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更新日:2021年10月30日公開 印刷ページ表示

眠り薬(昭和2年発表)

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(一)

 

これは私の懺悔話であります。言わば思い出しても、ぞっとする話でして、今少しのことで私は人殺しをしてしまうところでした。若気の至りとでも申しますか、とかく若いときは一本調子の馬車馬式に物事に突き進みやすいものですから、思わぬ災難に会うことがありますが、これくらいの道理は、少し反省すればわかることですけれど、何と言いますか、若いときは危険と知りながらも、その危険にわざと近寄りたいような心を持っているのですから仕方がありません。

私が横尾照子嬢と知り合ったのはまったく偶然の機会でした。確か四月下旬、荒川の桜が散って日比谷にツツジが咲きかけた頃です。私は友人たちと麹町の藤園男爵邸の夜会に招かれましたが、晩餐後のダンスの席上で、ふと私は二十歳ばかりの世にも美しい女の姿に引きつけられました。

「あの、今右から二組目に踊っている、目のまわりの黒いバンブ型の洋装の女は誰だい」と、私は私の隣の椅子に腰掛けていた友人に向かって尋ねました。

「あれか、あれは横尾仙右衛門氏の令嬢照子さんだよ」と友人は答えました。

横尾仙右衛門氏といえば、鉄道工夫から出世して巨万の富を積んだ実業家です。

「あれが問題の女か。確か新聞で読んだと思うが、最近横尾氏がどこからか養女としてもらい受けたということじゃないか」と、私は何も知らずに、華族の若様らしい男としきりに踊っている彼女の後姿を、好奇の目をもって見ながら尋ねました。

「そうよ。人の噂によると、養女だか細君だかわからないということだ。何しろ仙右衛門氏は六十を越しているのだから、細君だといって披露するのも恥かしかろうからねえ」

「今晩は一人で来たのだろうか?」

「いや晩餐の席には仙右衛門氏もいたよ。仙右衛門氏はさすがに、あの年だから、ダンス場へは来ていない。それに素性が素性で、ダンスなどはまさか稽古したことがあるまいからね」

「ははははは、そうかも知れん」

間もなく、私も友人も、 それぞれ相手を得てダンスを始めました。私はその前年某大学の経済科を出て、その時某会社に勤めておりましたが、ダンスを始めてから まだ半年にしかならず、決して仙右衛門氏を笑うことが出来ませんでした。それに先刻から漆黒の髪をもった横尾嬢の妖艶な姿が眼底にへばり付いて、ともすれば、しどろもどろの足並みとなり、恥ずかしさも混じって汗をびっしょりかきました。

いつもならば、甘い気分に酔うことの出来るミュージックが、その夜に限って何となく胸を圧迫するような、重苦しい感じを起こしましたから、私はただ一人庭に出て柔らかい芝生の上を歩きまわりました。十日あまりの月が晴れ渡った空にかかって、遅桜が、はらはらと散りかかりました。

冷たい晩春の夜の空気を吸うとさすがに心が澄んで来て、木立から洩れてくるシャンデリアの光や、高調に達したワルツの音が、一種言うに言われぬ、あこがれの情をそそりました。それまでに私はどんな美しい女を見ても、別に心を動かされなかったのですが、横尾嬢を見た瞬間から、妙な心持ちになったのです。言わばそれが運命というものなのでしょう。あるいはまた恋というものかも知れません。先方はちっとも知らないのに、自分だけがこんな思いに悩まされるのは確かに馬鹿らしいことだ。と、考えても、どうにも致し方がありませんでした。

私は芝生の上を北極熊のようにあちらこちら歩きまわりました。広い庭園の中には誰一人おりませんでした。燈籠や土橋や松の樹などが、艶を消した青色のぼかし写真を見るように黙々として行く春の気分を形作っておりました。

やがて私は歩き疲れて大きな桜の樹の下に設けられたベンチに腰を掛けました。そして中天の月を仰ぎました。すると、お月様までが、彼女の目を連想させる機縁となりました。

私はほっと深いため息を漏らしました。と、その時、うしろの芝生に軽い足音がしましたので驚いて振り返って見ると、一人の女がベンチの後ろに立っていました。

見るとそれは、外ならぬ横尾照子嬢だったのです。

 

(二)

 

私ははっと思って立ち上りました。立ち上ったというよりも飛び上がったといった方が適当であるかも知れません。

今が今まで心の中にちらついていたその娘が私の目の前に立っているのですもの、私は夢ではないかと怪しみました。

月光にくっきり照らし出されたその妖艶な顔は、まったく地上のものとは思われぬくらいでした。私はその時、猫の前の鼠といったような恥ずかしさのうちに、一種の恐怖さえ感じて、しばらくの間、物を言うことが出来ませんでした。

しかし、その次の瞬間、私の心は幾分か冷静になりました。横尾照子嬢はいったい何をしにここへ来たのであろうか。彼女もまた、ダンス場の蒸すような空気に飽いて、冷たい春の夜風にあたりに来たのだろうか。

私は軽く会釈して、彼女に席を譲ろうとしますと、

「伊吹さん、お疲れになったのではありませんの?」と、彼女は、やさしい声で言いました。

私は彼女に名前を呼ばれて、ぎょっとするほど驚きました。彼女はいったい、どうして自分の名を知っているのであろうか。私が彼女を見たのは今夜が初めてである、彼女もおそらく私を今夜初めて見たのに違いないであろう。それなのに?

私は何と答えてよいか迷いました。と、彼女は、覆い被せるように言いました。

「お名前を存じているのを驚きになって? さっきわたしがダンスをしていたとき、あなたがお友達と私の噂をしておいでになることをちゃんと知っていましたのよ。それで今あなたに一緒にダンスをしていただこうと思って、ずいぶん探しましたが、お見えにならないから、多分、庭園にでも出ておいでになると思って出て来ましたわ。ねえ、一緒にダンスをして下さらない」

「はあ、ありがとうございます」

と、我ながら、何と答えたかわからぬほど、どきまぎして言いました。

「まあ、あなたは本当にウブでいらっしゃいますのね」

こう言って彼女は、いきなり私の手を取って、一緒にベンチに腰を降ろそうとしました。私はすっかり上気してしまって、彼女の命ずるがままにするよりほかありませんでした。

「随分あつかましい女だとお思いになるでしょう。お許しなさってね」

彼女は私の顔を覗き込むようにして言いました。彼女の身体からにじみ出るのかと思われる香水の匂いが、すっかり私を酔わせてしまいました。

「どうしまして、僕は・・・・・・」

「許してやるとおっしゃいますの? では、これから交際していただけますか?」

「それは、僕よりお願いしたいところでした」

「まあ、うれしいこと」

こう言って彼女は顔をあげて月を眺めました。そばで見る彼女の顔は一層美しく輝きました。

今から考えて見れば、初対面の男に、こうした馴れ馴れしい態度を示す女には、十分警戒すべきでありますのに、その時には、それがちっとも不自然とも何とも思われなかったのです。それは言うまでもなく、その時の私の心に、「恋」という弱点があったからです。

「さっき、ダンス場で、あなたのお姿を見てから、わたし、何と言いますか、うわの空でしたわ」と彼女は幾分か恥ずかし気に顔を伏せて言いました。

私はこの言葉を聞いて、嬉しさのあまり、自分の心臓の鼓動を耳にしました。

「僕こそ、僕こそ、そうでした」と、私は声を震わせて言いました。「こうして庭園へ出たのも、それがために、苦しくなったからです」

「伊吹さん、それは本当ですか、本当ですか」と、彼女は顔を私の顔に押しつけんばかりにして、覗き込みながら尋ねました。

私がうなずくと、彼女は、急に手にしていたハンカチを目にあてました。私はその異様な彼女の動作を見てどうしたのかと呆気にとられておりますと、やがて彼女の肩が小刻みに揺れて、激しい呼吸の声が聞こえました。

言うまでもなく彼女はすすり泣きを始めたのです。

 

(三)

 

横尾照子嬢の突然のすすり泣きを見て、私は少なからず狼狽しました。いまだかつて妙齢の女に泣かれた経験がないので、まったく、私はどぎまぎしました。

もし、そばに見ている人があったら、定めし私のその時の態度に吹き出してしまったでありましょう。

「どうなさったのです。どうしたのです」と私は、覗き込むようにして尋ねました。

しかし彼女はそれには答えないで、ひとしきり、すすり泣きました。私はただ呆然として、その姿を見つめました。柔らかい春の月光に照らされた女のすすり泣きを想像して見て下さい。それがいかに可憐な美しさを持つものであるかは、申すまでもないことと思います、やがて、彼女は泣きやみました。そして甘い匂いのするハンカチーフを噛みながら

「すみませんでした」と小声に言いました。

私は、軽く彼女の肩に手をかけて尋ねました。

「びっくりしましたよ。どうなさったのですか」

「まことに、お恥かしいところをお目にかけましたのね。あなたのお言葉を聞いて急に悲しくなったのです」

「どうしてでしょう。何か僕の言ったことがお気に障ったのですか」

「いいえ、そうじゃないのよ」と彼女は幾分か高い声を出してきっぱり言いました。「あなたがやさしくおっしゃって下さるものですから、つい、日頃抑えていた涙が出てしまったのです」

こう言ってから彼女は、まだ涙で光っている目をあげて、さらに言葉を続けました。「伊吹さん、さっきおっしゃって下さったことは、本当でございますか。私のようなものでも、お気にかけて下さいますか」

「本当ですとも」と、言って私はおずおず彼女の手を握りました。

彼女は強く握り返して言いました。「嬉しいですわ。生まれて初めて幸福を感じたような気がしますわ、今まで私は誰にも私の胸の内を打ち明けたことはありませんけれど、あなただけは、きっと私の心に同情して下さるお方だと思いますわ。ね、聞いて下さる?」

「聞きますとも」

「私は、はたから見れば、幸福な生活をしているようですけれど、その実、毎日毎日それはそれは苦しい思いで暮らしておりますのよ。ご承知かも知れませんが」と、言って、あたりを眺めながら声を低くしました。「私は、先々月、深い事情があって、横尾の家に養女としてもらわれて来ました。世間の口はうるさいもので、養父がああして独身なものですから、私が妾代りにでも住み込んだように言うそうですが、決してそういう汚らわしい関係ではありませんの、けれど・・・・・・」

こう言って彼女は、深いため息をつき、しばらく芝生の上に目を落とし、更に語り続けました。

「けれど、養父というのが、それはわからず屋なのです。卑しい身分から出て、自分一代でああした地位までたたき上げた人だけに、その半面には恐ろしく冷酷なところがありますのよ。ですから、私は、毎日、それはそれは冷たい人情のうちに暮らさねばなりません。第一、養父は私をちっとも自由に外出させてくれません。どこへ出るにも、言わば養父の監視付きなのです、ことに養父は私が、社交場へ出入りすることを好みませんの。今晩も、藤園男爵のお勧めでしたから、かつて養父は男爵に色々ご恩をいただいておりますので、言わばお義理に、渋々出て来ましたような訳ですのよ。こうして、あなたと二人で話をしているところを養父が見ようものなら家へ帰ってから、どんなに私を虐待するか知れませんわ」

こう言って彼女は、悲しそうに月を仰ぎました。白い顔に漂う悲哀の影は一層チャーミングでありました。私は彼女の心を何と言って慰めてよいかに迷いました。

すると、その時背後に人の近づく足音が聞こえましたので、私たち二人は、弾かれたように立ち上がりました。

「照子! 何をしているのだ」

がさがさした声を出して、威嚇するように近づいたのは、他ならぬ彼女の養父横尾仙右衛門氏でありました。

 

(四)

 

私は仙右衛門氏の姿を見て、穴があったら入りたいような気がしました。ただもう呆然として、石化したように、そこに突っ立ちました。が、それと同時に、照子嬢に対する同情の念がむらむらと起こって来ました。

つい今しがた、彼女は、「あなたと二人で話をしているところを養父が見ようものなら、家へ帰ってから、どんなに私を虐待するかも知れませんわ」と言いましたのに、その言葉が消えるか消えぬうちに、彼女は、彼女の予感した、恐ろしい運命に直面したのではありませんか。

仙右衛門氏はつかつかと彼女のそばに歩み寄りました。

「あれほど言って聞かせてあるのに、お前は性懲りもなく、また人目を忍んで、男と逢い引きをしておるのか」

こう言って、仙右衛門氏は彼女の左の腕をむずとつかんで、無理に引っ張り去ろうとしました。私は思わずそばに駆け寄って、

「もし」と、声をかけ、弁解の言葉を述べようと思いました。

が、仙右衛門氏は振り向こうともしませんでした。その時、彼女は、引っ張られながら、右の腕を後に伸ばして、私の手をぎゅっと握り「何も言うな」と合図をしました。

私は芝生の上にたたずんだまま二人が歩いて行くのを、じっと見送りました。そして二人の姿が洋館の中へ隠れた後も、根が生えたように動きませんでした。

せっかくのよい機会を、無残にひったくられた私は、言わば、絶望の淵につき落とされたようなものでした。恐らく私は再び彼女に会うことは出来ないであろう。彼女は今夜きっと激しく折檻されて、今後は一層厳重に、あの冷酷な養父から監視されることであろう。

こう思うと、私の心の中には彼女に対する同情と恋とが、急速にふくらみました。私はやるせない気持ちになって、仙右衛門氏の憎らしさに憤慨し、思わずも両の拳を握りましたが、その時、ふと私は左の手のひらに、何かを握っていることに気がつきました。

私は変な思いをして、手をひろげて、目に近づけました。見るとそれは皺くちゃになった紙片で、発する香気は、照子嬢のハンカチに沁み込んでいたそれと同じものでした。

私ははッと思いました。そして、それはさっき、彼女が私の手を握る際に、私に握らせて行ったのを、今まで気がつかずにいたのだとわかりました。

腕を躍らせながら、私は、その紙片を開いて見ました。それは西洋紙の一片でありましたが、その上には、何か鉛筆で走り書きがしてあるようでした。私は月の光で、それを読もうとしましたが、色が薄くてはっきりわかりませんでした。

思わず私は走り出して、洋館の中に入り、廊下の電燈の光で、その文字を読みました。

 

あすの晩十二時に三番町十五番地の裏門へ来て下さい。お読みになったら、必ず破って捨ててください。

 

三番町十五番地は言うまでもなく横尾邸であります。名前こそ書いてはありませんが、それが照子嬢の短簡であることは疑うべくもありません。彼女は、あらかじめ、私に渡そうと思って書いて置いたのに違いありません。

地獄の底で仏に会ったとはこんな気持ちを言うのかと思うほど、私は幸福を感じました、私はもうダンス場へ行くことも、友だちと話すことも嫌になりました。この幸福感を他人に傷つけられるのが惜しかったからです。で、私はその紙片を破って捨て大急ぎに身支度をして家に帰って来ました。

あくる日、私が、どんなに夜になるのを待ちかねたかは、ここに書くまでもないことと思います。

待ちかねた夜はとうとう来ました。私は十時頃家を出て、途中諸方をぶらつきながら三番町に来たのは十一時半頃でした。もうその頃は、十三番地の裏門のある街はぱったり人通りが絶えて、ただ中天の月のみが我がもの顔に下界を照らしておりました。私はぴたりと塀に身を寄せて内側に向かって耳をそばだてました。

 

(五)

 

私は塀に身を寄せてたたずみながら、言うに言えぬ不安を感じました。何かこう恐ろしい罪悪を犯しているような気がして、全身の感覚が腫れ物が出来たときのように鋭敏になりました。

幸いに人通りがなかったからよいものの、もし誰か近づいたらどうしてよいかと焦りました。ことにそれが警官ででもあったなら・・・・・・こう思うと、じっとしておれぬほどのもどかしさを覚えました。私はこれまで、よく小説で、忍び逢いの場面を読んで、当事者の心持ちはいかに喜ばしいものであろうかと、一種の羨望をいだきましたが、どうしてどうして、喜ばしいどころか、苦しさと恐ろしさで、胸がいっぱいになることを知りました。

この苦しさ、この恐ろしさの中に、さらに私をして不安ならしめたものは、横尾照子嬢が果たして、約束通りこの時間に、私に会いに来てくれるかどうかという疑問でした。たとえ照子嬢が来る気でも、仙右衛門氏が厳重に見張りをしている場合には、忍び出ることが出来ない、もし今夜会うことが出来なかったら、再び会うことの出来る日はいつだかわからない。と思うと、何となく絶望的な気持ちにさえなるのでした。

多分それは三十分足らずの時間であったでしょう。私には幾時間かと思われるほどでありました。が、ふと私は、風に吹かれる木の葉の音のほかに、塀の内側に軽い足音のようなものを聞きました。私ははッとしました。

それと同時に、裏門のかんぬきを外す音がして、門の扉が細めに開きました。そして、照子嬢の月に照らされた白い顔が無言で私をさし招きました。

私は磁石に吸いつけられる鉄片のように、彼女の方に走って行きました。これから、私が何をしたかははっきり覚えておりませんが、幾秒の後、私は裏門の内側で照子嬢にかたく抱擁されておりました。

私は照子嬢の衣服から発する香気に酔いながら、世界中で一ばん幸福なものは自分だと思いました。

「伊吹さん。あなたはさぞ大胆な女だと思いになるでしょう。けれど、今まで、抑えに抑えつけていた感情が、あなたのために一時に爆発したのですもの。怒らないで下さい、ね、ね」

何が怒るものですか、と、心の中では叫びながら、私はそれを口に出すことが出来ませんでした。

私はただうなずくばかりでした。

やがて照子嬢は、弾かれたように身を離しました。

「いけませんわ。私こんなことをしておれませんわ。今、養父の寝息をうかがって、そっと抜けて来たのよ。養父は目ざといから、早く帰らなければ、また叱られますわ。ね、明日の晩十二時に来て下さらない? 来て下さる? 嬉しいわ、では帰って下さい」

私を押し出すようにして、照子嬢は裏門を閉めてしまいました。

私は何だかぽかんとしてしまいました。照子嬢に会ったら、ゆうべ仙右衛門氏が彼女にどんなことを言ったか、それを聞こうと思ったのですが、そのひまもなく私は門外に追い出されてしまいました。

あくる晩、私が前夜よりも、一層の緊張をもって、横尾邸の裏門に忍び寄ったことは言うまでもありません。そして、照子嬢が一層の親密さをもって、私をあしらったことも、これまた読者諸君の想像される通りです。

「女中たちも、みんな養父の味方ですから、ほんとに、困りますわ、どうしたら、ゆっくり、あなたにお目にかかれるかしら」

照子嬢はしみじみ言いました。

三度、四度、五度、こうした忍び逢いが続きました。

会う度ごとに私の恋心は加速度をもって募って行きました。

「なぜ二人はゆっくり会えないのでしょうか」

六日目の夜、私は、恨むように照子嬢に言いました。

「本当に、私も悲しいですわ」と照子嬢は打ちしおれて言いました。「それについて私は色々考えましたが、ちょうどいいことを思いつきましたのよ。あなたさえ、断行して下さる勇気があるなら・・・・・・」

「何でも僕の出来ることならやります」

「そうね。・・・・・・ではお話ししましょうか」

私は照子嬢が何を言い出すのかと固唾を飲んで待ち構えました。

 

(六)

 

照子嬢は小声で言いました。

「あなたとゆっくりお会いするには、どうしても養父を眠らせなければなりません。しかし、養父は目ざとい性質ですから、眠り薬を用いるのでもなければ、とても、私たちの目的を達することが出来ません。あなたが本当に私を愛して下さって、私にゆっくり会いたいとお思いになるなら、養父に眠り薬を飲ませて下さい。ここにわたし、その眠り薬を用意して来たのよ」

こう言って彼女は袂から小さなガラス壜を取り出して、私の手に握らせました。

私はそれを握った瞬間何となくぎょっとしました。そして、不審に思って言いました。

「眠り薬ならば、あなたがお父さんにお飲ませになったらよいではありませんか」

「私で出来ることなら、何もあなたにはお願い致しません」と、彼女は少しつんとした口調で言いました。「養父はどうやら私が密会していることを感づいたらしいのです。だから、ここ二、三日私の挙動を警戒して私を容易に近づけないのです」

「けれど、僕はなおさらお父さんに近づき難いではありませんか」

「いいえ、あなたに、家へ来て養父に眠り薬を飲ませてくれというのではありませんわ。養父は明後日の晩また、藤園男爵邸の夜会に呼ばれておりますが、多分あなたにも招待状がまいっておりましょう」

「ええ来ています。」

「だからその晩餐会のときに、養父の酒杯の中へ、そっと、その眠り薬を一滴たらしこんでくださればよいのよ。明後日は養父はどうしても出席しなければならぬ理由があります。けれど、わたしは、頭が痛いといって家に居残りますわ。先方で養父が眠ってしまえばなおさら結構ですが、家へ帰ってからでもいいですわ。そうすればあなたとゆっくり会えるではないの? ね、ぜひそうして下さいよ」

この時、庭の一隅から、

「照子! 照子!」と呼ぶ太い声が聞こえました。

「ああ、どうしよう。伊吹さん、養父が来ましたわよ。早くそのツツジの陰に隠れてください」

こう小声で言い置いて彼女は向こうへ走って行きました。そして、しばらくの後、

「わたし、頭が痛んだので、戸外の空気を吸いに出たのよ」と、弁解している甲高い声が、はっきりと私の耳に入りました、

それに対して、仙右衛門氏が何やら言う声が聞こえましたけれども、太い声なのではっきりわかりませんでした。

私は照子嬢から渡された眠り薬の壜を握ったまま、今に照子嬢が、仙右衛門氏をなだめて、私のところに帰って来るだろうと、心待ちにしておりましたところが、いつまで経っても帰って来ません。私は何となく不安になって、そのまま家へ帰ることが出来ず、出来るならば屋内の様子を窺って、照子嬢が恐ろしい責め苦に会っていはしないかどうかを確かめておきたいと思いました。

そこで私は、ツツジの陰を出て、用心のために、裏門のかんぬきをかけ、庭内深く忍び入りました。大小の植木がかなりに密生していましたから、臆病な私にとっては至極好都合でありました。

やがて、私が洋館の隣にある和室の雨戸に近寄りますと、驚いたことに、中で、男女の争う声が聞こえました。

言うまでもなく、それは仙右衛門氏と照子嬢でした。

私ははッとしました。確かに照子嬢は仙右衛門氏に叱責されているに違いありません。

私は雨戸に耳をつけて、二人の声を聞き取ろうとしましたが、どうもよくわかりませんでした。

そのうちに、私は仙右衛門氏のある言葉を聞いて、ぎくりとしました。

「・・・・・・お前はわしを殺すつもりだろう・・・・・・」

この言葉だけがはっきり私の耳に聞こえたのです。それは、あるいは私の聞き違いだったかも知れません。とにかく私はその時、思わずも、手に持っていた眠り薬の壜に目を注いだのであります。

 

(七)

 

私は何となく恐ろしくなって、もはや立ち聞きしている気になれませんでした。私は追い出されるように植え込みの中を裏門まで走って、それからかんぬきを外し門の扉を開いて街へ出ました。

横尾家の不用心を思わないではありませんでしたが、先刻聞いた横尾仙右衛門氏の言葉が私の頭脳を占領して、他を顧みる暇がありませんでした。

「・・・・・・お前はわたしを殺すつもりだろう・・・・・・」

仙右衛門氏が、照子嬢に向かって発したこの言葉はどう考えても冗談であるとは思えなかったのです。だからと言って照子嬢が、そんな恐ろしいことを企もうとはどうしても考えられません。

たとえどんな深い事情があろうとも、あの美しい照子嬢が・・・・・・。

私は突然街の上に立ちどまって、手に握っていた眠り薬の壜を見つめました。その時月は傾いていましたが、ガラスの反射光は鋭い刃のように私の神経に触れました。

もしやこの眠り薬が恐ろしい毒薬でありはしないか・・・・・・

こう思うと私は、その壜が私の嫌いな雨蛙にでも化けたような気がして、思わず投げ捨てようという衝動に駆られましたが、待てよ、そういうことを想像するだけでも恋人に対する罪悪ではないかと思い返して、そのまま家に帰ったのであります。

しかし、私は床へ入ってからも長い間眠ることが出来ませんでした、照子嬢は明後日の藤園男爵邸の晩餐会の席上で、私が仙右衛門氏のグラスに眠り薬を投ずることを信じて、私との逢瀬を心待ちに待っているに違いない。こう思うと、ぜひそれを決行しなければならぬが、だからと言ってやはり、このまま何の検査もしないで眠り薬を投ずることは不安な気がしてなりませんでした。

どうしたらよいであろうと考えている内、ふと私は近頃私立探偵を開業して、化学に造詣の深い雪野恒夫氏のことを思い起こしました、そうだ、雪野氏に会って、この眠り薬を分析してもらえば、安心して仙右衛門の酒盃に投ずることが出来るし、また照子嬢とゆっくり一夜を語りあかすことも出来る。明日は早速雪野探偵を訪問しよう。こう決心したとき、私はようやく眠りにつくことが出来ました。

あくる日の午前、私は眠り薬の壜を携えて、雪野氏を訪ねました。雪野氏はまだ四十にならぬ年輩の人ですが、変装にかけては実に巧みなもので、時には八十歳の老人にもなって、それで少しも他人に発見されぬというほどの評判が立っております。私は氏のにこにこ顔に迎えられて、応接室に通されるなり、すぐさま眠り薬を出して、その分析を頼みました。

雪野氏は黙って壜を取り上げてしばらく見つめておりましたが、やがて顔を上げて、その鋭い目で私の顔を見つめました。

私は思わず顔をそむけました。

「伊吹さん」と、雪野氏は凛とした声で言いました。

「どうか詳しい事情をお話しください。さもなければ、これを分析してあげることは出来ません。

私は、雪野氏の前では、到底何事も隠し通すことは出来まいと思って、横尾照子嬢に出会った当初からの事情を逐一語りました。

「よくおっしゃって下さいました。ではしばらくここでお待ち下さい」

こう言って、雪野氏は眠り薬の壜を持って奥の方へ行きました。応接室に待ちながら、私は早く分析の結果を知りたく思って、じっとしておれず、遂に立ち上がって室内を歩き回りました。

およそ、一時間も過ぎてから、やっと雪野氏が戻って来ました。

「どうでした?」

「ただの眠り薬です。これは最新の最も有効な薬ですから、いかに目ざとい人でも一滴で十分眠ることが出来ます。安心してお使いなさい」と「雪野氏はにこにこしながら言いました。

私は肩の重荷を下ろしたような気になりました。それと同時に、照子嬢に対してすまぬ思いになりましたが、これによって二人がゆっくり語ることが出来るかと思うと、晩餐会が待ち遠しくなりました。

 

(八)

 

藤園男爵邸の晩餐会の時刻が迫るにつれて、私は少なからぬ焦燥に襲われはじめました。

果たして、うまく、横尾仙右衛門氏の酒杯の中へ、照子嬢から与えられた眠り薬を投ずることが出来るであろうか・・・・・・。

が、 照子嬢はきっと今晩、私が成功して、私と楽しく語れるものと待ち構えているだろう。

こう思うと、私はどうしても、不成功に終わりたくはなかったのです。

午後六時半に私が、その夜の計画を定めて、藤園男爵邸に行きますと、横尾氏はすでに、広い応接間の隅に、ほかの人たちと一緒に来ておりました。仙右衛門氏はその時白髯白髪の老紳士と熱心に談笑しておりましたので、私が何気なくその方に近寄って会釈すると、白髯の紳士は、機嫌良く私に挨拶して傍の椅子を勧めました。

私はその夜、薄い色眼鏡を掛けておりましたから、仙右衛門氏はどうやら、私だということに気がつかなかった様子です。もっとも、先夜照子嬢と庭園で語っているのを見つけたときにも、月夜であったとはいえ、仙右衛門氏は私を認める余裕などはなかっただろうと思いましたから、かくも大胆に近寄ったのです。

すると仙右衛門氏も、非常に愛想よく私に話かけました。それはまったく気味の悪いくらいでした。間もなく私たち三人は親密になってしまいました。

私は案じるよりも生むが安いという、ことわざをはじめて体験しました。家を出るまではどうして仙右衛門氏に近寄るかが大問題でありましたが、この問題は容易に解決されてしまいました。

ところが、調子のよいときは不思議なもので、いよいよ晩餐会の席につく時になると、白髯白髪の紳士は、ぜひ椅子を隣り合わせにするように言いました。私は叫びたくなるほど嬉しく思いました。この老紳士は、横尾氏の懇意にしておられる村瀬という医者だということでしたが、白髪に似ず、若々しい元気な様子が見えておりました。

遂に私たちは、横尾氏を中央にして、三人並びました。何という幸運でしょう。この上はただ、ポケットに入れている眠り薬を、横尾氏の酒杯に投ずればよいわけですが、これもこの調子ではきっとうまく成功するに違いないと思いました。

しかし私は食事中、気が気でありませんでした。食事の最中に眠られでもしたら、少しことが面倒になるような気がしましたので、なるべく食事の終わり頃に事を行なおうと決心しました。私のかねての計画では自分の酒杯の中へ、眠り薬を滴らして、それをひそかに、横尾氏の酒杯とすり替えるつもりだったのです。

いよいよ食事も終わりに近づきました。私はひそかに酒杯を取って無事に眠り薬を滴らしました。そして、横尾氏の方へ押しやり、横尾氏が、村瀬氏と熱心に話しているひまに、巧みにすり替えてしまいました。

その時、私は村瀬氏にギロリと睨まれたような気がしましたのではっと思いましたが、横尾氏は別に気づいている様子も見えませんでした。

私は横尾氏が早く酒杯をとりあげてくれればよいがと思いましたけれども、どうしたわけかさっぱり手にしませんでした。いよいよ食事が済んでしまって一、二の人が席を立ちかける頃となりました。

それを見て私はもう駄目かと思いました。九仞の功も一簣に欠けるとはこのことかと失望しました。

しかし、私の失望は長く続きませんでした。仙右衛門氏は席を立つ拍子に酒杯をとりあげて、ぐっと一息に飲み下したのです。

私も村瀬氏も立ち上りました。

ところが!

仙右衛門氏は、一、二歩動くなり、

「うーん」という唸り声を出して、あッという間に床の上に仰向けに倒れました。

私はぎょっとしました。あまりのことに私は呆然としました。村瀬氏は駆け寄って、仙右衛門氏を抱き起こそうとしました。人々は何事が起きたかと、走って来て取り囲みました。仙右衛門氏は激しく痙攣を起こしました。そして再びぐったりとなりました。

「大変です。横尾さんは毒殺されました」

村瀬氏のこの叫びを聞くなり私は気が遠くなるように思いました。

 

(九)

 

「横尾さんが毒殺された」という白髭の医師村瀬氏の叫びを聞いた時は、ただもう恐ろしさに、頭がふらふらしましたけれども、次の瞬間、私の理性は、わずかながら私の心の中に浮かび上って来ました。

私立探偵雪野恒夫氏は、確かに単純な眠り薬だと言ったではないか。雪野氏に鑑定してもらってから、誰にもすり替えられた覚えはないから、自分がさっき、横尾氏の酒杯の中へ投じたのは、決して人を殺すような毒ではないはずだ。が、それとも雪野氏の鑑定が誤っていたのであろうか。

私は合点が行かぬので、村瀬氏の傍に寄り、

「横尾さんは、本当に毒殺されたのですか」と尋ねました。

村瀬氏は横尾仙右衛門を抱いておりましたが、悲しさにうなずきながら、仙右衛門氏のまぶたを開いて見て言いました。

「疑う余地のないほど明瞭なアトロピン中毒です」

私はアトロピンがどれほどの猛毒であるかを知りませんでしたが、もしそうとすれば、どうして、化学に造詣の深い雪野探偵が見誤ったのであろうか。私はもしや、横尾氏が誰か他の人に毒殺されたのではないかとも思って見ました。

やがて、横尾氏の身体は別室に運ばれました。村瀬氏は私だけを残して人々を立ち去らせました。そして言いました。

「伊吹さん、あなたは、何のために、横尾さんを毒殺しましたか」

私はぎょっとしました。しばらくの間、発すべき言葉を知りませんでした。どうして、村瀬氏はそれを知っているのであろうか、それとも単なる想像をもって言っているのであろうか。

「何をおっしゃるのです。僕は僕はそんなこと、ちっとも知りません」と、私は声を震わせて言いました。

「お隠しになっても駄目です。晩餐の席上で、あなたはご自分の酒杯の中へ、ポケットから、何か薬のようなものをお垂らしになりました。そして横尾さんの酒盃と巧みにすり替えなさったことを私は見ておりました。私はあなたが、何か単なる悪戯をなさるつもりだと思って黙っておりましたが、こんな恐ろしい計画だと知ったなら、横尾さんに忠告するのでしたのに、まことに残念なことをしました」

私のその時の心持ちは何に例えてよいかわかりませんでした。私は到底生きている気がしませんでした。いっそ自分も毒薬を飲んで死のうと、咄嗟の間に決心して、ポケットに手を入れると、村瀬氏は早くもそれと悟って、私の手を強く押さえて言いました。

「事情も話さないで、自殺するのは卑怯ではありませんか」

言われて私はなるほどと思いました。そこでこれまでの事情をすっかり話しました。

村瀬氏は私の語り終わるのを待って言いました。

「それならば、あなたには罪はない。むしろ令嬢を責めるべきですが、それともあなたが途中ですり替えたのかもわからないし、また雪野探偵がすり替えてあなたに毒を渡したかも知れません。何しろ、死骸を横尾家に運んで、令嬢に会って事情を聞きましょう」

「もうとても回復は望めませんか」

「駄目です。アトロピンのような猛毒は、手の下しようがありません」

皆さん、例え知らぬこととは言いながら、人を殺したときの感情がどんなに苦しく恐ろしいものかを察して下さい。そのときはまったく、自分の身体が自分のものではないような気がしました。

やがて、私たちは、晩餐会に出席した人々の悲しい顔に送られて自動車に乗って、横尾家に向かいました。法律上の罪人である私の胸には、もはや、恋も女もありませんでした。が私は照子嬢が、私を待っている姿を想像して暗い気持ちとなりました。恐らく照子嬢もあの眠り薬が猛毒であることを知らないだろうから、どんなに驚くかと心配に堪えませんでした。

やがて自動車が着くなり令嬢は迎えに出ました。私は思わず彼女の傍に駆け寄りました。すると照子嬢はさも驚いたという風をして身を引きながら言いました。

「あなたはどなたです?」

「僕です、伊吹です!」

「伊吹? わたしそんな方知りません・・・・・・」

 

(十)

 

「何を言うのです、照子さん僕です、僕がわかりませんか。今夜あなたは僕を待っていて下さるはずだったではありませんか」

こう言って私は照下嬢の手を取ろうとしました。

「ま、この人は!」と、照子嬢は私の手を払って、怒った顔で言いました。「何という図々しい人でしょう・・・・・・」

この時、白髯の医師村瀬氏が近寄りました。

「まあ、村瀬さんではありませんか」と照子嬢は、村瀬氏にすがるようにして言いました。

「夜分にいったい何の御用でございますか」

「お父さんが、藤園男爵邸の晩餐会の席上で毒殺されなさったのです」

「ええっ?」と、照子嬢は二、三歩後退りして、さも驚いたというような挙動をして言いました。

「そ、それは本当ですか。誰が、誰が養父を毒殺しましたか?」

「ここにおられる伊吹さんです」

「違います」と私は思わず大声で叫びました。「ね、照子さん、僕はあなたからもらった眠り薬を約束通り、お父さんのグラスの中へ入れたのです。僕は念のために昨日、雪野探偵を訪ねて分析してもらったら、無害の眠り薬に違いないということだったので、安心して入れたのです。そうしたらそれは意外にもアトロピンとか言う毒だったのです」

私が話している間に照子嬢の顔色は突然土色に変わりました。

「村瀬さん、いったいこの伊吹さんという人は何をする人です?」と照子嬢は声を震わせて尋ねました。

「ええ?」と村瀬氏はびっくりして言いました。「それではあなたはまったくこの人をご存じないのですか」

私はあまりのことに一種のめまいを感じ、弁解しようと思っても、言葉が咽喉につかえて出ませんでした。

「知りません。一度も見たことのない人です、時に養父の死骸はどこにありますか」と、照子嬢は、息を弾ませて言いました。

「今自動車で一緒に来ました。さあ、伊吹さん手伝って下さい」

村瀬氏は、こう言って私の手を引っ張りましたので、私はまるで機械のように無意識に動きました。

ほどなく、仙右衛門氏の死骸は、応接室に運び入れられ、ソファの上に仰向けに寝かされました。

照子嬢は仙右衛門氏の死骸にとりすがって泣き悲しみました。

「養父はもう本当に生き返らないでしょうか」と照子嬢は、しばらくの後、涙に濡れた顔をあげて村瀬氏に尋ねました。

村瀬氏は悲しそうに首を横に振りました。

「残念ながらもう駄目です」

「ああどうしよう!」

こう言って照子嬢は仙右衛門氏の胸に、わが頭を投げかけて言いました。

「お父さん! あなたはなぜ死んだのです。誰に殺されたのです? お父さん、お父さん、もう一度、もう一度生き返ってください。ね、もう一度生き返ってください」

その時、皆さん、世にも不思議なことが起こったのです。

「よし、生き返ってやる!」

という言葉が聞こえたかと思うと、仙右衛門氏の死体はむっくりとソファの上に起き上がりました。

「ひゃッ!」と言って照子嬢が、とび上りながら、後に倒れかかろうとしますと、村瀬氏は、左の手で照子嬢をしかと捕まえました。そして、あっと言う間に右の手で、白色のかつらと白色の付け髭を取ると、それは私立探偵雪野恒夫氏その人の顔でありました。

「照子さん! いや、横尾の奥さん、あなたの計画は見事に失敗に終わりましたよ」

雪野探偵の声が、凜として響き渡りました。

 

×       ×      ×

 

皆さん私はもはや多くを語る必要はないと思います。照子嬢は横尾氏がやむを得ぬ事情のもとにもらった夫人でありました。夫人は横尾氏を毒殺してその財産を奪おうと企て、私の心を虜にして、その毒殺の手先をつとめさせようとしました。雪野探偵は、私が鑑定を乞いに行ったとき、直ちにこれがアトロピンであることを知り、照子嬢の計画を見抜いて横尾氏の友人たる村瀬医師に扮装して、みごとに照子嬢の計画の裏をかいたのです。雪野探偵は、アトロピンを水に変えて私に渡したので、横尾氏は毒を飲まずにただ飲んだ風を装っただけなのでした。

このことがあってから、私は決してダンス場へ行かぬことにしました。

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