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記憶抹殺術(昭和2年発表)
(一)
「先生、この雪の降るのに、わざわざ東京から遠路をご足労願ったのは、私の記憶を抹殺していただきたいのでございます」
蒲団の上に起き直った患者は、探るような眼つきで、心配そうに医師の顔を見守りながら、少し声を震わせて言った。
白髪白髭の医師は黙ってうなずいた。そしてその時、女中の運んだお茶を静かに啜った。火鉢の火は赤々と燃えた。
「今朝の新聞で、先生が最近、記憶抹殺術をご発見になったという事を読み、矢も楯もたまらなくなって、お呼び申した訳でございます。実は私は、ここ一ヶ月ほど前から、ある幻影に悩まされているのでございます。それは、私の過去の記憶と関係のあることでして、その記憶さえなければ、私は、恐ろしい幻影に悩まされずに済むと思います。先生、どうか、私の苦しみを救ってください」
四十五、六に見える患者は、天井から垂れ下がった電灯の光に、やつれた顔の陰影を一層濃くして、何となく落つかぬ様子で懇願した。
医師は再びうなずいたけれど、やはり一語も発しなかった。そして、眼鏡越しに患者の姿を観察した。
戸外には吹雪の音がだんだん激しくなって行った。避寒地としては珍しく、宵から雪が降り出して、今は風さえ吹きつのり、松のうなりが、物凄く響いてきた。
「どんな幻影をご覧になるのですか、まず、それから承りましょう」
しばらくして、医師は重々しく口を開いてこう言った。
「先生は、もしや先月、死刑を執行された弓原総平という男をご承知ではございませんか?」と、患者は語り始めた。
「あの弓原は、私の友人だったのでございます。彼は極めて嫉妬深い性質で、しかも美しい細君を持っておりましたから、夫婦の間にはしばしば見苦しい諍いが起こり、その都度私が仲裁に入ったのでございます。
けれども、とうとう彼はその病的な嫉妬心のために人を殺し、それがため遂に我が身をも滅ぼすに至ったのであります。
彼が殺したのは富谷という彼の友人でした。ある日、彼は、彼の細君の箪笥の引き出しに、富谷のハンカチを発見して、くわッと逆上して、富谷の家に行き、有無を言わさず、富谷をピストルで射殺してしまいました。
もし弓原が、冷静に、そのハンカチの存在した理由について取り調べたならば、富谷と彼の細君とは、何の怪しい関係もないことを発見したかも知れません。もっとも、事の真相は、神様よりほかに誰も知らないはずですけれど、弓原は、死ぬまで、富谷と彼の細君とが、醜い関係を結んでいたと信じていたようであります。
いずれにしても、弓原の行為は軽はずみであったのです。しかし、それはもはや取り返しのつかぬことで、とうとう彼は、絞首台上の露と消えてしまいました」
こう語ってひと息つきながら、しばらく患者は医師の顔を黙って見つめた。しかし、医師の顔色は、少しも変化せず、その話の続きを要求している様子であった。
「弓原が逮捕されたので、細君はひとりきりになりましたから、私は及ばずながら、何かとお世話をしたのですが、それがかえっていけなかったのです。彼は私に対して、激しい嫉妬を感じ、それが遂に怨恨となりました。そして死んだ後まで幻影となって、私を悩ますに至ったのでございます」
この時、医師は顔を上げ、患者の顔をじろりと眺めた。そして尋ねた。
「弓原の奥さんはその後どうなさったのですか?」
「細君は、彼が死刑に処せられる二月ほど前に、急性肺炎で亡くなりました」
「それじゃ、弓原さんも、きっと安心したことでしょう」と、医師は、初めて皮肉な笑いを浮かべて言った。
「そうです、それにも関わらず、死後に私をも悩ますのは、何という執念深い男でしょう」
「で、幻影はどんな風に現れましたか?」
「ちょうど、彼の死刑執行のあった日の晩でした。もし細君が生きているならば、私は死体を引き取りに行くはずでしたが、細君が死んだので弓原は、死体を東京大学の医学部へ寄付することに致しました。私はその日、旧友が死んで行くのを悲しんで、終日家に引きこもっておりましたが、夕方になって、ふと、私が、座敷の縁に立ってガラス戸越しに庭を眺めると、庭の隅に一人の男が立っておりました。そのとき、もうあたりは薄暗くなっておりましたが、それは確かに弓原の顔でした。彼は何となく、うらめしそうな顔をして、私の方を眺めておりました。
はッと思って私は思わず、座敷の中へ駆け込みました。しばらくは、動悸が早鐘のように打ちましたが、だんだん心を静めて考えてみると、死刑の執行を受けた者が来るはずはなく、自分は友人の死を悲しむあまり、幻影を見たに違いないと思い、勇気を出して再び縁先に出て見ますと、案の定もはや、そこには植え込みの樹木のほか、何者もおりませんでした。
ところが、その翌日、ちょうど、同じ時刻に、私は再び庭の隅に同じ幻影を認めたのであります。彼はじっと私の方を向いて、最後ににこりと笑いましたが、その恐ろしい笑い顔は今もなお私の眼の前にちらつきます。私はその時、これはてっきり、彼の幽霊だと思いました。彼が私に対して抱いた生前の嫉妬が死後の妄執となって、私を悩まそうとするのだと思いました。
そう思うと、私はその夜、十分な睡眠をとることができませんでした。幸いにその翌日から、幽霊は再び姿を現しませんでしたが、毎夜、夢で、私は弓原の亡霊に悩まされました。で、私は、私の神経を休ませるために、この海岸の別荘へ移ることにしたのであります。
それはちょうど今月の始めのことでした。私は女中と二人で、夕方この地の停車場に着いたのですが、停車場から別荘まで、わずか三丁(※約330m)ぐらいのところですから二人で歩くことにしました。二丁ばかり歩いて松原のところへ差し掛かりましたとき、ふと私が振り返って見ると、弓原が私たちより十間(※約18m)ほど後から、こちらへ歩いて来ました。私が立ち止まると、彼も立ち止まり、そして、例の恐ろしい笑いを漏らしました。片われ月に照らされた蒼白い顔は到底にこの世のものとは思われなかったので、私は脳貧血を起こしてふらふらと女中の方に倒れ掛かったのであります。
女中はびっくりして、どうなさいました、しっかりしてください、と叫びながら私を労わってくれましたが、しばらく経って気がついて見ると、もはや弓原はそこらあたりにおりませんでした。
せっかく、休養のためにやって来たのに、この出来事はかえって、私の煩悶を増すことになりました。かといって東京へ帰るのはなおさら嫌ですから、それ以来私は半病人のようになって、毎日毎日床の中にもぐりこみながら日送り致しましたが、遂には、弓原の亡霊のために、自分の生命を失うのではあるまいかと思うほど悩まされました。
ところが、今朝のT新聞の地方付録に、先生のご肖像と、先生のご発見になった記憶抹殺術の話が出ておりました。たった一本の注射で、自分の最も気がかりになる過去の記憶を抹殺することができると書いてありましたので、私はもう、じっとしていることができず、電報で先生をお呼びしたような次第でございます。先生どうか、弓原に関する私の記憶を抹殺してくださいませ。先生、私の記憶は先生の注射で抹殺することができましょうか?」
(二)
患者が興奮しつつ、語る間、冷静そのもののような態度で聞いていた医師は、大きくうなずいてきっぱり言った。
「無論あなたの記憶を抹殺することも、極めて容易なことです」
これを聞いた患者の顔には、安堵の色が浮かんだ。
「ありがとうございます。お陰で私は助かります。しかし先生、先生はどうして、人間の記憶を薬剤で抹殺するというような不思議なことをご発見になったのでございますか。そんな不思議なことが事実できるものでございましょうか?」と、今度は患者は好奇に満ちた眼をして尋ねた。
「できますとも。原理を言えば極めて簡単です」と、医師は言った。
「そもそも私が、記憶抹殺法を研究するに至った導火線となったのはモルヒネの研究であります。ご承知の通り、モルヒネは人間の痛覚の中枢を冒します。すべて人間の感覚やその他の中枢は人間の大脳の中で、はっきり区別されていますから、その各中枢を別々に冒す物質もなくてはなりません。ちょうど、モルヒネが痛覚の中枢を冒すように、記憶の中枢だけを冒す物質もなくてはならぬと私は考えたのです。記憶のうちでも、苦痛を伴うような記憶は、普通の記憶とは別な中枢によって司られているであろうというのが私の考えの出発点でした。
そこで、私はかなりに苦心して研究しました。そして記憶抹殺薬としては、神経系に作用する毒物を色々に変化させればよいであろうと考え、モルヒネやアトロピンの類に属する物質から多数の化合物を作り、その結果、痛苦を伴う記憶を抹殺する物質を、首尾よく発見したのです」
「そうしますと、やはり、その薬は、モルヒネのように一時的な効果しかないのでございますか?」
「無論一時的なものです。しかしモルヒネと違って、一度注射すれば、三日ぐらい、記憶は完全に消失します。そして四、五回繰り返すうちに、記憶は永久に拭い去られてしまいます。本来いかなる記憶でも自然に消失するのが常ですから、いや、最近の学説では、記憶は消失するのでなく下積みになるのだといいますが、とにかく、私の薬を注射すれば、記憶は表れてこなくなります。そして、注射はモルヒネと同じく皮下注射でよろしいのですから、ご自分でもなさることができます」
患者の顔には、安心の色が増した。
「それでは先生、二日目かまたは三日目に注射に来ていただくことができますか?」
「来てあげますとも。そこで早速これから、一本注射しておきましょう」
医師は患者の寝床に近寄って、患者の左腕を出させ、携えてきた黒色の往診鞄の中から注射器と注射薬とを取り出した。そして、アルコールを浸ませた脱脂綿で二の腕を拭ってから、静かに注射器に注射液を充たし、ついで手際よく一筒を注射した。
注射を終わってから、医師は広げた道具を片付け、再びもとの座についた。戸外では吹雪が相変わらず凄まじい音を立てていた。
「どうです?」
しばらくしてから医師は患者に向かって尋ねた。
「なんだか妙な気持ちになりました」
「そうでしょう。で、弓原氏に関する記憶は無くなりましたか?」
「無くなりません」
「え、無くならない? おかしいですねえ、あなたはもしや、さっき、私に嘘をお話しになったのではありませんか?」
言われて患者の顔色は変わった。
「いいえ」と、患者は慌てて言った。
「そうではないでしょう。嘘をおっしゃらなければ、この薬は間違いなく効くはずです」
「しかし・・・・・・」
「しかしじゃありませんよ」と、医師の声は、急に威圧するような調子を帯びた。患者の顔は土のように蒼ざめた。
「実は、私は弓原総平のことをよく知っております」
「ええっ? 先生が?」
患者の顔には恐怖に近い驚愕の色が浮かんだ。
「いや、私は弓原総平には逢ったことがないですけれど、その弟をよく知っているのです」
「何です? 弓原に弟がありますか。今まで一度も聞いたことがありません。弓原の細君もそれを知らないようでした」と、患者は喘いで言った。
「無論、弓原総平以外に誰も知らないはずです。というのは、その弟は、朝鮮に根拠を有するKfkという恐ろしい秘密結社の社員ですから」
患者は、あまりに意外なことを聞いて、ただ医師の顔を見つめるばかりであった。
「そのKfkという秘密結社は法の網をくぐって悪事を働いている連中を懲らしめるためにできたので、時には殺人をも敢えてします。ですから、いったんその社員となったものは、親兄弟とも音信不通であり、その親となり兄弟となったものは、決して他言しないのであります。
社員は極めて扮装が巧みで、その行動が神出鬼没ですから、これまで一度もその筋の手に渡ったものはありません。弓原総平が殺人を行ったことを聞いて、弟は、朝鮮の本部から駆けつけて、ただちに兄の事件を調査しました。もちろん、直接兄にも逢ったのですけれど、いかなる方法で逢ったのかは誰も知りません。ただ、私だけは知っております。すなわち彼は、兄の弁護士に扮装したのです。
その結果、弟は意外な事実を発見したのです。弓原総平が富谷という友人を殺したのは、実は細君とその情夫の罠にはめられたことがわかったのです。
ええ、驚くでしょう。細君には、実は一人の情夫があったのです。その情夫は狡猾な男で、細君と謀って、弓原総平を亡きものにしようとしたのです。彼は、富谷のハンカチを秘かに盗んできて、弓原の細君に命じて、その箪笥の中へ入れさせました。弓原は細君を愛し切っておりますから、細君には手をかけないで、富谷だけを殺すに違いないと考えたのです。果たして、彼等の計画は見ごとに遂行されました。
しかし、それは決して、確かな証拠のあることではありません。弟は細君のその後の行動を監視して、そう推定しただけです。だから弟は兄を救うことはできませんでした。その代わり弟は、兄のために、細君とその情夫に復讐することを誓ったのです」
こう言って、医師はちらと患者の方に眼をやったが、更に言葉を続けた。
「ところが、細君は、天罰を受けたとでも言うのか、急性肺炎で亡くなりました。そこでもう残るところは、その情夫だけです。弟はKfkの社員ですから、情夫を殺すことぐらい、何でもないのですが、彼は、先方を十分恐怖させて、殺したいと思ったのです。極めて狡猾な方法で兄を殺した情夫を、より以上に狡猾な方法をもって殺そうと企んだのです。その結果、弟は一策を案じました。人間にはどんな冷酷な犯罪者にも多少の良心はある。すなわち人を殺せば、多少の悔悟の念は誰にもあるはずだから、弟はその情夫の良心を利用して、彼を苦しめようと計ったのです。果たしてその計画はみごとに成功したのです」
こう言って医師は薄気味の悪い笑いを浮かべた。
さっきから、患者は、身をすくめるようにして医師の言葉を聞いていたが、今はもう恐怖のために、舌の根がこわばったと見えて、物を言いたくても言えぬ様子であった。額には汗の玉がぎっしり並んだ。
「言うまでもなく、その情夫というのは、あなたでしょう。あなたの見たという、弓原の幻影は、実は弓原の弟だったのです」
こう言った医師の言葉を聞くなり、患者は頭を抱えて蒲団の上にうつ伏しに横たわった。
医師はそれにも構わず、言葉を続けた。
「だから、さっきあなたがお話しになったことは嘘だったのです。従って、私の注射した記憶抹殺薬は少しも作用しないのです」
この時、うつ伏しになっていた患者は顔を上げ、苦しそうに声を絞って言った。
「先生、私が悪うございました。嘘を言ったのは悪うございました。どうか私を救ってください」
「ではやはり、弓原の弟の想像通り、あなたは、弓原の細君と共謀して、弓原に兇行を演じさせたのですか?」
「すみません、先生、今はもう何もかも白状しますから、どうか、その恐ろしい弟の手から私を救ってください」
この時医師は手早くその頭に手をやったかと思うと、白髪も白髭も眼鏡もなくなって、そこに一人の四十前後の男の顔が現れた。
「あッ、弓原!」
患者は思わず叫んだ。
「違う、俺が弓原の弟だ!」
この声を聞くなり、患者は逃げ出そうとしたが、どうした訳か立ち上がることができなかった。
彼は大声で女中を呼んだ。しかし、答えるものは吹雪の声ばかりであった。
「じたばたしたってもう駄目だよ」と、弓原の弟は言った。
「女中はもう、とっくにほかの秘密結社員の手で縛ってあるのだ。
おいよく聞け、俺は今、貴様たちが兄を殺した方法よりも、もっと狡猾な方法で貴様を殺すことにしたと言っただろう。俺が兄の亡霊の役をして貴様に良心の呵責を与えようとすると、果たして貴様は苦しさに堪えかねて、この別荘へ移ってきた。そこで俺はもうしめたものだと思ったのよ。
T新聞社にKfkの秘密結社員がいるのを幸いに、その地方版に、俺の、医者に扮装した写真と記憶抹殺術の記事を書かせたのだ。そうすれば、きっと、貴様の眼に触れて、貴様が俺を呼ぶに違いないと思ったのだ。
果たして俺の思う壺にはまった。俺は昔、医学生だったことがあるので、医学の理屈は多少心得ているのだ。だが、記憶抹殺術のことは、あれは、みんな出鱈目だよ。人間の記憶、ことに、苦悩を伴う記憶だけを抹殺する注射薬など、どこにあるものか。それは、みんな貴様に接近し、貴様に恐怖を与えるための方便に過ぎないのだ」
患者はこの時、激しい痙攣を起こし、蒲団の上に、這いつくばった。そして、もはや苦しさのために、相手の言うことが耳に入らぬ様子であった。
「さっき、俺が貴様に注射したのは毒薬だよ。貴様を殺すための毒薬だよ。そのために貴様は今苦しむのだ。毒薬がその作用を顕わしてきたのだ。
貴様はもう三分間経たぬうちに死ぬであろう。かくて俺は、兄のために復讐を遂げることができたのだ。
女中は縛ったままに残しておく。Kfkは、決して罪のないものを殺さない。そして警察は到底俺たちを捕まえることができないのだ。
おい! 最後に、貴様に一言、聞かせたいことがある。あの世への土産によく聞いておけ。罪の記憶を抹殺する最良の方法は生命を断ち切ることだよ。死ねば、あらゆる記憶は抹殺される。
この意味で、すべての毒薬は、最良の記憶抹殺薬なのだ。わかったかい。俺は今、貴様の望み通りに、貴様に、最良の記憶抹殺術を施してやったのだ・・・・・・」
戸外には、少しも疲れた色を見せぬ吹雪が、物狂おしく吠えて、患者の断末魔のうめきと、不思議な合奏を行った。
(終)