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更新日:2022年2月14日公開 印刷ページ表示

抱きつく瀕死者(昭和4年発表)

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(一)

大都市のさかり場を兼ねた大通りの裏町は、決まりきって寂しいもので、宵の口でも人足がまばらであるから、まして真夜中の十二時前後になると、表通りの喧騒とは正反対に、まるで暴風雨の後のように静まりかえって、ふくろうでも鳴きはせぬかと思うような、気味の悪さが漂いがちである。

ここ銀座裏のB町も、この掟に漏れず、どこやらの大時計がたった今、十二時を告げたのをきっかけに、ばったりと人通りが途絶え、生暖かい五月の風が、街路樹の若葉を吹くともなく吹いて、暈(かさ)を着た月が、柔らかい光のヴェールを投げかけた。

突然、そのヴェールの中へ踏み込んだ一人の青年がある。彼はH新聞の社会部の記者春木三郎で、いまや夜勤を終えて、行きつけのカフェ「明暗」へ行こうとB町へ曲がったのである。彼は急ぎ足で歩いていたが、さすがにあたりに漂う大都会の鬼気に打たれたのか、

「圓朝好みの夜だなあ」

と、ひとり言をつぶやきながら、いっそうその歩調を早めるのであった。

ふと、前方を見ると、よほど酔っていると見えて、足並みもしどろもどろに、今にも倒れそうに歩いて来る一人の男があった。だんだん近づくにつれて、その男は何やら盛んに、腕のあたりを両手で掻きむしっているような様子が知れた。

「吐きたいんだな」

春木はそう思って、二間(※約3.6m)ほどの距離に近づくと、その男は、初めて春木を――と言うよりは、むしろ人間を認めたらしく、倒れるように、春木の方へ駆けてきたかと思うと、

「水、水、水!」

と、三度ほど叫んで、春木にどっと抱きついて来た。

「どうしたんだ、君」

春木は非常に迷感に思ったが、相手が酔っ払いだったので、真面目に腹も立たなかった。

「どうしたんだ、おい、君、君」

春木は抱いている洋服の男を、強く揺すぶって呼んだが、男は一言も発しなかった。とその時、痙攣のようなものを起こしたかと思うと、男は春木の肩越しにだらりと両腕を垂れて、急に身体の重みが加わって来た。そのため彼は一、二歩ひょろひょろと後によろけた。

「おい君、冗談じゃないぜ、こんな風に眠ってしまって」

もう一度、横腹に両手を当て、揺すって見たが、何の返事もなかった。

「弱ったな、そのへんに寝かしておいてやろうか」

こう言って、春木が男の手を握ると、妙に弾力のない感じが伝わった。

「おや、変だぞ」

言いながら、彼は男の顔を正視した。

「大変だ、死んでる!」

思わず、大声で叫ぶと、春木は言わば、本能的に、ひらりと男を背負って駆け出した。

夢中で半丁(※約55m)ほど駆けると、右側に医院を発見したので、叩き起こして救いを求めた。春木は、まだ寝てはいなかった医師に、今の出来事を簡単に話して、男を診察台の上に横臥させた。医師は、ひとわたり熱心に検査したが、やがて、太息をついて言った。

「もう駄目です。心臓が石のように停まっています。詳しいことはもとより断言できませんが、単なる心臓麻痺ではなく、どうも毒を飲んだように思われます」

毒! 春木の好奇心は急に高まった。そして、初めて三十四、五と思われる死者の顔を正視したが、よく見ると、どこかで見たような男だった。

「おお、そうだ!」

彼はようやく思い出した。――二、三日前、春木が、カフェ「明暗」へ行くと、この男と、もう一人の、時折見る客が二人でジンを飲んでいた。その時、女将がいつになくにこにこしていたので、春木が、傍にいた女給のまゆみに、

「いやに、マダムは今晩、嬉しそうに、そわそわしてるじゃないか」

と、聞くと、

「姉さんの、昔のいい人らしいですよ」と、小声に言って、この男を顎で示した。それが、今こうした、恐ろしい運命に見舞われたのである。

「この男を僕は知っているのです。今、思い出しました」

突然春木がこう叫んだので、医師は、

「へえー」

と、頓狂な声を出した。そして、

「何はともあれ、警察へ知らせなくてはならんでしょう」と、迷惑そうに言った。

「それはそうです。けれど・・・・・・彼は、もう、新聞記者的意識がいっぱいになっていた。

「特だねだ!」と腹の中で叫んで、自分の名刺を医師に示した。そして時計を取り出し、

「どうか、もう少し待って下さい。つまり、他の新聞社の絶版の締切りまで延ばしてください。それまでに、僕の方だけ書いてしまいますから」

こう言って、彼は死人の所持品を調べ始めました、財布、ハンカチ、煙草(スター)、築地ホテルの広告マッチ、それに子供の玩具(銀座のA玩具店の包装紙に包まれた、まだ買ったばかりの、木製空気銃と、セルロイドの自動車)と、これだけのものだった。

「財布を開けて見ますから、どうか立ち会ってください」

春木は医師の立ち会いを求めて財布を開けた。中には、少なからぬ札束と、数枚の名刺と、一枚の質札とが入っていた。

「どこの人です?」

医師は名刺があるのを見て尋ねた。

「住所は書いてありませんが、姓名は、榛原鋭男というのです。住所はすぐにわかりますよ」

こう言って春木は、診察室の卓上電話を借りて、カフェ「明暗」を呼び出した。

「・・・・・・なに、別に何でもないんです。ただちょっと、聞いて見たくなっただけです。新聞社とは関係ないんです。住所と職業と姓名とが聞きたいんです。ああ、なるほど、それは残念ですね。では、築地ホテルの方へ尋ねることにしましょう」

「明暗」の女将の語ったところによると、先日アメリカから帰って来たばかりで、築地ホテルに滞在していたが、最近はどこかに店を構えたはずだから、ホテルの方へ聞けばわかるとの事であった。女将はしきりに、何か事件が起きたのかと聞きたがったが、もし真実を告げれば、きっと記事掲載を見合わせてくれと言うに違いなく、そうすれば、毎日のように通うカフェでもあり、春木の好きな女給まゆみの居ることでもあるから、義理にも見合わせねばなるまい。書いた後ならば何とか言い訳がつくだろうと、それで、男の死を告げなかったのである。すると、女将は、

「あなたがお隠しになれば、わたしの方でも、隠しておくことがありますよ」

と思わせぶりを言った。

春木は、それから直ちに築地ホテルに電話を掛けると、東京市外野方町上沼袋一八二六、食料品輸入商とわかった。これだけわかれば新聞記事の要素は整ったわけである。なにゆえの服毒か、自殺か、他殺か、わかればそれに越したことがないけれど、第一報としては、これ等の点の曖昧な方が、センセーションを起こすに却って好都合だと思った。

「素敵な特だねだ」と、つぶやきながら、社へ電話をかけた。絶版の原稿は締切りだったが、編集者は、直ちに、他の記事を譲って掲載するよう返答した。

「よし、これで俺の任務は終わった」こう言って、医師に向かい、

「さあ、これから警察へ通知します」

春木は、おもむろに電話器を取り上げ、警視庁刑事課を呼び出した。

 

(二)

 

翌朝のH新聞には、

「抱きつく瀕死者」

という、初号二段抜きの見出しで麗々しく書かれていた。まちがいない特だねで、春木の新聞以外には一つも書かれていなかった。

その朝、春木は意気揚々として出社した。「やったね。新聞記者に抱きついて死ぬなんて、まったくの果報者だ。だが、君、定めしびっくりしたことだろう」

社会部長は春木の顔を見るなり、満足げにこう言って、さらに続けた。「せっかく君の抜いた記事だから、一切この事件を君にやってもらおうか。勲八位の特別賞与は必ず出すよ。は、は、は」

その時、社会部長のテーブルの上の電話がけたたましく鳴った。

「はい、はい、春木君ですか、ええ居ります。ちょっと代わりますから」

そう言って部長は、春木に受話器を手渡した。

「・・・・・・え、え、いや、そういうわけじゃないんです。悪く思わないで下さい。ええ? どこ? ああわかりました。じゃ、すぐ行きます、さようなら」

「朝っぱらからいいのかい、そんな電話が掛かって来て」

社会部長は、悪意のない微笑を浮かべてからかった。

この事件について、僕に会いたいという人があるのです。もっとも知り合いの人ですが」

「そうか、そりゃいい都合だ。警察を出し抜いても構わないから、どしどしやってくれたまえ。夕刊には、何とかして、自殺か他殺か、わかればその原因ないしは犯人を報告してもらいたいものだ」

春木の乗った自動車は、銀座に出ると、電車路に沿って日本橋の方へ疾走したが、やがて三越の前まで来ると、軽い軋り音を立てて止まった。彼は自動車を帰すなり、大玄関を入って、すぐエレヴェーターに乗った。二階、三階、四階、五階、になっても彼は降りようともしなかった。

とうとう展望台で降りて、塔までのぼって行った。

「春木さん」

彼が顔を出すなり、すぐなまめかしい女の声がした。カフェ「明暗」の女将時枝蔦江が人待ち顔にベンチに寄っていた。二十四、五にしか思えない(実際の年齢はそれに五つ六つ加えるべきであろう)若づくりの、ぱっちりした瞳の持ち主である彼女は、その前身が何ものであるか誰も知らなかった。恐らくは、並々ならぬ苦労をして来たであろうことに、何人も異議を言うまいと思われる態度が、手の運び方にまで表れていたが、異性との交渉には、とかくの噂があって、たとえ具体的に名指し得なかったとはいえ、やれ若い燕があるの、やれ旦那があるのと、立ち寄る青年たちに、騒がれがちであった。

「あなたも随分ひどい方ね」

春木が肩を揃えてベンチに腰を下ろすと、女将は睨みをきかして言った。春木は頭を掻きながら、

「いや、謝りますよ。なにしろ、あのときは職業意識で一杯でしたし、ぐずぐずしていれば新聞に間に合わないものだから、つい悪い人間になったのですよ。まあ、勘弁しておいて下さい」

「あなたがそうなら、こっちにも考えがありますよ」

「それは大変。どういう考え?」

「まゆみさんに水を差すから・・・・・・」

「そりゃちょっと手厳しいですね。だが、あなたもあの時、何やら僕に隠したではありませんか。あれは何のことでしたか」

「それですか。ちょうどあの少し前に榛原さんはわたしの家をお出になったのですよ」

「え? 何? それじゃ・・・・・・」と、言いかけて春木は 突然口をつぐんだ。そして、女将の顔をじっと見つめながら、

「時に、僕に用事とおっしゃるのは?」と、真面目な口調で尋ねた。

「そんな怖い顔をなさらなくてもよろしい。あなたは今、榛原さんが私の家で毒を飲まされたのだろうとお思いになったでしょう。しかし、いったい榛原さんは本当に毒薬でお死にになったのですか」

「ええ、医者はそう言いました。詳しいことは今日解剖されてからわかるでしょう」

「それで、どこで毒をお飲みになったか、まだわかりませんか」

「無論まだ知りませんよ。何か心当たりでもあるのですか」

「ええ、ちょっと思い当たることがあるのです。それであなたに来ていただいたのですが、この間、あなたのおいでになった時、榛原さんと一緒に、もう一人男の人がいたでしょう。あの人がどうも怪しいと思うのです」

「何という者ですか」

「鬼頭三造といいましてね。榛原さんがアメリカへ行くまで、二人で何とかいう薬の会社を作るといって運動していました。鬼頭さんが薬剤師の免状を持っていますので、榛原さんが出資者となって、そのために郷里の家屋敷まで売ってしまわれたようですが、その会社が立ったという話も聞かないうちに、突然榛原さんはアメリカへ行ってしまわれたのです。その後ちょいちょい鬼頭さんが見えて、あいつはひどい奴だと、口癖のように怒っておられましたが、数日前、ひょいと二人で入って見えて、鬼頭さんの言われるには、今偶然、銀座で久し振りに会ったから連れて来たと言って、親しそうに話し合って見えました。そしてその日は鬼頭さんが横浜に用事があるから、木曜日の七時半頃、ここで会おうと言って、先へ帰って行かれました」

「木曜日と言えば、ゆうべじゃありませんか」

「ええ、そうです。約束通り七時半に二人は宅へおいでになりました。相当にお酒を召し上がってから、鬼頭さんが今晩は、俺が東京で一軒しかない家に案内しよう。ああした家は、恐らくアメリカにもあるまい。そういって連れ立って出て行かれました。その時鬼頭さんが榛原さんに向かって、お金は持っているだろうなと言われると、榛原さんは笑って財布の中を見せられました」

「それは何時頃でしたか」

「八時半頃だったと思います」

「どこへ行ったのでしょう」

「それは存じませんが、鬼頭さんは随分変なところへ出入りしていられるようですから、どうせろくな所ではありませんよ」

「それから、どうしました」

「確か十二時にもうじきという時でした。榛原さん一人だけ戻って来られました。ひどく顔の色が蒼ざめて、何だか苦しそうな息づかいですから、私は、水を持って来させて差し上げました。すると榛原さんは幾分か元気づいて、いや東京もなかなか開けたなあ、などと言って見えましたが、時間が遅いので帰って行かれました。ですから、もし、毒を飲まされなさったとすると、鬼頭さんとご一緒の時ではなかったかと思うのです」

「なるほど。そう聞けば、その鬼頭という男が怪しいですね」

春木は人の悪い笑みを浮かべて女将に水を向けた。

「私もそう思うんですよ。久しぶりに会ったので表面は親しくしていて、腹の中では、何か企んでいたんですよ。なかなか食えない人ですからね。私なんかも随分困らされた事があります」

「そりゃあなたが、誰にでも、あんまり親切にするからですよ。まあ、それはそれとして、鬼頭と二人が、どこへ行ったかを探し出す必要がありますねえ。時に鬼頭の住所をご存じですか」

「上渋谷の、確か二四五二番地だったと思います」

春木は手帳を出して記した。

「それじゃ、僕はこれから、その人を訪ねて見ましょう」

「私に聞いたとおっしゃってはいけませんよ」

「大丈夫、心得ています。時にあなたはこれからどうします」

「私ですか。もう一人ここで待ち合わせる人があるんです」

「おや、あんまり浮気してはいけませんよ」

「まあ、ひどい・・・・・・」

春木は三越を出ると、タクシーを呼んだ。

 

(三)

 

「君、君、ここでちょっと降ろしてくれたまえ。渋谷まで行こうと思ったが、急に用事を思い出したんだ」

自動車が尾張町の角まで来ると、春木は運転手にこう言って止めさせ、それから急ぎ足でカフェ「明暗」に入った。

「ああびっくりしたわ、こんなに早く。まだ私、顔も洗っていないんですもの。いつもはこんなことはないんですけれど、今朝はすっかり寝坊してしまって」

女給のまゆみは恥かしそうに身繕いを直した。

「今、女将と三越で会って来た」

「へえ! どんな御用で?」

「榛原さんのことさ!」

「本当に私も今朝、新聞を見てびっくりしたわ。姉さんは何と言っていたの?」

「それについて、君に特に聞きたいと思ってやって来たんだ。女将は、あの鬼頭という男が怪しいというのだが、僕はねえ、今、自動車の中で考えて見たところ、もしかして、女将自身が怪しいんじゃないかと思うんだ。これは君を信用して言うんだから、ここだけの話だよ」

「ええ、誰にも言わないわ」

「それで、君に聞きたいと思うんだが、あの死んだ榛原と女将とはどんな関係があったろうか」

「そうねえ。私もまだここへ来て一年にしかなりませんし、姉さんは決して過去の話をしないので、朋輩衆も誰も姉さんのことは知らないのよ。二、三日前あの方が来られた時、姉さんは確かに嬉しそうにしていたわ。そして、あの方が帰ってから、あんな思いがけない人が来て、本当にびっくりしたと言ったのよ」

「では、鬼頭という男との関係は?」

「ほ、ほ。あなた、よく知ってる癖に」

「いや、まったく知らない」

「そう? 本当? あの人もやはり姉さんのいい人だったらしいのよ。けれど、この頃は姉さんが浮気して、あまりちやほや言わないものだから、気まずい思いをしているらしいわ。けれど姉さんは口が上手なのねえ、わたしいつも感心してしまう」

「確かにうまいね。だが、そんなに浮気するのかな、まゆみさんだけは、それに習ってくれちゃ困るよ」

「いやな春木さん。 私そんな風に見えて?」

「なに、ただ僕が案じるからだよ」

「大丈夫よ。あなたこそ、どうぞね」

「これはどうも。僕は道心堅固さ、は、は、は。いや、冗談はぬきにして、僕はねえ、女将が鬼頭に嫌気がさしたものだから、鬼頭に嫌疑が掛かるように僕を三越へ呼んだのではないかと思うよ」

「すると姉さんが榛原さんに毒を飲ませたとでもおっしゃるの?」

「まあ、そういうわけだ!」

「まさか、でも、近頃は姉さんに、どうやら、決まったいい人が出来たらしいからわからぬけれど」

「そうか。それだけ聞けばたくさんだ」

春木は三越での別れ際に、女将の言った言葉を思い出した。多分、彼女はそのいい人と待ち合わせる約束だったのであろう。どんな男か見たいと思ったけれど、どうせもう、そこいらには居ないだろうから、「明暗」を出るなり、再びタクシーを拾って、上渋谷の鬼頭の家に急がせた。

やがて小ぢんまりした住まいについて、名刺を通じて主人に面会を求めると、細君は蒼ざめた顔をあげて、

「今朝、刑事の方が来られて、一緒に出て行きました。榛原さんが殺されなさったということですが、良人にその嫌疑でも掛かっているのでしょうか」

春木は面食らった。

「嫌疑というほどの事でもありますまいが、生憎、昨夜、お宅のご主人と一緒だったんですから、参考のために連れて行かれたのでしょう。何もご心配にならなくとも、すぐお帰りになりますでしょう。それに、大体犯人の目星は付いているようですから」

細君の憔悴した顔を見て、春木はこう慰めざるを得なかった。

「左様でございましょうか。それならば安心も致しますが」

「大丈夫です」

春木は再び待たせてあったタクシーに乗ったが、どうして警察の連中が鬼頭との関係を知ったのか不思議でならなかった。そして、さすがは商売柄だわいと感心した。

「どちらへまいりましょう」

「警視庁へ」

春木が警視庁の刑事課へ入って行くと、おなじみの主任刑事が椅子から立ち上って、

「やあ春木君、僕等は朝から君の後を追い回していたんだ。どこへいったい雲隠れしたのか」

「警察の度肝を抜こうと思ったんですが、却って抜かれましたよ。鬼頭を拘引した手際は実に鮮やかなものです。どうして棒原の友達だということがわかりましたか」

「それは君、別に何でもないことさ。築地ホテルの宿帳で榛原の住所を知って、そこを訪ねると、あれは三年以前の住所で、近所の人に聞くと、鬼頭という人と一緒に製薬会社を立てるとか言っていたそうで、それからすぐ鬼頭の住所が知れたのさ」

「やっぱり棒原は他殺ですか」

「さあ、それはまだ何ともわからない。むしろ、それは君に聞きたい点なのさ。何かいい手掛かりでもあったかね」

「ないこともありませんよ」

「そうもったいぶらないで話してくれたまえ」

「いや、話しますとも。実は少し、捜査のためにお詫びしなければならぬことをしているので、僕の知っていることを何もかも話しましょう」

「お詫びするって何のことですか」

「最初僕が榛原の所持品を調べて、そのうちから、二点だけ失敬しているのです。もっとも医師にも立ち会ってもらったが、お金だけは失敬していないから信用して下さい」

「無論」

「財布の中に一枚の質札があったのです。それから、ポケットの中に玩具の包みがあったのです。その二点を失敬したのです」

こう言って彼は二点を取り出して机の上に並べた。

「質札! これは面白い」

主任は手に取り上げた。

「榛原はゆうべ八時半頃、鬼頭と二人でカフェ「明暗」へ行き、それからまた二人で、どこか変なところへ行ったらしいのです。そして十二時近く一人でまた「明暗」へ来て、水を一杯飲んで出たのです。それからすぐ僕に抱きついて死んだのですから、もし他殺だとすると、毒は「明暗」で飲まされたのか、あるいはその前に鬼頭と二人で行ったその変なところで飲まされたのに違いありません。ところが、それがどこだかわからんのです。鬼頭は何と言ってますか、尋問なさったのですか」

「ところが、 鬼頭は妙にぼやけた顔をして、まるで記憶喪失者のようになっているんだ。それが決してわざとしているのでなく、本人もこれには、理由があるから、今二、三時間尋問を伸ばしてくれというのだ。ちょっと見ると、阿片中毒みたいなんだ」

「へえ、妙ですねえ」

「確かに妙なんだよ。時に、今君の話によると、まず何よりその「明暗」を洗った方が一番早道ではないか」

「それは僕がもう済まして来ました」

こう言って春木は、昨夜の事、今朝の模様を逐一物語り、最後に付け加えた。

「そういうわけだから、僕は却って女将が怪しいと睨んだのです」

「ふーん」と、主任は腕をこまねいて言った。「たしかに君の観察には一理ある。だが、鬼頭を除くために、榛原を殺すというのは、少し大胆過ぎるではなかろうか」

「それはそうかも知れません。だから、榛原と女将との関係をもっとよく調べ上げねばなりませんが、自分の過去を決して口外せぬ女ですから、その点随分困難でしょう。時に、榛原の飲んだ毒は何だったでしょうか」

「まだ、解剖が済まんのだ。午前中には済むだろうと思うが」

「それは弱りましたねえ。解剖の結果、飲んだ毒の分量がわかって、どこで飲まされたかという計算が付けば、問題は直ちに解決がつきますからねえ」

「君の言う通りだ。しかし、解剖は解剖として、まず、その、鬼頭と二人で行ったらしい変なところをこちらの手で探り出す必要がある。この質札は何かの手掛かりとなりそうだから、ひとつ探らせて見ることにしよう」

「僕も一緒に行きます」

やがて春木は一人の刑事と共に外へ出た。

 

(四)

 

問題の質屋はすぐに知れた。それはカフェ「明暗」のあるB町から、五、六丁(※約550~650m)隔たった小路にあって、「質」と大きく白抜きに染められた紺ののれんが掛けられ、隅の方に「松浦」とあった。

刑事は帽子も取らずに入って行くと、

「警視庁のものですが、この質札についてちょっと調べたいことがあって来たんです。この質を置いたのはどんな男でしたか」

「背の高いなかなか立派な服裝をした人で、昨夜初めて見えましたが、たいへん酔っておられました」と、老主人は答えた。

「何を置いて行きました?」

「これです」と言って、どこかにずるそうなところのある主人は、戸棚のひきだしから、金時計を取り出して渡した。

「一人でしたか」

「いえ、お二人で見えました」

「何時頃でしたか」

「九時過ぎだったと思います」

「すぐ、帰りましたか」

「ええ、すぐ」

「いくら借りて行きました?」

「五十圓(※現在の価値で約四万円)貸してくれとの事でしたが、今時はどんなよい時計でもそれだけ出せませんので、三十五圓(※同、約二万八千円)お貸ししました」

「そんなに金に困っていた様子でしたか」

「さあ、そのことまではこちらにはわかりません」

と、白髪の主人は皮肉な微笑を浮かべた。

二人はやがて質屋を出た。

「おかしいなあ」と、春木が言った。「榛原はあの通りお金をたくさん持っていたから、質に置くわけはないんだ。こりゃ、もっと研究する必要がありますぜ」

「私もそう思います」と、刑事は相槌を打った。

「それに、九時過ぎに質屋へ行って、すぐ帰ったとすると、それから十二時までどこに居たかが問題になる。何でも、非常に疲れた顔をして、苦しそうにしながら入って来て、東京も開けたなあ、と言っていたそうだから、散歩などしていたのではないに決まってる。こりゃどうしても、鬼頭を尋問してもらわねばなりませんな」

こう言って春木は時計を見たが、

「おや、僕はぐずぐずしておれません。これから社へ帰って夕刊の原稿を書かねばなりません。いずれまた後ほど伺いますから、主任によろしく言って下さい」

春木と別れた刑事が警視庁へ帰って報告すると、

「いよいよ鬼頭の尋問が大切になって来たねえ」

と、主任は言った。

だが、鬼頭の精神状態が完全に回復するまでには、なおそれから一時間半ばかりかかった。

鬼頭が尋問に答えたところは、今まで知れていることに、あまり多くを加えなかった。そして昨夜の行動に関しては、彼は、カフェ「明暗」を出るなりどこへも行かずに、銀座を散歩して間もなく別れたと語った。

「きっとそれに間違いないか」と、主任は念を押した。

「ありません」

「嘘言いたまえ。君は、それから二人で、松浦という質屋へ行ったではないか」

言われて鬼頭ははたと返答に詰まった。

「それ見たまえ」

「ええ、行きました。行きましたけれど、すぐに出ました。榛原の恥になることですから黙っていました」

「それからどこへ二人で行ったのか?」

「間もなく別れました」

「駄目だよ、隠していては。君はカフェで榛原に向かって、アメリカにもないところへ連れて行くと言ったそうではないか。それから榛原が十二時に再びカフェへ帰ったとき、東京も開けたなあと言ったそうだ。だからそのアメリカにもないところはどこだか言いたまえ」

鬼頭はしばらく考えていたが、

「それはちょっと申し上げられません」

「君、君」と、主任は注意を促すように言った。「君はよく自分の立場を考えねばならんよ。もし、君がそれを隠すなら、当然君を榛原殺しの犯人と見なさねばならぬ」

「そりゃ困ります」

「だから言いたまえ」

「それでは申します。実は、あの質屋の二階に遊んでいたのです」

「何? 質屋に?」さすがの主任も面食らって言った。

「あの質屋は表から見れば平屋ですが、屋根裏が阿片窟になっているのです」

「阿片窟?」いよいよ主任は驚いた。

「で、君たち二人は阿片を喫ったのか」

鬼頭はうなづいた。

「それから、どうした」

「榛原はまだ弱いので、すぐ寝入ってしまいました。そして十二時近くに目を覚ましましたから、一緒に出ました。私も少し喫い過ぎて、それで先刻まで頭がぼんやりしていました」

「それから君は榛原と別れたのか」

「榛原はしきりにもう一度カフェへ行けと申しましたが、少し頭が変でしたから、私は自動車を雇って帰りました」

「阿片窟を出るとき何か一緒に飲んだのではないか」

「阿片窟では阿片以外に何も、飲むものはありません」

「榛原は大金を持っている癖に、なぜ時計などを質に入れたのか」

「あれは、質に入れたのではなく、秘密を約束するために預けたので、一週間に一度行かないと、あの時計を没収されるのです」

「でも、質札を持っているじゃないか」

「質札は二階へ上がる門鑑です。私もここに、一枚持っております」

そう言って鬼頭は財布の中から取り出して見せた。

「いったいどこから、出入りするのだ?」

「裏の窓から、縄梯子が降ろされるようになっています」

主任は一人の刑事を呼んで耳打ちした。言うまでもなく、質屋に手を入れるためである。

「君は榛原をたいへん恨んでいたというではないか」

「別に恨むというほどでもありません。一緒に製薬会社を立てようと思ったのですが。途中で、榛原君は金をさらって逃げてしまったんです。もともと同君が出資者ですから、私の損害は、物質的にはたいしたものでありません。久し振りに今度会ったときは、ただ懐かしい気がしただけです」

榛原と、「明暗」の女将とは特別の関係があったのかね」

「それはよく存じません」

「君はどうだ」

「・・・・・・」

この時一人の刑事が入って来て、何やら主任に耳打ちをすると、主任は鬼頭を一時別室に退かしめた。

鬼頭が退くなり、主任は刑事に言った。

「それで解剖の結果は?」

「アトロピンを飲んだことがわかりました」

「分量は?」

「分量は、飲んでから五分以内に死ぬほどの大量だそうです」

主任の顔にはたちまち赤みが漲った。

「すぐカフェ「明暗」の女将を拘引してくれたまえ」

刑事が走り去ると、まもなく先刻質屋へ手入れさせにやった刑事が帰って来た。

「やられました。とっくに質屋は風を食らって逃げてしまいました。いま、同僚たちが家宅捜索をやっていますが、実に鮮やかな逃げっ振りだと言っています」

主任は苦笑した。

「いや、もう、質屋の方は、この事件に関係がなくなった」

こう言って、主任は、「明暗」の女将の連れられて来るのを待った。

およそ四十分の後、待っていた刑事が顔色を変えて入って来た。

「主任、たいへんです。鳥は逃げてしまいました」

「何?」

「女将は一時頃、四、五日関西地方に旅行してくると言って出かけたそうです」

「そりゃ大変だ! すぐ逮捕の手配りをしてくれたまえ!」

 

(五)

 

H新聞社に意外な用事が出来て、春木が再び警視庁に顔を出したのは六時過ぎであった。彼は刑事課に、一種の緊張した空気が漲っているのを感じて、早くも事件が解決に近づいたことを感じた。

春木の顔を見るなり、主任は言った。

「春木君、どうやら君の推定が当たったらしい」

それから主任は鬼頭の尋問の顛末や、解剖の結果や、質屋が風を食らって逃げた事や、女将の逃亡を物語った。

「意外に早く解決されましたね。五分たたぬうちに死ぬほどの毒を飲まされたというのでは、質屋で飲んだのでなく、カフェで飲んだに違いありませんね。するともう、女将が捕まるまでは事件は一時停滞ですか」

「いやどうしてどうして。女将が犯人であるという証拠を集めなければならん」

「どうして集めるんですか」

「つまり榛原と女将との関係を詳しく知る必要がある」

「そうですね。しかしそれはなかなか難しいでしょう」

「それで今その方針に頭を悩ましているんだ。鬼頭も女将と榛原の関係は詳しく知らぬようだ」

春木はしばらく考えていたが、

「時に、あの榛原の持っていた玩具ですね。あれは何のために買ったのでしょう」

主任は机を打って言った。「いや、すっかり忘れていた。いいところへ気がついた。すぐ、鬼頭を呼んで尋ねて見よう」

鬼頭が連れられて来るなり主任は言った。

「君は昨夜、榛原と一緒に玩具屋へ寄らなかったか」

「いいえ」

「でも榛原は玩具を買って持っていたが」

「それでは、カフェへ来る前に買ったのでしょう」

「榛原には子供でもあるのかね」

「あります。アメリカへ行く二年ほど前、榛原君が病気をして、神田の愛生会という看護婦会から雇った女に、つい関係してしまったんです。それから、しばらく同棲していましたが、子が出来るなり、無情にも振り捨てて逃げたのです。急にアメリカへ行ったのもひとつにそのためもあったのです。 でもさすがに、子供のことが気になると見え、こんど帰朝するなり、愛生会へ行って、子供の行方を聞き出したいと言っていました。ですから、きっと、その子にお土産に持って行ってやるつもりだったのでしょう」

「ふむ、その女はどうしたのだろう」

「女については何ごとも申しませんでした。また、別に立ち入って聞きもしませんでした」

主任は再び鬼頭を別室に退かせた。春木は待ちかねて言った。

「それじゃ、愛生会へ行けばわかるんですね。僕これから行って来ましょう」

主任は一人の刑事に同行を命じた。

電話帳を繰って調べて来た、愛生会はすぐにわかった。会主は五十あまりの品のよい婆さんで、春木の問いに正直に答えた。

「・・・・・・加能みち子さんと言いましてね、それは、美しい気だてのやさしい娘でした。でも本当にお気の毒でしたよ。榛原さんがアメリカへ行ってしまわれてから、たいへん恨んでいましたが、子が産まれると間もなく死んでしまいました」

「何、死んで?」春木は思わず大声で叫んだ。まるで樹から滑り落ちたような気がした。その加能みち子こそ女将の前身であろうと、おぼろ気ながら想像して来たのだが、今やその想像は微塵にくだかれた。

「それから、その生まれた男の子は、私が周旋して深川のある商家へもらっていただきました」

春木はせめて、その女がどんな顔をしていたか見ておきたいと思った。

「その人の写真はありませんか」

「さあ、確かあったはずですが、失くしたかも知れません。とにかく探して見ましょう」

こう言って奥へ入って行った。もうその頃は、永い日もとっぷり暮れて、すっかり夜になっていた。

「電燈が暗いものだから、たいへんお待たせしました。でも、幸いにありましたよ」

「ありましたか」

「もっとも妹さんと二人のですが」

こう言って、会主が春木に写真を渡すと、春木はしばらくそれを眺めていたが、やがて、何を思ったか、同行の刑事に見せもしないで、突然写真をポケットに押しこみ、

「証拠だ。証拠だ」

と、叫んだかと思うと、呆気にとられた刑事と会主をあとに残して、一目散に街へ駆け出した。

 

(六)

 

その夜の十一時頃、春木はすっかり酩酊して下宿へ帰った。彼はまるで物に怯えているかのように、あたりをきょろきょろ見まわした。

彼は看護婦会を、狂者のように飛び出すなり、途中でタクシーを拾って、宛てもなく走らせた。彼は警視庁へも行かねば、すぐに下宿へも帰らず、郊外Mのあるバアに立ち寄って、したたかに酒を飲み、そして今、素人下宿の二階の居間へ帰ったのである。

と、その時、階下から、誰か梯子段をのぼって来る音がした。彼はさすがにぎょッとして居直ったが、同時に障子の外で、

「春木さん、お手紙が来ていますよ」

と、主婦が言った。そして、障子を開けて、女かららしい封筒を手渡し、

「切手が貼ってないですけれど、郵便箱に入っていたので、どなたか自分で入れて行ったのでしょう」

春木は主婦の去るのを待ちかねたように、震える手先で封を切った。

 

春木さん。

さぞかし驚きになると思うけれど、広い東京に私の心もちを打ち明ける人は誰もいませんから、せめて、あなた一人に私の本当の心を知って頂きたいので、この手紙を書きにかかりました。榛原鋭男を殺したのは私です。私は彼に虐げられた姉加能みち子のために復讐をしたのです。姉さんは純な心の女であっただけ、男に裏切られた時の悲しみは大きかったのです。まったく姉さんは、男を恨み死に死んだと言ってもよいのです。そして、今わの際に毒薬の包みを渡して、これであの人を殺してくれと遺言して行きました。私はその時、きっと姉さんの恨みを晴らしてあげると誓いました。

それから、いろいろの苦い経験をして、現在の状態になりましたが、先日、訪ねる男を見たときは、まったく姉さんの引き合わせだと思いました。そして時機を待っていましたところ、意外に早く機会がまいりました。

春木さん、私は人を殺すことを何とも思っておりませんでした。姉さんの遺志を果たすのだという嬉しさがあるだけでした。昨夜十二時頃彼が水を求めたとき、その中へ毒薬を入れる時も、まるで砂糖を入れるような気でございました。それからゆうべもよく寝ました。そして、今朝、あなたにお目にかかった時もあの通り私はしゃあしゃあしていました。

ところが昼過ぎる頃から、急に不安の念が襲って来ました。たいへんなことをしましたと思いました。良心の呵責とでも言いましょうか、立っても居てもおられぬようになりました。何とかしなければ、 おそらく自分は発狂してしまうだろうと思いました。

そこで、私は自殺の決心をしました。姉さんの恨みを果たした以上、自分はもう用のない身体ではないかと思いました。すると、幾分か心が落ち着いて来ました。そして、あなたにこの手紙を書く気になったのです。

春木さん。これがこの世のお別れです。この手紙を書き終わると、急に国元へ帰ると言って家を出て、あなたのお宅へ自分でこれを届け、よそながらお暇申し上げます。

どうか、身体を大切にして、末ながく栄えて下さい。そして時々私を思い出して下さい。

 

これで、手紙は終わっていた。春木は、最後に書かれてある、

まゆみ事 加能しず子

 

という、やさしい文字の署名を見るなり、目にいっぱい涙をためて、ポケットから取り出した写真を抱えて、投げるように畳の上に寝ころぶのであった。

言うまでもなくその写真には、亡き姉とともに、まゆみの年若い姿が写っていた。彼は愛するまゆみのために、出来るならこの「証拠」を破壊しようと思っていたのである。

 

読者諸君、

これで筆者はこの事件の顛末を告げ終わったと思うが、なお、蛇足をはばからず書き加えるならば、カフェ「明暗」の女将は、その「いい人」と共に、事件の四、五日後、無事に関西の旅行から帰ったこと、阿片窟の質屋の主人は、遂に行方不明であること、まゆみが投身自殺をしたこと、鬼頭が阿片をいましめられて放免されたこと、そして最後に、春木三郎がつくづく新聞記者に嫌気をさして、女学校の先生になったことである。

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