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更新日:2025年8月18日公開 印刷ページ表示

黄色の街(昭和3年発表)

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  一

 

探偵小説家安槌富士弥は、ある娯楽雑誌から、「黄色の街」という題で、恋愛探偵小説を書いて くれと頼まれ、何気なく引き受けてしまったが、さて、いよいよ書く段になると、何を書いてよいやら、さっぱり考えがまとまらず、はたと当惑した。これが、「黄色の顔」であるとか、「黄色の衣を纏う女」というような題であるなら、これまで似通った題の探偵小説を読んだことがあるので、さほど困りはしないが、「黄色の街」では、思わしい題材が見つからなかった。もっとも「黄色の街」という言葉は、何となく新味があって、魅力に富んでいるように思われるから、もし、たっぷり時日が与えられたら、すばらしい物語が書けるような気もしたけれど、何しろ締切日まで数日しかないのだから、早くまとめようと、あせればあせるほど心がいらいらして良い考えまでも逃げていきそうな有様だった。

「黄色の街! 黄色の街!」

三日ばかりは、口癖のように、こう、つぶやいたが、そのあげく、彼は例のごとく、友人の篠田医学士を訪ねて、知恵を借りようと決心した。これまで、題材に窮すると、いつも篠田医学士から、珍しい題材を伝授してもらっていたからである。

彼の発表した数多くの短篇のうち、ことに世の喝采を博した「人獣換魂薬」、「指紋の表情」などは、いずれも篠田医学士のヒントを仰いだものであった。前者はインド地方で発見されたある薬剤を人間に注射すると、その人間に虎や猿の霊魂が宿り、その代わり、その虎や猿に人間の霊魂が宿るということを題材とした物語であって、新たに書けば噴飯ものあるが、幸いにも立派な恐怖小説になり切っていた。また、後者は、犯罪学者ロンブロゾー一派の学説、すなわち犯罪者の表情によって殺人者か盗賊かを知り得るという説から出発して、ある博士が指紋にも表情がなくてはならぬと考え、研究の結果、指紋を見ただけで、殺人者か盗賊かわかるようになったということを題材としたもので、これも極めて手際よくまとめられていた。

こういう訳で、安槌富士弥が「黄色の街」について考え悩んだ末に、篠田医学士から、よいサジェッションを得ようとしたのは、無理もないことである。

 

 

 

「黄色の街?」と、篠田医学士はにっこり笑いながら、極めて無造作に言い放った。

「それなら君、わけはないじゃないか」

「え?」

と安槌は相手の顔を凝視した。

「そんなにびっくりしなくてもよい。君はきっと、何か人の意表に出るような奇抜なことも考えようと思ったのだろう。それがかえっていけないよ。僕は小説を書いた経験はないが、小説を書くのも、僕が研究室で実験するのも同じものだろうと思う。何か世間をアッと言わせるような大発見をしようと思って取りかかったら、決して目的を達するものではない。平凡な仕事を繰り返して行くうちに、平凡な事象から大きい真理をつかみ出すのが、本当の発見だ。小説だって同じだと思うよ。まず平凡なことに注意するんだね。そうすればきっとよい題材が見つかる。いや、これは釈迦に説法だった。失敬、失敬」

「どうしてどうして、君の説には教えられる所が多いよ。だが、何分にも締切が迫っているんだ。だから、君の奇想を拝借に来たのだ」

「奇想とは恐れ入るね。人間の考えることに奇想と名のつくものはめったにないよ。変わったことを考えると、奇想だなどと言って珍しがられるだけだ。それはともかく、問題の黄色の街だが、僕だったらまず地図を考えるね」

「ええ? 地図?」

「そうよ。彩色地図のことよ。黄色の街もあれば紫色の街もある。紅色の街もあれば、灰色の街もある。あらゆる色の街があるわけだ。なければ作るだけだ。どうだね。この黄色の街を種にして何か物語は出来ぬかね?」

「さあ」

「例えば、ある物凄い事件が、ある不明の街に起こったとする。探偵は捜索の結果、その街が黄色の街だということを知った。そして、それが地図の黄色だということに考えおよんで、その真の街の名をつきとめた。というような話はどうかね」

言われて見れば、それだけで、一篇の探偵小説が作れそうにも思われた。けれども、今の安槌の精神状態では、とてもゆっくり考えをまとめるだけの根気がなかった。出来ることなら篠田医学士からひとつのまとまった話が聞きたかった。

で、安槌はそのことを話して、最後に、「それに、黄色の街という題には条件が付いているんだ。つまり、恋愛を取り入れなければならんのだ」

「恋愛を?」と、篠田医学士は急に乗り気になった。

「そうならそうと早く言えばよいのに。恋愛ならばちょうど都合のよい話があるんだ」

「それはありがたい。しかもそれが黄色の街という題にも合うんだね?」

「無論!」と強く言って、

「もっとも、小説になるか、ならないかは知らないよ。だがね、僕の話をよく理解するためには恋愛生理学といったものを一応説明しておかねばならん」

「恋愛生理学?」

と、いつもながらの奇抜な話に安槌は好奇の目を輝かした。

「そうだよ。恋愛生理学、従って恋愛病理学のことでもある。つまり人間の恋愛というものは身体のどの器官と関係があるかということなのだ。恋愛というものは決して無形のものではない。そしてちょっと考えると、恋愛は、生殖腺と密接な関係があるようだけれど、その実そうではないのだ」

「昔から、恋愛は心臓が司るものだと決まっているじゃないか」

「ところがね、最近の研究によると、恋愛と心臓とは直接の関係がないとわかったのだ。君も知っているだろう、あの精神分析学という学問を! あれはあらゆる人間の現象を説明し変えたよ、つまり、恋愛も精神分析的研究によって、心臓と直接の関係がないことが説明されたんだ」

「では、どの器官と関係があるのかね?」

「肝臓だよ」

「え? 肝臓? あの不細工な肝臓と?」

「そうだよ。四角四面の郵便ポストが恋愛の媒介をするように、不細工な肝臓が粋な情緒を司るのだ。物は見かけによらんねえ。どうしてそれがわかったかというと、肝臓が病気をすると、その人の恋愛に危機が来るのだ。まだ僕は歴史的研究を行わないからわからんが、古来恋愛に破綻を来たした人の伝記を調べたら、きっと、肝臓に異常を持っていたことを発見するだろうと思う。恋愛者の話を聞くと、僕はいつもその人の肝臓の健在を疑うよ。・・・・・・いや、だいぶ話が理に落ちたね。つまり、これだけがこれから僕の物語ろうとする話の前置きなのだ。僕の話は、この恋愛肝臓説を言わば、裏書きすると言ってよいのだからねえ」

 

 

話は僕の初恋の経験だよ。

初恋! いいものだねえ。いちごの味だ。

僕は京都の高等学校を出て、東京の大学に入り、叔父の家に寄寓して、従妹と恋に落ちたのだ。話のテンポも早いが、僕等の初恋のテンポも実に早かった。

「早きもの、初恋」というような文句は、「枕草子」になかったかね?

事そのものはいたって平凡だが、当事者にとっては決して平凡ではないよ。僕は生き甲斐があると思ったね。世の中が明るく見えたね。

高等学校時代ハイネが好きだったが、彼の詩集「ブーフ・デル・リーデル」の中の、よだれの垂れるような甘い言葉を暗誦しては、恋人------多喜子の前で読んだものだよ。きっと高山樗牛にかぶれたのだろうね。

 

イム、ヴンデルシェーネン、モナート、マイ、アルス、アレ、クノスペン、シュプランゲン、ダー、イスト、イン、マイネム、ヘルツェン、ディー、リーベ、アウフゲガンゲン。

 

確かに、調子はいいねえ。何と訳するかね。「マイ」と言えば五月、日本ではまあ弥生というべきだろう。

「驚くほど美しい弥生の月に、芽という芽が萌えたとき、わが心臓の中に、恋が芽生えた」というのだ。訳すると平凡になるね。ハイネの時代はまだ精神分析学がなかったので、恋が心臓に芽生えたと言ったのだろう。もっとも「わが肝臓の中に」では少々口調が悪いけれど・・・・・・

この弥生の空のように、多喜子と僕との恋も、驚くほど美しかったよ。多喜子も美しかったがね。いやもう二人の恋は純なものだった。あれほど純な恋でも、やっぱり肝臓で司られるかと思うと、少し精神分析学を疑いたくなるけれど、とにかく、初めは純だったねえ。

ところが、二人の恋は、日を経るに従って純でなくなって行こうとしたのだ。熱するにつれて、どうにもならないような点にぶつかりそうになったのだ。肝臓の外に何か別な内分泌腺でも働いたものと見える。本能という奴かも知れんが。

するとだ。いいかね。これからが本題に入るのだよ。

運命という悪魔が二人のその熱烈な恋を微塵に砕いてしまったのだ。悪魔は二人の肝臓に向かって、恐ろしい打撃を与えたのだよ。世の多くの初恋がそうであるように、僕等二人の恋は、げにも、身の毛のよだつほどの受難を経験しなければならなかったのだ。

 

 

君は多喜子の変心を想像するかもしれない。あるいは多喜子の死を想像するかも知れない。あるいはまた義理のために不利の間が割かれたと想像するかも知れない。けれど、恐らく君のあらゆる想像も当たるまいと思う。それほど、僕たちの恋愛に降りかかった障害は、僕たちにとっても、まったく意外なものだった。

話し遅れたが、僕はボートの選手をしていてね、ちょうどその頃は四月のレースを控えて、毎日S川で猛烈な練習を行ったのだよ。ある日、僕は、偶然にそれはまったく偶然に、おお、思ってもぞッとする、多喜子と僕とが、腹違いの兄妹であることを発見したのだ。その発見の顛末は、どうした訳か今、はっきり思い出せんがね。とにかく、疑う余地のないほどはっきりと、二人の真の血縁関係が明らかにされたのだよ。僕が叔父さんと呼んでいた人こそ、僕の真実の父だったのだ。多分、叔父が、否、父が、僕等二人の関係の、ある危険な線に到達しかけていたのを恐れて、僕が、偶然に、この事実を発見するように仕向けたのだったろうと思う。

君、その時の僕の驚き、苦しみ、悲しみ、悶え、失望のほどを察してくれたまえ。いや、察してくれと言ったところが、それは無理だ。同じ経験をしたものでなくては、その心持ちが察し得ようはずはないのだ。僕は遂に人間社会の掟だとか、道徳だとかいうものまで呪ったよ。のみならず、真実を知ったために、驚き、苦しみ、悲しみ、悶えるというような人間の良心というものの存在をさえ呪わざるを得なかったよ。

たとえ妹と知っても、そのまま熱烈な恋は消えるものでない。多喜子に対する恋愛を、世の妹に対する単なる愛情に還元することなどは、とても出来ない相談だ。かと言って、そのまま恋愛を続けることは出来ない。なぜ出来ないか。と、疑って見ても、そうしたことの出来ないように自分というものが拵えられているから、致し方がなかったのだ。

が、それはともかく、僕は多喜子にいかにして、この真実を知らすべきかに迷ったよ。知らせない訳にはいかぬ気がする。知らしては、どのような火事が起ころうとも限らない。かと言って、知らぬ顔をして恋を続けることは不可能である。

僕は知らなかった以前を、どんなに望んだか知れない。けれども、それはおよばぬ望みであった。僕はもう泣くより外はなかった。ハイネと共に、泣いて泣いて泣き続けたよ。

 

 

ところで、ところで君、不思議なことに、多喜子も、僕と同時に、真実を知ったのだよ。さあ、それだから、僕は、僕たちにこの真実を知らせるために父の手が働いたんだと思ったが、それから一体二人はどうしたと思う。

その間の詳しいことは、到底語るに堪えない。君が僕のこの話を骨子にして小説を書くときには、うんと想像を加えて、ミゼラブルな二人の有様を十分描いてくれ。「あきらめる」などという気持ちは到底二人の心のどんな隅にも湧かなかったのだ。その結果はその結果は・・・・・・

その結果は・・・・・・複自殺!

古風な言葉で言えば心中だ。

S川、すなわち僕にとって親しみの多いS川へ一緒に身を投げることにしたのだ。

春の真夜中を選んで。

僕は一足先に屋敷を抜け出したよ。三月の半ばだったが、空は重たく曇って寒い夜風が街を吹き払っていた。僕は物陰にたたずんで多喜子が出て来るのを待ったが、一分、二分が、一時間、二時間にも相当するように思われた。人通りは、ばったり絶えて街灯がところどころに力なく瞬いていた。

やがて、かすかな物音がしたので、ふと顔をあげると、そこには、言うまでもなく多喜子が立っていた。彼女は、あたりを眺め回して僕を探している様子だったので、僕はつかつかとその方へ走り寄ろうとした。

と、その時である。世にも不思議な現象が起こったのだよ。奇蹟と言うべきか、何と言うべきか、僕はいまだにはっきりそれを説明することが出来ない。

僕が多喜子の方へ走り寄ろうとすると、突然、僕の前方の空間から、一人の男が飛び出して、多喜子の傍へ近寄ったよ。あまりのことに僕は声を立てることさえ出来なかった。闇とはいえ、無形の空間から有形の人影が生じて、それが多喜子を占領したのだもの、僕の恐怖は察するにあまりあるだろう。

しかも多喜子は、何の不審も起こさずに、まったくその男を僕であると思って、肩を並べて、ゆるい歩調ではあるが、ずんずん目的地に向かって歩いて行くではないか。

僕の驚きはいつの間にか、一種の嫉妬と、その嫉妬にともなう好奇心に変わっていたよ。僕は二人の後から、二人に知られないように、出来るだけ近寄って、その男を観察すると・・・・・・

ああ君、僕はその時の心持ちを表すべき言葉を知らない。多喜子と肩を並べて歩くのは、まさしく、僕自身ではないか。

僕はどちらの自分が、僕の本当の自分であるかを疑わざるを得なかったよ。君は、先日封切りされた「プラーグの大学生」というドイツ映画を見ただろう。自分のイメージすなわち「影」を借金のかたに取られ、そのイメージのために苦しめられるという心理的怪奇映画を! イメージと自分とが分離するということは、決して珍しいことではないのだ。その夜の僕は、まざまざと、自分と影との分離を経験したのだ。つまり、僕は、多喜子と肩を並べて歩いている方を自分の影だと判断したのだ。

何のために、そういう不思議な現象が起こったのか、それは今でもわからない。「プラーグの大学生」では、悪魔が高利貸しの形となってあのような苦しみを与えたことになっているようだが、僕の場合も、悪魔に魅入られたのだと解釈すれば一番無難であろう。

多喜子と僕の影とは、もとより一語も交わすことなく、人通りの絶えた街から街へ、すべるように歩いて行った。僕はあとから、一定の間隔をもって付いて行ったが、二人は少しも気づかないらしかった。

街から街へ! 更に、街から街へ!

街はいつ果てるとも見えなかった。

突然、僕は異常な現象に気付いたのだ。それまでは二人の姿に、というよりも、僕のイメージに心をひかれて、周囲のことを顧みる暇がなかったのであるが、長い歩行に少し疲れて、二人の姿を冷静に客観視し得るだけの心の余裕が出来たとき、二人の通りつつある街が、世にも不思議な色に輝いていることを知ったのだ。

不思議なと言っても色そのものが不思議である訳ではない。色は黄色、と言うよりも、むしろ黄褐色であるが、見ると、その黄褐色は街ばかりでなくいつの間にかすべての事物を覆って、ちょうど、ある種の薬剤、例えばサントニンによって起こされる「黄視」の現象のように、万物が物憂く黄褐色に輝き、その混沌たる黄褐色の中を男女の黒い影が、静かに移動して行くのだった。それはまったく超自然的な光景であった。どんな巨匠の画筆でも、到底表し得ないような、凄い色調をもったものだった。僕はその時、初めて、神秘というものを感じたよ。しばらくは、神秘感に包まれて、我を忘れてしまったのだ。

ふと、気がついて見ると、いつの間にか、街は途絶えて、行く手に小高い土手が見えていた。僕ははッと思った。それこそは、多喜子と二人で身を投げようとしたS川であるからだ!

言うに言えぬ不安が胸にこみあげて来た。恐ろしい予感が、さっと全身の神経をゆすぶった。

多喜子はどうするか。僕のイメージはどうするか。

思う間もなく、二人は土手にあがった。そして、何の躊躇も疑惑もなく、あっという間もなく、土手の向こうに吸われてしまった。

僕はそのとき駈け出そうとしたに違いない。ところが、何者の力かが、二本の脚を大地に吸いつけてしまった。

ウ、ウ、ウ。うなりとも叫びともわからぬものが、喉の奥から絞り出された・・・・・・

 

 

ここまで語って、篠原医学士は、ほッと一息ついた。

安槌富士弥は、話の後半から、すっかり釣りこまれて聞いていたが、この時、もどかしそうに、

「それからどうした?」

「それからか」と、篠田医学士はわずかに唇をゆがめた。

「それから、気がついて見ると、僕は寝床でびっしょり汗をかいて介抱していた多喜子の心配そうな顔がまっ先に視野のうちに入ったよ」

安槌は「やられたな」と思った。

「君ひどいよ。夢なら夢とことわってくれればいいのに。まさか君が夢を使うような常套的な話はすまいと思った」

「夢とは違うよ」と、篠田医学士は真面目顔になった。

「一種の幻想だよ。実はボートの練習をし過ぎて風邪をひき、黄疸を患ったのだ。つまり肝臓が侵されたのだ。そのために、黄色の街の幻想が起きたのだよ。離魂現象も黄疸の時によく起きる幻想だよ。お陰で、汗をかいたために、それ以来すっかり快方に向かってね」

「それじゃ、恋人が異母妹だったというのも幻想の一つだったのか」

「そうだよ。肝臓の異常のためにあのような恐ろしい幻想が起きたのだ。これで、精神分析学者の言う、肝臓と恋愛との関係は君に十分理解されたと思う。まったく恋愛の中枢は肝臓にあると言ってよい。だからお互いに肝臓の衛生に気をつけようじゃないか」

-----おわり-----

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