本文
大雷雨夜の殺人(昭和3年発表)
(一)
「雨が欲しい」
「一雨降らせたいものだ」
口には出さぬが空を眺める人々の眼には、これらの言葉が明らかに読まれた。
そよ吹く風はあっても、さっと吹く風がない。ちぎれ雲は出没しても、むら雲はわだかまらぬ。遠くの山は依然として遠く見え、飛び交う燕はやはり空高く飛ぶだけである。
家具もパチパチ鳴らねば煤も落ちぬ。晴雨計が低くならぬ反対に、寒暖計は気味の悪いほど昇って、暑さは軒下の蜘蛛の活動をさえ止めようとした。
新聞紙は連日農村の水争いを報じた。多度山は雨乞いの御幣を受ける人々で雑踏した。いかに科学が進歩したとはいえ、いまだ人工的に雨を降らす装置の発明はなく、天地の間に、ほんのちょっぴりとした存在でしかない人の子は、このような時、神明の力にすがるよりほかはなかった。
けれども雨は容易に降らなかった。田舎の苦しみもさることながら、都市の喘ぎはまた格別であった。七月の始めからおよそ一ヶ月、陽は容赦なく照りつけて、街路樹に恵まれぬ名古屋の町々は、白く塵のたまった瓦の波に、まごう方なき疲態の色を漂わせていた。
名古屋!
近時めきめき都市的発達を遂げようとする名古屋も、八月に入ってから、上水の不足を感じるに至った。さすがに市中の井戸水はそれほどの欠乏を見なかったが、郊外はそろそろ恐慌を覚え始めた。もし、ここ一週間も照り続いたならば、どうなることであろうかと、気の早い老人たちの中には、「天譴」(※天罰)呼ばわりをして、何か不吉な大事件が持ち上がらねばよいがと心配するものさえあった。
けれども、時節が来れば雨も降る。もし永久に雨が降らなかったならばどうなることであろうかと、想像するのは、単なる人間の恐怖心から起こる幻影に過ぎぬのであって、雨を要する土地には必ず雨を降らせるのが、いわば、自然の妙機である。その証拠には、古来、雨乞いをして、そのうちに雨の降らなかった例はまだ無いではないか。
果たして、八月×日、人々が待ちに待った雨は降った。だが、その雨は尋常一様のものではなかった。すべて異常な現象の後に起こる反動現象もまた必ず異常である。現に、その日、名古屋は、二十数年来、いまだかつて経験しなかった大雷雨に見舞われたのであった。
天気予報は例のごとく、「南の風晴れ」と報じたけれど、夕日の色が、常と違って、何となく褪せていたことに気づいたのは、単に測候所員ばかりではなかった。やがて八時が過ぎると、いつの間にできたか、真っ黒な雲が空一面に覆い被さり、さっと冷たい風が人々の肌をなめて、電光が四方に閃めいた。そして、九時が打つと間もなく、遂に大粒な雨がばらばらと落ちて来たが、やがて激しい雷鳴と共に、名古屋全市は豪雨の包む所となってしまった。
それはまったく文字通りの豪雨であった。街上には一人の徒歩の人も見られなかった。もし、勇気ある者が、その中に歩み行ったならば、彼は恐らく一間(※約1.8m)先に行われている事柄をも見ることはできなかったであろう。否、むしろ彼は、眼を開くことのできる前に、街上を走る激流のために、足をすくわれて転がり流されたであろう。それほど雨量は多かったのである。
雨量と共に雷鳴もまた激しかった。婦女子はこの世の終わりが来たのではないかと、蚊帳の中に縮こまったが、翌日の新聞は市内に三十数ヶ所の落雷のあったことを報じた。
雷雨は総じて短時間のものであるけれど、この夜に限っておよそ三時間も、同じ勢いをもって継続した。そして、やっと雨の上がったのは十二時少し前であった。外出先で降りこめられた人々はどうしたであろうか。恐らくこの大雷雨は、多くの家庭に、種々の悲喜劇を起こしたことであろうと思う。
雨が降りやむとほとんど同時に、雲は見る見る退散して、いつの間にか、星が涼しそうに瞬いていた。常ならば、暑さのために、夜半過ぎまで涼をとる者が多いのであるけれど、今宵はさすがに、街を走る余流の音を恐れてか、戸外へ出るものはほとんどなかった。
鶴舞公園から大須、七ッ寺あたりへかけての一帯は、雷雨がことさらに激しかった。もと遊廓のあった区域のあたりは、いつもならば、果物店や小間物店や、小料理屋などが、かなり明るさと賑やかさを保っているのであるが、今は、軒並みに固く戸が差し込められて、ところどころに軒燈はあれど、一種の不気味な暗さと静かさが漂っていた。実のところ、あの大雷雨が戸内の人々を殺してしまったのではないかと思われるほど、人気がばったり絶えていた。
以前、盛り場所であった若葉町、偕楽町のあたりは、ことさらに暗かった。ただ、街上を流れる濁流のみが、耳を澄ませば聞こえてくる。それはいわば物凄い無人境と言ってよいほどであった。
大都市の中央に、雷雨によって生ぜしめられた、この物凄い無人境を、今しもひとつの黒い人影が、のっそりのっそりと歩いて行くのであった。彼は、ところどころで立ち止まっては、あたりの家々を眺め、また再びのっそりのっそりと歩いて行った。
「よくも降ったものだ。土がすっかり洗い流されて、小石があばたのように浮かんでいる」
こうつぶやいて彼は苦笑したらしく、肩を軽く揺すって、やがてくるりと横町に曲がった。もしその黒い人影に近寄ったものがあるならば、それはこのあたりを受け持っている宇津保巡査であることに気づくであろう。そして、このあたりに住む人ならば、宇津保巡査があばたであることを知っている人も少なくないであろう。
宇津保巡査は、あの恐ろしい大雷雨が晴れたので、もしや街々に何かの被害がありはしなかったかと、用心のために、白い夏服の上に、黒い合羽をかけ、長靴を履いて見回りに出かけたのである。風がその割に強くなかったせいか、これという目立った被害とてなく、ただ街上をなお走っている濁流が、ますます土を掘り流して行くほかには、町はいつもの町であった。けれども、前日までどの町にも流れていた苦痛の喘ぎは、今はさらりと洗い流されて、冷や冷やと顔に当たる夜風が、一種の快い夢地をたどっているような思いを起こさせた。
やがて、宇津保巡査が、若葉町の角を偕楽町へ曲がると、はッと思って、一瞬間立ち止まった。というのは、半丁(※約54m)ほど向こうの街角に立って、うつ向いて何かをしている、ほの白い人影らしいものを認めたからである。もとより暗がりのために、そのものの行動ははっきりわからず、ただ、そう想像しただけであるが、今どき、この無人の街に居るのは何者であろうかと、ぐっと全身を緊張させて忍び足で歩いて行くと、この時先方の影は、頭を上げてこちらを眺めた。
その瞬間、宇津保巡査はぎょっとして立ち止まった。というのは、その白い顔のところどころに黒い痣のようなものがあって、普通の人間の顔とは思えなかったからである。よく見ると、その身体には、黒白のだんだら染のようなものをまとい、まるで動物園にいる「しまうま」のような風に見えて、もしそれが人間であるとすると、よく、笑劇などに出てくる道化役者そっくりの姿であった。
「誰だ!」
宇津保巡査は思わず叫んだ。
が、その声とほとんど同時に、その深夜の怪物は、くるりと巡査に尻を向け、ぱっと駆け出して、横町に曲がった。
「待てッ」
こう叫んで、巡査があとから走り出した時には、小柄な怪物はもう十間(※約18m)も先を走っていた。そしてみるみるうちに二人の距離は拡大された。そして、宇津保巡査は、競争においては、到底怪物の敵でないことを知った。
「チェッ」
巡査は舌打ちをして、追跡を思い留まったが、まだ十分あきらめ切れないとみえて、遙か向こうに、だんだん小さくなって行く怪物を、遂に見えなくなるまで見送った。そして、再び、もとのところへ引き返した。
「何をしていたのだろう」
こうつぶやきながら、さっき怪物が立っていたあたりを探したが、電信柱がのっそり突っ立って、その下を濁流が、嘲るような音を立てて流れているほかには、何の痕跡も発見されなかった。
それにしても、あの異様な風采をして深夜の街上を歩くには、何か重大な意義がなくてはならない。こう考えて、いろいろ想像を巡らせてみたが、これという適当な解釈を下すことができなかった。で、巡査は、偕楽町をまっすぐに、そのまま歩き続けたのである。
ところが半丁ほど進むと、またもや巡査は街上に異様なものを発見した。近寄って行くと、洋服を着た一人の男が、地上に仰向きに横たわっていた。見ると洋服はずぶ濡れになっていて、誰が見たとて、それが眠っているのでないことはわかる。はッと思って、巡査がかがみこんで、その洋服の腕を握って揺すぶると、男は完全に死んでいた。
「これは大変だ!」
こうつぶやくと同時に、宇津保巡査の頭には、さっきの怪物が浮かんだ。
「もしやあの怪物が・・・・・・」
この男を殺した犯人ではなかったかと考えると、巡査は、あれを逃がしたのが残念でならなかった。
が、それよりも、今となっては、この死体をとくと検査しなければならない。こう思ってポケットに手をやると、巡査は懐中電燈を持って来なかったことに気づいた。これは困ったことだと思ってあたりの人家を眺めまわすと、町の南側には、軒燈の下に、
花柳病専門 久呂木医院
という札が読まれ、ちょうどその両側には、宇津保巡査の馴染みなる「お素女婆さん」の家があった。
「婆さんに頼んで灯を借りよう」
こうつぶやいて、巡査は立ち上がり、つかつかと歩き寄って、婆さんの家の戸口をとんとんと叩いた。
(二)
このお素女婆さんというのは、もとの旭遊廓の桃源楼の「やりて」をしていたのであるが、遊郭が中村へ移転すると同時に、雇い人口入れ業を営むことになった。近頃は男女の曖昧宿をも営んでいるらしいことがわかって、度々警官が不意を襲っても一度も証拠をつかむことができなかった。何しろ愛嬌のよい婆さんで、応対が非常に巧みであったから、警官たちは大目にみているのではないかという噂さえ立った。とにかく、そうした訳で、宇津保巡査もお素女婆さんとは極めて懇意なのである。
いつもならば、表の戸を叩いてから、十分も過ぎなければ開けに来ないのが常であるが、
「おい、お婆さん、宇津保だ。頼みたいことがあるからちょっと開けてくれ」
という巡査の声に、すぐ返事をして、二分間経たぬうちに入口の戸を開けた。
「まあ、旦那、えらい雷さんでございましたなあ、私はどうなることかと気が気でございませんでしたよ。私は生まれつき雷さんと数の子が嫌いですから、あの間、芋虫のように蚊帳の中に縮こまっておりましたよ。さあ、どうぞまあお上がりなすって」
白髪あたまを振りたてて、例の調子で喋り出したのを、宇津保巡査は右手で制した。
「いや、上がるどころか、お前の家の前に死人があるので・・・・・・」
「ヘーッ、 死人が。まあ、本当ですか、それでは、さっきの雷さまに打たれて死んだのではございませんか」
「ほう、このへんへ雷が落ちたかい?」
「落ちましたとも、三つも四つも」
「まさか、だが、ことによったら、雷に打たれて死んだのかも知れぬ。何にしろ暗いので検査ができかねるんだ。頼むが、提灯を一つ貸してくれないか」
「へえ、ようございますとも」
こう言って婆さんは、奥へ入って行ったが、やがて、ブラ提灯に灯を入れて持ってきた。
宇津保巡査は、婆さんが提灯を差し出すなり言った。
「ついでに、表へ出て、わしが調べる間、これを持っていてくれないか」
婆さんは躊躇した。
「旦那の前ですが、私は自分の顔を鏡で見ること、死人の顔を見ることは生まれつき好きませんので」
「ははは」巡査はそのあばた面を指して言った。
「俺もお前の通りに、鏡を見ることと死人を見ることは嫌いだが、これも職掌とあれば致し方がない。お前もお上へのご奉公だと思って、ちょっとの間つきあってくれ」
「はいはい」
渋々ながら返事をして、婆さんは巡査と共に戸外へ出た。
「まあ、かわいそうに、まんだ四十を越すか越さぬかの年輩でございますなあ」
恐る恐る提灯を突き出して、死体の顔を眺めた婆さんは言った。
宇津保巡査はそれに答えないで、びっしょり濡れた紺の夏服のボタンをあけて、胸部や腹部をあらため、それから背部の方をあらためて見たが、別に、傷の跡らしいものはなく、また血の出た跡もなかった。
そこで巡査は、今度は死体の頸部をあらためたが、やがて、
「ふむ、どうやら絞め殺されたようだ」
と叫んだ。
「え、殺されたんですか?」と婆さんはびっくりした。
「どうやらそうらしい」
「まあ」
けれども、手拭いだとか紐だとかは頸に巻かれていなかった。
「婆さん、お前この顔に見覚えはないかい?」
言われてお素女婆さんは、おずおず傍に寄って、じっと死人の顔を見つめていたが、
「こんな人見たことありませんよ。どこの誰だか知りませんが、洋服を着ている人に似合わぬ黒い顔ではありませんか、まるでこう印度人を見るようでございますなあ」
なるほど、婆さんの観察通り死人は色が黒い。
「それにこの人は帽子も被らずに外へ出たとみえて、あたりに帽子が落ちておらぬようでございますなあ」
婆さん、いよいよ観察眼が鋭い。巡査は立ち上がってあたりを見回したが、帽子らしいものは落ちていなかった。
「雨に流されたのかも知れん」
こう言って巡査は死人の洋服のポケットを探ったが、どのポケットもみな空であった。そればかりか、懐中時計も財布もどこにも見当たらなかった。
「おかしいぞ」
「何にも持っていないのでございますか。では殺した奴が盗っていったのでしょう」
「そうかも知れん。時に、お前は何か物音を聞かなかったかい。例えば喧嘩する声だとか、助けを呼ぶ声だとか」
「聞きませんよ。何しろ、恐ろしくて、一時は両手で耳を塞いでおりましたから」
「雨がやんでからも何も聞こえなかったかい?」
「聞きませんでしたよ。それにこの死骸だって、あの大雨では、どこぞから流れてきたのかも知れません」
「ははは」と、巡査は笑った。
「なかなか奇抜なことを言うなあ」
「もうこの人はとても助かりませんか」と、お素女婆さんは、しんみりした口調で言った。
「まず難しかろう」
「でも、どうでしょう。念のために、一応お医者さんにお見せになっては。幸い、向かいの久呂木先生と懇意ですから、私がちょっと呼んできましょうか?」
宇津保巡査はしばらく考えたが、とうとう決心して言った。
「そうしてくれるか。それに、ことによると久呂木さんが、何か物音を聞かれたのかも知れんから」
久呂木医院の主は久呂木重三という花柳病専門の者であって、医院は西洋造りになっていて、街に面したガラス窓の内側にはブラインドが降ろしてあるらしかった。
婆さんは入口のドアの横にあるベルを押した。
すると間もなく寝間着姿の男がドアを開けた。婆さんが何か話すと、その人は一旦家の中に入り、再び出てきて婆さんに案内されて、宇津保巡査のところへ来た。
「どうもお休みのところを、ご迷惑をかけました」と巡査は丁寧に言った。
「死人がありますので、とても生き返る望みはないでしょうけれど、一応ご診察を願いたいと思いまして・・・・・・」
医師は何となく浮かぬ顔をして、ただ軽くうなずくだけで、とりあえず死人の脈を取ったが、多少興奮したせいか、その手が震えていた。それも無理のないこと、大理石のように冷たくなった皮膚に触れることは、誰だって気持ちがよくないのである。しかも提灯の、うすぼんやりとした光の中で、深夜の雨後の街頭で診察を行うことは、かなりに人の心を寒からしめる。
「無論駄目です。死んでからもう二時間になりましょう」
こう言った医師の声も、その手と同じように震えていた。
「すると、あの土砂降りした時に死んだのでしょうか?」
「多分そうでしょう」
「死因は何でございますか?」
「さあ」と言って医師は死体の頸筋に手をやり、綿密に検査した。
「どうも絞殺のようですが、無論はっきりしたことは、解剖しなくてはわかりません」
「いや、どうもありがとうございました」
こう言って巡査は立ち上がって、その時同じく立ち上がった医師と顔を見合わせた。すると医師はつと目を逸らし、慌てたように言った。
「随分よく降りましたねえ」
「いや、どうも、えらい降りでした。・・・・・・時に、あなたはもしや今晩何かここで、怪しい物音をお聞きになりませんでしたか?」
言われて医師はしばらく考えた。しかしその顔は、考えているというよりも、むしろ、ある事を、言おうか言うまいかと躊躇しているらしかった。が、遂に決心して言った。
「実は少し変わったことを見たのです」
「へぇ」と言ったのは宇津保巡査でなくて、お素女婆さんである。やっぱりここで、何か喧嘩でもあったのでございますか?」
久呂木医師はそれには答えないで、巡査の方を向いて語った。
「何でも雨がいちばん激しく降っていた時分のことです。表のガラス窓へしきりに雨が叩きつけて中へ水が入ってきますので、私はブラインドを降ろしに窓へ近寄りました。無論その時は、街の上は水煙で何物も見えませんでしたが、やがてピカッと光ると、その光で私は雨の中に二人の男が取り組み合っているらしい事を見つけたのです。はッと思って次の電光を待っていると、間もなくピカッと光りました。間違いもなく一人は洋服であることがわかりましたが、もう一人の方は変な風に見えたのでどうもよく見当がつきませんでした。そこで更に次の電光を待っていたのですが、意地悪くなかなか光りません。やっと長い間の後にピカッと光ったかと思うと、もう二人ともどこへ行ったか見えませんでした。無論雨は激しく降っていて、悲鳴のようなものは聞こえませんでしたが、私は多分二人が仲直りして去ったものと思い、ブラインドを降ろして寝につきました。ところが今こうして、死人がここに横たわっている所を見ると、洋服を着ていた方の男は、確かにこの人だと思われます」
「そうですか」と、巡査は言った。
「いや、それはいいことを聞かせてくださいました。時に、もう一人の方の男はどんな風に見えたのですか?」
「確かにその姿をはっきり見たことは見たのです。けれども、私の見たものは、よほど突飛な風をしていたから、きっと私の見損ないだろうと思うのです。もしそれをお話ししましたらお笑いになるに違いありません」
宇津保巡査はこれを聞いて急に乗り気になって言った。
「いや、こちらにも思い当たることがないではありませんから、どうか包まずおっしゃってください」
「それでは言いますが、私の見たのは普通の人間とは思われぬ、まるで熱帯地方の動物みたいなもので、強いて言えば、滑稽芝居にでてくる道化役者とでも言うべきものです」
(三)
「あッ、やっぱりそうだったか」
宇津保巡査が、法外な大声を出してこう叫んだのを、久呂木医師もお素女婆さんもあっけにとられて、巡査の顔をな眺め入った。
巡査自身も幾分かテレ気味となり、慌てて、附言した。
「実は、その道化役者らしい男について、私は心当たりがあるのです。たった今、ここへ来る道で私はその男に逢ったのですが、惜しいことに逃がしてしまいました」
「おお、そうですか」と、医師は言った。
「人を殺したものはいつまでも死体の近所をうろつくと言いますから、やっぱり、あの奇怪な人間がこの人を殺したのでしょう。それは惜しいことをしましたね。もし捕まえておられたら、褒美ものですのに」
この最後の言葉は、ちょっと皮肉な調子を帯びていたので巡査は苦笑した。
「仕方がありません。この死骸を先に見つけていたのだったら、どこまでも追いかけるのでしたけれど、まさか、あれが人殺しをした人間だとは思いませんから、つい逃がしてしまいましたよ。けれどこれで犯人が何者であるかわかったような気がしますから、それだけでもひとつの手柄です。いや、いろいろどうもお世話様でした。どうかもうお休みになってください」
久呂木医師が去ると、宇津保巡査はお素女婆さんに向かって言った。
「まことに済まぬが、迷惑ついでにお前ちょっと紅山町の派出所まで行って、これこれだから、すぐ本署へ電話をかけ、それから誰でもよいから応援に来てくれと言ってくれないか」
婆さんは別に迷惑な顔もせず、提灯を下げて紅山町の方へ去った。
宇津保巡査は再び死体と二人きりになった。これまで、度々こうした経験をしたものの、足もとに死人、しかも殺された死体を控えて深夜の街にたたずんでいることは、あまり気持ちのよいものでなかった。今にも死体に生命が復帰して、くるりと寝返りをするような気がしてならなかったので、巡査は眼を上げて大空を眺めた。すると木星の(もとより巡査は木星がどれであるかを知らないけれど)紅い強い光が、いやに大雨の後の物凄さを加えていた。と、その時二つ三つの星が、すーっ、すーっと綾をなして走り交い、巡査の襟元を一層寒くした。
「馬鹿によく星が走る」
憤慨するでもなく、感嘆するでもなく、こう呟いて、巡査はなおも、首を旋回して、星の数々を眺めていたが、いつの間にか、顔を垂直に戻して、この事件について考えていた。果たして、あの怪物がこの男を殺したのであろうか。
久呂木医師の言葉によると、この男とあの怪物とが雨中に格闘していたということである。するとさっきあそこで逢ったのは、何か大切な物を落としてそれを拾いに来たのかも知れない。自分の殺した死体の傍へ戻って来ることはたとえ、医師がああは言うものの、非常に危険なことであるから、ちょっと常識では考えられぬことである。して見れば、雨の中で格闘していたのと、自分がさっき逢ったのは別人であろうか。
いずれにしても、それは宇津保巡査にとっては興味ある問題ではあるが、しかし巡査は何となく悲しい思いがした。というのは、どうせこの事件は、自分に担当させられるはずがないからである。
その時巡査の頭の中に妻子の顔が浮かんだので、にこりとして振り向くと、お素女婆さんがひとりで帰って来た。
「今すぐ、あとから黒部さんが来てくださいます」
「おお、それはご苦労だった」
こう言って巡査がいたわると、婆さんは言った。
「でもようございましたなあ、犯人の当たりがつきましたので、やっぱり久呂木先生は偉いお方ですなあ」
巡査はこの言葉を聞いて、変にくすぐったい思いをした。
「そんなに偉いお方かい?」
「偉いですとも、あの年になって、まだ独身でございますぜ。ああして花柳病の先生をしておいでになりますけれど、浮いた噂などはちっともありません。何しろ、書生も置かず、看護婦も置かず、ひとりで何もかもやっておいでになるのですからなあ」
「ほう、ひとりで。食事などはどうするのだい?」
「三度とも弁当屋から運んでおりますよ」
「なかなかできんことだなあ」
「そうですとも」
お素女婆さん、馬鹿に久呂本医師の肩を持つな。こいつはきっと婆さん、医師に何かの恩になっているに違いないと、宇津保巡査は心の中でおかしく思ったが、しかし何とも言わなかった。
と、先方から一人の巡査が近づいて来る様子であった。
「婆さん、だいぶ蝋燭があやしくなったようだ。新しいのと取り換えて来てくれないか?」
そこで、宇津保巡査は近づいて来た巡査に声をかけた。
「黒部君か」
「やあ宇津保君、人殺しがあったそうだなあ」
「うむ、まだはっきりしたことはわからんが、何しろ、死人の持ち物がひとつも残っておらんので、身許がさっぱりわからないのだ。もっとも、どうやら、犯人らしい男の見当はついたようだが」
「そうだってねえ、今ちょっと婆さんから聞いた。たいへん妙な風をしていたというではないか」
「うむ。あんな風をして街を歩けば、誰にも怪しまれることはわかっているのに、その上人殺しをするなんて、まったく変だ」
「それを僕もおかしいと思うのだよ、まあ、ここでとやかく議論しても始まらない。さっき、本署へ電話をかけておいたから。もうじき、みんながやって来るだろう」
この時、婆さんが、明るい提灯を持って出てきた。黒部巡査もそれを受け取って、死体の顔に近づけ、しばらくじっと眺めていたが、
「おやッ」と叫んだ。
「どうした?」と、宇津保巡査は、相手の顔を覗き込むようにして尋ねた。
「この顔には確かに見覚えがあるのだ」
「そうか」
「待ってくれよ。今に思い出すから」
こう言って、黒部巡査は、空を向いてしばらく考えていたが、
「うむ、思い出した思い出した。この男は今日の夕方、カフェ・アンナに居たよ。この真っ赤なネクタイで覚えているんだ」
「カフェ・アンナというと、広小路本町角のカフェか」
「そうだ」
「この男一人で居たかい?」
「いいや、相手の男と二人だった。僕は今日ちょっと取り調べることがあって、あそこへ行ったら、この男が相手の男と洋酒を飲んでいた」
「それは何時頃だった?」
「さあ、よくは覚えておらんが、六時前後だったかな」
「相手の男をよく覚えているか?」
「いや、向こう向いていたから、顔には見覚えがないが、やっぱり洋服を着ていた」
「小柄な男でなかったか?」
「いいや、がっしりし体格の男だった」
「それは何よりの手掛かりだ」
こう宇津保巡査は言って、どうやら、この男と一緒に酒を飲んでいた方の男は、あの怪物とは違っているらしく思った。
間もなく、本署から、捜査に携わる人々や、警察医、写真師などが駆けつけた。
真珠の首飾り
(一)
門前署刑事柏桂五郎は、柏探偵と呼ばれて名古屋では極めて評判がよかった。彼はまだ四十を越したばかりであるが、これまで多くの難事件を見事に解決して「名探偵」の尊称をさえ一部の人々から与えられた。柏探偵は、かの探偵小説に書かれているような、いわゆるシャーロック・ホームズ流の探偵とはタイブを異にしていた。ちょっとした手掛かりから、推理の力によって、驚くべき結論を導くというようなことは、小説の上では可能であるが、実際にはあり得ないことであった。実際の犯罪探偵というものは決してロマンチックなものではなく、失敗と誤謬との交錯した、極めて見苦しい争闘史に過ぎなかった。手掛かりというものは決してあつらえ向きに存在しているものではなく、眼に触れる多くの事物から事件に関係ありと思われる手掛かりを抜き出すことは、口ではたやすいが、実際には難中の難事であった。
柏探偵が名声を博するに至ったのは、彼が常に事件に導かれて、事件に追いすがって行ったからである。探偵小説中の名探偵は、いつでもいわば事件を指導し、事件を自分の手で勝手次第にかき回し、もって最後の勝利を得ているのであるが、そうしたことは実世界にあり得ないことであった。
柏探偵によれば、いかなる事件でも、事件は必ずそれ自身展開して行くものである。だから探偵たるものは、ぴったり事件にすがりついて、それから離れぬようにしていれば、それで最後の解決まで自然に連れて行かれるものだというのである。
こうした主義のもとに彼はこれまで成功を重ねてきたのである。だから彼は推理の失敗もすれば、重大な手掛かりを見逃すことがある。けれども事件に執拗にへばりつくことによって、いつも解決の彼岸に漕ぎつけたのである。
しかし、何といっても、彼は、その年齢が年齢であるだけ、功名心に燃えていた。ここ一ヶ月ばかりというものは、これという事件が発生しなかったので、彼は少なからず髀肉の嘆に堪えなかった。この点は、彼はシャーロック・ホームズに似ていた。ホームズは事件が無いとき、ロンドンの犯罪者たちの不甲斐なさを嘆いて、その友ワトソンに訴えたが、柏探偵も、そうした心をたっぷり持っていた。
「この暑さだ。ちっとは面倒な事件が起こってもよさそうだ」
つい、昨日の朝、彼はこう言って呟いたものである。ところが、彼の希望は決して空に帰さなかった。
今日、彼が、連日の暑さを忘れた心地よい朝の空気を吸って、健康そのものの様な顔つきで、本署に出頭すると、署長は彼を呼んで昨夜、偕楽町の路上で発見された死体のことを告げ、それが殺人に関係しているらしいから、その事件解決に従事してくれと依頼されたのである。
彼は直ちに死体の置かれてある部屋へ行って死体を検査し、それを済ますと、宇津保、黒部の両巡査に逢って、すぐに読者諸君の知っておられる事情を、逐一手帳に書き留めた。そしてこの事件の解決をするには、何よりも先に、死人の身許を知らねばならぬと判断したのである。
「久呂木医師と宇津保巡査が見たという怪物は、必ずしも同一人であると言い得ない。また久呂木医師も、宇津保巡査も、一は大雨を通じて眺め、一は闇の中で眺めたのであるから、ことによると見誤りがあるかも知れない。そういうあやふやなものを頼りにして捜査の歩を進めては失敗するに決まっている。それよりも死人に即した証拠によって探偵して行くのが遙かに得策である。で、まず死体解剖の結果を聞くのが、第一の着眼点である」
こう考えて、柏探偵は死体解剖を待った。
九時半に、警察医の執刀のもとに解剖が始められた。そして、約一時間半の後に終わった。柏探偵は、警察医に向かって、いつも行うように質問を始めた。
「推定年齢は?」
「四十一、二歳でしょうか」
「職業はわかりませんか?」
「わかりません。皮膚が黒いのと、筋肉がよく発育していることから、労働に従事したことがあると思います」
「死因は?」
「窒息死です。頸部を紐で絞殺されたのですが、どんな種類の紐が用いられたかはわかりません」
「何かこれという変わったことはありませんでしたか?」
「ありました。大脳の中から、銃丸が発見されました。しかしそれは、十年も前に受けたもので、後頭部に銃丸の貫通した瘢痕がありますから、後方から発射されたものと思います。脳の中へ銃丸が入っても死なない場合はありますが、それは極めて稀な例です。しかし、多分、生前には、大脳の作用に多少の影響を受けていたと思います。例えば知力とか感情とか意志とかに、幾分の欠陥があったのではないかと推定されます」
「銃丸から、使用された銃器の種類はわかりますか?」
「この場合にはピストルが用いられました。すなわち、死者の大脳から出たのはピストルの弾丸です」
「そのほかの内臓には異常がありませんでしたか?」
「ありません」
「犯人を推定するに手掛かりとなるようなことは発見されませんでしたか?」
「気がつきません」
これで死体解剖の結果の要点を知って、柏探偵は次に死人の着ていた洋服その他の付属品を調べた。しかし、探偵は、不思議にも、洋服やシャツに縫い付けてあるモノグラムをさえ発見することができなかった。洋服の製造者の名さえ見つけ得なかった。いわんやポケットの中には、ハンカチひとつも発見し得なかった。
「よくも、これほど完全に身許を知る手掛かりがなくなったものだ」
柏探偵はこう呟いた。けれども決して心は悲観していなかった。というのは、これまでの経験によると、こういう身許不明の死体こそ、ちょっとした手掛かりですぐさま完全にその身許がわかるからである。すでに、黒部巡査の語るところによると、この男は、昨日の夕方、カフェ・アンナで見られたというのであるから、カフェへ行けば、必ず、重要な手掛かりが得られると信じていたのである。
そこで、探偵は、いよいよカフェを訪れるべく、死人の顔の写真をポケットに入れて、夏の日が容赦なく照っている街上の、昨日よりも一段涼しさを加えた空気の中へ、活発な足どりで踏み出した。
(二)
最近名古屋では、カフェの数が驚くほど増加しつつある。
カフェ!!
これはモダン・ボーイが、慰安を求める最良の場所のひとつであった。緑や紅や黄のリキュールを、ペルシャの湖の色を思わせるような、硝子製の酒盃に盛って、エスクラビウスの殿堂に参籠する病者が、神の入来に額づくときのような身振りで啜る異様の味は、軽度の強迫観念と、強度の乱視を持った神経衰弱者としてのモダン・ボーイのみが知る法悦の世界であった。
新時代といい旧時代というも、それは単に、神経の有する感受性の多寡によって区別されるに過ぎないのであって、いわゆるデカダンなるものは、神経の感受性が極度に達して、一種の麻痺に陥った状態にほかならぬ。彼等デカダンたちは、いずれも瞬間的な刺激に生き、瞬間的な興奮に満足を感じるのであって、その瞬間的な刺激を与え、瞬間的な興奮を起こさせるために作られたものが、これ等のカフェなのである。
そこには、夢のように淡い光が、甘い空気に漂った。そこにはアスパラガスの香気を思い起こさせるような、肉感的な音楽があった。そこには「浮世又平」描くところの「風俗三国志」中の美人を見るような女給が、セイスモロジスト(※地震学者)の心をも動かさずにはいられない白い腕をもって、テーブルの端に、グリーン・ハウスから取り出した色様々の草花を並べた。
シャーロック・ホームズとは違って、柏探偵は、このカフェ情緒がたまらなく気に入った。
それは近代的犯罪者の巣窟を探るというような不粋な動機ではなく、むしろ、自分の心に潜んでいる犯罪性を、近代的に洗練しようとする体のものであった。
が、いずれにしても、柏探偵は、市内のすべてのカフェの顧客として、女給たちは、誰知らぬものとてなかった。広小路本町角のカフェ・アンナのドアを押すと、女給のお千穂さんは、眠そうな顔をして駆け寄ってきた。
「まあ、柏さん、こんなに早く?」
「いや、今日はお酒を飲みに来たんじゃない、少し、お尋ねの筋があって来たんだ」
「そう、どんなことかしら?」
柏探偵はテーブルのひとつに腰をかけて、ポケットから写真を取り出して言った。
「この顔に見覚えがある?」
お千穂さんは、いい人の写真でも見えることかと期待して取り上げたが、ひと目見るなり失望の色を表した。
「あら、この人ったら、眠っているじゃないの?」
「眠っているんじゃない、死んでいるんだ」
「まあ、気味が悪い」こう言ったかと思うと、彼女は写真をテーブルの上に捨てた。
「まあ、そう嫌わないで、大切な写真だから、よく見てくれよ」
お千穂ちゃんは、恐る恐る再び取り上げて眺めた。
「そうねえ、そういえば、何だか見たことがあるようだわ、さて誰だったかしら」
手に持った写真で、紅い唇の上をぱちぱちはねながら、しきりに考えているようであったが、なかなか思い出せなかった。
「思い出せない?」と探偵は言った。
「それじゃ聞くがねえ、昨日の午後、この人ここへ来やしなかった?」
「あッ、思い出した。この人、昨日、茨木さんと一緒に来たわ。まあ、あの人が死んだの? どうして死んだの?」
「変死をしたんだよ。だから、こうして搜索に来たのさ」
「かわいそうねえ、何でも、南洋とかフィリッピンとかから久し振りに日本へ帰って来た人だと言ったわ」
死人の色の黒いのが、これで完全に説明されたと思って、探偵は心の中でほほ笑んだ。
「その茨木という人をお千穂さんはよく知っているの?」
「ええ、しょっちゅう、ここへみえるわ」
「何をしている人?」
「大友ビルの海田商会の社員よ」
柏木探偵の顔は希望に輝いた。
「茨木さんは、昨日初めてこの人と一緒に来た?」
「ええ、この人は昨日名古屋へ着いて、すぐここへ茨木さんが引っ張って見えたそうだわ」
「それから二人はどうしたって?」
「お酒を飲んで、長い事色々話し合ってみえたわ。この人は、色々なものを茨木さんに見せていたわ。その頃、お客さまが相当多かったから、わたしはあまり傍に居なかったけれど、二人ともずいぶん愉快そうだったわ」
「それから二人は一緒に帰った?」
「いいえ、それがねえ、変なんですよ。そう、何時頃だったっけ、確か五時半頃でしたでしょう。 茨木さんは、この人を待たせておいて、何やら家へ取りに行かれましたわ。すぐ帰って来るから、と言って出られたのでしたが、どうした訳かなかなか帰って見えなかったの。そのうちに夕刊が来たので、退屈だろうと思って、私がこの人のところへ持って行ってやると、喜んで見ていましたが、何かの記事を見つけ出したものか、突然私を傍へ呼んで、僕これからちょっと行ってきたいところがある。今夜十時までには帰って来るから、茨木さんが来たらそう言っておいてくださいと言いますから、どこへお行きになるのですかと聞くと、夕刊でちょっとしたことを見つけたので、とにもかくにも行ってくる。こう言っていそいそと出て行きました。あとで気が付いたことですが、その人はその夕刊を持って行ってしまいましたよ」
「何新聞の夕刊?」
「名古屋新聞の」
「その人は荷物を持っていた?」
「ええ、スーツ・ケースひとつきり持っていたわ」
「どれくらいの大きさ?」
「普通のやつだわ」
「それを持って出て行った?」
「ええ」
「それから茨木さんはどうなすった?」
「その人が出て行ってから、三十分ほどしたら帰ってみえたわ。これこれだというと、仕様がないなあ、では十時まで待とう。こう言って待ってみえましたが、そのうちにあの大雨でしょう。で、一度家へ帰って来ると言って出て行かれましたが、それから恐ろしい雷雨が始まって、とうとう二人とも帰ってみえなかったけれど、それは当然のことだと思って寝たわ」
「茨木さんは小柄の人?」
「いいえ、大きい人だわ」
「この人の名前を聞かなかった?」
「聞かなかったわ」
柏探偵は、名古屋新聞夕刊のいかなる記事が、この男を急に誘い出したであろうかと、すこぶる好奇の心に燃えたが、その男が持って行ってしまったとあっては、致し方がなかった。もしその記事さえ見つけ出すことができたら、恐らくこの事件は解決されるであろうと予想はしたものの、さて、夕刊の四つの面の記事の中からそれを見つけ出すことはよほどの難事であろうと思われた。
死人がスーツ・ケースを持って出たということは、彼を殺した犯人がそのスーツ・ケースをも、ポケットの中の品々と共に奪ったであろうことを推測せしめた。けれども、以上の探索の結果から、犯人に関する手掛かりは少しも得られなかった。疑うとすれば、茨木その人を疑わねばならぬが、これは問題にならぬと思った。それよりも、茨木という人に逢って、死人に関する質問をするのが、これから取るべき手段であると思った。
「茨木さんからは、その後何も音沙汰がなかった?」
「あったわ。さっき、会社から電話が掛かって、昨日の人はどうしたと尋ねてきたわ」
「では、茨木さんは今会社へ出勤しているはずだねえ?」
「そうよ」
「いやありがとう」
こう言って探偵は写真をポケットに入れ、走るように、広小路通りの敷石の上に出た。
(三)
大友ビルヂングは二、三丁先の向こう側に、夏の日をまばゆく照らし返して突っ立っていた。昨日まで疲れた葉を塵埃に貸していた街路樹は、作夜の豪雨で生き生きとした緑に輝き、荷車を引く馬までが、さも嬉しそうに歩いて行くようであった。
海田商会は八階にあった。柏探偵が名刺を出すと、
「僕が茨木進です」
と言って、茨木氏は親しげな態度をもって迎えた。がっしりした体格の、一見して楽天家だと思われる風貌をしていたが、死顔の写真を見せられて、柏探偵の話を聞くなりさすがにびっくりして顔色を変えた。
「へえ、あの人が殺されましたか。それはお気の毒ですねえ。さっき電話でカフエ・アンナへ問い合わせて、実は内々心配していたところでした」
「この人は何という名ですか?」
「東勝彦という名刺をくれました」
「あなたとは以前からのお知り合いですか?」
「昨日初めて逢った人です」
「どこの人ですか?」
「さあ、それがよくわからないのです」
「どうしてお知り合いになられましたか?」
「実はこういう訳なのです」と、茨木氏は、その時給仕の運んで来たお茶を啜って語り始めた。
「昨日私が北陸方面へ行った帰りがけに米原駅で東海道線の列車に乗りこむと、この人が傍に乗っておりました。始めはお互いにただ顔を見合わすばかりで黙っておりました。そのうちに、いつとなく親しく語り合いました。ところが、この人の身の上話を聞くに及んで、私は世の中には実に不思議な人もあるものだと思いました。というのは、この人は十年以来の記憶はあるが、それ以前の記憶がさっぱり無いというのです。何でも記憶ができた頃には、フィリッピンのダバオに居たということです。その前にはどこに居たのかさっぱりわからず、日本で生まれたのか、それともダバオで生まれたのかはもちろん、両親の名も知らねば自分の名も知らない。ただ日本語を話す能力と、日本語を書く能力とは不思議にも備わっていて、東勝彦という名は、自分が勝手につけた名だと言っておりました。ダバオには相当にたくさんの出稼ぎの日本人がおって自分もその仲間に入って労働に従事し、最初麻を栽培して失敗したが、後に椰子を栽培して相当の金を儲けたので、今度は真珠の売買を始めてかなりに発展した。その間どうかして自分の過去を思い出したいと思っても、どうしても思い出すことができなかった。しかし自分はたったひとつ、過去の自分の生活の記念物を持っている。それは古い一枚の女の写真であって、その女が自分の身内の者であるか、あるいはまったく無関係な人間であるかはわからない。ところが最近に至って、ふと、あるひとりの男の名前を思い出した。それがどうやら過去の自分の生活と重大な関係を持っているらしいので、急に日本が恋しくなり、その写真の中にある女と、その記憶に浮かんだ名の男を探しに日本へやって来たというのです。何でも船中で大阪の人と懇意になり、その人の親切で当分一緒に行動を共にすることに約束したが、神戸へ上陸するなり、どうした訳か、急に名古屋が恋しくなり、その人が税関へ行った間に、黙って汽車に乗ったのだと申しました」
「不思議な人もあるものですねえ」と、探偵は、好奇の眼を輝かした。
「そういう風に記憶を失う人は決して稀ではないと思います。解剖の結果、この人はピストルの弾丸を脳髄に撃ち込まれていたことがわかりましたが、普通の人ならば即死するところを、この人は不思議に生命が助かり、その代わり記憶を失ったものと見えます。が、それはまあそれとして、それからどうなさいました?」
「それから私は、この東さんに向かって、名古屋では誰か知った人があるかと申しますと、もとより誰も知らないと申しますから、それでは私が宿を探してあげましょうと言って、五時半に名古屋駅へ着くと、東さんが洋酒を飲みたいと言い出しましたから、行きつけのカフェ・アンナへ一緒に行きました。共にブランデーを注文して色々フィリッピンの話を聞きましたが、だんだんアルコールが回るにつれて、その人は大いにはしゃぎかけました。そして、財布の中から、一枚の写真を取り出して、これが、自分の過去の生活に関係のあるらしい女だと言って見せました。それは女学生風の下げ髪の若い女でしたが、もとより私の知ろうはずがありません。それから、東さんは麦わら帽子の中を見せました。見ると、帽子の釜の底の隅に、美しい真珠の首飾りが固定してありました。『こうして、ここへ隠しておくのがかえって安全なのですよ』と東さんは言いました。『これは私が真珠の商売をしているとき性質のよいのだけを集めて作ったものです。これが言わばこの女への土産です。誰だかわかりませんけれども、とにかく私にとってはこの世界で唯一人きりの、私に関係ある女ですから、もし生きていれば、これをやるつもりです』と、いかにも快活そうに語りました。それから私は色々真珠のことを尋ねましたが、どうして中々詳しいものです。そこで私はふと自分の秘蔵している真珠の鑑定をして貰おうと思って、この人をカフェへ残して、家へ真珠を取りに行きました。今から思えば、あの時東さんに私の家まで一緒に来てもらえば、あるいはこんな悲しいことにならなかったかも知れません。とにかく、私は家に帰りましたが、ちょうどその時来客があって、心は急きましたけれど、カフェへ帰るのがたいへん遅れました。ところがカフェへ行ってみると、東さんは夕刊で何やら見つけて突然立ち去ったとの事で、十時頃には帰って来るということづけでしたから、心配しながら待っていましたが、そのうちにあの大雨で、いったん家に帰り、つい雷雨に妨げられてそのままになってしまいました」
こう言って茨木氏は、ほっと一息ついた。柏探偵は茨木氏の言葉の中に、毛頭疑うべき余地を見出し得なかった。
「東さんの名刺をここにお持ちですか?」
探偵の問いによって、茨木氏はポケットに手を入れ、しばらく探ってから取り出した。
「これです」
見るとそれには「東勝彦」と書かれてあるだけで、住所も何も書かれてなかった。
「何という汽船で来たのかお聞きになりました?」
「イタリア丸だと言っておりました」
「船中で一緒になって、上陸後行動を共にすると約束した大阪の人は、何という人だかお聞きになりませんでしたか?」
「聞きませんでした」
「さっきのお話によりますと、この人は過去の生活と重大な関係を持っているらしい男の名前を思い出し、それと写真の女を探しに日本へ来たということですが、その男の名をあなたはお聞きになりましたか?」
茨木氏はしばらく眼をつぶって考えているようであったが、
「汽車の中で、確か聞いたはずですが、どうも思い出せません」
「無論、写真の女の名は知らなかったでしょうねえ?」
「わからんと言っていました」
「荷物はどんなものを持っていましたか?」
「スーツ・ケース。ひとつ提げていましたが、何でも神戸のステーションで、トランクをひとつ預けたと言っておりました」
これを聞いた探偵の心には、ひとつの希望が浮かんだ。というのは、ことによると、そのトランクを調べることによって、死人の記憶に甦った男の名がわかり、それから犯人の手掛かりを得られるかも知れぬと思ったからである。
「どうもお邪魔致しました。また、何かお尋ねに来るかも知れませんが、その節はどうかよろしくお願いします」
こう言って柏探偵は茨木氏と別れ、エレヴェーターで降って、広小路通りへ出た。
(四)
柏探偵は、すぐさま名古屋停車場に行き死人のトランクについて調べようかと思ったが、それくらいのことは、わざわざ自分が行くにも及ぶまい、それよりも昨日の名古屋新聞の夕刊が見たいものだと思った。それに死人は、その麦わら帽子の中に真珠の首飾りを隠していたというから、ことによるとそれが質屋に来ているかも知れない。こう考えて、彼は、街角の公衆電話に立ち寄り、署長を呼び出して事情を告げ、誰でもよいから刑事を名古屋駅に遣わして、昨日神戸から名古屋へ向けて託送された東勝彦という男のトランクについて調べさせ、もし誰か取りに来る者があったならば、その者を留めておくように取り計らってくれと頼んだ。
公衆電話を出た柏探偵は、その足で入船町の遠藤質店を訪ねようと決心した。彼は歩きながら、昨夜から知り得た事実を頭の中で総合検討した。
久呂木医師の証言によると、どうやら死人は、雷雨の中で犯人と格闘して殺されたらしいが、その所持品すなわちスーツ・ケースも麦わら帽子も、またポケットの中の品物もことごとく持ち運ばれたということは少し考えにくいことである。たとえ大雨の中とはいえ、殺して死体のポケットの中の品物を完全に奪い去ることはまずまず不可能のこととしなければならぬ。むしろ、犯人は家の中で殺害して死体の所持品を奪い、それから死体を屋外に運び出して街上に捨てたと見た方が至当であるように思われる。すると、久呂木医師の見たのは、まったくこの事件とは関係のない人物たちの格闘であったかも知れない。
しかし宇津保巡査も久呂木医師も、道化役者に似たという怪物を見ている。たとえ宇津保巡査の見たのが、雨の上がった後であるとはいえ、怪物が死体と程遠からぬところに居たことは、その怪物が全然この事件に関係が無いとは言えない。
仮に怪物と死人とが大雨中に格闘していたことを事実と見做すときは、死人東勝彦は偶然にその怪物と出逢って格闘するようになったであろうか、それとも、怪物と東とは知り合いででもあっただろうか。すっかり記憶を失ってしまった男に知り合いのあろうはずはないから、ただひとつ過去の生活と関係を持っているらしい男の名というのが、あるいはその怪物の名であるかも知れない。
こう考えると、柏探偵は、早く昨日の夕刊を見たく思った。で、急ぎ足で歩いて、間もなく遠藤質店の暖簾をくぐった。
遠藤質店は名古屋市内の有数な質店のひとつであって、柏探偵は捜索の都合上これまでたびたびこの店を訪れた。主人庄兵衛は、こういう商売の人に似合わぬ清廉潔白な人であって、何でも正直に語ってくれた。
探偵が入ると、主人が出てきて言った。
「昨夜はたいへんな降りでございました。また、何か事件が起きたのでございますか?」
「実はゆうべ、あの大雨に乗じて人殺しがありましてね」
「へえ、人殺しが?」
「それについて、ちょっと昨日の名古屋新聞の夕刊が見たいのですが、貸してくれませんか?」
主人が小僧に命じると、やがて、小僧は奥から一葉の新聞紙を持ってきた。
探偵は取る手遅しと、それを広げたが、まるで、乾草の中の針を探すようなものであった。死人東勝彦が、第何面を見たのかわからぬから、四つの面をことごとく調べねばならぬが、さてニュースを見たのかまたは広告を見たのか、さっぱりわからず、探偵は、雲をつかむとはこのことだと嘆ぜざるを得なかった。第一面には休業銀行の整理案が堂々と報告されてあったが、そんなものが関係あるとは思われなかった。ブルガリヤ王がロンドンまで皇后さまの候補者を探しに行かれたことや、軍縮会議の記事などは、まずもって無関係であるといってよい。第二面には生活難による親娘心中、水争いから起こった流血事件、魚肉の中毒、村長の妾の駆け落ち、いずれも東勝彦をカフェから引っ張り出した原因と見做されかねた。とはいうもののこれ等のものが決して関係がないとは断言できぬ。第三面には続き物の講談や映画常設館の広告、その他石鹸、売薬の広告などがあるけれど、第四面の株式欄と共に、その中から東に関係を持つものを選び出すことはできなかった。
「何をお探しになるのです?」
柏探偵があまりに熱心に夕刊面をのぞき込んでいるので、主人の庄兵衛は好奇心を起こして尋ねた。
「話せば長いんですが、死人に関係がありそうな記事を探しているのです」
「どんな人が殺されましたか?」
「フィリッピンから昨日こちらへ来た人です」
「え? フィリッピンから?」
と言った、庄兵衛老人の声が意外に大きかったので探偵は頭を上げて相手を見た。
「何か心当たりがありますか?」と、探偵はすかさず尋ねた。
「もしや、その人は真珠の首飾りを持ってはいませんでしたか?」
探偵ははッと思った。
「持っていました」
「待ってください」
こう言って老人は立ち上がって奥へ行ったが、やがて真珠の首飾りを持って出てきた。
「もしや、これが、その殺された人の持っていた真珠ではありませんか?」
「いや、僕はまだ見ないのです」
こう言って探偵が手に取って見ると、名剣のにおいのような艶を持った、どっしりとした真珠の一連は、専門家ならぬ探偵の眼にもよほどの高質なものと思われた。
「どのくらいの値打ちがあります?」
「南洋産の極上ですから、まず、時価二萬圓(※現在の約1,200万円)を降りますまい」
「誰がいつ、これを質に置きに来ましたか?」
「今朝八時頃ですよ。それがちょっと普通とは違った事情でした。ただ単に質に取ってくれというのなら、私は決して受け取りませんが、これを抵当にして、五十圓(※現在の約30,000円)拝借したい、三日の後には必ず受け出しに来るからというのです。何でも母親が大病で、急に金が要るから、どうかお慈悲に貸してくれというのでした。私もつい気の毒に思って、とにかく、これを預かって、五十圓を貸してやりました。しかし、これが人殺しをして盗ったものであるとすると、誠に容易ならぬことです」
「いや、まだ、これが果たして死人の持っていたものかどうかはわかりません。で、いったいこれを預けに来たのは誰ですか?」
「大須の蓬莱座に出ている役者ですよ」
「何という名ですか?」
「あなたはご存じありませんか。もっとも下っ端の役者ですからご承知にならぬかも知れませんが、うちの小僧などにはたいへん人気がありますよ。さあ、その本名は何というか知りませんが、名は夜叉王という道化役者です」
「あッ」と思わず探偵は叫び出そうとして、あやうく食い止めた。
道化役者! 道化役者! 死人と雨中で格闘していたのは・・・・・・宇津保巡査が見たのは・・・・・・・。
その時、探偵の頭に、さっとある考えが閃いた。彼は震える手をもって、夕刊の第三面を開いた。
おお!
そこには、蓬莱座の「オペラ・コミック」の広告が三段抜きで掲載されているではないか。
嫌疑者
(一)
名古屋の大須公園は東京の浅草公園に匹敵する。鶴舞公園を名古屋の肺臓と見るならば、大須公園は名古屋の心臓であろう。頑迷な道学者に言わせれば、あるいは腎臓に例えるかも知れない。実際にその昔、観音堂の裏には「腎」に縁ある遊廓があった。けれども民衆に娯楽を与えることは、やがて民衆を更生させ、新しい力と勇気とを与えることであるから、これを人体の器官に例えれば正しく心臓にほかならない。
観音堂を中心としたあたりには、けばけばしい芝居小屋が、毒々しい看板を掲げて、例えば南国の忘憂草の花を見るように、生活に疲れた人々の心に、甘い慰安の香気を注いだ。玉乗り、軽業、説教源氏節、これらの威勢良き呼び声は、普門殿に額づいて、五種香に酔った人々を、磁石が鉄を吸うように引き寄せた。
わけても夏の大須観音境内は、その特徴を如実に発揮した。樹木に乏しくて公園という言葉は当てはまらぬかも知れぬが、境内の各所に陣取る氷店の色彩が、木蔭の涼しさを償って余りあった。観音堂の裏に陣取って、以前遊廓への喉仏を形作っていた、玉ころがしや、空気銃や、鮒釣りの小店は、今なお存続して、厚くお白粉を塗った小娘が、黄色い声をしぼって、客にからかわれながらはしゃいでいるのであった。
だが、作者は大須公園の風景をいつまでも述べているわけにはいかない。読者諸君は定めし、柏探偵のその後の行動がどうなったかを知りたく思っておられるであろう。作者もまた早く語りたい。語りたくはあるけれども、それを語るには、もう少し、作者の筆に付き合ってもらわねばならぬのである。
境内のあたり、ことにその南側に立ち並ぶ芝居小屋の多くは、絶えずその出し物を変えていた。ある時は安来節に、ある時は女相撲に、またあるときは南洋踊りに、それぞれ常に目先を変えて客を呼ぶことに腐心した。けれどもたったひとつ、観音堂の北隣りにある蓬莱座は、足かけ三年に渡って、同じ一座の演芸を見せていた。
それはオペラ・コミック団といって、女優玉川歌絵嬢を中心とする男女優合併の大一座であった。喜劇もやればオペラもやる、連鎖劇もやれば髷物もするという風に、ちょうどおでん鍋のごとく、色々のものをつつき混ぜて、そこに特種の味を出そうとするのが、この一座の特徴であった。同じ芝居に歌舞伎も入ればジャズも入る。それはまったく馬鹿馬鹿しいものではあるが、不思議にも人々はその馬鹿らしさに言うに言えぬ魅力を感じた。だからその観客には常に各種の階級の人を網羅した。そして、批評家の中にはこれをかのカクテルの味に対比して賞賛するものがあった。
しかし、オペラ・コミック団が人々の心を惹いた最も大なる原因は、やはり何といっても、その中心人物たる玉川歌絵嬢その人であった。彼女は別にずば抜けて優れた芸を持っていた訳ではないが、その悲劇的な表情と、妙に寂しい容姿とが、かえって人気を呼ぶのであった。ことに彼女の人気を高めたものは、彼女の品行が文字通りに正しかったからである。そういう社会の人にありがちなコケティッシュな態度が、彼女のどこにも発見されなかったのである。彼女の爪の先、髪の色の末に至るまで、凛として冒しがたい威厳が備わっていた。だから一部の人々は彼女が生理的欠陥を持っているだろうと臆測したけれど、それはその種の人が常に被る常套批評にほかならなかった。
こういう訳で、昼夜二回の興行が、ほとんど常に満員の好況を呈していた。先日来の苦熱にも客は依然として押しかけた。その代わり舞台の上には水を用いる芸が多く、観客の中には毎日続けて半月余りも通うのが、珍しくなかった。
わが柏探偵は言うまでもなく遠藤質店を出るなり、まっしぐらにこの蓬萊座をさして歩いて来たのである。オペラ・コミック団の道化役者が、死人東勝彦の真珠を質入れしたことは、もはや疑うべき余地がないと思った。しかも死人が見たという名古屋新聞の夕刊第三面には、オペラ・コミック団の広告が、眼に痛いほどの大さで掲載されている。そこにはなお俳優の名も書かれてあった。これでは、どうしても東勝彦が、この広告を見て、蓬萊座を訪ねるべく、カフェ・アンナを出たと考えるよりほかはなかったのである。そしてことによると、死人が自分の過去の生活と関係のあるらしい名だという、その記憶に甦った名が、オペラ・コミック一座の俳優の名の中、否、恐らくは、道化役者であろうと推定せざるを得なかった。
いつの間にか探偵は蓬萊座の前に来ていた。昼興行は正午から始まるのであって、探偵が着いたときには、一番目の「カインの結婚」という笑劇が始まっていた。探偵は木戸に居た人に事情を話し、舞台裏へ行った。夏とはいいながら、そこには、変な冷たく薄気味の悪い風が、煙のような塵埃を動かして探偵の顔を舐めた。そして例えば猖獗な伝染病流行時に、病院裏の路地を通るような感じを起こさせた。
舞台の方では一生懸命になって役者がしゃべり立てると、その都度、どッと笑う声が天井に響いた。喜劇「カインの結婚」は今まさに最高潮に達したらしかった。
「ああ君、ちょっと!」
その時、ひとりの二十歳前後のお白粉を塗って和服を着た役者が通りかかったので、探偵は呼びとめた。
「何かご用ですか?」
「夜叉王は楽屋に居るかね?」
「夜叉王ですか、今舞台です」
「ああそうか」
その語調に威厳がこもっていたので、男は尋ねた。
「あなたはどなたです?」
「僕? 僕は警察のものだ」
「警察?」と、男はさすがに驚いた顔をした。
「夜叉王が何か悪いことをしましたか?」
「いや、ちょっと聞きたいことがあるので来たんだ。 おふくろさんが病気だそうだが本当かね?」
「たいへん悪いそうです。やっこさん、珍しい親孝行な男ですから、非常に心配していますよ」
「性質や品行はどうかね?」
「極めておとなしい性質です。優しい男です。確かにヤシャしい男です」
この時候外れの駄洒落に探偵は思わず笑った。
「ははは、さすが喜劇役者の卵だけあるね」
「おや、卵は恐れ入りましたね。これでも一人前のつもりですよ。もっとも食は二人前いただきますけど」
「こりゃ、恐れ入った。しかし、何だろうねえ、心配事のあるときに、無理に人を笑わせる仕草をするのは随分苦しいものだろう?」
「いや、そこが商売ですよ。舞台へ立つと、浮世のことは何もかも忘れてしまいますよ。何とか言いますね、そうそう芸に陶酔するというんですか、すっかり役に成り切ってしまいます」
「そうだろうか」
「そうですとも、今ちょうど夜叉王は『カインの結婚』に出ていますから、ちょっとご覧なさい」
こう言って、「虎丸」と名乗るその男は、客席の後ろ側へ探偵を案内した。
舞台ではちょうど夜叉王がカインに扮装して出ていた。虎丸の説明によると、アベルを殺したカインが、野原をさまよっているとき、しきりに結婚したくなって、それから配偶者を探すべく、世界各国を遍歴し、遂に京都へ来て、小野小町に恋を打ち明けると、深草の少将が怒って、カインと少将との立ち回りが始まるという、他愛もない筋であった。ちょうど今洋服を着たカインが紅い髭を撫でて、通訳を介して小野小町に恋を打ち明けるところであった。カインの背が馬鹿に低いのに反して、小野小町がずばぬけて高いので、それだけでもはや滑稽だったが、カインの使うヘブライ語と称するものが、チーチーパーパー式の極めてへんてこな言葉であるから、観客は腹を抱えて笑った。
なるほど、虎丸の言う通り、夜叉王の態度には、大きな心配を持っていそうなところはなかった。けれども柏探偵は、夜叉王の眼に、一抹の苦悶と悲哀とが漂っていることを認めた。言葉や身体の動作は、よく内心を隠すことができるけれども、眼は内心の発露を防ぎ得ない。柏探偵は、これまで犯罪者を尋問するとき、いつもその眼を観察した。そして、この眼の表情を正しく読めば、必ずその内心を知ることができることを経験したのである。
「どうです?」と、虎丸は探偵をなじるように言った。
「そうだねぇ、まあ、君の言う通りだねえ」
「まあ、とは心細い」
その時ちょうど幕が降りたので、虎丸は探偵を再び舞台裏に連れて行った。すると、俳優たちはどやどやと楽屋の方へ歩いて来た。
「おい、夜叉ちゃん、このお方が用事だってよ」
虎丸が言うと、夜叉王は扮装のまま近づいて、怪訝そうに探偵の顔を眺めた。探偵は黙って名刺を差し出したが、それを見るなり、夜叉王は顔色を変えて、たじたじと二、三歩、後ずさりした。そして、みるみるうちに、その眼に涙がたまった。
「夜叉ちゃん、どうしたんだ?」と、虎丸が言った。そして、探偵の方を向いて嘆願するように付け加えた。
「さっきも言いました通り、夜叉ちゃんには、病気のおふくろがあるんですから、どうか寛大にしてやってください」
若いのに似合わぬ思いやりのある虎丸の言葉に、探偵は多少動かされぬではなかったが、しかし、職務を執行する上には、涙は禁物であった。
「なに、別に何でもない」こう言ってから夜王に向かい、
「もう、君には僕の来た理由がわかっているだろう。これから身ごしらえをし直して一緒に門前署まで来てくれたまえ」
夜叉王は悲しそうにうなずいて、しおしおとして楽屋の方へ行った。虎丸はそれを見送って言った。
「本当に夜叉王が何か悪いことをしましたか? 何かの間違いではありませんか?」
「そうだねぇ、僕も間違いであって欲しいと思うのだ。時に、昨日の夕方夜叉王を訪ねて来た男はなかったかね?」
虎丸はしばらく考えてから言った。
「よく覚えてませんねえ」
「夜叉王は夜はどんな役に扮装するかね?」
「カーマというオペラの道化役者になります」
「しまうまのような着物を着るのだろう?」
「よくご承知ですねえ」
「ゆうべ何時頃に夜叉王は帰って行ったかね?」
「知りませんねえ。 何しろ、あの大雨に、みんながたまげてしまったんですよ。誰がどうしたか、さっぱり覚えておりません」
「夜叉王を連れて行っては芝居が困るだろう?」
「そりゃ、大丈夫です。この一座には予備兵がたくさん雇ってありますから大丈夫、事欠きません。それが、この一座の受けるところです」
この時、夜叉王は和服に着替えて蒼い顔をして出てきた。扮装していた時はわからなかったが、確かに三十を二つ三つ越しているように思われた。
探偵が去りにかかると、虎丸は言った。
「どうか、早く帰してやってくださいよ」
そして、夜叉王に向かい、
「決して力を落としてはいけないぜ。夜叉ちゃんの親孝行は神様がご承知だから」
(二)
「昨晩の行動を逐一申し上げます」と、門前署へ連れられてきた夜叉王は、柏探偵が署長に報告を終わるなり、署長と探偵の前で低い声を出して語った。
「ちょうど私がカーマの道化役を済まして楽屋に戻りますと、舞台へ出ている間に家のものから電話が掛かってきて、母の容態が少し悪くなったから、ぜひお医者さんの楠本先生のところへ行って、できるものなら往診をお願いし、できなければ、応急手当の薬をもらってくるようにとの事でございました。私はびっくりして、じっとしていることができず、道化役に扮装したまま、あの大雨の中へ飛び出しました。大雨のことですから、誰も見ているものはなく、また、道化役の着物は水に濡れても大丈夫のようにできておりますのと、何だか気がせいたので、そのまま走り出しました。あの恐ろしい雷雨の中をとにもかくにも楠本先生のお宅までまいりますと、あいにく先生は夕方往診にお出掛けになったきり、まだお帰りでないとの事でした。そこで私は先生のお帰りになるまで待とうと決心して、玄関に待たせてもらいましたが、何しろ雨は強くなる一方で、多分先生も大雨のために、どこかの患家先で、雨の止むまでお待ちになっているかも知れぬとの事でした。
だんだん時間が経つにつれて、私はかなりに気を揉み始めました。家では母が自分の帰りの遅いのを心配しているだろうと思うと気が気ではありませんでした。いっそ先生のお宅の電話を拝借して家へ通知しようと思いましたが、もとより私の家には電話はなく、呼出しでございますから、あの雨に他人さまに迷惑をかけることは到底できないと思って差し控えました。
いつまで待っていても際限がなく、母の心配を思うと堪えられなくなりましたから、私はとうとう楠本先生のお宅を出ましたが、間もなく雨は晴れました。急ぎ足で、しかも道化役者の風をして深夜の街を歩くことは、かなり気が引けました。行きには大雨が降っていて私の姿を隠してくれましたからまだよいものの、帰りは雨が晴れたのですから、一層体裁が悪かったのです。けれども幸いに、往来はばったり人通りが絶えて、別に誰にも咎められることなしに、小走りに走りました。
ところが、偕楽町へ来ますと、意外にも一人の洋服を着た男が街の上に仰向きに寝ておりました。私は胸をどきつかせて、その傍に寄り、触ってみると死んでおりました。はッと思って私は立ち上がり、とんでもないものを見たと思いました。いっそ見なくて走った方がよかったのにと思いましたけれど、もはや及びません。
死人を見つけた以上、交番へ届け出るのが当然だとは思いましたが、今、ここで時間を費やしていては母がどんなに心配するかと思って、私は、そのまま死骸を見捨てて、走り続けました。
ところが半丁ほど走りますと、電柱の根元にひとつの麦わら帽子が落ちておりました。私は思わずそれを拾い上げましたが、これは、あの死人の被っていたものに違いない。こんなものを持っていてはたいへんだから、もとのところへ置こうと考えたのであります。
するとその時先方から一人の黒い影が近づいて、「誰だッ」と叫びました。私はぎょッとして、前後の考えもなく、その麦わら帽子を持ったまま、くるりと振り向いて横町へ逃げました。黒い影はしばらく私を追いかけてきましたが、とうとう私の足が勝って無事に家に帰り着きました。
家に帰ると、案じる程のことはなく、母の容態は持ち直しておりました。私は自分の部屋へ行って、道化役者の着物を脱ぎ、それから、何気なく拾ってきた麦わら帽子の中を見ますと、意外にも、そこに真珠の首飾りが固定してありました。私は思わずそれを取り出して、手に取って見ましたが、素人目にもそれは高価な物だとわかりました。
今になって見れば、その麦わら帽子を拾わねばよかったのです。拾ったために私はとんだ罪を犯しました。私は金に困っていたのです。どうしても翌日、すなわち今日、五十圓のお金を調達せねばならなかったのです。で、届けなければならぬと知りながらも、二、三日過ぎれば給料がもらえるから、いったん真珠の首飾りを質屋に預けて五十圓だけ借り、給料をもらってそれを受け出し、それから届け出ても遅くはないと考えました。それはまったく悪い考えでしたが、悪魔に魅入られた時は致し方のないもので、私はその麦わら帽子を拾ったのを、天の助けだとさえ思ったのでございます。これも母を安心させたいがための苦しい策略だったのでございます。拾った真珠を質屋へ預けたのは取り返しのつかぬ行為でございますけれど、今私が、罰を受けては、母を殺すようなものです。どうぞ寛大なご処置を願いたいものでございます」
こう言って、夜叉王は涙にうるんだ眼をこすった。署長も柏探偵も、その真心のこもった言葉に強く動かされた。
柏探偵はおもむろに口を開いた。
「君の言うことには、よく条理が立っている。けれども、君が偕楽町であの死人と大雨の中で格闘していたことを見た人があるよ」
「じょ、冗談ではありません。それはきっとその人の見間違いだったに違いありません。私は雨の止む少し前に楠本先生のお宅を出て途中まで来ると雨が晴れましたから、雨の降る時分には偕楽町には居りません。楠本先生のお宅へ問い合わせてくださればわかります」
楠本先生のお宅はどこかね?」
「大津町二丁目でございます」
「ふむ、なかなか遠いね、偕楽町までは、うっかりすると歩いて四、五十分かかるね。よろしい。君はそれでは死体の傍にスーツ・ケースのようなものが落ちてるのを見なかったか?」
「見ませんでした。落ちていたかもわかりませんが、死人だと知ると、恐ろしくて、じっとしておれませんでした」
「それじゃ、君はあの死人をまったく知らんのか?」
「知りません、一度も見たことがありません」
「昨日の夕方、蓬莱座へ、あの人が訪ねて行きはしなかったかね?」
「知りません。第一、私は死人の顔をよく覚えてもおりません」
「君のほかに、一座の道化役者に扮装する者は幾人あるかね?」
「三人あります」
夜叉王の尋問によって、最早これ以上聞き出すことができぬと思った探偵は、署長に眼くばせして、夜叉王を別室に退かせた。夜叉王は更に、母を心配させぬように、何とか寛大な処置をしてくれと嘆願したが、たとえいかなる事情があっても、拾得品を無断で質入れしたことは、そのまま許しがたいので、よく言い聞かせて、しばらく留まらせることにした。
夜叉王が去るなり、探偵は署長に向かって言った。
「どうも夜叉王が犯人であるとは考えにくいようですが、それにしても、久呂木医師が見たという道化役者は、確かに夜叉王でなくてはなりません。それとも医師は何かを見間違えたのでしょうか?」
「そうかも知れないねぇ、しかし、今の話では、他にも道化役者に扮する者が三人あるということだから、雨中で格闘していたのは、夜叉王と違った男だったかも知れん」
「そうですねぇ」
こう言って、柏探偵は腕をこまねいて考えたが、よい解決の鍵は見つからなかった。
「停車場へ行った浮田刑事がもうじき帰って来るであろうから、それによって新しい捜索の道を考えてくれたまえ」
こう言った署長の言葉が終わるか終わらぬうちに、浮田刑事が汗を流して入って来た。
「どうだった君?」と、署長は言った。
浮田刑事はあえぐように言った。
「トランクは今朝、誰かに持って行かれてしまいました」
「ええッ!」
柏探偵は思わず大声を出した。
浮田刑事は署長に向かって言葉を続けた。
「今日、午前九時頃に、色眼鏡をかけた口髭の男がトランクを取りに来たそうです。もとより駅員は、そのトランクが、殺された人の所有品であることを知らず、切符さえ持って行けば誰にでも渡さなければならんのですから、何の気もなく渡したそうです。しかし普通ならば取りに来た人の顔など、すぐ忘れてしまうのですが、ちょっとした事情によってよく覚えておりました。それというのは、その男が財布から切符を取り出すとき、あまり慌てたのか、それとも色眼鏡をかけていてよく見えなかったのか、財布の中の、ほかの物まで、飛び出させてしまったそうです。銀貨や銅貨や書付のようなものが、職員の足元へばらばらとこぼれたそうです。すると、男はいよいよ狼狽し駅員を急がせて、こぼれたものを拾ってもらい、トランクを受け取って逃げるように去ったそうです。
ところが、駅員が、後で気がついてみると、その男の財布の中からこぼれた一枚の台紙のない小さな写真が、荷物の隅に落ちていたそうです。もはや、今の男はどこへ行ったかわからず、そのまま駅員は保管して置いたと申しました」
署長と柏探偵とは、これを聞いて思わず顔を見合わせた。言うまでもなく、死人東勝彦は、その財布の中に、一枚の写真を入れたはずであって、トランクを取りに行った謎の男が落として行った写真は、その同じものに違いないからである。
「その写真をもらってきただろうねえ?」と、署長は尋ねた。
「もらってきました」
こう言って、浮田刑事が、ポケットから、それを取り出して署長に渡すと、署長は一目見て探偵に渡した。
それは名刺型の古びた写真で、財布の中によほど長く入れられていたと見え、表面はところどころかすれ、裏面は手垢で黒みがかっていた。
「確かに、これは死人が、茨木氏に見せたものであろうと思います。下げ髪の少女だということでしたから、これに間違いありません」
「ふむ」と署長は言った。
「して見ると、そのトランクを取りに行った男は、犯人だろうね?」
「犯人か、またはその相棒だろうと思います」
「実に大胆だねえ、トランクのような大きなものを持って歩けば至って知れ易いはずだ」
こう言って、浮田刑事に向かい
「どうだね、トランクの行き先を調べてみたかね?」
「調べてみましたが、わかりません。実は、こんなに遅くなったのも、その調べに時間を費やしていたからです。トランクを受け取った男は、人力車に乗ったそうですから、駅の車夫を調べてみましたが、どうやら、向こうから引っ張って来た車であるらしく、とにかく駅の車ではありませんでした」
「それじゃまたご苦労だが、君は、その方の捜査を受け持ってくれたまえ」
刑事がうなずいて去ると、柏探偵は言った。
「いや、どうも残念な事をしました。もっと早く、このことに気がつけばよかったのに、惜しい長蛇を逸しました。それにしても、色眼鏡や口髭は、恐らく変装していたものに違いありません。こうなってくると、夜叉王の嫌疑を容易に解くことはできないと思います」
「それはなぜかね?」と、署長は不可解だという顔付きをした。
「なぜって、それは単なる想像に過ぎませんけれど、変装といえば、まず俳優を思い浮かべます。 普通の人では、ちょっとした変装をするのにも容易ではありません」
「でも、その口髭は必ずしも付け髭とは限らず、色眼鏡をかけるくらいのことは誰にだってできることだ」
「そう言えばそうです」と、探偵は、静かに考えながら言った。
「しかし、夜叉王が今朝八時に質屋へ行き、それから停車場へ行ったと考えれば考えられんこともありません。また、夜叉王自身でなくとも、その相棒だったかも知れませんし、いずれにしても事件は複雑になってきました」
「そう疑ってくると、この写真だって、果たして、死人の持っていたのと同じものであるかどうかわからないな」
「そうです、しかし、それは海田商会の茨木氏に見てもらえばわかることです」
「だが、写真というものは、一枚きりとは限らず、同じものが、幾枚もあるはずだからねえ」
だんだん、懐疑的傾向が深められて行くにつれ、柏探偵は、何となく心が苛々してきた。が、その時、ある考えが閃めいたのである。
「もし仮に夜叉王の友人が、そのトランクを取りに行ったとすれば、その財布も、死人のそれではなく、その友人自身のかも知れません。して見ると、この写真の少女は、その友人の何かで、従って夜叉王もこの女を知っているかも知れません。どうでしょう。それとなくこの写真を見せて、彼が果たして知っているかどうかを試してみては?」
「ふむ、それは面白い考えだ」
こう言って署長は、別室に退かせてあった夜叉王を連れて来させた。
夜叉王は何かいい取り計らいでもしてくれたのかと、内心希望に満ちながら入って来たが、意外にも机の向こうに、署長しかつめらしい顔をして腰掛け、柏探偵が、こちら側に立って、自分の入ってくる姿をじろじろ眺めていたので、少なからず失望した。
「こっちへ来たまえ」
と言った柏探偵の声は、意外に優しかった。
「君は、今朝質屋へ行ってから、どこへ行ったね?」
「すぐ、うちへ帰りました」
「きっとそれに間違いないね?」
「間違いありません」
夜叉王はこう答えて眼を伏せたが、その時当然、彼の眼の前に置かれた写真が、その瞳孔を占めた。彼は恐ろしいものを見るように、首を伸ばして、それを眺めていたが、やがて、恐る恐る手に取りあげた。
署長と柏探偵は、思わず顔を見合わせた。
「君はその写真の少女を知っているか?」と、柏探偵は厳格な声で尋ねた。
「知っております」
「え? 知っている?」
「知っておりますとも、この写真は以前に見たことがあります」
「何?」
「よくご覧になれば、あなたにもわかるはずです」
「誰だ?」
「これは、 私たち一座の花形、玉川歌絵嬢の若い時の姿です」
悲しき奇遇
(一)
玉川歌絵嬢!
このみすぼらしい少女が、今、満都の人気を一人で集めているオペラ・コミック団の中心人物であろうとは!
腰かけていた署長は、思わず立ち上がった。
が、柏探偵の頭には二つの大きな疑問が渦を巻いた。
玉川歌絵嬢の写真を持っているとすれば、トランクを取りに行ったのは、やはり、オペラ・コミック団のものであって、従って、夜叉王は犯人としての有力な嫌疑者であろうか。
あるいはこの写真がやはり、死人東勝彦の持っていたもので、玉川歌絵嬢は、死人と何等かの関係があるであろうか。して見ると、東をカフェから引っ張り出した夕刊の所載事項は、やはり、オペラ・コミック団の広告にほかならなかったであろうか。
この二つの疑問を解くためには、どうしても玉川歌絵嬢に逢わねばならない。が、その前に、この写真について、なおよく確かめておかねばならない。
こう考えて、探偵は夜叉王に向かって尋ねた。
「だって、この写真は、いくらよく見ても、玉川嬢にはちっとも似てないじゃないか」
「それは無理もありません」と、夜叉王は、さっきの自分の返事が二人に激しい感動を与えたらしいことを不審に思いながら言った。
「先立って、玉川さんの部屋で、その昔の写真を見せてもらったときに、これと同じのがありました。その時、玉川さんはこれは女学校へ通った時の写真だが、もう一度この時分に戻ってみたいとしみじみした口調で言われたのでよく覚えております」
「玉川嬢の経歴を君は知っているか?」
「存じません。それは玉川さんがわざと言わないのです。第一、その本名をさえ知るものがありません」
柏探偵は迷った。いよいよ、これが玉川歌絵嬢であるとして、死人の所持していたものとすれば、死人は、この少女の名をさえ知らぬということであったから、オペラ・コミックの広告に書かれてある玉川歌絵の名が、死人の眼につくはずがない。なおまた、彼が過去の記憶の中からつかみ出したのは男の名だというから、彼をカフェから連れ出したものは、まったく別のものであるかも知れぬ。
こう考えて当惑していると、そこへ、給仕が小さい名刺を持って来て署長に渡し、
「この方がお目にかかりたいと言って来られました」と言った。
署長は名を読むなり、探偵の耳に囁いた。探偵の顔には喜色が浮かんだ。そして、夜叉王を別室に連れていき、再びひとりで引き返した。
やがて、給仕の案内で入って来たのは、ほかならぬ玉川歌絵嬢であった。
探偵が椅子を勧めると、彼女は優しく会釈して腰かけた。舞台で見るとは反対に、つつましやかな態度で彼女は話しかけた。比較的地味な光沢の、水色がかった洋服が、その漆黒の髪に、美しい調和を保っていた。しかしさすがに年は争われぬもの、舞台の上では十五、六の少女にもなり得るけれど三十前後を示す顔の小皺が、半生の苦労を語っているようであった。
「私ども一座の夜叉ちゃんが、さっきこちらへ引っ張られましたそうですから、今昼興行の済んだ暇にとりあえずお伺い致しました。あの人は、評判の親孝行の人ですし、決して悪いことをする人ではなく、もし何か間違いをしましたとしたら、それは、よくよくの事情があってのことと思いますから、そのことをお話しに参ったのでございます」
そこで署長は手短に事情を話した。すると玉川嬢は眼を丸くして言った。
「まあ、夜叉ちゃんとしたことが、それだけくらいのお金ならば、私にそう言ってくれれば何とか都合をしたものを、平素内気な人ですから、そういう気にもならず、ついそうした罪を犯したことと思います。それにしても殺人事件に関わり合わせたことは何という不幸なことでございましょう。けれどもあの人は人を殺すどころか、虫けら一匹殺すことさえできかねる人でございます」
柏探偵は静かに尋ねた。
「昨日、夜叉王のところへ誰か訪ねて来はしませんでしたか?」
「存じません」
「あなたのところへは?」
「誰もまいりませんでした」
柏探偵はさっきポケットの中へ引き込めた例の写真を取り出し、彼女に見せて言った。
「これに見覚えがありませんか?」
「まぁ」と玉川嬢は直ちに答えた。
「これは私の若い時分の写真でございます。どうしてこれをお持ちでございますか?」
探偵はつとめて冷静に言った。
「これをその死人が持っていたのです」
「え?」と、彼女は探偵の言葉を疑うかのような顔をして言った。
「これをその殺された人が? いったいその人は誰です? 何という名の人です?」
「東勝彦といいます」
「東?」
「ご存じありませんか?」
「知りませんねえ、聞いたこともございません」
探偵はしばらく躊躇していたが、やがてポケットから、死人の顔の写真を出して、玉川嬢に見せた。
「これがその人の死に顔です。見覚えはございませんか?」
彼女は少し眉をひそめてじっとその写真を眺めていたが、だんだんその顔に驚愕と恐怖の表情が浮かんできた。
探偵はそれを見逃さなかった。
「どうです、この人にお心当たりはありませんか?」
彼女はほっと太息をついた。
「どうも、死に顔ですから、よくはわかりませんが、どうやらこれは私の兄のようです。けれど・・・・・・・」
「え?」
「・・・・・・けれど、 兄はもう十年も前に死んだはずです」
こう言って、恐怖の色を漂わせながら、なおも熱心に写真を見続けた。
探偵は言った。
「それでは、もしやあなたの兄さんは、ピストルで撃たれて亡くなったのではありませんか?」
「ど、どうして、それをご存じですか?」と、彼女は口を半ば開いて探偵の顔を見上げた。
「やっぱり、そうでしたか。兄さんはその時不思議にも命が助かったのです。そして昨夜何者かのために殺されなさったのです」
あまりに意外な言葉に彼女はしばらく物を言うことができなかった。探偵は言った。
もしお嫌でなかったら、死体を直接ご覧くださいませんか。そして兄さんかどうかを確かめてくださいませんか?」
「拝見します」
こうきっぱり言って玉川嬢は立ち上がったので、探偵は署長に黙礼して彼女を死体の置かれてある部屋に案内した。
五分ほど経ってから、二人は再び署長の前に戻った。玉川嬢の眼は赤くなっていた。
「どうでした?」と、署長は優しく尋ねた。
「たしかに兄に相違ございません。今日まで十年間、私は兄が死んだものと思っておりました。兄からは無論、便りがありませんでしたし、ピストルを頭に撃ち込まれたのですから生きているはずはないと思っておりました。兄はきっと私を訪ねて来たのに相違ありません。生きておったのならひと目、逢いたかったです。たとえ死んだと思っていても、こうして死骸を見ては、今更ながら悲しくてなりません」
こう言って彼女は淡紅色のハンカチを眼に当て、涙を拭ってから更に続けた。
「それにしてもいったいどうして兄が甦ったのでしょうか、これまで兄はどこにいましたか? いつ名古屋へ来ましたか?」
そこで探偵は死体が発見されてから今に至るまで、捜査の要項を残らず物語り、最後に言った。
「こういう訳で、我々は今初めて、あなたの証言によって死者の身許を確定したのです。けれど犯人については、まだ確かな手掛かりを得ておりません。どうか兄さんがピストルで撃たれなさった時のことをお話しください。それによって、犯人の目星がつくかも知れませんから」
「申し上げましょう」こう言って彼女は腕時計を見た。
「夜の興行まで、もう間もないことですから簡単にお話し致します。私は今日まで、誰にも私の過去を話しませんでした。話す必要もなし、話せばかえって不快の念を増しますから、私の本名さえも告げたことはありません。
私たちは、この名古屋で生まれたのでございます。私が女学校へ入った頃、すなわちその写真を撮った頃は、極めて幸福に暮らしました。ところが父は商売に失敗し、間もなく父も母も亡くなりまして、私は兄と二人、不幸のどん底に突き落とされました。それから私と兄とがどんなに苦労してどういう生活をしたかは申し上げたくありません。とにかく、私たちは、今から十五、六年前に朝鮮の釜山で、和洋料理店を営むことになりました。兄も私も何とかして家運を再興したいものだと、一生懸命に働きましたので数年のうちに、相当のお金を貯めて一時は幸福だったのでございます。ところが、その幸福はいつまでも続きませんでした。その頃の釜山は非常に殺伐でして、強盗団、誘拐団が横行しておりましたが、ある夜私たちもそれに襲われ、兄はピストルで頭を撃たれて倒れ、私は誘拐されてしまいました。それから私は、それこそ言葉に尽くされぬ浮き目を見ましたが、不思議にも身をまっとうして故国へ帰ることができました。その間の波乱重畳だった私の経験はまったく小説的でございますが、兄とは、その時に別れたきりで、無論、目の前に兄の倒れる姿を見た私は、兄が死んだものと思っておりました。これがどうして生き返ったのか、また、いつフィリッピンへ行ったのかは、想像もつきません。東という名は無論本名ではなく、私たちの姓は水野で、兄の名は義男、私の名は蝶子と申します」
探偵は熱心に聞いていたが、やはり、犯人の手掛かりをつかみ出すことはできなかった。彼は言った。
「あなた達を襲った暴力団の連中は何と言いましたか?」
「無論、私は存じません。私を誘拐した人々に聞いても本当のことは教えてくれませんでした」
「兄さんは、過去の記憶の中からたったひとつ、ある男の名を思い浮かべられたそうですが、それについて何か心当たりはありませんか?」
玉川嬢はじっと考えたが無論思いつけなかった。
「無理もありません」と探偵は言った。
「しかし、兄さんは、あなたのために、お土産として高価な首飾りを持って来られました。記憶は無くなっても、魂は物事を決して忘れぬものと見えます」
「本当に兄の心がいじらしゅうございます。兄が神戸へ上陸して、すぐ名古屋へ来る気になったのも、やはり魂が生地を忘れなかったからであろうと思います」
こう言って、彼女は軽くハンカチで眼をこすった。そして更に付言した。
「もう時間が迫っておりますから、私はこれでちょっと失礼致します。夜叉ちゃんのこととばかり思って来ましたのに、意外にも、私自身に関係したことなので、私はすっかり心が乱れてしまいました。お葬式のことや何かで、どうせ度々お伺いしなければならぬと思いますが、ご用がありましたら、いつでもすぐまいります。どうか犯人を見つけてくだすって、兄の魂を安めてやってくださいませ。それから、夜叉ちゃんのことも、くれぐれもよろしくお願い致します」
玉川歌絵嬢が去ると、柏探偵は言った。
「誠に世間は狭いものです。それにしても、死人が名古屋新聞夕刊で見たのは何でしたでしょうか? また死人が過去の記憶から得たという名は何でしょうか?」
「わからんねえ」と、署長が言った。
「それがわかれば、きっと犯人もわかるだろう。ことによると、イタリア丸の中で懇意になった大阪の人はそれを知っているかも知れん。現に茨木氏にも話したというから、その人にも話しているかも知れん。返す返すも残念なことは、茨木氏がそれを忘れてしまったことだ」
その時ひとりの警官が入って来た。
「署長、只今神戸の警察から、名古屋の警察へ搜索依頼がまいりました」
神戸と聞いて、署長も柏探偵も緊張した。
「何だ?」と、署長は言った。
「東勝彦というフィリッピンから来た男が名古屋へ行ったはずだから、見つかったら、保護しておいて欲しい、通知あり次第ある男が迎えに行くからとの事です」
署長と探偵とはまたもや顔を見合わせた。
「それじゃすぐ東は殺されたから、その男に出頭してくれるよう、電話で神戸警察へ通知してくれたまえ」
警官が去ると、探偵は言った。
「その男というのは、きっと東が船中で懇意になった男だろうと思います」
「そうだろう。その男が来れば事件は多分解決するだろう」
と、署長は晴れやかな顔で言った。
(二)
神戸からの男は翌朝早く門前署に出頭した。それは三十五、六の、杉浦豊という大阪の金持ちの貝類蒐集家であって、南洋諸島へ蒐集に行った帰りがけに、ふと、船中で東勝彦と一緒になったのであるが、東の経歴に同情し、幸い自分は一定の職業を持っている訳でないから、東と一緒に日本中を歩き、東の捜索を手伝い方々旅行しようと思ったのだと語った。
それから杉浦氏は東から聞いた身の上話を語ったが、それは東が、茨木氏に語ったものと大差なかった。そして、東が神戸へ上陸した前後の事情について次のように述べた。
「船が神戸へ着きますなり、私たちはひとまず、海岸の港屋という旅館に落ち着きました。それから税関へ出頭しますと、東さんの荷物はすぐ通過しましたが、私は真珠貝やら、色々の真珠を蒐集してきましたので、検査がかなりに手間取り、およそ二時間もかかりました。私は気がかりでしたが、記憶を失った人であるから、単独行動はとるまいと思って、港屋に帰ってみますと、意外にも東さんは荷物を携えて停車場へ行ったとの事でした。はッと思って、停車場へ行って尋ね合わせると幸いに名古屋までの切符を買ったということがわかりましたので、すぐさま、警察へ出頭して東さんの保護をお願いしたのです。
ところが、 東さんが殺されなさったと聞いた時は、まったく夢ではないかと思いました。まことにお気の毒なことになってしまいました」
署長と柏探偵とは、蒐集家の語るのを熱心に聞いていた。柏探偵は、税関の話が出た時、さては東が真珠の首飾りを麦わら帽子の中に隠したのも、ひとつには税関をうまく通過する手段であったかも知れぬと思ってちょっとくすぐったい気持ちになった。
杉浦氏が語り終わるなり、探偵は言った。
「死人が思い出したという男の名を、あなたは一度でもお聞きになったことがありますか?」
「確かに聞きました。けれども、すぐ忘れてしまいました。どうせ東さんと一緒に内地を旅行するつもりでしたから、いつでも聞けると思って、しっかり注意もせねば、また手帳にも書き留めてもおかなかったのでございます。けれども、実は、私は、東さんの、いわば遺言状というべきものを預かっているのでございます。ことによるとその中に、その名が書かれているかも知れません」
こう言って杉浦氏は風呂敷を解いて、中から白い封筒に入れられた書状を取り出した。そして探偵に渡して言った。
「これは、船が神戸へ着く前夜、東さんがしたためたものです。この通り、イタリア丸の封筒が使ってあります。東さんは日本に近づくに従って幾分かセンチメンタルになっておりました。だからこれを書いたのだろうと思います。もっとも、私はまだ、中にどんなことが書いてあるか存じませんが、私にこれを渡すとき、東さんは寂しそうに笑って言いました。自分はいつ何時、どんな運命に逢って死ぬかも知れない。ダバオを出るときは喜び勇んで出たが、だんだん日本へ近づくに従って一種の不安が起こって来た。そして日本へ上がるのが何だか怖いような気もする。で、自分は自分の心持ちをこの中に書いておいた。それはもうすでにお話ししたことに過ぎぬが、もし自分が不慮の災難にでも逢ったら、この封筒を開けてください。こう言って、私に託されたのであります。今になってみれば、東さんの魂は自分の運命を感知していたのかも知れません。こうなれば約束通りこの封筒を開いてもよいと思います。どうか封を切ってお読みください」
探偵は震える手をもって封を切り、中から数枚のレター・ペーパーを取り出した。そこにはやはりイタリア丸のマークが付いていた・・・・・・。
自分は二、三日何となく一種の不安を覚えている。それが何のためであるかを自分は知らない。けれどもその不安のために、自分は今この一文を書くのである。
自分は過去の記憶を完全に失ってしまった。どうして失ったのか、自分ではわからない、天候の変わり目に後頭部の傷痕が痛むから、それが自分の記憶を失った原因であるかも知れない。日本語を語り日本語を書く能力が存しているから、自分が日本人であることは疑いない。けれども自分は日本で生まれたかどうかを知らない。自分に記憶が生じたのは、フィリッピンのダバオに居る時からである。自分は両親の名を知らない。兄弟姉妹の有無を知らない。だから自分は勝手に東勝彦という名をつけたのである。
ある日自分は自分の衣服の中に一葉の写真を発見した。どうしてそれが衣服の中にあったかを自分は知らない。しかし自分には写真の中の少女が自分の過去の生活と関係があるものと思えてならない。だから自分はその写真を自分の過去の唯一の記念として大切に保存したのである。もとよりその女が何であるか、また果たして生きているかどうかを自分は知らない。けれども自分はその女を自分の最も親しいものとして愛した。そして、この女に何とかして逢いたいものだと思った。
自分は折ある事に、自分の過去を思い出そうと努力した。けれども人間の記憶というものは意地の悪いものである。もう少しで思い出せそうなところへくると、すっと逃げてしまう。記憶を失ったものの世界は、到底健実な人には理解されないと思う。
あの月のいい晩、自分が経営し、今は他人の所有となっている椰子園を逍遥した。自分は腕を組んでいつものごとく過去の記憶を呼び起こそうと努力した。いつの間にか黒雲が天を覆っているのを自分は知らなかった。激しい雷雨が襲ってきた。驚いて自分は番小屋へ駆け込んだが、その時恐ろしい落雷があって自分は人事不省に陥った。
気がついて見ると空は晴れていた。ところが、その時、自分の記憶の中にひとつの男の名が浮かび上がっていることに気づいた。それは自分がこれまで経験しなかった名である。だから、恐らく自分の過去の生活と密接の関係を持っているものでなくてならない。
それ以来自分はその男の名について考えた。けれども、意地の悪い記憶はそれ以上の何物をも自分に与えてくれない。その男が日本人であることはその名でわかる。けれどもそれが自分の味方であるか、または敵であるかを知らない。あるいはそれが両親のつけてくれた自分自身の名であるかも知れない。とにかく、その名が浮かんでから、自分は日本へ帰りたくなった。何となれば、もしその名の男を訪ね当てたならば、恐らく自分の過去の記憶を完全に取り戻すことができると思ったからである。
それ以来自分は日本へ帰る用意をした。そして自分が真珠商をはじめて以来選んでおいた真珠で首飾りを作り、間もなく残りの財産を金に換えて便船を待った。その首飾りを自分は自分の愛する女に捧げるつもりである。
船に乗った当初、自分は何となく楽しかった。けれどもだんだん日本へ近づくにつれて自分の心は一種の暗さに覆われた。それが何のためであるかを知らない。あるいはそれが自分の訪ねようとする男の名のせいかも知れない。ことによると、日本では、悲運が自分を待っているかも知れない。だから自分はこの一文をしたためたのである。
自分は記憶を失ったひとりぼっちである。だから自分が死んだとて、誰も何の痛痒も感じない。ただ自分の愛する少女に自分の意志を伝えたいためにこれを書くのだ。そして、多分、自分の記憶に浮かんだ名の男は、自分の過去をその少女に語ってくれるであろう。
で自分は最後に、自分の過去から選び出されたその名を記しておく。
ここまで音読して来た探偵は、ちょうどその次の頁に書かれてある名を見るなり、
「あッ」と大声で叫んだ。
「どうした君、何という名だ?」と署長は息巻いた。
探偵は署長の傍へ行き、震える手をもって、黙ってレター・ペーパーを示した。そこには太いペンで、
久呂木重三
と書かれてあった。
「これは誰だ?」と、署長。
「ああ、どうして今まで気が付かなかったんでしょう。これこそ、死体の発見された時、最初にそれを検査した偕楽町の久呂木医師です!!」
(三)
それからの柏探偵の緊張ぶりは読者諸君にもお分かりのことと思う。彼は杉浦氏に別室に退いてもらい、直ちに一昨日の名古屋新聞の夕刊を取り寄せた。
見ると、第二面の下のところに、
花柳病科 久呂木重三
という広告が出て、その傍に住所が書かれてあった。
「死人がカフェで見たのはこの名です。今はもう疑う余地がありません。死人は久呂木を訪ね久呂木に殺されたに違いありません。久呂木が、死人と道化役者とが雨中で格闘していたと証言したのは、自分の罪を隠すためだったのです。彼は多分道化役者が死体を見つけたところを窓の中から覗いていたのでしょう。そして、そういう嘘を思いついたのでしょう。この医師の証言のために我々は迷わされていたのです。それが今になってみればかえって、医師の罪状を示す証拠となりました。何の理由で久呂木が殺人を行ったかはわかりませんが、これで、死人のスーツ・ケースが無くなったことや、ポケットが空になっていたことがわかります。彼は殺してからそれ等のものを奪い、雨に乗じて死体を街へ捨てたに違いありません。停車場へトランクを取りに行ったのも、恐らく久呂木自身でしょう。彼はきっと口髭を生やしていると思います。いずれにしても、これから久呂木を逮捕して来なければなりません。どうか至急その手続きをして下さい」
署長がうなずいて立ち上がろうとすると、その時、先夜、最初に死体を発見した宇津保巡査が、汗を拭きながら興奮して入ってきた。
「どうした君?」と署長は言った。
「おかしいことがあるのです。あの死骸の落ちていた傍の久呂木医師とその向かい側のお素女婆さんが、どちらも引っ越したらしいです。何でもお素女婆さんは今朝トランクを荷車で運び出したそうです」
「とうとう、逃げられたか」と、探偵はくやしがった。
「それにお素女婆さんまでが関係していたのか。で、久呂木医師とお素女婆さんの行方を調べてくれたろうか?」
「お医者の方はわからないが、お素女婆さんの行った先は荷車屋に聞いた。京町二丁目十二番地の谷口という薬屋だそうだ」
「よし」
こう言って、探偵は署長に別れを告げ、自動車を走らせて、京町の薬屋へ来た。
すると薬屋にはお素女婆さんが店に座り込み、土間にはトランクが置いてあって、婆さんは、探偵の顔を見ても別に逃げはしなかった。
「おい婆さん引っ越ししたそうだな」と探偵は言った。
「いいえ、違います、表の戸を立てて来ましたから、そう思われたのでしょう」
「お前、いったいここへ何しに来たのだ?」
「久呂木先生のお使いに来ただけです」
「え、何?」
「ゆうべ久呂木先生がこのトランクを持ってみえて、用事ができたから今夜は他所へ行くが、これを明日の朝、谷口さんのところへ運んでくれ、先方では不審に思うかも知れぬが、九時までにわしが行って理由を話すから、わしの行くまで待っていてくれということでした。もうかれこれ十一時ですのにまだ久呂木先生はみえませんから、さっきから不思議に思っているところでございます」
その時、奥から五十あまりの主人が出て来たので探偵は急き込んで尋ねた。
「久呂木さんとあなたとはどういう関係がありますか?」
主人は怪訝そうな顔をして言った。
「ずっと以前に薬の注文を受けたことが二、三度ありましたが、ここ一年ばかり出入りをしたことがございません。さっきこの方がトランクを持ってみえましたが、さっぱり理由がわからんので、変なことだと言っていたのでございます」
柏探偵は「さては!」と心の中で叫んで、お素女婆さんに、搜索の都合上トランクを開けねばならぬことを告げ、主人に道具を借りて土間にあったトランクの錠を破った。
開いて見ると、案のごとく、中には、古雑誌や新聞が、ごしゃごしゃ詰めてあるだけであった。
「こちらを迷わせておいて、その間に逃げるつもりなんだ。恐らく昨夜逃げ出したのであろう。いやどうも、どこまでも狡猾な犯人だ」
こうつぶやいて、探偵は薬屋の主人とお素女婆さんに事情を話し、待たせてあった自動車に乗って本署に帰った。
署長は探偵の顔を見るなり、
「どうだった?」と尋ねた。
「残念です。これからすぐ全国の警察へ通知して、逮捕の手続きをして下さい!」
こう言って探偵は投げるように椅子に腰かけ、眼を閉じて腕をこまねいた。
× × × ×
さて読者諸君。
これから順序として、東勝彦殺害犯人嫌疑者たる久呂木重三追跡の顛末を述べねばならぬが、それを書くだけでも、今まで書いたと同じ分量の紙数を費やさねばならぬから、ここにはただ久呂木重三が、一週間の後、関釜連絡船上で官憲の手に首尾よく逮捕され、名古屋へ護送されたことだけを報告するに留めるのである。
久呂木重三は、果たして、東勝彦すなわち本名水野義男を殺した犯人であったのである。
彼は水野がかつて釜山で料理店を営んでいた時、同じく釜山で開業していたが、水野がピストルで撃たれた時、人々は水野を彼のところへかつぎ込み、彼は応急の手当を施した。すると幸いにも水野はいったん意識を回復し、彼に大いに感謝したが、三週間の後、突然記憶を失ったので、彼は急に悪心を起こし、水野を突っ放して、水野の持っていた財産を横領し、名古屋へ来て、何食わぬ顔をして開業していたのである。
水野がその後どうしたかは彼自身も知らなかった。そして多分水野も人夫誘拐団に誘拐されてフィリッピンへ行ったものだろうと想像した。
かの大雷雨のあった日、彼が夕食を済まして夕刊を読んでいると、意外にも水野義男が訪ねて来たので、転倒せんばかりに驚いた。初め水野は怪訝そうな顔をして久呂木を眺めていたが、そのうちに、
「あぁ、記憶が戻った記憶が戻った!」
と、大声に叫び出し、靴のまま上がって、彼に抱きつき、狂気のように踊り狂った。
久呂木はてっきり、水野がかつての悪事を知って訪ねて来たと思ったものだから、突きのけて追い出そうとすると、何を思ったか水野は喧嘩腰で彼に飛びついてきた。多分それはカフェで飲んだブランデーのせいだったかも知れない、とにかくそこに恐ろしい格闘が始まって、遂に久呂木は水野を手近にあった麻紐をもって絞殺したのである。
犯罪性を持ったものが大きい罪を犯すと、一層大胆になるのが常である。彼は毒食わば皿までのつもりになって、死人のポケットをさらい、死体の処置について考えていると、都合よくも、あの大雷雨が起こったので、通行人の無いのを幸いに、死体をかついで、五、六丁先の街の上へ捨ててこようと思ったのである。
ところが家を出て半丁ほど行くと、恐ろしい落雷があって、そのため思わず死体を取り落とした。するともう拾い上げる勇気が無くなったので、そのまま家へ走り帰ったのであるが、雨が止んで、ブラインドの陰から、秘かに街を覗いて見ると、意外にも半丁先にあったはずの死体が、豪雨に押し流されたと見え自分の家の前に転がっていた。これにはさすがの彼もぎょッとしたが、その時ひとりの奇妙な服装をした人間が死体を発見していじりにかかり、やがて驚いて逃げて行った。それから間もなく巡査が来て、次いで、お素女婆さんに呼ばれたので、急いで寝間着に着換えて寝ていた風を装って出て行き、それから偽りの証言を行ったのである。
そのあくる日彼は大胆にも色眼鏡をかけて停車場へトランクを取りに行き、更にお素女婆さんを操って警察を迷わせ、その間に悠々と朝鮮へ落ちのびようと企てたのである。以上が彼の自白の要点であった。
読者諸君!
これで、作者は本殺人事件の顛末を記し終わった。ただ最後に書き加えておきたいことは、道化役者夜叉王が、極めて同情ある処分を受けたことと、真珠の首飾りが玉川歌絵嬢の手に渡ったことと、この事件によって、オペラ・コミック団が、いよいよますます素晴らしい人気を得たこととである。