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長生薬由来(昭和4年発表)
(一)
瀬河英吾という日本の学者が、フランスのリヨン大学で奏功確実なる「若返り薬」の発見を公にして、世界的名声を博したとき、日本の学界はすっかり面食らってしまった。というのは、瀬河という人がどんな学歴を持っているのか少しもわからず、彼の地から頻繁に問い合わせが来ても、誰一人答え得る人がなかったからである。恐らく無名の青年が苦学してそのような成功を遂げたのであろうと想像されたが、面白いことに、瀬河氏自身が、彼の地の新聞記者に向かって、自分は一切過去を語らないと宣言したから、謎の学者として一層世間の評判が高くなった。
フランスはよく知られているように、不老長生薬の近代的研究の本場である。有名な生理者ブローン・セカールが老衰の原因は生殖機能の減退にありと喝破し、若返るためには生殖腺のエキスを注射すればよいと教えて以来、多数の学者が研究を続けて来たが、いずれも奏効は確実でなかった。ところが「瀬河薬」は文字通りに人間を若返らせることができた。一定の時日の間、連続して注射を行うと、白髪は徐々に黒変し、抜けた歯が生え、皮膚の皺が伸びて光沢を帯びてきた。同時にすべての機能が旺盛となり、視力も聴力も回復し、高齢の人でも、およそ一、二年の注射によって、四十歳前後の若さまで引き戻すことができたのである。
「瀬河薬」がいかなる成分を有するかについては、瀬河氏は発表を差し控えた。試験用に分けて欲しいと望む人には常に快く与えて実験をしてもらったので、いよいよ研究の結果を発表した時、欧州の知名の医学者はことごとくそれを認め、立ちどころに世界的名声を博するに至ったのである。人類が世の始まりより求めてやまなかった不老長生薬がわが日本人によって発見されたことは、日本の名誉であり、日本の誇りであった。それゆえ瀬河氏が彼の地から学位請求論文を東京大学に提出すると、医学部の教授会は、満場一致でそれを通過させた。かくて学歴の少しもわからぬ医学者は医学博士となったのである。
学位を得てほどなく瀬河博士は帰朝した。その時日本の人々がいかに熱狂して博士を迎えたかは、往年アイシュタインというドイツの学者を歓迎したことと比較して考えればわかる。ドイツ人ですら、あれほどの歓迎振りであった。それが日本人で、しかも人類の恩人となるべき人である。
帰朝して間もなく瀬河博士は東京郊外に研究所を建てた。いかにして「瀬河薬」を安価に生産するかが研究の主題であった。奏効は確実であっても生産費がはなはだ高く、目下の状況では富豪しか、その恩恵に浴することができなかった。一回の注射でも莫大な金額であるのに、一定の年月連続的に注射する必要があるので、よほどの財産を持たねば注射を受けることができない有様であった。
けれども、注射を受けたいという申出は続々あった。そして薬剤の不足から到底それに応じきれぬほどであった。何しろ注射を受けた人は一回毎に白髪の黒変が目立ち、元気が旺盛になって、到底スタイナッハ氏の手術や、スペルミンなどの注射とは、比較にならぬほどの差異があらわれるので、人々はただ偉効に舌を巻くだけであった。そして、一日も早く安価に生産ができるよう祈るのであった。
瀬河博士は薬剤の製造を一切秘密にして、研究室へは何人も入れなかった。けれども博士はやがてその成分を公にすると言明した。して見ると多分まだ博士自身にも明らかになっていない部分があるのであろう。とにかく人々は好奇の眼をもって博士の行動を眺めるのであった。
いよいよ「瀬河薬」の評判が高まるにつれて、問題となったのは、博士が日本のどこで生まれたかということであった。博士は自分の過去については一切語らぬと宣言した。そしてもし日本の官憲が自分の過去を語ることを余儀なくするような場合があったら 直ちに日本を去るとまで言った。新聞記者などは随分骨を折って探索を試みたが、すべては徒労に帰してしまった。だから口の悪い連中は、博士はもう百歳以上の高齢であるが、「瀬河薬」のためにあの若さを保っているのだろうと噂しあった。
そしてこの噂は次第に人々の間に広がった。
博士はまったくはつらつとした風采をもっていた。すべての女性を魅了せずにはおかないような容貌であった。しかも博士は独身である。そして瀬河薬を使用しているせいか、疲労というものを知らないらしかった。あらゆる社交場に顔を出して、いつも元気が身体に満ち溢れているかのようであった。だから、上流の婦人で早くも博士に恋を感じた人もある。そして多くの場合、博士の身辺には二、三人の女性がつきまとっているかのように見えた。
何びとが博士の妻となるであろう? 誰に白羽の矢が立つであろう? と、人々が好奇の眼を見張り耳をそばだてている時、突如として、博士が、千萬長者霜澤巌蔵の一人娘勝子に求婚したという噂が広がったのである。
(二)
霜澤勝子は東都社交界のクィーンであった。たとえ千萬長者という背景がなくても、その朗らかな容姿と聡明さとは、何びとも彼女を花形として推すのに異論はなかった。彼女は二十歳を二つ三つ越していたが、いつの間にか男嫌いというあだ名が彼女を知る青年の間で呼ばれていた。ところが瀬河博士が社交界に顔を出すに至って、彼女にはだんだん今までの無邪気さがなくなった。早くも彼女と博士が、秘かに語っているところを見つけてゴシップの種とするものがあった。そして遂に瀬河博士から求婚するに至ったのであるが、それはむしろ勝子から望んだものであった。
ところが、勝子の父厳藏は意外にも反対だった。元来自分一代で財産を築き上げた人だけに、はなはだ頑固なところがあった。数年前夫人を失ってから、さすがに元気が衰え、多年経営してき鉱業会社を今は子分の一人に譲って引退の身分であるが、最近、老人性白内障に罹って、眼を開いていながらまったく盲目同様になったので、ことに気難しさがまさり、ほとんど毎日ベッドにもぐって暮らしているのであった。瀬河博士のことはかねて聞いてはいたが、その瀬河博士から娘をくれと申し込まれたとき、どうした風向きだったか、ひどく腹を立て、反対し、勝子が何と言って嘆願しても、少しも折れてくれなかった。
今日も勝子は父のベッドに近寄りながら、その嘆願を繰り返した。
「一度お父さんが瀬河さんに会ってくださるといいわ。そうすればお父さんだって、きっと瀬河さんを好きになれるわ」
「お前はわしの眼の見えぬのにつけこんでそう言うのだろう」と、巌蔵は不機嫌に言った。
「まあ、それはひがみだわ。眼で見えなくったって、話をすれば人物の善い悪いはわかるじゃないの?」
「わしは元来若返りということが嫌いだよ。人間が天から与えられた寿命というものは、それぞれ決まっているものだ。それを色々な薬で若返ろうとするのは天に背くことだ。人間がだんだん年をとって死んで行き、子孫と代わることは当然のことだ。それを、老人が若返って生きているというのは、つまり子孫の邪魔をすることだ。わしは若い時にひどい苦労をして、それこそ死ぬほどの思いをしたことがあるので、それ以来運命というものを認めているのだ。たとえ死に瀕していても命数さえあれば必ず救いの神は現れるものだ。それなのに天の命じるところに背いて若返ろうとするのは邪道だ。罪悪だ。だからたとえ医者がわしの白内障を手術で治すと言ってくれてもわしは手術を受けないのだ。不自由にしていても、運命に反抗することは嫌いだ。天がもし、見えるようにしてやろうという意志なら、自然に見え出すものだと思っている」
「それでは、私と瀬河さんとが結婚することも運命だと思ってあきらめてくださらないの?」
「馬鹿!」と老人は吐き出すように言った。そしてしばらくの間黙って、言おうとする言葉を考えているかのようであった。
「若返り法が罪悪なら、それを企てる者は罪人だよ、天に背こうとする人に、わしの大事な娘はやれんよ。結婚は人間の一生涯で一番大切なことだから、用心に用心して決めねばならん。お前はこれまで至って無邪気で、男嫌いだという噂さえ立ったというじゃないか。それなのに瀬河博士に会って一も二もなく魅せられてしまったらしい。それがわしには気に食わんよ。なぜもっと冷静にならなかったのだ。運命を見つめる時には、人間は飽くまで冷静にならねばならん」
「それはお父さん、無理ですわ。お父さんだって、若い時には、理性以外のものが人間を支配することを経験なさったと思うわ」
言われて、巌蔵は遠い過去を見つめるような表情をした。そしてその瞬間顔面は充血したが、また再びもとの冷静な色に戻った。
「恋は危ないものだよ。気をつけねばいかんよ。これまで若返り薬を発見したと称する人は多くは山師だったと聞いている、錬金術をやった人間もそうだったということだ。そういう人間は人をたぶらかすことが上手だよ。だから、お前もその術に乗せられたのではないかと案じるのだよ」
「それはあんまりだわ、お父さん」と、勝子は涙ぐみながら弁明した。
「もし瀬河さんが山師だったら、西洋の学界であんなに認めないし、日本の大学も学位は与えないはずだわ。それにまた事実がそれをよく証明しているわ。お父さんは瀬河さんの働きぶりをご覧にならないけれど、もしご覧になったら感心なさるわ。本当に真剣な働きぶりですもの」
「けれど、博士は自分の過去をちっとも人に語らないというじゃないか。もしうしろ暗いことがなかったら、なぜ堂々と発表しないのだ」
「それはお父さん無理ですよ。お父さんだって、一度も過去を聞かせてはくださらないじゃないの。お父さんがこれだけの財産を築き上げるには随分過去に悪戦苦闘をなさっただろうと、これまで新聞や雑誌の記者が訪ねてきても、いつも失望させてお返しになるじゃありませんか」
「それは語る必要がないからさ」
「瀬河さんだって必要がないからだわ」
「けれども、山師と見られやすい仕事をしている以上、過去を隠すのは賢明な策ではないよ。お前が何と言おうとも、わしは瀬河という人を信用しないよ。お前たちの結婚には不同意だよ」
勝子はふと亡き母のことを思った。母が居てくれたらと思うと、ほろほろと涙がこぼれはじめた。
彼女は大声をあげて泣きたく思ったが、無理に感情を押さえつけて、そして、きっぱりした声で言った。
「それではお父さん、もし瀬河さんがその過去を打ち明けなさったら、お父さんは承知してくださるの?」
理詰めの言葉に、さすがの厳蔵もはたと当惑したらしかった。
「それは、その時のことだ。その過去によりけりだ。だが、どうして打ち明けるものか」
「いいえ、打ち明けさせてみせるわ」
勝子は固い決心のもとに言った。
(三)
「ねえ、瀬河さん、そういう訳ですから、どうぞ、あなたの過去をお話しになって下さい。ね、ね」
その夜、博士の研究所を訪ねた勝子は、巌蔵との話を物語って、ひたすらに頼んだ。
博士はすこぶる困惑の体であった。
「もし、私が私の過去をあなたに物語ったら、きっと、あなたを失望させるだろらうと、それを怖れたのです」
「なぜですか。たとえあなたの過去が何であろうとも、私はただそれを父に取りつげばいいので、私とは無関係ではありませんか」
「そうおっしゃればそうですけれど、語る私は決して無頓着になり得ないのです」こう言ってしばらく考えてから、決心の色を浮かべて続けた。
「例えばです。自分が若いと思っている人が、意外にも年を取っているとしたら・・・・・・」
「ああそのことですか」と勝子は遮った。
「世間の人が噂しているように、普通の人ならばあなたはよぼよぼのお爺さんたるべき年齢だとおっしゃるのでしょう?」
博士は軽くうなずいて言った。
「私は初めて白状しますが、あなたと将来を約してから初めて恋の恐怖というものを知りました。それ以来絶えず、あの浦島太郎の伝説が目の前にちらついて不愉快な思いをするのです。私のこの若い皮膚の下には高齢が隠されているのだ。何かの拍子に、急に薬剤の効力が消滅して恐ろしい顔が現れるかも知れない。などと考えることがあるのです。このようことは恋を経験しなかった以前には一度もなかったのです。この心持ちを、何度あなたに伝えようとしたか知れませんが、あなたの美しい眼を見ると、言葉が咽喉につかえてしまうのです」
「瀬河さん」と、勝子は強くさけんだ。
「どうぞ私を信用して下さい。私はあなたの若さに恋しているのではありません。あなたという人に恋しております。あなたはこれまでの人間の誰もなし得なかった偉業をなし遂げなさいました。人間が運命としてあきらめているほどのことを、人間の力で自由にすることができるという証拠を全人類にお与えになりました。あなたの事業はもはや神様の領域に入っております。恋するさえもったいないと思います」
「キスさせてください」と、博士は矢庭に勝子を抱きながら熱い接吻を与えた。
「真実を語る眼はよくわかります。私の恐怖はすっかりなくなりました。語りましょう。私の過去を申しましょう。長生薬発見の経路を語りましょう」
こう言って博士は次の部屋へ入って行ったが、やがて二枚の写真を手にして戻ってきた。
「これが私の現在の写真です。それからこれが四十年前の写真です」
勝子は二校目の写真を手にするなり、「まあ!」と言って、思わず博士の顔を見上げた。写真に写っているのは、六十を越したとしか思われぬ白髪の老人であったからである。
びっくりするでしょう。けれどもそれが欺かざる私の過去です。それは今より四十年前、豪州のメルボルンで撮った写真です。ひどくやつれていますけれど、顔は今とよく似ているでしょう。私は長崎で生まれ、父は蘭法の医者でした。それで私も医者になりましたが、かねて色々な書物、ことに支那の抱朴子(※神仙術に関する諸説をまとめた書)などを読んで、この世のどこかに必ず不老長生薬が存在するという信念を得たのです。その昔スペインの冒険家フアン・ポンセ・デ・レオンがフロリダへ探しに行ったという青春の泉が、きっとまだその外のところにもあるに違いないと思いました。そのような泉は、多分黄金を産するところにあるだろうと推定して、私は豪州へ渡りました。それが私の四十歳の時でした。それから私は約二十年間未開の地へ出入りし、あらゆる苦難を経て、遂に伝説にある「青春の泉」を見つけたのです」
それから博士はその間の幾多の冒険的出来事を物語った。勝子はただ夢見る人のように、陶然として聞き入った。
「いよいよ自分の体に試して、私はその泉の水が人間を若返らせる力を持つことを知ったので、こんどはすぐさま分析に取りかかり、およそ十年の後―――もうその頃は今とほとんど変わらないくらい若返っていましたが―――その成分をほぼ知ることができました。今もまだ成分は全然明らかになってはいませんが、非常な費用をかければ、人工的にも製造し得ることを確かめたので、欧州へ渡って学術的研究に従事しようと思い、遂にリヨン大学で学界へ公表することになったのです」
瀬河博士の眼はだんだん輝きを増した。学者が学問研究の苦心について語るときは、その心は純である。勝子はまるで天国にでもいるかのように、無邪気な表情をして、初めて聞く長生薬の由来にすっかり心を打たれてしまった。彼女はこの世の誰よりも先に、この尊い秘密を聞いたのであるから、全人類を代表して博士に感謝の意を表すべく、博士の前にひざまずきたいような気になった。が、博士の説明は教え諭すように続いた。そして、長生薬の成分が黄金を主としていること、黄金は今までの物理化学では説明し難い一種の状態で水に溶けていることなど、勝子にはよく理解し得ないことまで語り尽くした。
「人間の老衰ということは、人間の身体にある一種の成分が年齢と共に消耗されて起こるのです」と、博士はおもむろに語ったが、多少の興奮した口調が混じっていた。
「ですから、老衰の現象を除こうと思ったならば、その成分を補って行けばよろしい。そして更にその成分を過剰に与えて行けば、人間は若返って行くはずです。私の発見した薬剤はその成分を含んでいるのです」
勝子はうなずいた。何か言おうと思ったけれども、何も言うことができなかった。やっとしばらく過ぎてから、
「よく打ち明けてくださいました。ありがとうございました」と言っただけであった。
「あ、すっかり忘れていましたよ」と博士は突然変わった口調で言った。
「実は最近、また新しい一種の薬を合成しましたよ。もっとも、やはり私の長生薬を基としたものですが、それはたった一回の内服で、老人に現れる病気を治すことができるのです。あなたは多分ヴィタミンの欠乏によって起こる色々の病気をご承知でしょう。例えばヴィタミンAが欠乏しますと、角膜乾燥症が起こります。この病気には、ヴィタミンAを含む肝油を、たった一滴飲ませると、恐ろしい失明を防ぐことができます。これと同じ関係で、私の今度発見した薬剤をたった一回飲めば、老人に起こりやすい病気、例え動脈硬化、萎縮腎などを除くことができます。無論、「瀬河薬」にもこの作用はありますが、その働き方が極めてゆっくりです。だから、特に、老人病の症状だけを治し得るように工夫したのです。今日初めてある老人に試験したのですが、服用後四時間で、老人性白内障が完全に治りました」
「えッ!」と勝子は思わずも大声に叫んだ。
「本当ですか。ああ嬉しい、それでは父も眼が見えるようになりますか?」
「そうです。実は早速そのことをあなたに告げて喜ばせようと思ったのですが、つい、身の上話に気を取られてしまったのです。今夜お帰りになったら、これをコーヒーの中へでも入れて差し上げてください。そうすれば、明日はきっと、お父さんの眼が見えるようになります」
こう言って博士はポケットから小さい瓶を取り出した。
(四)
ふと勝子が眼を覚ますと、
「勝子! 勝子!」
と呼ぶ父の声が隣の部屋から聞こえた。勝子はがばと起きあがって寝巻きのままベッドを離れ、父の寝室へ入った。夜はもうほとんど明けていた。
「おい勝子! わしは眼が見えるようになったんだ!」
さすがに嬉しそうな厳蔵の声に、勝子ははッと思ったが、わざと冷静な態度をして言った。
「お父さん、眼が見えるようになって嬉しいの?」
この意外な勝子の言葉に、厳蔵はわが耳を疑った。
「な、なにを言う?」
「お父さんの眼が見えるようになったのは誰のおかげだと思うの?」
「おいおい」と、厳蔵は怒気を帯びて言った。
「お前はまだ寝ぼけているのか、お父さんの眼が見えるようになったのを喜ばないのか」
「喜んでいますわ、けれどもお父さん、喜ぶ先に、誰のおかげだか考える必要があるわ」
「誰のおかげもあるものか。天のおかげだ!」
「違うわ! 瀬河さんのおかげよ。昨晩、お父さんがお休みする時に差し上げたコーヒーの中へ、瀬河さんが今度発見なさった薬を入れておいたのです」
「嘘を言うな。そんなことを言ってお前が瀬河博士をかばおうとしても、わしはその手に乗らんよ」
まあ、何というあきれた父だろう。と思って、勝子は泣きたいような気持ちになったが、気を取り直して言った。
「嘘だとおっしゃるならそれでよろしい。今に何もかもわかるから。時にお父さん、私は昨晩瀬河さんに、すっかりその過去を聞いてきました。約束だからお父さんは聞いてくださるでしょう」
巌蔵は渋々ながらうなずいた。
「お父さんの眼が見えるようになったのだから、お父さんに見せたいものがあります。ちょっと待ってください」
こう言って勝子はおのが寝室へ戻り、大急ぎで衣服を着替えて、博士にもらってきた二枚の写真を袂に入れて、父の寝室へ入って行った。
「ね、お父さん。お父さんは初めてご覧になりますが、瀬河さんはこう言う風采のお方よ」
こう言って勝子は瀬河博士の近影を差し出した。
巌蔵は震える手先でそれを受け取って眺めていたが、やがて、
「はて!」と、呟いた。
「どうなすったの?」
「いや、何でもない」と、厳蔵は慌てて打ち消した。
「お父さんのご承知になるはずがないわ。瀬河さんは今から四十年も前に豪州に居なすったのですもの」
「なに? 豪州に?」と、厳蔵は大声で言った。
「どうしたの? お父さん? 瀬河さんはその時六十ばかりのお爺さんだったのよ。それが長生薬を飲んで、こんなに若い姿になっておられるのよ」
「本当か?」
「本当ですとも!」
こう言って勝子は第二の写真を取り出し、
「これがその当時の写真です。ね、姿は変わっているがよく似ているでしょう」
厳蔵は第二の写真を受け取るなり、
「やッ!」
と叫んで、その写真を枕の上に安置し、自分は起き直って、手を合わせて拝みはじめた。
あまりに意外な態度に、勝子は父が発狂したのではないかと思った。
やがて厳蔵は顔をあげ、震える声で言った。
「勝子! このお方はわしの生命の恩人だ。これまで一度もわしの過去を語ったことはなかったが、今こそお前に打ち明けるよ。わしは二十歳前後の血気盛りの頃、友人の近澄という男と二人で、豪州へ渡り金鉱を探しに出かけた。未開の地の奥深くに入ったとき、二人とも風土病に罹り、とうとう近澄は死んでしまい、わしもとても助からんと思ったが、その時巡り合ったのがこのお方だ。色々な薬を注射して肉親も及ばぬ介抱をして下さったので、やっと一命をとりとめることができ、それからメルボルンまで送り届けてもらったよ。その時からわしは一日としてこのお方を忘れたことがない。わしはうまく金鉱を発見して、英国人と共同で経営し、そして今日の富の基礎を築いたのだが、いわばわしの今日あるのは、このお方の賜物だ」
勝子は何と言って答えてよいか、言葉に迷った。
「勝子! わしは今から何事も信じる。お前の語った何事も信じる」
「え? それでは瀬河さんのことも?」
「信じるとも、疑っては罰があたる。このお方のことなら、わしの生命でも差し上げる。このお方と結婚ができるお前は幸福だ。何という楽しい運命だろう。早く瀬河先生を呼んで来てくれ。いや、それはもったいない。わしがお礼に出かけよう。すぐに服の用意をしてくれ・・・・・・」