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更新日:2022年2月14日公開 印刷ページ表示

ひすいの簪(大正15年発表)

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(一)

 

「誰だい今晩のお客は? 馬鹿に大声を出して、何だか頭取に食ってかかっているようじゃないか」

吉村銀行の書記をしている志田猛は、頭取吉村順平の自宅を訪れて、応接間に待ちながら、お茶を運んで来た書生の菱木に尋ねた。晩春の夜もだいぶ更けて、東京郊外の町は人の往来も少なく、あたりは気味悪く静まりかえって、奥の客間から、何か声高に言い争う声が、不吉な出来事を預言するかのように響いて来るのであった。

「あれは、旦那様の元のお妾さんの兄貴ですよ。旦那様が縁を切ってから、手切れ金をもっと増やせと言って、時々談判に来るのですよ。旦那様も困って見えるようです」

「そうだろうねえ」と、志田はちょっと、奥の声に耳を傾けながら、自分も何だか落ちつかぬ様子をして言った。

声はひとしきり続いてばったりやんだ。どこかで犬がしきりに吠え出した。と、板縁の廊下にどさどさ足音が聞こえて、玄関の方へやって来たので、書生の菱木はあわてて応接間を飛び出して行った。志田もともに立ち上って玄関へ出て見ると、それは三十ばかりの人相の悪い男であった。彼はひどく蒼ざめた顔をして、何やらぶつぶつ憤慨の言葉を発しながら、書生や志田の顔を見ても、物をも言わず、古びた下駄を引っかけながら、入り口の格子戸を手荒く開けてそそくさと出て行った。

志田と菱木は顔を見合わせた。しかし二人はただ妙な笑いを取りかわすだけで何とも言わなかった。

「さあ、旦那様に、あなたのおいでになったことをお話しして来ましょう」

こう言って書生の菱木が奥へ行こうとすると、志田はあわてて、

「いいよ。いいよ。僕は頭取から呼ばれて来たのだから、取次には及ばん」

と、制し、一人で廊下の突き当たりの部屋の方へ歩いて行った。菱木が応接間に入って、志田に出した茶碗を片付けにかかると、そのとき、奥から、廊下の上をどんどんと駆けて来るものがあった。何事が起きたのかと出て見ると、志田が顔色を変え、息をはずませながら近づいて、

「た、大変だ、菱木君、と、頭取が殺されて、血まみれになって死んでいる!」

あまりのことに書生はその場で棒立ちになり、志田も言葉を切って、喘ぎながら、目をぱちくりさせて書生を見つめた。一瞬間、ぞっとするような沈黙が起こった。

と、その時、戸外の裏庭の方で、

「ひゃっ」という、けたたましい女の悲鳴が聞こえたので、二人は、更に飛び上らんばかりに驚いた。

「ばあやさんの声だ!」

書生は咽喉から吐き出すようにして、やっと、これだけ叫んだのである。

 

(二)

 

ことし四十五歳の吉村銀行頭取吉村順平は何者にか、心臓部を背後から刺されて、八畳の間に血だまりに浸かって変死し、頭取の家に雇われている婆さんのお貞は、台所の出口から、数間(※1間は約1.8m)離れた庭の上に気絶して横たわっていた。

二人が婆さんをかつぎ込んで手当てをすると、婆さんはようやく息を吹き返したので、志田は書生の菱木に婆さんの看護を頼んで、自分は、とりあえず、警察署へ電話をかけ、吉村頭取の変死を告げた。

警察署からは、直ちに松波警部と上谷・稲垣両刑事とが、警察医、写真師などを連れてやって来た。松波警部は稲垣刑事を現場に送って見張らせ、まず、応接室で、書生の菱木と、死体発見者たる志田とを尋問し、なお、ちょうどその時分、意識をすっかり回復した婆さんのお貞をも尋問した。

菱木の告げるところによると、この家は主人と書生と雇婆の三人暮らしで、三年前奥さんが亡くなる半年ほど前から、主人順平はK区R町に妾宅をこしらえたが、先日、その妾が病気になったので縁を切ることになり、妾宅はそのまま、その妾がもらったのであるけれど、手切れ金が足らぬと言って、この頃中、妾の兄が度々談判に来て、今夜もひとしきり、主人と声を荒らげて言い合い帰って行くときは非常に蒼ざめていたが、そのすぐ後から志田が主人の部屋に入って行くと、主人は血まみれになって倒れていたのである。

が、それと同じ時刻に、裏庭で女の悲鳴が聞こえ、それが雇婆さんの声らしかったので、出て見ると婆さんは庭の上に気絶して倒れていた。かつぎ込んで手当をし、さて、事情を聞いて見ると、婆さんの言うには、お隣の犬がしきりに吠えたので、台所口から戸外へ出て見ると、客間の便所のそばで、黒い人影のようなものが動いたので、怖々ながら近づくと、黒い人影と思ったのは幽霊で、全身にうす白い衣をまとって、こちらを向いてニッと笑い、なお両手をかざしたので、「きゃっ」と叫んだまま、その場に気絶したというのである。

「たしかに幽霊だったかね?」と、松波警部は、老婆に向かい、強いて笑いを押えて尋ねた。

「そりゃもう間違いございません」

「ニッと笑ったなんて暗いのによくわかったねえ?」

「よくわかりましたとも」と婆さん、極めて真面目である。

「今まで幽霊を見たことがあるかね?」

「絵で見たことはありますが、実物を見たことは今晩が初めてです」

「そうか。しかしね、婆さん、幽霊なんてものはないよ。何かほかのものを幽霊と見違えたのだよ」

「いいえ、たしかに幽霊に違いありません。それに幽霊が出てもよい理由があるのです」

「ほう。それはどういう理由かね?」

「旦那様が殺されなさったからお話ししますが、こちらの奥さまは、旦那様が女狂いをして、ほかに妾をこしらえなさったので、それを恨んで死んで行かれました。この頃中わたくしは毎晩続けて亡くなった奥さまの夢を見ました。ですから、今晚幽霊を見たあとで、旦那様が殺されなさったと聞いたときには、きっと奥様の幽霊に殺されなさったと思いましたよ」

いよいよ奇怪な話になるので、警部は尋問を打ち切って、現場捜査に来た。

八畳敷の客間の中央に、座布団の一つの上に寄りかかって、主人の遺体はうつ伏しになって、血にまみれて横たわっていた。警察医の検査により背部から短刀様のもので刺されたことがわかり、凶器がその場に落ちていなかったから、もちろん他殺であることに疑いはなかった。しかし、血の足跡とか、遺留品とか、犯人を定めるに足るいわゆる直接証拠は何ものもなかった。また、物の盗まれたような形跡もなかった。ただ便所に通ずる戸に錠が下りていなかったけれども、別に怪しいことではなかった。で、一通り捜査を終わってから、松波警部は念のために現場の写真を撮らせ、上谷刑事に向かって言った。

「直接証拠はないけれど、この事件は言わば一目瞭然だ。犯人はその妾の兄に違いない」

この松波警部は、いつも捜索が丹念でないが、今夜もはや、やすやすと推定を下したのかと、上谷刑事は内心苦笑を禁じ得なかった。

「しかし」と上谷刑事はじっと考えながら言った。「ちょうどこの殺害と同じ時刻に、婆さんが幽霊を見たということは、ちょっと考えて置かねばならぬと思います」

警部は呆気にとられたような顔をした。「君はそれでは婆さんの言葉を信じて、亡くなった奥さんの幽霊が殺したのだと思うのか」

「幽霊が殺したなどとは思いません。けれども私たちは、すべての事情を一応考慮して置く必要があります。私たちは先刻の尋問の結果、その妾の兄が有力な嫌疑者であることを知りましたけれど、それはただ状況証拠だけでして、直接の証拠がありません。もし状況証拠だけで判断するならば、ここに居られる志田さんも、また書生さんの菱木君も有力な嫌疑者だと思います」

松波警部はびっくりしたような顔をして志田を眺めた。志田はどうしたわけか、さッと顔色を変えた。

「はははは」と警部は笑った。君がとんでもない議論をするので志田さんが顔色を変えたよ。いや、君の議論を聞いていると、その間に真犯人が高飛びしてしまう。おい稲垣君」と、稲垣刑事の方を向き、「君、これから、その妾の家を訪ねて兄を引っ張って来てくれたまえ。多分、そこに居ると思う。もし逃げた後だったら非常線を張るように」

稲垣刑事は上谷刑事と違って、警部の命令に従うことを常に最上の策と考えていた。で、書生の菱木に妾の住所を尋ね、あたふた出て行った。

稲垣刑事が去ると、警部は警察医に向って検案書を作るよう命じ、捜索を打ち切って引き上げようとした。で、上谷刑事は、あわてて言った。

「せめて、便所のあたりの庭を一応検査して置いてはいかがです」

「ほほう。君はやっぱり幽霊が思い切れぬのだね。僕等は応接室に待っているから、君勝手に捜査して来たまえ」

上谷刑事は懐中電燈を携えてただひとり庭へ出た。そして、雇婆さんが幽霊を見たという便所のあたりを熱心に捜索した。便所は手すりのついた狭い縁によって客室とつながっていて、その縁は、庭から容易に上がることが出来る位の高さであった。雨が久しく降らなかったから、足跡はどうもはっきりしなかったが、フェルトの草履の跡のようなものが二つ三つかすかに認められた。

ところが植込みの中へ入ると、刑事は足もとにチラと光るものを見つけた。取り上げて見ると、それは黄金の脚の付いたひすいの簪であった。よく見ると、牡丹の花を細かく彫刻した直径一寸五分(約4.5cm)ほどの透き通った石であって、素人目にも、すこぶる高価なものであると思われた。

この発見に力を得た上谷刑事は、なおも、その辺を熱心に捜査したが、それ以上の発見はなかった。で、応接間へ引き返し、警部に簪を見せて、確かに一人の女が、殺害の前後に、便所の附近にいたらしいことを語ると、警部は何を思ったか傍にいた書生に向かって、

「婆さんをちょっと呼んでくれたまえ」と言った。

婆さんがおずおずしながら入って来ると、警部はひすいの簪を出して、

「これに見覚えはないかね?」と尋ねた。

婆さんは手に取って、しばらくそれを見ていたが、たちまち眼を丸くして、

「これはあなた、亡くなった奥さんが一番大切にしておられた簪ですよ」と声を震わせて言った。

松波警部はこれを聞いて、意外にも高らかに笑った。

「はははは。するとやっぱり上谷君、犯人は幽霊かな。君、よろしくその幽霊を逮捕して来たまえ」

 

(三)

 

吉村頭取の、元の妾友野ふじの実兄はその夜、松波警部の想像のごとくふじの家にいて、その場で逮捕された。しかし上谷刑事はひすいの簪の謎を解かねばこの事件の解決は不可能だと思った。松波警部は雇婆さんの幽霊説を笑って、婆さんの錯覚の基となった事実をも一笑に附しているようであるが、これは非常な誤謬であらねばならぬ。しかし、どうして、亡くなった夫人の簪が落ちていたのであろうか。それは比較的目につきやすいところにあったばかりでなく、庭は毎日書生によって掃除されるのであるから、以前からそこに落ちていたとは考えられぬ。松波警部に「幽霊を逮捕して来たまえ」と冷やかされてから、婆さんに色々尋ねても、夫人の死後それが誰の手に入ったかはわからなかった。しかし、それが誰であろうとも、ちょうど殺害の前後に、その女――あるいは女ではないかも知れぬが、フェルトの草履と簪とによって、女と判断するのが至当であろう――が、あそこにいたということは、その女が被害者たる吉村頭取と多少の関係を持ち、また頭取殺害について何事かを知っているに違いないであろう。

こう考えて、上谷刑事は、翌朝早く吉村頭取の元の妾のおふじを訪ねた。おふじは蒼い顔をして刑事を迎え、二、三の会話の後言った。

「いくら何でも兄さんは、人を殺すような男ではありません。そりゃ随分荒っぽい言葉を使ったかも知れませんが、あんな薄情な旦那は、言葉ででもおどさなくちゃ、言うことを聞いてくれないと思いますわ、いいほど私を弄んでおいて、私が肺尖カタルになったら、すぐ見捨てるなんてあんまりではありませんか、この家屋だけは貰いましたけれど、ただそれきりで養生費さえ出してくれませんもの、本当に私は旦那を恨んでおりました。ですから、殺されなすったと聞いても、ちっとも可哀想だという気がしませんわ」

こう語っておふじは気味の悪い咳を二つ三つ続けざまにした。刑事は気の毒そうな顔をした。

「吉村さんがあなたと別れたのは、いつ頃でしたか」

「まだ一月になりません」

「やはりあなたが病気になったので別れたんですか、それとも他に・・・・・・」

「そりゃ、あの人のことだから知れたもんじゃありませんわ」

「そういう女に心当たりはありませんか」

「ありません」

刑事はしばらく考えていたが、やがてポケットから、ひすいの簪を取り出した。

「これに見覚えはありませんか」

おふじは手に取るなり、

「まあ」と叫んだ。「これは私が旦那から貰った簪ですわ。旦那と別れる少し以前から、どこへ失ったか、失くしてしまってずいぶん探したんですよ。いったいこれがどこにあったんですか」

刑事はしばらく考えていたが、遂に思い切って言った。

「実は、吉村さんの殺されなさった附近にあったのです」

「まあ、それじゃ、きっとこの簪をさしていた人が殺したのですよ」と、おふじは目をまるくして答えた。

上谷刑事は、おふじの目をじっと見つめて、その心を読もうとした。というのは、その時、胸の中に、もしやおふじ自身が、ゆうべの幽霊女ではなかったかという考えが浮かんだからである。

「ゆうべ、あなたは家にいましたか」と刑事は尋ねた。

おふじはその質問を聞いて刑事の心を悟った。

「まあ」と彼女は叫んだ。「あなたは私を疑っているの? そりゃね、私でもいざという時には人を殺しかねもしませんよ。けれど、今じゃ、あの人に執着がないのですもの。女が男を殺すのは、他の女にその男を寝取られた時に限ると思いますわ」

上谷刑事はおふじの言葉に感心した。女の直感が犯罪学上の事実とぴったり一致することに驚いた。

「けれどね、一応は取り調べて置かねばなりませんから」

「それはそうでしょう。しかし、私はゆうべはずっと家にいました。病身ですから、夜分はあまり外出しません。女中に聞いて下さればわかります。だいぶ遅くなってから兄さんがやって来て、今夜も談判に行ったが駄目だったと話しました。そうして話している最中に、警察へ引っ張られて行きました」

上谷刑事はしばらく考えてから言った。

「この簪が、吉村さんの、亡くなった奥さんのものだということを御承知ですか」

「ええ、知っています。奥さんは大へん大切になすっていたんですって、ですから、それをもらった時、何だか気味が悪いような気がしました。私が肺病になったのも何だか奥さんの執念が祟ったのではないかと思いますよ」

上谷刑事は、ここでもまた一種の迷信的な、言わば超自然的な説明に出会って、心の中で苦笑した。そしておふじの尋問によって、疑問の女の正体が少しもわからぬことに失望した。けれども、その疑問の女が吉村頭取に深い関係があるという説だけは、いよいよ間違っていないことを認めた。それのみならず、問題の簪がおふじの許から紛失したということは、吉村頭取の手によって、その新しく関係した女に渡されたことも想像するに難くなかった。

では、その女は誰であろう?

こう考えたとき、上谷刑事は、頭取の身辺を捜すのが、最も近道であることを思い付き、おふじの家を辞して、その足でS町の吉村銀行を訪ねた。

頭取の変死によって、銀行員はいずれも活気のない顔をして事務を執っていた。昨夜頭取の家で頭取の死を最初に発見した志田も眠そうな眼をして出勤していた。上谷刑事が支配人に名刺を出すと、ただちに奥の一室に招じ入れられた。

「突然ですが、この銀行には女の事務員が幾人おいでになりましょうか」

「三人おります」

「みんなご出勤ですか」

「濱野米子というのが、今日は急な病気で休んでおりますが、あとの二人は来ております」

「ちょっと、こちらへ呼んで頂けませんでしょうか」

間もなく二人の女事務員が入って来た。

上谷刑事は来意を告げて、ひすいの簪を取り出し、

「この簪に見覚えありませんか」と尋ねた。

すると二人の女事務員は、口を揃えて言った。

「これは濱野さんの簪です」

刑事は二人の女事務員に感謝し、支配人に濱野米子の住所を尋ね、銀行を辞して彼女の下宿先を訪ねた。

下宿へ行くと、おかみは、

「濱野さんは気分が悪いといってお休みですから、たぶんどなたにもお会いになりますまい」

と言った。しかし、刑事が事情を話すと、おかみは二階へ上がって行ったが、やがて降りて来て、

「むさいところですがお上がり下さいとの事です」と告げた。

刑事が上がって行くと、米子は布団を畳みかけていたので、あわてて、それを制した。刑事は彼女の美しい姿に、しばらく自分の職掌を忘れたほどであった。そして、これでは頭取が、簪を与えたのも無理はないと思った。

「ご病気のところを押しかけて来て誠に相済みません。最早ご承知かも知れませんが、吉村頭取が昨晚何者かに殺されなさったのです。で、そのことについて少々お尋ねしたいことがあって来ました」

米子は何となく落ち着かぬ様子をした。

「私にお尋ねになりたいと言って、どんなことでしょうか」

「ほかではありませんが、実は昨晚あなたも頭取の家においでになったようですから・・・・・・」

「嘘です、嘘です」と米子はヒステリックな甲高い声を出した。そして発作的に傍の壁に目をやった。そこには、白い透き通るほど薄い肩掛けがだらりと釘から下がっていたので刑事ははっとした。そして咄嗟に思い付いて言った。

「この肩掛けをお被りになって老婆を気絶させることは出来ても、正義と真実をあざむくことは出来ません。どうか正義と真実のため、あなたが昨晩、何用あって、頭取の家をお訪ねになったかお話し下さい」

「何とおっしゃっても私は何も存じません」と、米子は顔をそむけて言った。上谷刑事はおもむろに、ひすいの簪を取り出した。

「これに見覚えはございますか。これが頭取の家の庭に落ちていました。さあ、濱野さん、苦しいでしょうけれど、どうか真実をおっしゃって下さい」

簪を一目見るなり米子の表情は変わった。そして、刑事の優しい言葉を聞くなり、わッと言って、その場に泣き伏した。

 

(四)

 

「実に強情で何と言っても白状しないよ」と、松波警部は、その日の午後、警察署で外から帰って来た上谷刑事に向かって言った。

「そりゃ白状せんはずですよ。あの男は犯人ではありませんもの」

「君はまだそんなことを言っているのか。では君は幽霊を逮捕したか」と、警部は嘲り口調で言った。

「逮捕しましたよ」と上谷刑事は落ち着いて言った。

「え、どこに居る?」

「ここにはいませんよ。その代り、あなたに、ちょっと聞いていただきたいことがあるので、今、銀行の志田という人に来てもらいました」

「志田といえば、ゆうべ、最初に頭取の死体を発見した男じゃないか?」

「そうです」

その時、一人の刑事に案内されて、銀行員の志田猛が入って来た。

「志田さん、ご足労を願って相済みませんでした。あなたが最初の発見者である関係上、ちょっとお尋ねしたいことが出来たのです」

と、上谷刑事は言った。

「何でもお答えします」

「昨晩あなたは頭取に呼ばれて訪ねたとおっしゃいましたが、頭取は何の用で来てくれと言ったのですか」

「ただ用があるから来いと言われただけで、何の用だとも聞きませんでした」

「あなたは、女事務員の濱野米子さんをご承知ですか」

「知っております」

「親しくご交際ですか」

「別に親しいという程でもありません」

「あなたはゆうべ、吉村家の老婆が、客間に付いている便所の前で幽霊を見たことをご承知でしょう。あの幽霊は実はその濱野米子さんだったのです」

この言葉は志田を驚かすと共に、松波警部を驚かした。警部はもはや笑うことが出来なかった。

「何しに来ていたんだ君?」と、警部は尋ねた。

「実は、その濱野米子も、やはり、頭取から、呼ばれて来たのです」

「え? でも書生はその話をしなかったようじゃないか」

「そうです。裏から入るように教えられて来たんですから、書生は知りません。濱野は便所に続く縁から座敷の廊下へ上がり、障子の外に立っているように頭取から言いつけられたのです」

「なぜそんなことをしたのだ?」

「それは頭取がある男との対談の模様を立ち聞きさせるつもりだったのです」

「で、どんなことを立ち聞きしたのか」

「立ち聞きするどころか、思いもかけぬ光景を障子のすき間から見たのです」

「それはどんなことだい?」

「頭取が殺されるところを見たのです」

この言葉は警部よりも、志田を驚かした。「濱野さんが見たんですって?」と彼は息をはずませて言った。

「そうです。あまりのことに驚いて、濱野さんは、いきなり戸外へ駆け出すと、運悪くも、老婆が近づいて来たので、咄嗟の知恵で肩掛けを被って、幽霊の真似をし、老婆をびっくりさせて、その間に逃げたのです。ところが、その際、ひすいの簪を落としてしまったのです」

「ふむ、それで犯人は誰だ?」と警部はもどかしそうに叫んだ。

「犯人はその濱野の愛人、俗にいう情夫なんです」

「情夫? それは誰だ?」

「まあ、一応私の話を聞いて下さい。その濱野の愛人というのは実は前科者なのです。濱野はもと、あるカフェの女給をしていて、その時分に親しくなったのですが、愛人か恐ろしい前科者だとは知らなかったのです。ところがその愛人は吉村銀行に雇われていたので、その周旋でここ二ヶ月ほど前に濱野も女事務員に雇われたのでした。すると、頭取が濱野の美貌を愛して、彼女を後妻にしようとし、言い寄りましたが、濱野はもとより聞きませんでした。妾にやってあったひすいの簪を贈ったり、色々のものを買ってやってその歓心を買おうとしたのですが駄目でした。そのうちに頭取は濱野に愛人のあることを見つけたのですが、それと同時に、その愛人が恐ろしい前科者であることをも発見したのです。で、頭取は濱野にそのことを話しました。すると濱野は本当にしなかったので、その証拠を見せようとして、その愛人と濱野とを自宅に呼び寄せたのです。すなわち頭取は愛人を自宅に呼んで談話をし、それを濱野に立ち聞かせ、愛人が前科者であることを知らせようとしたのです。ところが濱野は、それを待ちかねて、昨日の午後、愛人に向かって、頭取があなたのことを前科者だというが本当ですかと聞いたのです。愛人はその場は強いて笑って否定したが、心では大いに憤慨し、昨晩呼ばれているのを幸いに、短刀を懐に忍ばせて訪ねたのです。無論その愛人は、濱野も呼ばれているとは知らなかったのです。愛人が頭取の家に行くと、元の妾の兄が訪ねて来ていたので、その帰るのを待って頭取の部屋に行き、頭取が向こうを向いていたのを幸いに、黙って短刀を左の背部に突き刺したのです。そして、大変だ、頭取が殺されていると言って叫んで走り出て来たのですから、誰だって、妾の兄が犯人だと思います」

こう言って上谷刑事はくるりと志田の方を向き、

「どうです志田さん、私の話に間違いがありますか」と尋ねた。

志田猛は先刻から、ぶるぶる身を震わせていたが、この時ようやく顔を上げたかと思うと、ふらふらと、その場に倒れてしまった。

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