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更新日:2022年1月14日公開 印刷ページ表示

偶然の成功(大正15年発表)

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(一)

 

「丸の内Hビルヂングの三階商會の支配人から、ある重大な事件が起きため、すぐさま来てくれという電話が掛かったのは、大正△△年十一月の始めの午後五時頃でした」

と、松島龍造氏は語りはじめた。例の如く、私は氏の探偵談を聞くべく訪れたのであるが、その日は、「探偵と偶然」ということが話題となり、氏は、世の中のことの多くがチャンスによって支配されるということを主張してから、その実例を語るべく、こう言い出したのである。

 

×        ×        ×         ×

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松島氏がHビルヂングに着いた時は、午後五時半少し前であって、あたりは薄暗く、大きな建物の中はひっそりとしていた。三階に上がって、T商会の入口のベルのボタンを押すと、支配人の各務氏は心配そうな顔付きをして出迎え、松島氏を支配人事務室に案内した。各務氏のほかに、事務員らしい一人の男がいて、お茶の給仕をした。

「早速ですが、実は先刻、この事務室で大切な手紙を盗まれたのです。で、あなたにそれを取り返していただきたいと思って、お運びを願ったわけです」と、五十を越した年輩の、つるりと禿げた頭をした各務氏は、声を小さくして言った。

「どうか、詳しい事情をお話し下さい」と、松島氏は答えた。

各務氏の話はざっと、次のようであった。

各務氏は四、五日前、約半年ばかり、女秘書として使用していた鳳恒子というモダン・ガールを解雇した。彼女はその顔がいわゆる妖婦型であるばかりでなく、どうやらその心にも怖ろしい犯罪性を持っているらしかったので、各務氏はすこぶる気味を悪がって、機会があらば解雇しようと思っていた。ところが、最近恒子は、事務員の一人なる田山友治と同棲することになったが、その田山が先日商会の金を無断で使用したので、それを機会に二人を解雇したのである。

すると今日三時半頃、恒子は、用事があるからと言って面会を求めた。各務氏が事務室へ呼んで、デスクの向こう側に腰を掛けさせ、用向きを聞こうと思うと、その時隣の部屋から事務員が来て、ちょっとお話ししたいですがと言ってドアのところにつっ立った。各務氏は立ち上がって、ドアのそばに行き、その事務員と二言三言話した。その間はわずかに三十秒くらいであった。各務氏が戻って来ると彼女は立ち上った。

「わたし、今ふと、他の用事を思い出したから、また、明日にでも、お伺い致しますわ」

こう言ってさっさと廊下に通ずるドアの方へ歩きかけたので、各務氏はいささか面食らって彼女を送り出し、デスクの前へ帰ると、初めて机の上に置いてあった大切な手紙を紛失したことに気づいたのである。

はっと思って、彼女の後を追って廊下へ出て見ると、彼女はエレヴェーターを待ちながらこちらを向いてにこにこしながら立っていた。で、各務氏は彼女を呼び戻し、事務室へ戻ってもらって、やさしく、手紙の返却を迫ると、彼女は大いに怒って、各務氏を罵ったので、各務氏も癪に障り、事務員に命じて、警視庁から女刑事を呼んで、彼女の身体を検査せしめたのである。

その結果、彼女の身体のどこにも手紙は発見されなかった。彼女は、この侮辱を与えられたことは一生涯忘れないからそのつもりで居るがよいという捨て台詞を残して去ったが、どう考えて見ても、手紙は恒子が盗ったに違いないから、各務氏は、彼女がその手紙をどこへ隠したかを見つけ、そしてその手紙を取り戻してもらいたいと思って松島氏を招いたのである。

「女はどんな服装でしたか」と、各務氏の話を聞き終わってから松島氏は尋ねた。

「洋装です」

「手には何か持っていましたか」

「瑪瑙色の手提げ袋を持っていました」

松島氏はしばらく考えてから言った。

「そのような大切な手紙が、どうして机の上に置いてあったのですか」

「ちょうど、受け取って、読んだばかりのところへ、女が訪ねて来たのです」

「その手紙の内容は?」

「それはちょっと複雑になっていまして、他の同業者の秘密を漏らすことになるから、申し上げかねます」

「女はその手紙の内容を知って盗ったのでしょうか」

「いえ、知っているはずがありません」

「女はその手紙が来ることを知って訪ねたのでしょうか」

「その手紙が来ることは、私にもわからなかったのです。ですから、偶然盗ったのに過ぎません。書留郵便でしたから、ひとつには好奇心に駆られ、ひとつには私を困らせようとしてやったのだろうと思います」

「それならば別に、女にとっても、大して利益になる手紙ではないじゃありませんか」

「ところが、その手紙の内容が、女と同棲している田山の手に渡ると大へんなのです。田山がもしそれによって悪事を企んだならば、T商会は少なくとも十万圓(※現在の価値で約八千万円)の損をしなければなりません」

松島氏は再び考えに沈んだ。

「でも、もうその手紙を見てしまったかも知れませんねぇ。そうすれば、手紙を取り返したとて駄目じゃありませんか」

「さあ、そこが問題です」と各務氏は、電燈の光に顔を輝かせて言った。「どうも、あの短い間に女が手紙を読んで、破って捨てたとは考えられないのです。それにもかかわらず、手紙が彼女の身体のどこにも隠されていなかったというのは不思議です。だから、私は、手紙がどこかこのへんに隠されているのでないかと思います」

「その田山という男が廊下に待っていて、女から手紙を受取ったのではないでしょうか」

「そんなことはないと思います。第一、田山も、その手紙の存在を知るわけがありませんし、それに、エレヴェーター・ボーイに聞いて見ましても、田山らしい男は見えず、女は一人でやって来て、一人で帰って行ったと申します」

松島氏は立ち上がって事務室内を検査し始めた。事務室はすこぶる簡単な装飾で、中央にデスクが置かれ、付近に二、三の椅子が並べてあるだけであった。そして、手紙の隠されていそうな場所はどこにもなかった。

「むろん、引き出しの中へお入れになったのではありませんね?」

「念のために引き出しをみんな探して見ましても、手紙はもとよりありませんでした」

「それじゃ、とにかく、私は一度その女に会って見ようと思います。どこに住んでいますか」

「目黒の第三文化アパート・メントの六階です」

「同棲している田山というのはどんな男なのですか」

「柔道三段の男です」

「そうですか。それじゃ、腕づくではとてもかないませんですねぇ。で、もし先方が手紙を売ると言ったら、いくらまで出してもよいですか」

「一万圓(※同約八百万円)まで出して下さい」

それから松島氏は支配人に別れを告げて廊下に出た。エレヴェーターは、三間ほど先の右手にあったが、近づいて見ると、エレヴェーターの脇のところに、郵便物を投函する口が付いていた。これを見た松島氏は、はっとして咄嗟に事件の真相を知ることが出来た。そこで松島氏は引き返して各務氏にそのことを告げようかとも思ったが、その時ちょうどエレヴェーターが来たし、むしろ急いで警視庁へ行って応援を求めた方がよいと思ったので、そのままエレヴェーターに乗って降りたのである。

Hビルヂングの外へ出たとき、晩秋の日はとっぷり暮れて、あたりに人通りはなかった。ペーヴメント(※舗装道路)の上をおよそ七、八間(※約12~15m)も歩いたと思う頃、後から、ばたばた駆けて来る足音が聞こえたので、何事が起きたのかと思って振りかえろうとした途端に、松島氏は後頭部に激しい痛みを感じて、そのまま人事不省に陥った。

 

(二)

 

ふと気がついて見ると、松島氏は一人のがっしりした体格の男と、自動車に同乗していた。自動車は人通りの少ない夜の街を快速力で走っていた。始め松島氏の頭はぼんやりしていたが、だんだんはっきりして来て、前後の事情が記憶に浮かんだ。そして、自動車に同乗しているのが、多分、田山という男だろうと想像した。というのは、彼は、三十七、八のがっしりとした体格で、目つきのよくない顔をしていたからである。

「おい君、何をしようというんだ」と、松島氏は尋ねた。

「黙っていたまえ、他人の仕事の邪魔をすると、いつでも辛い目に会わねばならんよ」

二人の間に再び沈黙が続いた。かれこれするうちに、自動車は郊外に出て、大きな建物の前に停まった。それは第三文化アパート・メントであった。男は松島氏を引っ張り出すようにして、自動車を降り、建物の中へ入って、エレヴェーターで六階まで運ばれ、六十二号室のベルを押した。

扉を開けたのは耳かくしに結った洋装の女であった。松島氏は一目でそれが問題の女であると知った。男は松島氏を伴って中に入り、女の耳元に何事をかささやくと女は二、三度うなずいて、にっこり笑った。

やがて松島氏は奥の客間に案内された。そこには中央に円形のテーブルが置かれ、その上に、瑪瑙色の手提げ袋が投げ出してあった。松島氏は、「ははぁ、これだな、今日、女が持っていたというのは」と心の中でつぶやいて、意味ありげに眺めた。そして松島氏は遠慮なく、部屋の突き当たりに置かれてあった、ふかふかしたソファーに腰を掛けた。

男と女とはテーブルを隔てて、松島氏と対座した。男は比較的やさしい声を出して言った。

「僕等は決して君に害を加えやしないから安心したまえ。ただ、明日の昼までここに居てくれりゃ、それでよいのだ。大方、君にもその意味はわかっているだろう」

松島氏はうなずいた。そして、落ち着きを示すためにわざと丁寧な言葉を使った。

「よく、わかりましたよ。しかし物は相談ですが、どうです、あの手紙を売ってくれませんか」

「ははは」と男は笑った、「多分、そう来るだろうと思ったよ。そう言われれば、ますます売れないね」

「でも、手紙の内容がどんなものかをご承知ないでしょう」

「知らないさ。恒子はちょっと、いたずらに、手近にあった手紙を失敬したのだからね。けれど、警視庁の女刑事を呼んだり、有名な私立探偵を頼んだりするところを見ると、よほど貴重なものに違いないじゃないか、恒子は今日別の用事で各務氏に会いに行ったのだが、書留郵便だったから、好奇心に駆られたのさ。ところが各務が大袈裟に騒ぎ出したので、きっと重大な手紙だと思って、先刻電話を掛けて寄越したのだ。で、僕が出張して様子を窺っていると、君がやって来てしばらく各務と話し、それから廊下へ出てエレヴェーターのところに立ち、ふと、郵便投入口に目をつけて、うなずいたから、さては君が感づいたなと思ったのさ。で、僕は君のあとから追いかけ、少々無理な手段でここへ来てもらったのだ」

松島氏はこれを聞いて、あのとき、エレヴェーターの前で、事件の真相を知って、すぐ、各務氏に告げなかったことを後悔した。もはや読者も推察されたであろうが、手紙は恒子の手に奪われ、恒子が手提げ袋に持っていた封筒の中に入れられ、鉛筆で恒子自身の宛名が書かれ、同じく手提げ袋の中にあった切手が貼られて、エレヴェーターの傍の郵便投入口から投げられたのである。で、手紙は明日の朝、恒子のもとに到着するはずなのである。松島氏は郵便投入口を眺めて、以上の事情を推定し、すぐさま警視庁へ行って、知った刑事に頼んで手紙を横取りしてもらおうと思ったのであるが、その計画はみごとに覆されて今はもう絶望に近い状態に陥ってしまった。

田山の言葉によって田山がまだ手紙を見ていないことを確かめると、松島氏は、どうにもして彼等の手に入らぬ前にその手紙を横取りしたいと思った。しかし、電話はあっても、もとより使わせてはくれないし、手紙を書いても、誰も運んでくれないし、まるで袋の鼠同様に手も足も出ないことを思うと、松島氏は非常にくやしかった。けれど、松島氏は、決して心から希望を捨てはしなかった。見たところ絶望であっても、何かそこによいチャンスがありそうに思われたからである。

氏はおもむろにポケットから大型の手帳を出して、膝の上で何事かを書き始めた。それを見た男は皮肉な笑い方をして言った。

「君、君がいくら外部へ通信をしようとしたとて駄目だよ。無駄なもがきをしないで、静かにしていたらどうだ」

と、その時、隣室で電話のベルが鳴った。男は立ち上がって、隣室へ行った。やがて、男の話す声が聞えた。

「ああ、結城さんですか。恒子はおります」

この声を聞くなり恒子は男がまだ帰らぬ先に隣室へ行った。すると、松島氏は、飛鳥のごとく身を起こして、テーブルの上にあった手提げ袋の口を開き、目にもとまらぬ早さで中から何物かを取り出してポケットに入れ、男が帰って来たときには何食わぬ顔をして、相変わらず手帳の中へ何事かを書き続けていた。

書き終わると松島氏は手帳を閉じて、ポケットに入れ、時計を見た。それはちょうど八時十五分前であった。

「少しお腹がすきましたよ。何かご馳走をいただけませんか」と、特に電話から戻って来ていた女に向かって言った。女は男と顔を見合わせ、奥へ行って、ビスケットを持って来て、松島氏に差し出した。

「まあ、これでも食べて我慢したまえ」と、男は言った。

松島氏は遠慮なくビスケットを食べ、ついで差し出されたお茶を快く飲んだ。田山は松島氏の落ち着いた態度を見て、初めは多少気味を悪がったが、後には松島氏が、万事をあきらめたものと解釈したらしかった。

「どうだね、もう観念しただろう」

「参りましたよ。けれど、何とかして売って欲しいものですねぇ。・・・・・・時に今晚はどこで休ませてもらえますか」

「今晩はそのソファーの上で寝たまえ。僕等はここで徹夜して番をしているから」

「そうですか、それでは僕もお付き合いに寝ないでおきましょう。その代わり、あなた方が眠くなるかもしれませんよ」

「ふん、君は催眠術が得意だそうだが、まさか、僕を眠らせることは出来まい」

「催眠術なんか、こんなところではやりませんよ。それよりも自分自身に催眠術をかけて、この後ろの窓から飛び降りて見ましょうか」

「冗談言いたまえ、いくら催眠術を使っても、六階の窓から飛び降りた日にゃ、身体が粉微塵に砕けるよ」

「しかしどこかに足を掛ける所ぐらいはあるでしょう?」

「あるものか。そんなことを言うなら、見せてあげよう」

こう言って、男は立ち上がって、松島氏のそばへ来て窓を開けた。松島氏も立ち上がって窓際に寄り、頭を出して下を見ると、果たして足を掛ける所などはなく、遙か下方のペーヴメントには、まだ宵のことで、ぽつぽつ人通りがあった。

「なるほど、これじゃ、この窓からは逃げられませんねぇ」

こう言って松島氏は、さもさも恐ろしかったというような表情をして、手づから、窓を閉めるのであった。

 

(三)

 

それから、はなはだ気まずい通夜が始まった。男と女とはひそひそ話をはじめ、松島氏はソファーに身を横にして、目をつぶったが、その顔には何となく安心したような色が見られた。

時間は刻一刻と過ぎて行った。松島氏は一向に何もする様子が見えなかった。恐らく、明日の朝になって何か奇抜な方法を講ずべく計算を立てているのであろう。

長い時間が過ぎて、とうとう朝になった。松島氏は別に疲れた顔もせず立ち上がった。田山と恒子とは、何となく希望に満ちた顔をしていた。恐らく彼等は午前の第一便に配達される手紙を待ちこがれているのであろう。郊外のことであるから、第一便は午前十時前後に配達されることを松島氏はよく知っていた。だから、松島氏はそれまでに談判を取り決めなければならぬと思ったらしく、パンとミルクの朝飯を食べ終わるなり、

「さあ、これからが真剣の談判です。どうです、綺麗さっぱりと、手紙を売ってくれませんか」と、恒子に向かって言った。

「いけないわ」

まあ、そう言わないで、千圓(※同約八十万円)で譲ってください」

男はせせら笑った。

「三千圓(※同約二百四十万円)」松島氏は男に向かって言った。

男は相手にならなかった。

「五千圓(※同約四百万円)」

「いくらせり上げても駄目だよ。手紙を見てからならば相談に乗ってもいい」

「では一万圓(※同約八百万円)出させましょう。これから電話を掛けて現金を届けさせます」

男は頑として承知しなかった。松島氏は気が気でないと見え、時計を出して見た。九時が二十分過ぎていた。

それから松島氏が、手を換え、品を換えて、口説いたが田山は金輪際、動かなかった。

かれこれするうちに十時が打った。すると、こんどは男と女が興奮し始めた。

「今日は遅いのねえ、郵便が」と恒子は心配そうに言った。

「今に来るよ」と、男は慰めるように言った。

しかし、十時半になっても、十時四十五分になっても、郵便は来なかった。

「わたし、ちょっと、電話でボーイに聞いて見るわ」

こう言って彼女は隣室へ行った。洩れ聞こえて来る会話によって、第一便が既に配達されたことがわかった。男は意味ありげに松島氏を眺めると、松島氏は顔色も変えずに言った。

「さあ、どうです、一万圓で売って下さいよ。手紙は紛失したかも知れませんから、今のうちに手紙を売る約束をしておいた方がいいではありませんか」

この時、女は顔色を蒼くして帰って来た。

「おかしいわ。けれど午後の配達にはきっと来るわ」

「たしかに投函したかい?」

「ええ、確かに入れたわ」

「それはおかしい」こう言って男が松島氏の方を見ると、松島氏は意味ありげに、にやりと笑った。それを見た男は、急に顔色を変えて、つかつかと歩み寄り、松島氏に何事かを問いただそうとしたが、その時入口のベルが激しく鳴ったので、男は立ちどまり、恒子が開けに行った。

その瞬間、恒子の言い争う声が聞こえた。と、重々しい足音が聞こえて、ひょっこりそこに現れたのは、松島氏の友人で警視庁の刑事をしている柔道五段の富谷氏であった。富谷刑事は私服を着ていたが、その堂々たる体躯には、さすがの田山も辟易したと見え、

「君は誰だ?」

と、とがめたが、富谷氏はただ、にこにこと笑うだけであった。すると、松島氏は、

「手紙は!」

と、尋ねた。しかし富谷氏はそれに対しても返答せず、相変わらずにこにこと笑った。けれど、松島氏にとっては、それで十二分であった。氏は、恐怖のために呆然としている二人に向かって相変わらずやさしい声で言った。

「お二人は、どうして私が手紙を横取りしたかを不審に思うでしょう。あなた方の一大失策は、昨夜ここで私が手帳に物を書いた時、それを止めないでおかれたことです。あれは言うまでもなく各務氏に宛てた手紙でした。しかし私は封筒も切手も持ちませんけれど、封筒と切手が、まだ手提げ袋の中に残っているだろうと思ったのです。そこで私は、電話が掛かって来た時、ほんのしばらくの間、お二人とも留守になったので、手提げ袋の中から手早く必要なものを取り出し、何食わぬ顔をして手帳に文字を書き込んでいるような風をして、私の書いた手紙を封筒に入れ、切手を貼って、宛名を書きました。さあ、そこで、こんどは、どうしてその手紙を各務氏に届けるかが、問題でした。私はその時、ただチャンスに任せればよいと思ったのです。で、私は、私たちの会話を適当に導いて、窓を開けてもらったのです。窓の下が往来になっていることを私はよく知っていましたから、手紙を往来の上へ投げさえすれば通りがかりの人に拾われる。拾った人は、その手紙を見て、誰かが、投函すべきものを落としたのだろうと思って、必ず最寄りのポストに入れてくれる。私はつまりその機会を待ったのです。果たして私の予想は当たって私の手紙は今朝七時頃にT商会に配達され、各務氏は八時に出て来て、手紙を開き、富谷君に横取りを依頼したに違いありません。ね富谷君、その通りだろう?」

富谷氏は相変わらず、黙ってにこにこと笑うだけであった。

 

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×            ×           ×

 

「まったく偶然の機会に任せるだけのことでしたから、果たして目的が達せられるであろうかと考えて、随分気をもみましたよ」と松島氏は最後に付け加えた。「しかし、世の中のことは、すべて案じるよりも産むが易いものです。その晩もし雨でも降っていたら、私の計画はさっぱり駄目でしたでしょうが、とにかく万事好都合に行きました。問題の二人は私と富谷君とが意気揚々として立ち去る姿を、まるでトンビに油揚げをさらわれたとでもいうべき顔をして、眺めておりましたよ。・・・・・・」

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