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更新日:2021年10月30日公開 印刷ページ表示

いたづら蟹(大正14年発表)

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「きっと蟹がいるんだよ。蟹が萬年青(おもと)の芽をつまむに違いない」

彌助爺のこの言葉は「萬年青屋敷」の人々を寒からしめた。

番町の萬年青屋敷といえば界隈で誰知らぬものもない旧家である。さほど大きな構えではないが、相当な資産家で、もとは「蟹屋敷」と呼ばれたのであるけれど、当主が萬年青に凝り出してから、五百坪ばかりの庭の大半が萬年青鉢の棚で塞がれるほどになったので、いつの間にか萬年青屋敷と呼ばれるようになったのである。

その主人が愛してやまない萬年青の芽を、近頃何者とも知れず、片っ端から無残にも切り捨てて行くものがあるので、三十年近くこの家に雇われている彌助爺は、昼夜、用心深く番をしているのであるが、どうしても犯人を見つけることが出来なかった。ちょうど、このことの起こる少し前に、この家にお里という今年、十六になる小間使いが雇われて来たので、下働きの女中たちは、お里のしわざではないかと彌助爺に注意を促したが、その証拠はさらになく、しかも萬年青の芽はどしどし切り捨てられて行くので、彌助爺も、しまいには我慢しかねて、

「旦那様、警察へ訴えましょうか?」

と度々主人に勧めたが、主人の妻戸清七は、なぜか警察に訴えることを好まなかった。一芽切り取れられても十圓(※現在の価値で約八千円)や二十圓、時には五十圓、百圓の損害であるから、彌助爺は少なからず気を揉んで詮索したが、その結果、彼はこの恐ろしい悪戯をするものは蟹に違いないと想像したのである。 

こう想像して気を付けていると、果たしてある夜、彌助爺は、マッチ箱ほどの甲を持った、比較的大きな一匹の蟹を庭の一隅に見つけたのである。

「あ、また、お屋敷に不祥なことが起きねばよいが・・・・・・」

と、彌助爺は、ぎょっとして心の中でつぶやいた。

彌助爺が、萬年青の芽を摘み切る悪戯を蟹のしわざだと想像したことも、また蟹を見つけてお屋敷に不祥事が起こらねばよいがとつぶやいたのも、それには深い理由があるのである。

そもそもこの妻戸家がもと「蟹屋敷」と呼ばれたのは、伝説によると、先祖にあたる人の娘が、一匹の蟹を飼って日夜愛育していたところ、その娘が非常な美人であったから、蛇に見こまれて、とうとう結婚の承諾を与えてしまった。いよいよ結婚の日に、娘は自分の恐ろしい運命を嘆きながら、念仏を唱えていると、いつも男の姿で来た蛇は、その日に限って蛇そのままの姿で婿入りに来た。娘は怖ろしさに身震いしながらも、ますます声高に念仏を唱えていると、娘の飼っていた蟹は、そのはさみをもって蛇を見事に切り殺して娘の難を救った。それ以来、この妻戸家は栄えたのであるが、もしこの家に邪心陰謀を抱くものがあると、必ず邸内に蟹が現れ、恐ろしい悲劇が発生した。だから、屋敷に蟹が出ることは不吉な前兆となっていたのである。

ちょうど今から十七年前のことである。この家の跡取り息子の貞一は、両親が早世したので、現在の主人である叔父清七夫婦の後見のもとに成長したのであるが、二十三歳の春、かねて許嫁の間柄であった孤児の富子と結婚することになった。ところが結婚式の行われる少し以前に、邸内に蟹が現れたので人々は不吉なことが起こらねばよいがと心配したが、果たして、結婚して四、五日の後、貞一は恐ろしい病を発したのである。それは蟹のように泡を吹く、すなわちてんかんであったから、人々はただちに蟹の祟りであると解釈した。てんかんが結婚後に起こることは、医学上珍しいことではないが、清七は、花嫁の富子が邪心陰謀を抱くものと解釈し、妻の諫言をも聞き入れず、富子を離縁してしまったのである。清七は日清戦争にも出征して相当に新しい頭脳を持っているはずであったのに、その時は家の伝説を盾に取って頑としてきかなかった。

富子は涙ながらに妻戸家を去ったが、その後どこへ行ったか、ようとしてその消息が知れなかった。貞一もわが身の不運を非常に悲しんだが、いったん発生したてんかんは治らないばかりか、かえって頻繁に発作が起こり、とうとう秋の夜、はげしい発作のために、床柱に頭を打ちつけ、舌を噛み、血の泡を吹いて死んだのである。これを見た人々は蟹の祟りの恐ろしさに肝を冷やしたが、邸内に現れた蟹はいつの間にか姿を隠してしまった。

跡取り息子の貞一が死んだので、妻戸家は貞一の叔父清七夫婦のものとなった。清七は今年五十五になるが、夫婦の間に子が無いので、人々から養子を迎えるよう勧められるけれども、ことに夫人の廣子は養子を迎えると苦労が増えるからと言って反対し、その代わり、諸種の慈善事業に多額の寄付をして貧民救済に力を注ぎ、家庭の趣味として萬年青の培養を始めたのである。

清七夫婦がわが子を育てるように丹精を尽くしたその萬年青が、突然邸内に現れた蟹のために荒らされるようになったので、清七夫婦の驚きは大きかった。しかもその驚きが激しい恐怖を伴ったことは、読者諸君にも察し得られることであろうと思う。

「今に恐ろしいことが起きるだろう」とは読者諸君の想像される所であるばかりでなく、妻戸家の人々にとって、払いたくても払い得ない脅迫観念であった。

 

(二)

 

亡き貞一の第十七回忌法要が営まれたのは、晩秋の晴れ渡った日であった。先祖代々浄土宗であったから、早朝から、夫人廣子の手によって、仏壇は美しく飾られ、貞一の名を黒く彫った金色の位牌の前には、新しい花が供えられた。

やがて二人の僧侶によって読経が行われた。木魚の音は、澄み渡った空気に響いて、何となく哀調を帯びた。参詣の人は親戚の男女が七、八人、ほかに主人夫婦をはじめ、小間使いのお里、彌助爺も末席に連なった。

読経が、単調な僧侶の音色によって大半済んだとき、仏壇の中でパタリという音がした。それと同時に僧侶がぴたりと読経を中止したので、人々は何事が起きたのかと見上げると、今まで焼香の煙に包まれていた貞一の位牌が前の方へ倒れていることがわかった。人々は一斉にはっと思って顔を見合わせたが、誰一人口をきくものはなく、ことに主人夫婦の顔は蒼ざめて、見る見るうちに、油汗が額ににじみ出た。

一座の沈黙は、その時、仏壇の中から聞こえてくる異様な物音に破られた。

「さらさらさらさら」

「やッ、蟹が!」

僧侶の声に並いる人々はぎくりとした。

「しっ、しっ」と僧侶が手を振って追い出すと、蟹は仏壇の外へ走り出た。赤みがかった二つのはさみを振り立て、鋭い毛の生えた脚を動かす姿は物凄かった。人々は、ただ身体をすくめるだけで、誰一人、この魔性の動物に手出しするものはなかった。やがて蟹は床の敷居に沿って、時々立ち止まってはそのジストマ(吸虫)のような目を上下に動かし、あたかも人々に催眠術をかけるかのような振る舞いをして、悠々と縁側の方に歩き出し、ついで庭に姿を隠した。

この時まで木魚を叩く手をやめて、一心に蟹を見送っていた僧侶は、再び激しく叩き始めた。その音に我に返った一同が仏壇の中を眺めると、貞一の位牌はもと通りに起こされていたが燈明の光に照らされて、燐のような気味の悪い光を呈していた。

読経が済んで、ときが出されたけれど、人々の心は何となく沈みがちであった。親戚の人たちも皆、この家にまつわる恐ろしい伝説と、貞一の死んだ前後の事情とをよく知っていたからである。だから、いずれも不快な思いを胸に畳んで、早々に帰ってしまった。

客を送り出してから、清七夫婦は、奥の間に二人きりで対座した。廣子は痩せぎすな面長の女で、まだ四十三、四ではあるが、苦労のためか、年齢よりもずっと老けて見えた。

「あなた、この妻戸の家はいよいよ滅びます」と廣子は悲しそうな顔をして言った。

「何を馬鹿な!」と清七はたしなめるように言ったが、その声はいつもよりもずっと弱かった。

「この十七年間、わたしは、今に恐ろしい時節が来るかと、どんなに苦しい思いをしたか知れません。とうとうその時節が来ました。こんどこそは私たちが死ぬ順番です」

「そんなことがあるものか」

「いえ、あの蟹が立派な証拠です」

「それは迷信だよ」

「萬年青の芽をつまむだけでなく、今日は貞一の位牌まで倒れたのですもの」

「あれは、ほんの蟹のいたずらだよ」

「第一、蟹の出たことがいけません。十七年間出なかったじゃありませんか」

「そりゃそうさ」と言って清七は考え込んだ。

「それ御覧なさい。わたし達は貞一に復讐されるのです・・・・・・」

「しっ」と清七は、険しい目つきで廣子を睨んだ。「大きな声をしてはいかん」

「いいえ、どうせ知れてしまいます。今にあの蟹が、あなたの罪を世にばらしてしまいます」

「そんな馬鹿な。俺はこれまで及ぶ限り慈悲事業に尽くして来た」

「でも、 蟹が出た以上、あなたの罪はそれだけでは消えないのです・・・・・・」

二人の間に沈黙が続いた。

「それではどうなると言うんだ? どうしようと言うんだ? お前は俺を、警察へでも訴えようと言うのか?」と清七は恐ろしい顔つきをして言った。

「まあ、あなたを警察へ訴えるくらいなら、永い年月、こうしてあなたを庇って苦労はしません。私は弱い人間ですけれど、あなたを思う心は何ものよりも強いのです」

「それなら、お前ももっと強くなってくれよ。お前はこの頃急に気を弱らせたじゃないか?」

廣子は何を思ったか、急にハンカチを目にあてて身体を震わせて泣いた。

「あなたを畳の上で死なせなけりゃ、私は死んでも死ねません・・・・・・」

「もうこんな話はよそう」と清七はなだめるよう、やさしい声で言った。「お前は蟹が出てから、別人のようになってしまった。しかし、どうもあの小間使いのお里を雇ったのがいかんかもしれんよ。あれが来てから蟹のいたずらが、始まったからねえ。邪心陰謀を抱くものが家に入ると、蟹が出るという言い伝えだ。いっそお里に暇を出そうか?」

「ほら、やっぱりあなたも、言い伝えが気になるのでしょう。いえ、お里には何の罪もありませんよ。お里は今ではかわいそうな孤児です。ああいう子に情をかけてやるのがせめてもの罪ほろぼしです」

「でも、あれはどうも無気味な女だよ」

「それは、小さい頃から苦労して来たからですよ」

 

(三)

 

その夜は月がよかった。廣子夫人はお里を連れて庭へ出て散歩した。すると、提灯をともして塀のふちを捜していた彌助爺が、こちらへ歩いて来て言った。

「奥さま、あのいたずら蟹を、何とかして捕まえたいと思うのですが、どこに穴を掘っているのか、どうしてもわからないのですよ。穴が見つかったら捕まえて、どこかへ捨てに行こうと思います。なに、殺してしまうのはわけないですけれど、殺すと、後の祟りが恐ろしいですからなあ」

彌助爺は廣子が何も言わぬ先に、再び捜索に取りかかった。月の光に照らされた廣子の顔は、物凄いほど蒼白かった。

「奥さま、冷えるといけません。もう中へお入りになりませんか?」とお里はやさしく尋ねた。

「いいえ、今夜はどういうわけか、うちの中へ入る気になれないのよ。出来ることなら、朝までこうして庭にいたいくらいなのよ」

「まあ」

「お里!」と廣子は言葉を改めて言った。

「はい」

「お前はお父さんの顔を知らないんだったねえ?」

「知りません」

「逢いたいだろうねえ?」

「でも死んでおりません」

しばらく沈黙が続いた。虫がしきりに鳴いた。

「お前はどうしてこの家へ来たいと思ったの?」

「奥さまが御慈悲深いと聞きましたから」

「そう」と言ったまま廣子は黙った。その時月は雲に隠れて、あたりは薄暗くなった。

「お前は蟹のいたずらをどう思うの?」と廣子は心持ち声を震わせて言った。

「何とも思いません」

「蟹が出ると、この家に悲しいことがあるという言い伝えがあるからねえ。今に旦那様や私にどんなことが起こるかもしれん。そういう時のことを思うと、私はお前を頼りにするばかりだよ」

「まあ、そんなことをおっしゃってはいけません。奥さまのようなやさしいお方に悪いことの起ころうはずはございません。旦那様ならともかく・・・・・・」

「え? 旦那様なら? 何故?」

「旦那様は私に、いつも、いやらしいことをおっしゃいます」

「えっ?」と夫人は叫んだが、それと同時に、

「あ、痛ッ!」と言いながら、二、三歩後ろへよろめき退さった。

「どうなさいました」とお里が聞くと、廣子は手を震わせて物をも言わず地上を指していた。お里が地上に目を移すと、夜目にもはっきりと一匹の蟹が、白く光るはさみを振り立てて、さらさらと走り去った。

「あっ、血が!」お里は蟹を見送ってから廣子の足の甲を見て思わず叫ぶと、その途端に、廣子は、お里の方へふらふらと倒れかかった。

「彌助爺さん、大へんです。奥さまが・・・・・・」

お里の声に彌助爺はあたふた駆けつけて来た。ひとまず彌助爺が気絶した夫人を縁側の上に運ぶと、お里はとりあえず、夫人の足の傷にハンカチをまいた。

 

(四)

 

廣子夫人はその夜から高熱を発した。清七は直ちに医師を招いて診察させ、医師は蟹のはさんだ傷を消毒液でよく洗って包帯したが、小さい傷ではあったけれど、だんだん膨れ上がって来て、痛みがいよいよ激しくなった。精神的な影響もあったことであろうが、夫人は二、三日のうちに急に衰弱して、四日目の朝、熱が四十二度以上に達したとき、医師は敗血症になったらしいから、とても回復は難しいだろうと宣言した。

お里は熱心に看護した。先夜来、夜の目もろくに寝なかったために、廣子の枕元でうとうとしたかと思うと、ふと、夫人のうわ言によって目を覚ました。

「貞一、堪忍してくれ、叔父さんはねえ、叔父さんはほんの一時の心の迷いで・・・・・・」

はっきりとはわからなかったけれど、お里の眠たそうな目は急に輝いた。彼女は夫人のうわ言を一言も聞き落すまいとするように、病人の唇に目を注いだ。

「貞一、どうぞ叔父さんに祟らぬようにしてくれ・・・・・・叔母さんはそのためにどんなに苦労して来たことやら・・・・・・。どうせ、お前は助からぬ身だった・・・・・・。叔父さんはただ・・・・・・ああ、私も悪かった・・・・・・けれど、出来たことはもう取り返しがつかぬ・・・・・・よう、堪忍してくれ・・・・・・」

その時、清七がつかつかと部屋へ入って来た。お里ははっと我に返った。

「おや、うわ言を言ってるね。大へんだ、お里、早く医者へ電話をかけてくれ!」

お里は立ち上って急いで去った。

「・・・・・・貞一、どうぞ叔父さんに祟らぬようにしてくれ・・・・・・わたしは死んでもかまわぬが、叔父さんだけは、恐ろしいところへやりたくない・・・・・・」

清七はびっくりして、つと夫人の口を手で覆いながらあたりを見回した。その時、病人の額につけてあった氷嚢が清七の手の方へすべって来たので、清七は思わず手を離した。

「ああ貞一、お前を殺したのは叔父さんだけれど・・・・・・」

清七の顔は土のように変色した。彼は病人の口元に氷嚢を覆いかけ、ふらふらと立ち上って自分の部屋に行き、しばらくして帰って来たが、その眼は殺気を帯びていた。

「旦那様、お医者様はすぐに来て下さいます」と言いながらお里が入って来た。

「医者が来るまで、俺が付いているから、お前はあっちへ行っておいで」

「でも・・・・・・」

「あっちへ行けと言うに!」と、清七の声は荒かった。

「はい」

お里は素直に去った。清七は立ち上って、今まで明け放たれていた障子を立てた。

「あれ! 蟹が・・・・・・貞一、どうか叔父さんには・・・・・・お前を殺したのは・・・・・・」

うわ言の言葉がいよいよはっきりして来たので、清七はぎょっとして、病人の口に手を当てて言わせまいとしたけれど、それは土手の切れ目からほとばしる河水を空手で防ぐようなものであった。

清七はすっかり逆上してしまった。彼はしばらく、病人の口に手を当てて、咽喉から出て来る言葉を遮っていたが、やがて決心したように、袂から四角な二寸四方ぐらいの紙箱を取り出して、その蓋を開いた。中には注射器と、無色の液体の入った小指ほどの太さの小さなガラス瓶があった。彼は手早く、その液を注射器に取って、病人の腕をまくった。

「廣子、許してくれ。どうせお前ももう長くはない生命だ。大事の秘密をしゃべられては俺がたまらぬ。いざという場合には、俺はいつでも死ぬ覚悟をしているが、もうしばらく生きておりたいのだ。貞一を殺した青酸でお前が死なねばならぬようになったのも何かの因縁だが、俺を助けると思って死んでくれ・・・・・・」

彼はこう小声で呟いてあたりを見回し、廣子の腕へ針を刺したかと思うと、手早く注射を終わった。

と、その時どさどさという足音がこちらへ近づいて来たので、清七ははっと思って、紙箱へ注射器を入れ首尾よく袂の中へ隠した。障子を開けて入って来たのは、医者でもお里でもなく、清七の今まで見たことのない洋服を着た男だった。

「君は、だ、誰だ?」

「お取り込み中を誠に失礼ですが・・・・・・」

「何の用だ?」

「僕は××署の刑事です」

清七はわが耳を疑うほどびっくりした。

「何用ですか知らぬが、ただ今、家内が死にましたから・・・・・・」と言う声は甚だしく震えた。

「ええっ?」と刑事もびっくりした。

「奥さんが死なれましたら、いずれ医師の診察がありましょう。失礼ながらそれまで・・・・・・」

刑事が言い終わらぬうちに、医師とお里とが入って来た。清七は救われたような思いをして、夫人の死亡した旨を物語ると医師は眉をひそめて、死人の枕元に近寄った。

「誠に残念でした。しかし早晩もう駄目だと思っておりました」

こう言って医師は死人の胸を診察するために、お里に命じて布団をまくらせた。お里が徐々に布団をまくると、四人の人々は、あっと言って身体をすくめた。

そこに意外な現象が展開されたからである。

死人の胸の白い寝巻の上に一匹の蟹が、両方のはさみの間に、透き通る物体を捧げて、あたかも人々に反抗するかのように、じっと立ちはだかっていたからである。

悲鳴をあげてお里が、布団を持った手を離すと、その時、始めて蟹は畳の上を走り降りたが、その拍子に、はさみの間に捧げられていた物体は、医師の手先に投げられた。

見ると、それは先刻清七が注射に使用した青酸の小瓶であった。すなわち清七は、あまりにあわてたため、青酸の瓶を蟹にさらわれたことを気づかずにいたのである。

やにわに清七が、懐からピカリと光るものを取り出したかと思うと、その途端にドンと鼓膜を裂くような音がして、白い煙が部屋を満たし、清七は胸部を血に染めて倒れた。

×      ×      ×

 

清七がピストル自殺を図って、絶命するまでに、苦しい息の中から、人々に白状したところによると、既に諸君の推知しておられる通り、今より十七年前、妻戸家の財産を我が物にするために、貞一がてんかんを起こしたのを幸いに、まず新嫁を離縁し、それから、貞一のてんかん発作の際、意識を失っているのに乗じてその昔、日清戦争のときに、支那で手に入れた青酸を注射して殺し、巧みに医師の目をくらませて、難なく目的を達したのである。夫人廣子は清七に似ても似つかぬ善人であったが、良人の罪悪を知っても良人可愛さのために、これまで虎の尾を踏む心地で良人を庇いながら暮らして来たのである。ところが、屋敷に蟹が出るようになってから、廣子は非常な恐怖に襲われ、遂に蟹にはさまれて大病に罹り、その結果、良人の旧悪をうわ言にしゃべりだしたので、清七は残酷にも青酸で夫人を殺したが、恐ろしい蟹のために、その証拠を提供され、もはや逃れられぬ運命と覚悟して自殺を企てたのである。

××署の刑事が、どうして病室に姿を現したかというと、それはお里からの通知によったのである。お里こそは、亡き貞一の形見の子であったのである。貞一の妻富子は結婚後数月で離縁されたが、その時既に貞一の胤を宿していたのである。しかし彼女は清七の恐ろしい心を見抜いてそれを告げなかった。そして、ほどなく貞一が死んだと伝え聞いたとき、彼女は清七が殺したに違いないと直覚した。彼女はその後幾多の言うに言えぬ苦労をしてお里を育て上げたが、先年死亡するとき、お里に遺言して、何とかして妻戸の家に住みこんで、清七に復讐してくれと頼んだのである。お里は年に似合わぬ賢い女であったから、遂に、つてを求めて小間使いとして住み込んだのであって、住み込む前に彼女は××署の刑事に内緒で打ち合わせをしておいた。廣子がうわ言によって清七の罪をしゃべった時、医師へ電話をかけるついでに刑事に電話をかけて呼び寄せ、夫人の臨終の床で清七に貞一殺しを白状させようと計画したのである。

亡き母親の頼みで復讐の目的を持って妻戸家に住み込んだものの、彼女は夫人の親切にほだされて、夫人の生きている間は復讐などということを忘れて仕えようと決心したが、いよいよ夫人の病が医師によって不治であることを宣言されたので、彼女の復讐心はむらむらと起こって、あの大胆な行為に出たのである・・・・・・とお里は後に人々に語った。

かくて、陰謀を抱くものが家に入ると蟹が出て不吉なことが起こるという伝説は、まざまざと実現されたわけである。

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