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更新日:2021年10月30日公開 印刷ページ表示

催眠術戦(大正15年発表)

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「自然科学が人間そのものを改造し得るまでに発達しない以上、当分の間、迷信は決してなくならぬものだと思います」

例の如く私が松島龍造氏の探偵談を聞くべく訪問したとき、同氏は、白髪の多い頭を振り、やさしい童顔から眼だけを鋭く輝かせて語り始めた。

「なかんずく、丙午の迷信のごとき、あれだけ、新聞や雑誌でやかましく論ぜられて、丙午の女の結婚生活が必ずしも不幸に終らなかった実例さえ示されても、丙午の年に生れた女は、やはりそれが非常に気になるものと見えて、各種の悲劇を生じます。これからお話ししようとするのも、やはりこの丙午の迷信に関係した事件なのです」

 

ある日、一人の青年が私の事務室を訪ねました。『田安健吉』という某会社に勤務している美男子でした。

来訪の目的を聞くと、婚約をした女が、最近にわかに丙午の迷信の虜になって、婚約を破棄してくれと言い出したので、何とかして、あなたの力で、女の迷信を取り除く工夫をしてくださいと言うのでした。

私は少々意外に思いました。犯罪探偵なら経験はあるけれど、他人の迷信を除くなどということは一度もしたことがないから誰か宗教家にでもお頼みになってはどうかと申しますと、青年---以下、田安君と呼びます---は、

「それが到底宗教家ぐらいの力で除かれる程度のものではありません」と答えました。

「おかしな話ですねぇ」と私は言いました。

「それほど深い迷信を持っているのなら、あなたと婚約しないのが当然ではありませんか?」

「まったくです。実際婚約した当時は、丙午の迷信など少しも問題にしていなかったようでした。ところが、最近になって、急に、しかも猛烈に恐怖し出したのです」

私はしばらく考えました。

「すると、何か他に婚約を破棄せねばならぬ重要な理由があって、ただ表面上の理由として、丙午の迷信を持ち出したのではありませんか?」

「いいえ、決してそうではありません、彼女は斎藤百合子と言いますが、百合子さんの言うには私があなたと結婚すれば、良人たるあなたに不幸が起こる。あなたを愛すればこそ結婚を遠慮するので、私は一生独身で暮す決心をしたと言うのです」

「ふむ」と私は申しました。

「で、その百合子さんの御両親の態度はどんなですか?」

「百合さんには両親がなく、今年五十になる叔父さんの家に住まい、女中と三人暮しです。叔父さん---僕も、やはり叔父さんと呼んでいます---は百合さんを僕にくれることを快諾してくれました。百合さんの話によると、百合さんは叔父さんにもその迷信のことを告げないので、叔父さんは今でも僕等が結婚するものと思っているのです」

「いよいよ奇妙ですねぇ。で、あなたからでも叔父さんにその事を言い出すつもりですか?」

「いいえ、百合さんは叔父が心配するといけないから、決して迷信のことは話してくれるな、ただ僕にやむを得ない事情ができたから、破約をすると告げてくれというのです」

私は変なことがあればあるものだと思いました。しかし、人間というものは咋日まで何の恐怖をも感じなかった事に対して、今日から激烈な恐怖を感じることがあります。もっとも、それには何か特別な出来事がなくてはなりません。

すなわち、百合子さんの心に、さような急な変化が起こったについては、何かその有力な原因がなくてはならないはずです。

それは果して何でありましょうか?

「最近叔父さんの家に何か変わったことでもありはしなかったのですか?」

と、私は尋ねました。

「別に変わったことと言ってはないようでしたが、一月ほど前から、叔父さんの家に、叔父さんの遠縁にあたる若い医学士が寄寓しています」

私は耳をそばだてました。

「百合子さんが、丙午の迷信を恐怖し出したのも、その人が寄寓してからではありませんか?」

「そういえばそうです」

「何かその人が影響を及ぼしたのではないでしょうか?」

「柘植君---その医学士の姓です---が、僕たちの間を割こうとしたのだとおっしゃるのですか? 僕は決してそうではないと思います。ここで言うのも変ですが、同君は非常な醜男で、おまけに少しせむしなんです。ですから、普通の医者をやっても決して流行らないだろうと思って精神病学を修め、精神病院の医員を務めているのだそうです。身体も滑稽なら、性質も至って滑稽な楽天家で、百合さんの家にいても、百合さんとは全く没交渉です。今度のことでも柘植君に打ち明けたら、きっと、百合さんの迷信を取り除いてくれるかと思うのですが、それでは百合さんが承知すまいと思うから話せないのです」

私は黙って考え、それから言いました。

「それじゃ、私にお話しになってもいけないじゃありませんか?」

「実は、今日か明日、百合さんの要求で、叔父さんに婚約の破棄を申し出ねばならないのです。その時、あなたも一緒に行ってくださって、叔父さんに事情を告げ、百合さんに事情を告げ、百合さんの迷信を取り去って下さいませんか?」

「どうやって取り去るのですか?」

と、逆に私は尋ねました。

「そりゃ、僕にもわかりませんが、先日、ある雑誌を見ましたら、催眠術で、ある迷信を取り除くことができたという記事がありました。あなたは催眠術に非常に堪能だと聞きましたから、つまり百合さんに催眠術をかけて、丙午の迷信を除いて貰いたいと思うのです」

私は考えました。いかにも私は催眠術にかけては、相当の自信があるばかりでなく、少なくとも日本のどの催眠術者にも負けないつもりであります。英国でも私の師のスウォープ先生以外の人ならば、誰にもひけを取りませんでした。催眠術の術くらべというようなことは減多にお聞きになったことがありますまいが、同一の人に同時に二人の術者が催眠術をかけるとき、施術者の意志の強い方に、被術者の意志は支配されるのであります。それはとにかく、通常催眠術によって迷信を与えることは容易ですが、迷信を取り除くことはすこぶる困難であります。元来人間は、物に恐怖するようにできております。

それを理性の力で抑えつけているだけですから、催眠術によって、その抑えつけている力を除くことは極めて容易であります。ところが、その恐怖心に理性の力を働かせるということは、幾倍も困難なのです。もっとも、催眠術をかけて、どうして、迷信を得るようになったかという事情を明らかにすることは比較的容易です。しかし、その事情がわかったとして必ずしも迷信を除くことはできません。

今この百合子さんの場合においても、百合子さんの迷信を除くには、催眠術に依るよりも、むしろ、簡単なトリックを用いて、百合子さんの生まれた年は、丙午、すなわち明治三十九年でなく、実は明治四十年だったとか、または明治三十八年だったとかという風に信じさせるに限ると思ったのです。

で、私は以上のことを告げ、

「百合子さんは何月に生まれたか知りませんか?」

と尋ねました。

「知りません」

「百合子さんのご両親のことなど、あなたはよくご承知ですか?」

「ちっとも知らないです。何でもお父さんは日露戦争に行って、いまだに生死がわからぬそうですが多分戦死されただろうということです」

「そうですか、だいぶ事情が複雑なようですねぇ、何となく興味を覚えましたから、これから一緒に、百合子さんを訪ね、叔父さんに会って、事情を聞き、それから、適当なトリックを考えることにしましょう」

百合子さんの叔父さんの家は小石川の掃除町にありました。初夏の午後の陽が、二本の門柱の上の磁器製の標札に当たってきらきら輝いておりました。標札の上には「齋藤圭治」の四字が読まれました。

門柱には扉が無く、突きあたりの玄関の右側が洋風の平屋、左側が日本風の平屋で、かなり広そうな邸宅でした。

玄関に入ると、女中が出てきていったん奥へ去り、やがて私たちは右側の応接室に案内されました。

応接室は書斎を兼ねた、十畳ほど敷けると思われる洋式の部屋でして、私たちは中央の四角なテーブルを前にして、椅子に腰かけました。程なく主人の齋藤さんが入ってこられましたが、五十だと聞いていたにもかかわらず、二十も年寄ったお爺さんに見えるくらい、白髪で、皺の多い顔でした。私は、田安君によって、ありのままに紹介され、一つ二つ世間話をしてから、田安君が私の家を訪ねた顛末を物語り、最後に、「こういうわけですから、何とかして百合子さんの迷信を除く工夫をご相談申し上げたいと思ってまいった次第でございます」

と言い添えました。

齋藤氏は私の話が進むにつれて、その顔に驚きの表情を浮かべましたが、この時田安君に向かい、

「田安君、それは本当か? 本当に百合子がそんなことを言ったか?」

と尋ねました。

田安君は、うなずきました。

「そりゃ、何としてでも、そんな愚にもつかぬ迷信は捨てさせにゃならん。何かよい方法がありますか?」

と齋藤氏は私の方を向いて申しました。

「田安さんは催眠術を応用してくれと言われますが、催眠術は、人に迷信を与えることはできても、人の迷信を除くことはすこぶる困難です。ただ、どうしてその迷信が与えられたかという事情ならば、催眠術で知ることができますが、しかし・・・・・・」

「それじゃ、百合子に催眠術をかけて、どうしてそんな馬鹿な気になったか調べていただこうではありませんか?」

「御言葉ですけれど、たとえその事情がわかったとて、必ずしも迷信を取り除くことはできません。それよりも、まず簡単な常識的な方法を講じたならばどうかと思います」

「どんな方法ですか?」

「承りますと、百合子さんには御両親が無いとのことですから、何かその間に複雑な事情をこしらえることはできないでしょうか?」

「とおっしゃると?」と、齋藤氏はなぜか、急に顔を蒼くして尋ねました。

「百合子さんの生年月日を御存じでしょうか?」と、私は答えるかわりに反問しました。

「明治三十九年二月十日です」

私はそれを聞いてほっとしました。

「そりゃたいへん好都合です」と私は喜んで申しました。

「それじゃ、百合さんがお生まれなさったとき、何かの事情で籍をつけるのが遅れたとか、あるいは、百合子さんは月足らずで生まれなさったのを、ある事情で、やむを得ず月満ちて生まれなさったように取り計らわねばならなかった・・・・・・という具合にその事情を捏造して、うまく偽って証拠立てたらいかがでしょうか?」

私がニコニコして話しているにも関わらず、齋藤氏は、なぜか、反対に、ますますその顔の色を土のようにして、果てはその額の上に汗さえにじみ出しました。

「そ、そんなことは、どうせこしらえ話になるから、百合子は到底信じますまい。それに百合子の生まれ当時のことはかなり事情が複雑になっていて、百合子にはこれまで何も知らせてはないのですから、今更彼女の心を乱したくはありません」

と、氏は声を震わせて言いました。

私は心に企んでいた計画が、着手せぬ先に打ち破られたので、すこぶる当惑しました。

「でも、百合子さんの幸福のためではありませんか?」

と私はなじるように申しました。

齋藤氏はたもとからハンカチを取り出して、額の汗を拭い、田安君に向って尋ねました。

「いったい、百合子はいつ頃から、そんなことを君に言うようになったのかね?」

「二十日ばかり前からです」

齋藤氏は眉をひそめ、腕組みをしながらじっと考えていたが、急に立ち上り、

「とにかく、百合子をここヘ呼んで尋ねてみよう」と言いながら、入口の柱に取りつけてあるべルを押そうとしました。

私は両手を伸ばして制しました。

「まぁちょっと待って下さい。それでは、致し方ありませんから、思い切って百合子さんに催眠術をかけ、どういう事情で丙午の迷信を得られるようになったかを探ってみましょう。それには三人一緒のところへ来てくださってはまずいのです。で、初め、私だけがお目にかかり、うまく催眠術がかかってからお立ち合いを願うことに致しますから、その間別室へ退いていてくださいませんか?」

齋藤氏はベルを押して女中を呼び、百合子に来るよう伝えてくれと命ぜられました。そして、田安君と共に、別のドアから隣室へ去られました。あとに私は立ち上って、固唾を呑んで待ち構えました。

経験によりますと、被術者に、最初多少の驚きを与えた方が、呼吸を深くさせることができて催眠術をかけ易いのです。

やがて威勢よく入口のドアがあいて、百合子さんが入ってきました。私はその顏を一目見て、百合子さんが極端に催眠術にかかり易い性質の女であることを知りました。非常に美しい顔でしたが、頬が蒼白く、大つぶな目が何となく潤んで見えました。彼女は私の顔を見るなり怪訝そうに、

「あら、叔父さんはどうなさったでしょうか?」と尋ねました。

「今、隣室に見えます。突然でございますが、私は田安さんの知人で松島というものです。ちょっとお嬢さんにお話しをしたいと思いまして、来ていただいたのでございます。さあ、そこへおかけになってください」

椅子を勧めながら、私は彼女の呼吸をはかり、その呼吸に応じて、私の右の手を律動的に動かしつつ、だんだん上の方へ挙げて行きました。彼女は椅子の中にぐったりと腰をおろし、目を細目に開いたまま眠りました。私は彼女の額に右手の食指をあてたまま、五分間じっとしていました。それから、隣室の二人を小声で招きました。

齋藤氏は何か怖ろしいものでも見るかのように、眉をひそめて彼女の姿を見つめました。田安君は半ば口を開き、好奇の目を輝かせて、齋藤氏と共に立ちすくみました。

私は百合子さんに向って言いました。

「あなたはこれから私の質問に答えて下さるのです」

百合子さんはうなずきました。

「あなたは丙午の迷信を怖れますか?」

百合子さんは頭を横に振りました。

「あなたは田安さんとの婚約を破棄したいと思いますか?」

百合子さんは頭を横に振りました。

「では誰が婚約を破棄せよと命じましたか?」

百合子さんは答えませんでした。

「誰か命じた人がありましょう?」

百合子さんはうなずきました。

「それは誰ですか?」

百合子さんはしばらく考えておりましたが、やがてはっきりした声で言いました。

「私の母です」

この意外な言葉に私ははっとして心の緊張を緩めました。と、百合子さんは急に両手をあげて頭をかかえ、激しく呼吸しだしました。

「お母さん! 苦しいでしょう。お母さんの肋骨の鼓動が私の頭に響きます。私はどこへも行きません、お母さんのところへ行きます、お母さんは私を誰にもやりたくないでしょう。私は今お母さんの臨終と同じ苦しい呼吸をしています。きっとお母さんについて行きます。ええ、行きますとも・・・・・・」

こう言って百合子さんは椅子からつと立ち上りました。そして入り口の方を向きました。私は言葉に聞きとれていて、ついぼんやりしていたことに気づきましたが、それと同時にぎくりとしました。

「誰か今、どこかで百合子さんに催眠術をかけているものがあります」と、私は叫びました。

これを聞くなり、田安君は室外へ飛び出そうとしましたので、私は左手で強く引き留め、その時入口に近づいていた百合子さんの額と上唇とに、それぞれ私の右の食指と母指の先端を付けました。

百合子さんはぴたりと止まりました。そうして、私が右手を徐々に引いてくると、百合子さんもそれに従って動き、再び椅子に腰を下しました。が、その時私は容易ならぬ敵に面していることを知りました。すなわち、敵は巧妙にも百合子さんの母親を引き出して、百合子さんの意志に背いて、結婚を妨害しようとしているのだとわかりました。すなわち丙午の迷信の暗示はほんの一部に過ぎないとわかりました。また、これによって迷信のことを叔父さんに話すのを嫌う理由もわかりました。

よし、それならば、今度はこちらから、逆に百合子さんの母親を応用して、百合子さんの本心を確かめようと、私は決心したのです。この時、百合子さんの催眠状態は第一段、第二段を経て第三段に立ち至っていました。

「百合子さん、今お母さんが見えています」

と私は百合子さんの左の方の空間を指して言いました。

百合子さんは左に向きました。

「まあ、お母さん、御治りになって、うれしいですわ、あら、そう、田安さんとの結婚を許して下さる? わたし、本当にうれしい・・・・・・」

私は思わずも、田安君の方を見ました。はっと思ったが遅かったのです。百合子さんは両手を挙げて駈け出そうとした。

「あれーッ、お父さん! 私は決して結婚しませんから、どうぞお母さんを助けてあげて下さい。お母さんと叔父さんとは決して・・・・・・」

私はいきなり両手を伸ばし、更に指を伸ばして、百合子さんのうしろから、耳を隔たる三寸ばかりのところを支えますと、百合子さんはぴたりと立ちどまりました。私は敵の策戦にむしろ感心しました。

こちらが母親を出せば、先方は父親を出して対応するところ、実に驚くよりほかはありませんでした。

私の全身は汗を浴びました。しかし、結局は私が勝利を得ました。勝利を得た以上、今や敵は姿を現すに違いないと思いました。私が百合子さんを再び椅子に腰かけさせると、齋藤氏はいつの間にか椅子に腰をおろし、震える声で言いました。

「松島さん、もうやめて下さい。百合子が可哀そうです」

「しかしまだ、百合子さんに丙午の迷信を吹き込んだのが誰だかわかりません。もっとも今に姿を見せるだろうとは思いますが・・・・・・」

「わたしには、もうよくわかりました・・・・・・」

と齋藤氏は言いました。

「え!」

この時、入口のドアを誰かがコツンコツンと二つ叩いたかと思うと、中の返事を待たずに、ドアをぱっと開けました。見ると、それは洋服を着たせむしの醜男で、私は一目で、それが、この家に滞在している柘植医学士であると思いました。

「やあ、これは失礼、お客さまでしたか、とんだ秩序びん乱でしたねえ、アハハハハハ」と作り笑いのような声を出しました。

「おや、百合子さんはお客さまの前でねんねしてますね? 行儀が悪いじゃありませんか? 田安君もご一緒でしたか、僕は柘植というものです」と、私に向かってぺこりとお辞儀をしました。

齋藤氏は闖入客の姿を見てチラと不快の表情を浮べたが、やがて私を紹介して事情を告げた。

「催眠術? へえ、それは惜しいことをしましたねえ。僕も拝見すればよかった」

私が百合子さんのおとがいに右手の拳を当てると、百合子さんは間もなく意識を回復しました。

「まあ、わたし、どうしたでしょう」

と顔を真っ赤にしました。

「田安さんまで見えていますのねぇ、恥かしくなってしまった。御免を被りますわ」

こう言って百合子さんが去ると、柘植医学士は斎藤氏に向い、用があるから、ちょっと出てくれといって相伴って去りました。あとには私と田安君とが残りました。私は小声で言いました。

「もうおわかりになったでしょう?」

「え?」

と田安君は言いました。

「柘植医学士は恐ろしい人です!」

「だって?」

「今に、どんなことを起こすかも知れません。ことに私との戦いに敗れたのですから危険です。あなたはどこまでも百合子さんを保護しなければなりません」

「保護します」

「今日から二、三日、齋藤さんに願って、この家に泊りこんで下さい。その間に僕が適当な手段を考えますから」

「どうぞお願いします」

「決して怪しい食物などに手を触れてはなりませんよ」

この時齋藤氏が入ってきました。氏は悲しそうな表情をしていました。

「松島さん大変ご苦労様でした。追い出すようですみませんが、早速帰っていただきたいのです」と、大声で言いました。

私はうなずきました。

「叔父さん、今晩から当分、僕を泊めて下さいませんか?」と、田安君は言いました。

齋藤氏はちょっと躊躇して、「いいとも」とうなづきました。

 

その同じ夜の事でした。午前二時頃、電話のベルが激しく鳴りましたので、出て見ると、田安君の声です。

「たいへんです、すぐ来てください。・・・・・・僕、柘植君を殺しちゃったんです・・・・・・これから自首しようと思うんです・・・・・・」

まったくたいへんな慌て方なので、私が行くまで決して何ものにも手を触れてはならぬこと、また、警察へも電話もかけてはならぬことを十分注意して、タクシーを雇って齋藤氏の邸宅へ駆けつけました。

応接室には電燈がついていて、庭の樹木をうすく照らしていました。玄関のベルを押すと、田安君が戸を開けにきました。

玄関の土間の隣りの部屋に上りこんで、私と田安君とは対座しました。

「いったいどうしたというのです。齋藤さんも、百合子さんも女中も出てこないじゃありませんか?」

「叔父さんは、部屋にいないし、女中はいくら呼んでも起きてこないし、僕は今、百合さんの部屋で、百合さんを介抱していたのです」

「百合子さんがどうかしましたか?」

「僕が柘植君を殺したのでびっくりして気絶したのです」

「どうして殺したんです?」

「寝る前に女中が紅茶を持ってきてくれたけれど、あなたの忠告があったから手を触れずに置きましたが、さて、寝床に入ると、どうしても寝つかれません。だんだん考えているうちに柘植君が憎らしくなってきて、何とかして打ち懲らしめてやる手段はないかと考えていると、ふと、隣りの部屋に足音がしました。で僕は寝床から抜け出して襖のふちに、闇の中で身を忍ばせておりました。すると襖がスーッと開きました。曲者は手に光るものを持っていたのでたちまち躍りかかって、それを奪いましたがその拍子にピストルがドンと鳴って、曲者は襖と共に、僕の部屋の方へ倒れました。早速電燈をつけて見ると、殺されたのは柘植君でした。物音を聞いて駆けつけて来た百合さんが死体を見て気絶したので、とりあえず、寝室へ抱えこんで今まで介抱をしていたのです」

私は直ちに死体の検査を始めました。見ると死体は田安君の部屋の敷居の上に、上体を襖の上に載せ、うつむきに血だまりに浸かっていました。私は腰を屈めて傷口を検査しましたが、思わず吹き出しました。

「田安さん、いい加減なことを言ってはいけませんよ!」

「え?」

「死体は短刀で刺されています」

「え? 本当ですか?」

「これをご覽なさい」

私は背部右側、肩甲骨下の傷口を見せました。

「さあ、早く本当のことを言って下さい」

「では言います」

ほっとしたらしい声で言いました。

「僕が寝床の上で寝つかれなかったことは本当です。ちょうど、午前一時頃でした。廊下を歩くかすかな足音がしたので、僕は寝床を抜け出して部屋の隅にうずくまり、闇の中で耳をそばだてていました。すると、廊下に面した僕の寝室の襖がスーッと開いて、入ってきたのは、驚いたことに百合さんでした。見ると百合さんは手に光るものを持っています。

やがて部屋の中央まで進んだと思う頃、百合さんはドンと一発撃ち放しました。とその時隣室でウーンという声が聞こえたかと思うと、襖と共に一人の人間が倒れ込んできました。私はとりあえず電燈をつけましたが、見ると殺されたのは柘植君で、百合さんは、煙のなお出ているピストルを手にしたまま、気絶しました。そこで僕は百合さんが柘植君を殺したのだと思い込み、百合さんの気絶したのを幸いに百合さんを寝室へかつぎ込んで介抱しました。すると百合さんは正気づき何も知らなかったので、僕が柘植君を殺したことにして、あなたに電話をかけたのです」

私は立ち上がって田安君の寝床を調べると、枕の中から一個のピストルの弾丸が出てきた。

「やっぱり、あなたが殺される手順でした」

「え? それでは百合さんは僕を殺しに来たのですか?」

「そうです。柘植医学士に催眠術をかけられて、あなたを殺そうとしたのです」

「まあ」といって、入って来たのは百合子さんでした。

「いけない」と田安君は制しました。

「もうわたし、すっかりいいのよ!」

「それにしても柘植君を殺したのは誰でしょうか?」

と田安君はしばらくしてから申しました。

「それは女中と齋藤さんとを探して聞けばわかります」

三人が女中部屋に行くと、女中は正体もなく寝入って、揺すっても起きなかった。

「麻酔剤を飲まされたのですよ。あなたももしその紅茶を飲んでいたら、きっと予定通り殺されたのです」

と私は申しました。

「叔父さんも麻酔剤を飲まされたのでしょうか?」と田安君が言いました。

「先刻、書斎に電燈がついていたようでしたからことによると、書斎で眠っておられるのかも知れません」

書斎の入口のドアは中から鍵が掛けられてありました。叩いても返事がありませんでした。恐ろしい予感が三人を襲いました。私はポケットから特別な道具を取り出し、震える手先で、二分の後、ドアを開けることに成功しました。

すると、中には意外な光景が現れました。斎藤氏は応接室の椅子に腰かけたままテーブルの上にうつ伏しになって冷たくなっていました。そしてその前には、血に染まった短刀と、百合子さん宛の書き置きと、青酸の壜とがありました。

言うまでもなく齋藤氏は柘植医学士が催眠術をかけるのに夢中になっている後からしのび寄って刺殺し、次いで自殺をしたのです。

百合子さん宛の書き置きによりますと、百合子さんは齋藤氏の実子でした。百合子さんの法律上のお父さんが日露戦争に従軍され、戦死の報があったので、その弟たる齋藤氏は、百合子さんのお母さんと心を許しあって、百合子さんができたのです。ところが百合子さんが八ヶ月の頃、戦死されたお父さんは、露軍に捕虜になっておられるとわかったので、たいへん狼狽したのですが、今更どうにもしようがなく、明治三十八年十月に生まれた百合子さんを、一時里子に預け、お父さんの帰朝を待っていると、幸いなことにお父さんは、今日でいうシェル・ショックのような病気に罹り、完全に記憶を失って帰って来られたのです。それが丁度三十九年二月のことでしたから、直ちに百合子さんの籍を入れ、表面上、百合子さんは、法律上のお父さんの子になりました。

そのお父さんはその後今日までA精神病院に入れてあって、齋藤氏は百合子さんに内密で、仕送りをして来たのです。お母さんは百合子さんが五つの時に亡くなり、それ以来齋藤氏は百合子さんの成長を楽しみに暮してきました。

ところが百合子さんのめでたい婚約が済むと、ここに図らずも、悪魔が現れてきました。それはほかならぬ柘植医学士です。

柘植医学士は、精神病院で、百合子さんの法律上のお父さんを受け持っていた関係上、不具者に特有な犯罪性を発揮して、齋藤氏の秘密を知り出し、齋藤氏を圧迫してその家に住み込み、果ては催眠術を応用して百合子さんの婚約を破ろうとしました。

私たちが齋藤氏を訪問して私が百合子さんに催眠術をかけた時、齋藤氏は百合子さんの幸福のために拓植医学士を亡きものにしようと決心されたのだそうです。

こうしてこの事件は片付きました。百合子さんは丙午生まれではないとわかり、安心して田安君と結婚しました。精神病院の記憶を失った患者には、新夫婦が仕送りすることになりました。

それにしても医師が自分の地位を利用して犯罪を行うほど憎むべきことはありません。しかし幸いに悪人は滅びましたが、彼の催眠術は誠に恐るべきものでありました。

 

 

松島氏が語り終わるなり私は言った。

「ですが、その齋藤氏ぐらいの秘密は、世の中にずいぶんありがちのことではありませんか。何も、血なまぐさいことをせずに、一切百合子さんに打ち明けたらどうでしたでしょう」

「さあ、そこが間題ですよ。人間は書き置きに必ずしも真実を書くものとは限りません。いわんやそれは百合子さん宛の書き置きでした。世の中にはどうしても墓へ持ちこまねばならぬ程の大きな秘密がありまして、齋藤氏がそれを持っていなかったと、誰が保証し得ましょう。あの書き置きは齋藤氏の創作だったかも知れません。しかし例え創作であっても、それによって新夫婦を幸福にすれば、齋藤氏の目的は達したと言わねばなりません・・・・・・」

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