるのが好きな性分でございます。あなたは裁判の結果、無罪になられましたが、犯人が知れぬでは、きっと気がかりであろうと思って、不躾にご面会に伺ったのでございます」

小山氏ははじめて男の顔をまともに眺めた。この男は果たして探偵であろうか? 何となく機敏な態度で、目が人一倍鋭く光っているところを見ると、やっぱり探偵であろうか? しかし、その目は多少凄味を帯び、また狡猾そうにも見えた。

「君がこの事件の真相を知っておられるのですか?」と小山氏は尋ねた。

「事件の真相は、お話を承ってから、判断しようと思います。実はこの事件に関する一、二の証拠を手に入れましたので、それについて少しく取り調べさせて頂きたいのです」

「どんな証拠ですか?」

男はポケットから、白い布に包んだ巻物のようなものを取り出し、白い布を除くと中から紙包みが出、更にその紙を除くとピカッと光るものが出た。男はそれを丁寧に、紙と布とを下に敷いて畳の上に置いた。

それは、血のついた朱柄の短刀であった。

「やっ、これは冬子の短刀だ!」

こう叫んで、思わずも小山氏が短刀を取り上げようとすると、男はその手を遮った。

「いけません。指紋が消えるといけませんから、今は触らないで下さい」

「ど、どうしてこれをお持ちですか?」

「これは私が苦心をして手に入れたもので、奥さんは申すまでもなく、この短刀で殺されなさいました」

小山氏はぎょっとした。この男は何物か? どうして短刀を手に入れたのか? もしやこの男が妻を殺した犯人ではあるまいか?

こう思うと小山氏の全身はその容積を半減したかのように感じられた。

「ははは、あなたは私が奥さんを殺した犯人だと思っていらっしゃるでしょう。違いますよ。私が犯人ならば、のこのこここへは来ません。私は事件の真相が知りたくてならんのです。で、まず、私の申し上げることをよく聞いてください。私がこれを手に入れてから、この朱塗りの柄をよく調べて見ましたところ、柄に二人の指紋を発見したのです。一人のは言うまでもなく、短刀を握った指紋ですが、もう一人のは、その短刀を握った手の上から、更に握ったと思われるように付いているのでございます。つまり、はじめに握った手は五つの指紋が付いていますが、もう一つのは手は親指と人差し指の指紋が付いているだけなのでございます」

「それは当然のことではありませんか。犯人がこの短刀で切りかかったので、妻がそれをのけようとしたために付いたのでしょう」

今はもう気味悪さが去って、小山氏は何となく男の話に興味を覚え、事件の真相を知りたいという念がだんだん高まって来た。

「すると、申すまでもなく、二人の指紋のうち、どちらかが奥さんの指紋だということになりましょう」

「もちろん短刀をはじめに握った方が犯人で、もう一方のが妻でしょう」

「で、私は、それを確かめるために、奥さんの指紋を採らせていただきたいのです」

「でも、妻は死んで、おらぬじゃありませんか?」と小山氏は不審そうな顔付きをした。

「指紋は奥さんのお使いになった道具に残っております。鏡台とか、玉手箱とか、櫛とかいうものに付いておりましょう」

小山氏は機械的に立ち上がって、座敷の隣の化粧室に男を導いた。約二十分ほど、冬子夫人の使用していた櫛の指紋と、短刀の指紋とを比較研究していたが、やがて顔色を輝かせて言った。

「わかりましたよ。やっぱり一人は奥さんです」

「そうでしょうとも」と小山氏は平気だった。

「ところが、意外なことには短刀をはじめに握ったのが奥さんなんです・・・・・・」

 

(五)

 

小山氏は、脳天にがんと鉄槌を打ち下ろされたように思った。これは全く意外な事実であったからである。が、次の瞬間、小山氏は平静に戻った。

「それでは、盗人が入ったのを見て、妻が短刀で斬りかかったのを、盗人によってあべこべに斬られたのですね?」

「いえ、私はそうは考えないのです。私は奥さんが、自殺をなさる目的で短刀を握られたのだと思うのです」

小山氏はぎくりとした。

「自殺? 馬鹿な」

「まあ、よくお聞き下さい。私は新聞で、奥さんがその夜、女中を郷里へお返しになったと知って、すぐ、それは自殺をなさるつもりだったと判断したのです。それゆえ、朱柄をはじめに握った指紋は恐らく奥さんのだろうと推定していたのです。

「自殺ならば、僕が死骸を発見したときに、短刀を握っているはずです」

「さあ、そこで、この第二の指紋を研究する必要が起こって来るのです。奥さんが短刀を握られたその上を、別の手が握るということは、まず第一に、奥さんの自殺を止めるためではなかっただろうかと考えて見なければなりません。あなたのお留守である家に来て、奥さんの自殺を止めようとしたのは誰であるか。こう考えたとき私は、これはやっぱり、あなた御自身が夜中に御帰りになったのだろうと推定したのでございます」

小山氏はなぜか急に青ざめた。男は続けた。

「だから私は、あなたの指紋を採らせていただいて、短刀の柄の第二の指紋と比較して見たいのです」

小山氏はなぜか一種の激しい恐怖を感じた。

「採るまでもありません。僕ではないです」と、小山氏は声震わせて言った。

「ですけれど、決して時間はとりません。念のために採らせて下さい」

男が指紋採取用のインキをポケットから取り出すと、小山氏は機械的に両手を差し出した。

「右の手だけでよろしい」

男は手早く指紋を採って、柄の指紋と比較した。

「なるほど違います。すると奥さんが自殺なさるとき、傍にいたのは別の人ですね」

しばらく沈黙が続いた。小山氏は言うに言えない恐怖に襲われた。

が、次の瞬間、小山氏の理性は働き始めた。

「しかし、妻が自殺したという確証がないじゃありませんか? それに妻には自殺する理由がひとつもありません」

「その理曲はあとで申します」と男は平気で言った。

小山氏は再びぎょっとした。いったいこの男は何者か。何もかも知っていそうな男こそ、妻の死と直接の関係があるのではあるまいか?

「それじゃ、妻が自殺したとき傍にいたのは君でしょう」

「違います」

「君はいったい誰ですか」

「それはあとで申上げます。・・・・・・それよりも、私たちは奥さんの死の真相を知らねばなりません。先刻私は奥さんが自殺をなさる際に、その傍にいた人は第一に、奥さんの自殺を止めようとしたのではないかとも考えられると申しましたが、それよりも、もっと確かな第二の推定があるのではありますまいか。と申すのは、真夜中にお宅へ来る人は誰でしょうか。女中でないことはあなたもご承知のはずです。なおまた、奥さんは現に死んでしまいなさいました。すなわち自殺を遂げてしまいなさいました。そして、その時奥さんの傍にいた人があなたでないとわかりましたから、私は、奥さんの傍にいた人は、奥さんとかねて打ち合わせて、奥さんの自殺を助けに来た人だと推定したいのでございます」

小山氏はこの男の言葉があまりに突飛なのに驚くと同時に、何となくその言葉の真実性をも認めないわけにはいかなかった。

男は続けた。「奥さんの自殺を助ける? このことは何を意味するでありましょうか。奥さんの自殺を助ける人はもちろん女の人ではありますまいから、当然男の人を考えなければなりません」

男は小山氏の顔をじろりと眺めた。「そうするとここで、奥さんの名誉を傷つけなければなりませんが、推理のためには致し方がありませんから、しばらく我慢してお聞き下さい。私は奥さんとその男とは、もしや一緒に自殺するつもりではなかったかと思うのです・・・・・いや、まあ、お待ちください。・・・・・・で、その男は奥さんの自殺を助け、しかる後自分も自殺するつもりであったのを、奥さんのあさましい姿を見て気が変わり、そのまま奥さんの死骸を残して逃げ出したのではないでしょうか・・・・・・」

小山氏は一時耳が遠くなるように思ったが、この時キッとなって言った。

「君、失礼ですよ。そういう想像は絶対によして下さい」

「私もあなたの前でこんなことを申したくはありませんが、こういう推理をいたしますのも、実は今晩あなたにお目にかかったときに、心に浮かんだことがあるからです。私は事情があって、裁判の傍聴に参りませんでしたから、あなたに直接お目にかかるのは今晩が初めてです、ところが、私はかねて、あなたのお写真を拝見していたことがあるので、あなたのお顔は私の記憶に残っておりましたが、その記憶の中の顔と、今、私のお目にかかっている顔とが違っているのに不審を抱きました。その結果、奥さんの名誉を傷つけるような推定をしたのでございます」

「だって、それはあんまりな推定です。そんな恐ろしいことを僕は夢にも想像したくありません。妻は潔白です。君の言葉はみんな嘘です。妻はやはり強盗に殺されたのです・・・・・・」

「まあ、まあ、しばらく冷静になって判断して下さい、奥さんが強盗に殺されなさったのならば、この短刀は私の手に入らなかったはずです。それはとにかく、奥さんがもし他の人と共に自殺なさるならば、当然遺書がなくてはなりませんが、それは果してあったかなかったか、私にもわかりません。もしあったとすれば、多分その男が持ち去ったのでございましょう」

何もかもよく知っているらしい男の顔を、小山氏は幽霊でも見るかのように眺め入った。

「それに」と、男は続けた。「もし強盗のしわざ・・・・・・いや、一般に冷静な犯人のしわざならば、短刀の柄にこうして指紋を残しておくようなことは致しません。これは、やはり、その男が、あわてて逃げ出した証拠と見ることが出来ましょう」

小山氏は何となく圧迫されるように感じた。この男は何者か。何のためにこの恐ろしいことを伝えに来たのか。小山氏の頭は激しく混乱して来た。

「実は」と男は一段声を低くして言った。「奥さんの名誉を傷付けるような推理を私がしましたのは、その証拠があるからです」

こう言って、男はポケットの中へ手を入れた。小山氏は蛇の穴でも覗くような格好で男の手もとを見入った。やがて男の手のひらには、金色の光るものが載っていた。

「やっ、冬子の指環だ!」と、小山氏は思わず大声に叫んだ。

「そうです、この指環は奥さんが亡くなるまではめておられたものです」

「これが何の証拠になるのですか、これは僕が妻に送ったエンゲージ・リングです」

男は黙っていた。が、小山氏は男の目にありありと浮かんでいる意味を見て取った。と同時に、ある恐ろしい予感が、ぱっと胸を襲った。

小山氏は、貪るようにその指環を取り上げ、激しく手を震わせながら、指環の背部の蓋を開いた。

現れた写真は?

小山氏は自分の目を疑った。中の写真は小山氏のではなくて、秋田弁護士のそれであったからである。

「秋田君だ!」こう叫んだと思うと、小山氏は指環をポンと投げ出しながら、両手をもって顔を覆った。

 

(六)

 

「ええっ?」と、男もすこぶる驚いたらしかった。

「そうでしたか。秋田さんの写真でしたか。それでよくわかりました。秋田弁護士の今回の弁護ぶりは、私にもとうから気が付いておりました・・・・・・」小山氏は両手に顔を埋めたまま何も言わなかったが、その全身はぶるぶる震えていた。今、小山氏の頭の中には無数の考えが往来しているのである。

秋田君の人並はずれた今回の親切!

最初の会見のとき、秋田君は、「奥さんはもしや自殺したんじゃないかい」と言った・・・・・・。

自分と松井夫人との関係を冬子が知らぬ振りをしていたのは、冬子にも弱点があったためか?

秋田君が自分と松井夫人との関係を感附いていたのは冬子から聞いたためか?

冬子は最近、指環を自分に見せなかった!

不義の恋に目がくらんでいた自分は、妻の不義を見ることが出来なかったのか?

それにしても秋田の奴!

こうした考えが、未来派の絵のように、小山氏の頭の中で渦を巻いた。

男は小山氏の苦悶に同情してしばらくの間、黙っていたが、やがて、はっきりした声で語り出した。

「私の持って来た証拠と申すのはこの二品でございます。これでどうやら奥さんの死の真相がわかったような気がしますから、最後に私がどうしてこの二品を手に入れたかを申し上げます。

先刻私は指紋の研究家だと申しましたが、指紋研究は実は副業でして、本業のために必要上致しておるのでございます、その本業と申すのは、一口に申せば、他所に自分の指紋を残さぬように工夫する職業なのでございます。奥さんが殺されなさった当夜、私は今夜のように無断でお宅へ訪問しましたが、その時奥さんは、この短刀を手に持ったまま、死んでおいでになりました。しかし、直観とでも申しましょうか、何となく単純な自殺とは違って見えたので、むらむらっと好奇心が起こって、短刀を奥さんの手から注意して離しましたが、そのとき奥さんの指環に手が触れたので、私の窃盗本能が働いて、指環をも拝借してしまったのです。で、柄のところをよく研究して見ますと、果たして第二の指紋が見つかりました。私はこの第二の指紋をあなたのだと思って参ったのです。第一の指紋が奥さんのであることはその時からわかっていましたけれど、あの時、死んでおられたのが果たして奥さんかどうか私にはわかりませんので、今晩調べさせていただいたのです。その結果は、私にとってもまったく意外な事実の発見となりました。で、私は拝借したこの二品をただ今、お返し申し上げます。もし、あなたが決定的な証拠を得たいと思し召すならば、この朱柄に付いている第二の指紋と、秋田弁護士の指紋とをご比較になればよろしいでしょう」

先刻から夢のような気持ちで、男のこの言葉を聞いていた小山氏が、やっと、その熱しただれた頭をあげると、もはや、男の姿は消えて、血染めの短刀と指環とが、悪魔の牙を見るように、薄気味悪く光っていた。

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