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更新日:2021年10月30日公開 印刷ページ表示

酩酊紳士(昭和3年発表)

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(一)

 

それはかなり霧の深い、晩秋のある夜更けのことでした。

鶴舞公園前の駐在所を出た亀田巡査は、いつもの通り、巡回を行うべく、鉄橋の下をくぐって、公園の中へ入りました。午前一時半に出発して公園を通り抜け、御器所町の一角を歩いて、動物園の裏の道を経て帰ってくるのが習慣で、近頃は、あまり事故も起きないため、帰りの時間もほぼ一定し、午前三時前後には、駐在所の椅子にどさりと腰を下ろして、ほッと一息つくのでした。

巡査になってから約三十年、その三十年を一日の如く暮らして、さしたる手柄もなければ、またさしたる過失もなく、今はもう頭の毛が真っ白になって、考えれば、自分ながら、よくもまあ、この単調な生活に甘んじて来たものだと不審がらざるを得ませんでした。とはいえ、今更、新しい職業に就くことも出来ず、いわば情性で暮らしているわけですが、だんだん顔の皺が増えるにつれ、もういい加減に足を洗いたいものだという気が起こって来ました。ことに最近、持病の関節リウマチが重くなって、これから冬になるに従ってだんだん激しくなるかと思うと、一層嫌気がさすのでありました。

とりわけ、ここ二、三日は下の子供が二人とも麻疹に罹り、小さい方が医師から、肺炎になるかも知れぬと言われたので、今夜は同僚に代って巡回をしてもらおうと思ったのですが、あいにく、その同僚の都合が悪く、やむなく勤務に出たので、その心はかなりに暗く重たいものでありました。

しかも、その亀田巡査の暗く重たい心を、一層暗くし重たくするように、今夜は常になく深い霧が名古屋全市に覆いかかりました。公園前の広告塔の、赤や紫の電燈が霧のためにぼやけて、何となく涙ぐんだように、いわば不幸を暗示するように輝き、その上節々の痛みさえ増したように感じられたので、内心では、年甲斐もなく大声で泣きたいような気になって、今はもう全く人通りの絶えた公園の植込みの間を、とぼとぼと歩いて行くのでありました。

夏ですと木陰の暗闇の間に、夜更けにかかわらず、男女のささやきを聞くことが度々ありました。若い巡査たちは、そうした男女の一対を追い払うことに興味を持ちましたが、亀田巡査は見て見ぬふりをして通ることが多かったのです。それは年のせいで言わば、面倒くさいと思うためであるかも知れません。あるいは、そんな小さなことをやかましく言ったとて、風紀の改良は出来るものでないと感じているのかも知れません。とにかく、なるべく当たらず触らずにしておくのが亀田巡査の主義でありました。けれども、そうした主義の人に天が与するとでも言いますか、亀田巡査の巡回する夜には、これまで一度もこれという大きな事件はなかったのでした。ところが、今夜計らずも、亀田巡査は、その一生涯に一度の事件に際会する運命に置かれたのでありまして、これから述べようとするのが、その事件の顛末であります。

で、話は前に戻って、亀田巡査が、公園の植込みの間の道を通るところから始まります。今申しましたように夏の夜でさえ、植込みの中は見て見ぬような振りをして通るくらいですから、今夜は、言わば脇目もふらずに首を垂れて歩いて行くのでした。ことに霧のために、付近はすっかりぼやけておりましたから、下を見て歩く必要もあった訳ですが、やはりその心を占領したものは麻疹に罹っている二人の子供の容態でした。「肺炎になったら、ことによると命が危ないかも知れん。それより病院へでも入れなければならんとすると、その費用をどうしたものだろう」

こんなことを考えて、進むともなく進んで行くうちに、やがて噴水のそばを通り過ぎ、とある広場のほとりに出ました。

その時、前方に、ふと人の話声がしましたので亀田巡査は、はッと物思いから覚めました。

「今どき、あんなに、大声に話しているのは誰だろう」

などと心で問いながら、別に立ちどまって様子を伺うでもなく、そのまま歩いて行きますと、やがて霧の中からベンチが現れ、そのベンチに二人の紳士が腰かけている姿が、ぼかしたように亀田巡査の網膜に映じました。

 

(二)

 

ベンチに腰かけている二人の洋服姿の紳士を、夜霧のヴェールを透かして見たとき、亀田巡査は、さすがに職業意識を働かせて一瞬わが子の麻疹のことも、関節リウマチのこともすっかり忘れ、とある木陰に立ちどまりながら二人の紳士の会話に耳を傾けました。

「おい本田しっかりしてくれよ、さあ、もう一息だ。歩こう、步こう」

と、一人の紳士が言いました。

「ああ酔った、酔った」と、もう一人の紳士は、もつれ舌で答えました。「そう急ぐなよ、山川。夜道に日は暮れぬと言うじゃないか」

「僕は二時半までに引き返さなければならんのだ」と、山川と呼ばれた紳士は、腕時計を見て、いらいらした口調で言いました。「もう一時半過ぎだ、これから君を送り届けてすぐ引き返しても、間に合うか合わないかだ。さあ、本田、歩こうよ」

こう言って山川という紳士が立ち上ると、酩酊した紳士はふらふらと相手の方によろけかかり、抱きつくように、身を投げかけました。

「まあ、そう言うなよ。そんなに急ぐなら、僕は一人で帰るから、君は引き返してくれ、ああ酔った、酔った」

本田という紳士は再びベンチの上にどさりと腰を下しました。

亀田巡査は先刻から、本田という名と、その声を聞いて、どうやら、酩酊した紳士が、御器所町に住む本田義郎という独身の会社員であるらしいことを悟りました。ちょうど本田氏の家は自分の巡回区域にあるし、これまで度々言葉を交したこともあるから、本来ならば山川という紳士に代って、自分が本田氏をその家に送り届けてやるべきであるけれど、どうしても、今夜はその気になれなかったのであります。で、亀田巡査はひそかに道を転じて、言わば見て見ぬふりをして歩き続けました。もしそのとき、亀田巡査の心が朗らかであって、本田氏をその家まで護衛すべく、そのベンチに近づいたならば、これから起こる事件を、少なくとも、もっと簡単なものにすることが出来たであろうと思います。

「山川という紳士は、あのように急いでいたから、あのまま本田氏をベンチに残して去ったのではあるまいか。本田氏は確かに泥酔していた様子であるから、もしベンチの上で眠りでもしたら、それこそ風邪でもひいて肺炎になるかも知れない」

わが子が肺炎になりそうだったので、自然に肺炎を連想したのですが、こう考えると、何だか本田氏に対して、すまぬことをしたように思われました。で、亀田巡査は、いっそのことベンチのところへ引き返そうかと思いましたが、その時急に膝関節に痛みを覚えたので、思い直して歩き続けました。

御器所町の一角に入って、本田氏の家の前まで来たとき、亀田巡査は、再び後悔の念に襲われました。どうせここを通るくらいだったら、本田氏を連れて来てやってもよかったのだ。こう思うと、何か悪いことでもしたように感じられました。本田氏の家には、今たしか、その弟さんと女中とが本田氏の帰宅を待っているはずだ。だから、本田氏が泥酔して公園のベンチにいたことを告げて、弟さんを迎えにやるのが、せめてもの心遣いであらねばならない。こう考えて、つかつかと入口の方へ歩きましたが、

「待てよ。いまここで弟さんに告げるくらいの親切があったら、なぜ、一緒に連れて来てくれなかったと言われても、弁解の辞はないではないか」

こう考えると、亀田巡査は再び躊躇せざるを得ませんでした。そして、我ながら、自分の心に呆れて、本田氏の家の前を素通りしてしまいました。

それから、亀田巡査がいつもの通りの逆を通って、公園前の派出所に帰ったのは、午前三時少し過ぎでありました。出がけに埋めて置いた炭火が、消えかけの小さな玉になっていたので、かなりの時間を費やして、やっと威勢のよい炭火を作ったのは、四時に間近い頃でした。

と、そのとき、一人の男が、あわただしく駆けつけて来ました。見ればそれは、本田氏の弟さんです。

「亀田さん、大変です。たった今兄が、家の前で殺されました!」

と、本田氏の弟さんは、息を切らせて叫びました。

 

(三)

 

 本田氏の弟さんから、本田氏が殺されたと聞いたとき、亀田巡査はあたかも椅子から弾き上げられたかのようにその場に直立しました。つい今しがた、公園のベンチで酒のためにもつれた舌を使っていたあの本田氏が、事もあろうに殺されようなどとは、どうしても信じられなかったのです。

「それは本当ですか」

亀田巡査は相手の顔を、穴のあくほど見つめながら尋ねました。

「本当です。早く来て下さい。死体はまだそのままにしてあります」

「どこで殺されなさったのです」

「たった今、家の前で殺されたのです。私と女中とは、兄の帰りを二時半まで待っていましたが、それでも帰らないので、今夜はよそに泊まって来るかも知れぬと思って寝床に入りました。うとうとしたかと思うと、私は戸外に起こった悲鳴のような物音に眼を覚ましました。はッと思って耳をすますと、こんどは「人殺しい」という声がはっきり聞こえました。私は恐ろしさに全身が震えたので、一度は布団をすっぽり被りましたが、もしや兄ではなかったかという考えが閃くと、その瞬間、急に私は大胆になって、むっくり起き上りました。机の上の、置時計を見ると三時二十分でした。それから私が寝巻の上に羽織を着て入口の戸を開けると、驚いたことに、つい鼻の先に、一人の洋服を着た男が倒れていました。私はすぐにそれが兄であることを知り、抱き起こすと、兄は首にかたく手ぬぐいを巻かれて死んでおりました。私は大声で兄の名を呼びましたが、兄は既に絶息して、再び目を開きませんでした。そこで私は女中を起こし、お隣の人々を起こして、兄の死体の番をしてもらい、とりあえず、ここへ駆けつけて来たのです。どうぞ、亀田さん、すぐ一緒に来て調べて下さい。兄は誰かに殺されたのです。早く犯人を見つけて、兄の仇を取って下さい」

本田氏の弟はこう一息に喋って亀田巡査を促しました。亀田巡査は、いまだかつて直接自分の巡回先で殺人事件が起きた経験がないので、内心大いに狼狽しましたが、さすがに三十年間警察に勤めただけあって、かかる場合の第一手続きとして、本署へ急報することを忘れませんでした。

電話で、捜査主任の出張を請うた亀田巡査は、やがて、本田氏の弟と、やや薄らいだ霧の中を現場に向かって急ぎました。

歩きながら亀田巡査は、再び例のベンチの光景を思い浮べました。あの時、本田氏は山川という紳士と一緒いたのであるから、ことによると本田氏はあの山川氏のために殺されたのではあるまいか。確か、あの時、山川氏は二時半までに引き返さねばならんと言っていたが、本田氏が泥酔していたので、致し方なく、本田氏の歩き出すのを待って本田氏をその家の前まで伴って来て、そして・・・・・・。

そして山川氏が殺した・・・・・・とは、ちょっと常識では考えられぬことである。何もわざわざ、本田氏をその家の前まで連れて来て殺さなくとも、もし殺すつもりがあるならば、公園の木陰で殺した方がはるかに安全なはずである・・・・・・。

「今晩、本田さんはどこへ行かれたのですか」

亀田巡査は歩きながら本田氏の弟に尋ねました。

「兄は同じ会社に勤めている向井という人の送別会に行ったのです」

「その送別会はどこで開かれましたか」

「金楽亭です」

「本田さんの友人に山川という人がありますか」

この言葉を聞くなり、本田氏の弟は突然立ちどまりました。

「どうしてそれを御承知ですか」

「実はさっき、私が公園を巡回すると、本田さんは、すっかり酩酊して、山川という人に、ベンチに腰かけて介抱されておられたのです」

「ええ? すると兄はあの山川に送られて来たのですか?」

その声がいかにも調子はずれて大きかったので、亀田巡査は、あきれたように、黙って相手の顔を見つめました。

「それじゃ、兄は山川に殺されたのです。さあ、亀田さん、大急ぎで死体を調べて、すぐ山川逮捕の手続きをしてください」

こう言って、本田氏の弟は、亀田巡査を引っ張るようにして、わが家の方に小走りに歩き出しました。

 

(四)

 

本田氏の弟の言葉によって、亀田巡査はさては、本田氏と山川氏との間に何か複雑な事情があるなと思いましたが、それを聞くひまもなく、本田氏の家の前まで来てしまいました。

とその時、後方に自動車の音が聞こえたかと思うと、やはりそこで止まって、中から捜査主任の鳥野刑事と、警察医とが現れました。鳥野刑事はまだ四十に一つ二つ足らぬ年齢ですけれど、腕利きの探偵としてその名は市中に響き渡っております。

烏野探偵はまず、亀田巡査と本田氏の弟とから、本田氏が殺される前後の事情を聞きました。亀田巡査は公園のベンチにおける本田氏と山川氏との対話を、本田氏の弟は、「人殺しい」と本田氏が叫んで殺されてから死体を発見したまでのことを語りました。そして弟は最後に兄を殺したのは山川に違いないと言いました。

「それはなぜですか」と鳥野刑事は鋭く尋ねました。そして、警察医に向かって死体検査を行うよう目くばせしました。

「山川は兄に借金があるのです。もっとも、借金と言えば、兄から借金しているのは山川ばかりでなく、同じ会社に出ている津村という男もそうでして、津村の方が、金額は遥かに山川よりも多いのですけれど、兄は何でも山川のある弱点を知っていたらしいのです。それが何であるかを兄は私に申しませんでしたけれど、いつだったか酒に酔った拍子に、ふと俺は山川に殺されるかも知れんと言ったことがありました。もとより私は冗談だと思っておりましたが、今こうして殺されたところを見ると、兄の言ったことは本当だったのです。しかも兄は今夜、山川と一緒に公園のベンチに酩酊して話をしていたと言うのですから、兄を殺したのは山川よりほかにないと思います」

「そうですか」と、鳥野探偵はうなずきました。「それでは、山川という人の今夜の行動を探ることに致しましよう。が、それよりも先にこの現場を精密に取り調べねばなりません」こう言って懐中電燈で検死しつつある警察医に向かい、「どうです、死因はわかりましたか」

「死因は絞殺です。絞殺に用いられたのは、金楽亭の手ぬぐいです」

「金楽亭とは、あの料理屋の?」と鳥野刑事は尋ねました。

すると、本田氏の弟が口を出しました。「そうです。その晩金楽亭で、同じ社の向井という人の送別会をやったのです。山川も一緒にいたのですから、金楽亭の手拭いを用いたのは当然のことです」

鳥野刑事はしかしながらじっと考えましたが、何も言いませんでした。そして更に警察医に向かって尋ねました。

「死後どれだけの時間を経ておりますか」

「さあ、それはよくわかりません。探偵小説などには、死後の時間がはっきりわかるように書いてありますけれど、決して正確な時間はわかるものでありません」

するとまた、本田氏の弟が口を出しました。「しかし、兄が『人殺しい』と言ったのは、三時二十分少し前ですから、それで正確な死後の時間はわかるではありませんか」

「それはそうですけれど、死体を検査して、それで死後の時間を知った方が、探偵にとっては参考になるのです。あなたは兄上が「人殺しい」と言われたとおっしゃるけれど、その場で見ておられたわけでないから、必ずしもそうだと断言出来ないだろうと思います。・・・・・・時にその「人殺しい」という声は確かに兄上の声でしたか」

「さあ」と、弟もこの質問には少し面喰らいました。「そうおっしゃれば、はっきりしたことは言えません。けれど、まさか、犯人が言うわけはありませんから、やっぱり兄が叫んだとしか考えられません」

「いかにも、あなたのおっしゃるのは常識的な判断で、それに違いはないかも知れませんが、私たちのような職業をもっているものは常識を働かせる前にまず事実の如何を探り出さねばなりません。そして探り得た事実の上に常識的な推理を働かせればよいのです」

こう言って鳥野探偵は懐中電燈の光で地面を捜索しはじめました。

 

(五)

 

鳥野探偵が地面の捜索を始めた頃、物音を聞いた近隣の人々が恐る恐る集まって来ました。探偵は亀田巡査に命じて、それ等の人々を現場に近づかせないように注意させました。

地面には、これという証拠になるものも見つかりませんでした。足跡などは、どれが誰のであるかさっぱりわかりませんでした。別に雨が降って地が柔らかくなっていたわけではありませんから、それは無理もないことです。

もうその頃は、朝が近づいてだんだん東が白んで来ました。人々は今更ながら、本田氏のあさましい姿に、驚きと悲しみを覚えました。中には、朝の寒気が手伝って、身震いするらしい人もありました。ことに本田氏方の女中の取り乱した姿は、特に目立ちました。その頃、夜来の霧は幾分か薄くはなって行きましたが相変わらず消えませんでした。

鳥野探偵は、現場捜査を終わると見物の人々に向かって、三時頃に「人殺しい」という声を聞いたかどうかを尋ねました。三時頃といえば、みんな熟睡中だったと思えて、聞かなかったという人が大部分でしたが、中にたった一人、確かに聞いたという四十恰好の婦人がありました。

「私はちょうどこの本田さんの筋向いの、あそこに住んでいるもので御座います」

と、婦人は自分の家を指して言いました。「私は手内職をやっておりまして、毎夜、午前の三時半まで必ず起きておりますが、四、五日前の午前三時頃にも、「うーん」といううめき声と、「人殺しい」という叫びと、続いてばたばた人の走って行く音がしましたので、恐る恐る戸を開けて街を見ますと、誰もおりませんでした。ですから、確かに誰かがいたずらをしたのだと思いました。ゆうべも――いいえ、今朝と言った方がよいかも知れません――同じような叫び声と人の走る音をちょうど三時十五分に聞きました。けれども、先日のことがあるので、私は出て見ないで、そのままにして、寝てしまいました。今、家のものに揺り起こされて、本田さんが殺されなさったと聞いたときは本当にびっくりしました。して見ると、今朝のは、いたずらではなくて、本田さんの叫び声だったのです」

鳥野探偵は、婦人の語るのを注意深く聞いてじっと考えておりましたが、

「その声は、本田さんの声に間違いなかったのですか。それとも、その四、五日前の声と同じでしたか」

と、尋ねました。

「さあ、それは何とも申し上げかねます」

「ばたばた走って行ったのは、靴の足音でしたか、それとも下駄の足音でしたか」

「それも、確かなことは申せませんけれど、下駄ではなかったように思います」

それから、鳥野探偵は、他の人々にも、二、三の質問をしましたがこれという手がかりは得られませんでした。

そこで、警察医と相談して、死体を大学病院で解剖に附することにし、医師と亀田巡査にその手はずを頼み、後ほど人夫が運びに来るまで、本田氏の死体をひとまず、本田氏の家の中に運び入れることにして、自分はとりあえず金楽亭へ行って、ゆうべ本田氏の出席した送別会の模様を聞くことにしました。もっとも、本田氏の弟に別れを告げる際、山川氏の住所を聞くことと、絞殺に用いられた手拭いを携えることを忘れませんでした。

金楽亭というのは、鶴舞公園の入口から、数町を隔てたかなり大きな料亭兼旅館でありました。

料理そのものは大してよくはありませんけれども、広い美しい庭園があるので、それが呼び物となって客足が絶えませんでした。

鳥野探偵は歩きながら今度の事件について考えをめぐらせました。そして、これという証拠はありませんでしたが、亀田巡査の話や本田氏の弟の話や、なおまた、先刻の婦人の話やらを総合して、この殺人は、どうも突発性の殺人ではなく、深く計画した殺人であるらしく思いました。もし、深く計画した殺人であるならば、従来の経験によってかえって探偵し易いことを知っておりましたから、鳥野探偵は、何となく心が晴れやかになるのを感じました。そして、朝霧の中を、しっかりした歩調で歩きながら、やがて金楽亭の門をくぐりました。

 

(六)

 

金楽亭の人々は鳥野探偵をよく知っていましたので、警察の人のこの早朝の訪問に、何事が起きたのかと主婦は驚いて出迎えました。

「ゆうべ、こちらで、××会社の送別会があったそうだねえ。その時御座敷へ出た女中さんを呼んでくれないか」

鳥野刑事の言葉に、主婦は奥へ立って行き、間もなく、眠たそうな目をした女中を連れて来ました。

「あ、お八重さんか、こんなに早くから起こして済まないねえ、でも職務上やむを得ないから我慢してくれ」

「何かありましたか」と、お八重は不審そうな顔で、探偵を見つめました。

「ああ、ちょっとした事件でね。で、早速だが、ゆうべの宴会に山川という男がいただろう?」

「山川さんですか。ゆうべはこちらにお泊りになりました」

「そうか、そりゃ、都合がいい」

「起こして来ましょうか」

いや、起こすのは後にしてもらおう。その前にお八重さんに聞きたいことがあるんだ。ゆうべの宴会で、山川さんの友人の本田という人がたいへん酔ったそうだねえ」

「本田さんですか。ええ、たいへんお酔いになりました」

「本田さんは何時頃ここをお立ちになったのかね?」

「確か十二時少し過きだったと思います。あんまりお酔いになったものですから、こちらにお泊りになるよう勧めましたが、平素言い出したら決して御聞きにならぬ方ですから、それでは自動車を呼びましょうと言うと、どうしても歩いて帰るとおっしゃいました。で、山川さんが見るに見かねて、送ってお行きになりました」

「山川さんはそれからいつ頃帰られたかね?」

「何でも山川さんのお話に、公園の中へ入ると本田さんはベンチの上に腰をかけて、どうしてもお動きにならなかったそうです。ところが、送別会をなさった向井さんが、三時の汽車に御乗りになるというので、二時半までにこちらへお帰りにならねばならなかったから、やむを得ず、置き去りにしたまま帰って来たとおっしゃいました」

「それで、山川さんは何時頃にここへお帰りになったかね?」

「向井さんが確かに二時半にお立ちになりまして、その前にお帰りになりましたから、二時十五分ぐらいだったと思います」

「ふむ」と、探偵は考えました。山川氏が二時過ぎに金楽亭へ帰ったとすると本田氏宅の前で、本田氏を殺したのは山川氏ではあり得ません。

「それから山川さんは、どこへも出かけられなかったかね?」

「どこへもお出かけにならず、向井さんがお立ちになると、みなさんもお帰りになり、山川さんだけお泊りになりました」

鳥野探偵は、本田氏の絞殺に用いられた手ぬぐいを取り出しました。

「これに見覚えがあるかね?」

お八重は手に取って「あッ、これはうちのです。もしや本田さんがお持ちになってはいませんでしたか」

「そうだよ。どうして知ってるね?」

「ゆうべ本田さんが、お玉さんをからかってそれを取り上げなさいましたから」

「そうか。では、すまないが、山川さんを起こしてくれないか」

お八重は奥へ入って行きましたが、やがて出て来て、顔色を変えて尋ねました。

「あの、もしや本田さんが殺されなさったのではありませんか」

「どうして知ったの?」と刑事は鋭く尋ねました。

「今、山川さんにあなたのおいでになったことを話したら、そうおっしゃいました」

「そうだよ。本田さんはこの手ぬぐいで絞め殺されたんだよ」

「まあ、それでは、もしや・・・・・・」

お八重が言い終わらぬうちに、山川氏が出て来ました。

「どうもお邪魔してすみません。実は・・・・・・」

刑事の言葉を山川氏は遮りました。

「本田君に何か変事でもあったのではありませんか?」

「どうしてそれをお承知ですか。仰せの通り本田さんは今朝殺されなさいました」

「そうですか、本田君は口癖に、俺は殺されそうだと言っていましたから」

「誰にです?」

「同じ会社の津村君にです」

探偵は思い当たりました。そうだ本田氏の弟は、兄が津村にも金を貸していると言ったではないか。

「津村さんはゆうべ宴会に出席されましたか」

「いえ、欠席しました」と、山川氏はきっぱり言い放ちました。

 

(七)

 

鳥野探偵は、山川氏から、ゆうべの宴会に津村氏が欠席したと聞いて、さてはその津村氏が怪しいのではないかと思いましたが、とにかく、一応山川氏のゆうべの行動を聞いておこうと思いました。なぜならば山川氏は、言わば本田氏の死の直前まで一緒にいたのでありまして、今のところ、本田氏が生前最後に一緒にいたのは、山川氏だけだからであります。

「あなたは本田さんと公園のベンチにお腰掛けになっていたそうですが、その時付近を誰か通りは致しませんでしたか」

「一向に気がつきませんでした」

「亀田という巡査が通りかかったそうですが、それをご覧になりませんでしたか」

「何しろ本田君を早く歩かせようと一生懸命になっていましたので、あたりのことはちっとも覚えておりません」

「それから、あなたは本田さんを置き去りにしてお帰りになりましたか」

「二時半までには、どうしてもここへ引き返して来なければならなかったし、本田君は、俺に構うことないから帰ってくれと言いましたので、やむを得ず振り捨て、帰りましたが、殺されるくらいでしたら送り届けてやればよかったのに、今更ながら残念でなりません」

こう言って山川氏は悲しそうな表情をしました。

「あなたがお帰りになるとき、公園の中で誰かにお会いになりはしませんでしたか」

「公園の中では誰にも会いませんでした。何しろ霧が深くて遠くは見えなかったので、誰か通っていたかも知れませんが、とにかく、怪しい人は見かけませんでした」

鳥野探偵は、先刻の女中の言葉と、今の山川氏の話とで、山川氏が二時半以前にここへ帰ったのは最早疑うべきでないと思いました。従って、山川氏が本田氏を絞殺したと考えることは至難であらねばなりません。従って自然、津村氏を取り調べる必要が生じて来るわけです。

「津村さんと本田さんとは、いったい何でそんなに仲が悪かったのですか?」

「さあ」と、山川氏はさも話すのを当惑するかのように言いました。

「どうもその辺の事は詳しく存じませんが、金銭の貸借上のことが主ではなかったかと思います」

鳥野探偵は、その時、

「あなたも本田さんとは貸借関係があるではありませんか」と言おうとしたが、無理にその衝動を抑えつけた。

「津村さんがゆうべ、何ゆえ欠席されたかご存じありませんか」

「それはよく知りません」

「あなたと津村さんとは御親友ですか」

「同じ会社におりますから、よく話はしますけれど、親友と言ってよいかどうかはわかりません」

「津村さんの御宅はどちらですか」

山川氏は鳥野探偵の差し出した手帳の中に、津村氏の下宿を書き入れました。

「どうも有難うございました」と探偵は慇懃に挨拶した。「折角お休みになっているところをお邪魔して済みませんでした。もしまた、後にお尋ねに伺うようなことがあるかも知れませんが、その時にはどうかよろしく願いします」

鳥野探偵は金楽亭の門を出るなり、付近にあったタクシーを雇って、津村氏の下宿のある船松町二丁目に走らせました。その時街上には秋の朝日がうららかに照り輝いておりました。街行く人々は、つい数時間前に同じ名古屋で恐ろしい悲劇があったとも知らず、愉快そうな足取りで歩いておりましたが、探偵の心は決して愉快ではありませんでした。何とかして事件を一刻も早く解決したいという願いが、重たく胸の内を占領しておりました。

数分の後、自動車は津村氏の下宿に着きました。それは素人下宿で、小じんまりとした家でした。

鳥野探偵が入口の格子戸を開けると、中から五十あまりの主婦らしい人が出てきました。

「津村さんはおいでになりますか」

「はあ、おいでにはなりますが、実は昨日の夕方から、高い熱が出まして、今看護婦が付き添っております」

主婦は二階の方をはばかる様に小声で申しました。

 

(八)

 

津村氏が昨日の夕方から高熱のために看護婦に付き添われていると聞いた時、鳥野探偵は、まるで高い城壁にぶつかった思いをした。高熱で寝ている人が、ゆうべの殺人に関係していることはあり得ないからであります。

鳥野探偵はそのまま帰ろうかと思いましたが、その瞬間探偵意識が働いて、主婦に向かって尋ねました。

「お差支えなかったら、ちょっとでよいがお目にかかれんでしょうか。私はこういうものです」

主婦は鳥野探偵の差し出した名刺を受け取って二階に上がって行きました。そしてしばらくしてから引き返しました。

「お目にかかれるそうですから、どうぞお上がり下さいませ」

通された一室には津村氏が布団の中から蒼白い顔を出して寝ておりました。そしてその枕元には二十前後の綺麗な顔をした看護婦が座っておりました。

「ご病気中、お邪魔して誠に恐縮でございます。実は、本田さんがゆうべ殺されなさいましたから・・・・・・」

「えっ?」と言って津村氏は、はね起きようとしましたので、看護婦があわてて制しました。「そ、それは本当ですか、どこで誰に殺されましたか」

「その犯人が分からんので、何かお心当たりはないかと思ってお訪ねしたわけです」

津村氏はしばらく布団で顔を隠しておりましたが、やがて突然首を伸ばすようにして言いました。

「本田君を殺したのは山川君です、山川君に違いありません」

「どうしてそんなことを仰るのですか」と鳥野探偵は冷静に尋ねました。

「本田君は口癖のように、俺は山川君に殺されるかも知れんと言っておりました」

この言葉を聞いて、鳥野探偵は心の中で苦笑しました。山川氏は本田氏が津村君のために殺されるかも知れないと言っていたと言うし、今、津村氏は、本田氏が山川君のために殺されるかも知れぬと言っていたと言うではないか。しかも山川氏が殺したのでないことは今まで調べたところで明らかであるし、また津村氏が殺したのでないことは、ゆうべから高熱で寝ていたことから明らかである。して見ると、本田氏は、山川氏、津村氏以外の、言わば第三者に殺されたのであろうか。

「どういう理由で山川さんは本田さんに恐れられていたのですか」

「詳しい事情は知りません」

「金銭上の問題ですか」

「それもあったようです」

「そのほかに何か特別な事情がありましたか」

「そうですねぇ、ある女に関したこともあったようです」

「何という女ですか」

「さあ、それはよく知りませんが何でも、長者町の芸者だと聞いております」

知らないと言いながら、案外よく知っているのに鳥野探偵は不審をいだきましたが、それ以上突っ込んで聞いても返答はしてくれないだろうと思って話題を転じました「昨晩から高熱が出たそうですがご病気は何でございますか」

「やっばり、インフルエンザだろうと思います」

「お医者様は誰でございますか」

「僕は医者が嫌いですから、病気になっても呼びません。医者の学校を中途で辞めたのも、医者が嫌いだからです。その代り、自分である程度まで診察することが出来ます」

「無論ゆうべはどこへも外出なさらなかったでしょうな?」

津村氏はこの質問に驚くというよりも、むしろ呆れたような顔をして言いました。

「外出どころか、はばかりへ行くのがやっとの事でした。ねえ君?」と看護婦の方に目をやりました。

「ええ。ゆうべは一晩中、私がおそばに付いておりました」と看護婦はなぜかちょっと、狼狽したような口調で、鳥野探偵の鋭い視線を避けるようにして答えました。

 

(九)

 

鳥野探偵は津村氏の下宿を辞して、失望の色を浮かべながら、警察署に帰りました。そして、自室に閉じこもって、じっと腕組みをして考えました。

津村氏は昨夜高熱で苦しんでいたというからには、本田氏殺害に関係のあるはずはない。また津村氏は本田氏を殺害したのは山川君だろうと言ったが、その山川氏も、疑う余地のないほど立派な現場不在証明を持っている。しかも本田氏の弟の話によると、本田氏を殺しそうなのは、山川氏かまたは津村氏である。して見ると、本田氏は、何の関係もない第三者、例えば物盗りにでも殺されたのであろうか。

鳥野探偵は目をつぶって、今朝の検証の模様を思い浮べました。金時計や財布がそのままになっていたことから、物盗りとは考えられません。言わんや、気違いなどのしわざとはなおさら思えません。どうしても、計画された殺人としか考えられません。計画された殺人であるとすると、まず、山川氏と津村氏とに嫌疑をかけなければならず、しかも二人とも立派な現場不在証明を持っています。

これはどうしたことだろうか。こう思ったとき鳥野探偵は部屋を出て、巡査の控室に来ました。

「ああ、亀田君、君がいてくれて幸いだ。君にちょっと聞きたいことがある」

「何だ?」と、昨夜公園で本田氏と山川氏との対話を聞いた亀田巡査は答えました。亀田巡査はあれから一睡もせず、いつもならば今頃は家に帰って寝ている時分ですが、受け持ち区域に殺人事件が突発したので、疲労を感じながらも控室にいたのです。しかし幸い、二人の子供の麻疹が順調に経過して、熱が下ったという知らせ受けていたことで、比較的元気に見えました。

「ゆうべ、公園のベンチで山川氏と話をしていたのは、確かに本田氏だったかね?」

「おかしいことを聞くねえ」

「いや、念のために聞いておくのだ」

「僕は本田氏の声を聞いて知っているが、確かに本田氏の酔っぱらった声だよ」

「そうか。・・・・・・ありがとう」

鳥野探偵は失望して、ふたたび自室に帰りました。

 

×       ×       ×

 

かくて、本田氏殺害事件は遂に迷宮に入ったのであります。死体解剖の結果も、何の手がかりも与えませんでした。 鳥野探偵はその後、本田氏の弟に会って、色々事情を探りましたが本田氏を殺しそうな人は、やはり山川氏と津村氏のほかにありませんでした。二人とも証文なしに本田氏から多額の金を借りていまして、しかも本田氏の死後その金を返そうとしません。ことに本田氏は山川氏のある弱点を知っていたらしく(もっともその弱点がいかなることかは知る由もないが)、また津村氏によると、山川氏と本田氏との間には芸者の一件があるとの事ですから、山川氏は最も有力な容疑者であらねばなりません。

そこで、鳥野探偵は根気よく、山川氏を監視しましたが、事件後山川氏は、決して芸者遊びをせず、極めて品行方正に暮らしているので芸者の一件が何であるか更に手がかりを得ませんでした。無論、津村氏も、それについては詳しいことを知らなかったのです。

探偵は山川氏と同時に津村氏の行動をも監視しました。しかし、津村氏も、あれから二、三日して病気の癒えた後は、毛ほども怪しい挙動がありませんでした。

かくて、二十日を過ぎ、ひと月を経ました。けれど、探偵は、殺人が行われた以上犯人があるべきであると考えて、二人の嫌疑者の監視を怠りませんでした。

そして、約二か月の後、とうとう鳥野探偵は、事件の手がかりを見つけたのであります。

ある夜、山川氏は、O町のHという待合(※貸座敷・お茶屋)の門をくぐったのであります。探偵は中へ入って様子を伺おうかとも思いましたが、気取られてはならんと思い、じっと辛抱して、山川氏が帰るのを待とうとしました。冬の夜風が身に沁みましたが、山川氏の待合入りは珍しい出来事なので、興味を持って物陰に潜んでいると、やがて一台の車が着き、中から一人の芸者が現れました。たぶん山川氏に呼ばれたのでしょう。探偵は先方に悟られぬように、できるだけ近づきましたが、その芸者の顔を見るなり、思わず口の中で「あッ」と叫んだのであります。

 

(十)

 

鳥野探偵が驚いたのも無理はありません。その芸者こそは、津村氏の病床に仕えていた看護婦だったからであります。厚化粧で幾分顔の輪郭が変わっていたとはいえ、なおまたうす暗い明りのもとであるとはいえ、我が鳥野探偵の眼をくらますことは出来ません。

あの津村氏の病床に仕えていた看護婦が、山川氏の馴染みの芸者であることは、そもそも何を意味するか。あの看護婦が後に芸者になったと考えるのは無理である。津村氏が医師にかからなかったこと、看護婦ではない看護婦に仕えられていたことはそもそも何を意味するのか。鳥野探偵の頭は熱して来ました。

事件は言わば急転直下して来ました。で探偵は愚図愚図してはならぬと思い、待合の裏通りに回り、塀を越えて、庭園に忍び込み、物陰に隠れて山川氏と芸者との対話に耳を傾けました。

さすがに二人は用心深く、小声で話しておりましたから、最初は探偵の耳に入りませんでしたが、だんだん酒が回るに連れて、山川氏の声は大きくなりました。けれども、さすがに、本田氏事件に触れた会話は取りかわされませんでした、

けれども、鳥野探偵は、辛抱強く立ち聞きしました。と、そのうちに、山川氏は、今までの山川氏の声とは、まったく違った声で、

「ああ、酔った、酔った。そう急ぐなよ、山川。夜道に日は暮れぬと言うじゃないか」

と叫びました。

「およしなさいよ。気味が悪い」と、芸者は言いました。「本田さんの声色など、聞いただけでぞっとする」

言われて、さすがの山川氏も口をつぐんだらしく、その後は再び小声になりましたが、これを聞いていた鳥野探偵は、思わず「しめたッ」と口の中で叫びました。

今まで解決されなかった点が、これによって完全に解決されたからであります。

・・・・・・そうだ。公園のベンチで山川氏と本田氏とが対話していたのは、その実、山川氏一人の「対話」だったんだ。本田氏は、亀田巡査が通るとき、既に殺されていたのだ。そして山川氏は、亀田巡査の巡回する時間を知っていて、亀田巡査に本田氏の声色を使って聞かせ、そのまま本田氏の死体をベンチに置いて金楽亭へ引き返したのだ。あとで物陰に忍んでいた津村氏は死体を運んで本田氏の家の前まで来て「人殺しい」と叫んで逃げたのだ。かねてその四、五日前に「人殺しい」と叫んで、かの手内職の婦人に聞かせ、いたずらであるように思わせ、二度目には、戸を開けて出て見ないようにしたのだ。そして山川氏の馴染みの芸者を看護婦にして、夜中に密かに下宿を抜けて出ても家人に悟られぬように工夫し、もって山川氏も、津村氏も、巧みに現場不在証明を作り、わざと二人で嫌疑を仕向け合っていたのだ。

こう考えると、今まで不審であった点が、ことごとく解決されました。恐らくこの芸者の一件で本田氏は山川氏の恨みを買ったのであろう。本田氏の弟のいわゆる山川氏の弱点というのも、やはりこのことであろう。従って本田氏殺害の首謀者は山川氏で、津村氏と芸者とはその殺害のほう助者であらねばならぬ。

それにしても、山川氏は何という狡猾な人であろう。けれどもその狡猾さも、正義の辛抱強さにはかなわず、計らずも公園のベンチの上での声色を繰り返して、その罪を暴露するに至ったのである・・・・・・。

鳥野探偵は、その場からすぐ踏み込んで山川氏を逮捕しようかと思いましたが、共犯者の津村氏から口を開かせた方が適当であろうと考え、翌日津村氏を拘引して遂に告白させました。ついで山川氏は拘引され、最初は頑強に否定しましたが、待合における一件を告げられて、やむなく屈服したのであります。

山川氏の物語るところによると本田氏の殺害は、実に用意周到な計画のもとになされたのであります。亀田巡査が公園を通過する時間も、本田氏宅の筋向いの手内職の婦人が就寝する時間も、十分研究されていたのであります。そして殺害の方法は、まったく鳥野探偵の推定した通りでした。ただ動機として、借金の他に、例の芸者に関する深い事情がありましたけれど、これは、その内容が発表をはばかる性質のものなので、残念ながらここに書くことができないのであります。

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