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更新日:2025年8月18日公開 印刷ページ表示

機械人間(昭和2年発表)

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人間が機械になったのでもなく、また機械が人間になったのでもありません。ただ一人の人間が機械のように他動的に、いわば他人の命じるがままに動くことによって、ある殺人事件が解決されたというお話なのです。そして言うまでもなく、その機械に等しい人間となったのは、かく言う私自身なのです。というと私が何か素晴らしい冒険でもしたかのように思われる読者があるかも知れませんが、なに、お話すれば極めて平凡なことなのです。何しろ、私はその時、お腹が極度にすいて、身体がおむつのように無気力にしなびていたものですから、とてもそんな、血湧き肉躍るといったような冒険にはぶつかりそうもなかったのです。と言って、まんざら、語るに足らぬ話でもありません。その証拠には、この話が日本一の娯楽雑誌に掲載されているではありませんか。

さて、世の中の人は、とかく色だ恋だと、やかましく言いますけれど、飢餓に迫られた時ほど、人間に惨めさはありません。何とかいうドイツの詩人は、哲学者たちが何と言おうが、当分のうちは飢えと恋とで浮世の狂言が行われると言ったそうですけれど、恋は要するに飢えの深刻なのには及びませんよ。お医者様や思想家とやらいう人たちは、世の中の現象をりっしんべんに生まれるという字の欲望で説明しようとしますけれど、考えて見るとその人たちの胃の中は空虚ということを経験しないために、そんな呑気なことが言っていられるのだと思います。ひとたび胃の中から十二指腸、小腸にわたって、空虚が支配権を握り、そのために、それ等の消化管から蛙の鳴くような音が発するまでになってご覧なさい、どうしてなかなか「性」の字どころの騒ぎではありません。目がくらむ、筋肉が震える、歯が鳴る、いわば、身体は「方丈記」もどきの震火の難儀、鴨長明でもない一介の労働者でも、何となく無常を感じないではいられません。

しかし、労働者たる私が、飢えにさいなまれた身体を、その日、浅草寺の境内に運んだのは、あながち無常を感じたからではありません。といって、観音さまに願をかけて、就職口を授けたまえとおすがりする程の信心もなければ、気力もなかったのです。飢えに迫られた首都の人間は、言わば、本能的に、金龍山の土を踏むことになっているらしいと見えます。

四月の末のことで、まだ綿入れの欲しい気候でしたが、私は、一枚きりの襟の光った着物に、二十五歳の身体を包んで、由緒あるベンチにぐたりと腰をかけました。日の光が西に回って、うすら寒い風が肌をなめましたので、私は、鳥打帽子のつばを引き下げましたが、それではただ頭が暖かくなるだけで、身体の震えはかえって増すばかりでした。

朝から水を二、三回飲んだだけで、一口の飯も食べてはいませんでした。呑気そうに餌を拾う鳩が羨ましくてなりませんでした。身につけたもので最早何ものも、金に換えるべきものはありませんでしたから、今夜はこのままこのベンチで暮らすより外はないと思いました。

それかと言って、明日就職口が見つかる予想もありませんでした。何しろ、今朝などは、たった一つ、宿屋の帳面付けの口があったのを、四十人ほどの頑丈な男が奪い合い、遂に口入れ屋の主人を傷つけたほどですから、到底、私のような腕力の弱いものは、当分職につけそうにありません。恐らく、近い将来には、餓死して警察のお世話になるのが関の山だろう、こう考えると、私は、一種のめまいに似た不快な感じを起こしたので、目をつぶって、頭を垂れ、しばらく虚心の状態に陥りました。

ふと、香水の匂いがしたので、目を開いて見ると、私の隣に、同じベンチに腰をかけて、一人の妙齢の女が、懐鏡を出して、紅色の紙で、しきりに鼻の両わきをこすっておりました。私は、その時、飢餓の感じを忘れて、その女の挙動に見入りました。二十四、五の色の白いやせ型で、格子縞のお召の着物に、紫紺色のシャルムーズ生地の羽織と御所車を染め出した羽二重の文化帯・・・・・・いや、腹が減った時は馬鹿に着物の模様に目が行きやすいものなのです。そのほかに持ち物として、イブニングバッグとこうもり傘、これはもう言わずと知れた普通のこと。ただ普通でないのは、このような美しい女が、このような汚いベンチに腰をかけたことで、それは何と形容してよいか、「はきだめに鶴」などは、我ながら古い言葉だと思いますけれど、いずれにしても、その時の私にとっては、実に意外な現象だったのであります。

けれども、大都会の人々にとっては、それは少しも不思議ではないと見えます。みすぼらしい古手拭を絞ったような男と、ダチョウの羽の様なけばけばしい女が、相並んで一つのベンチに腰を掛けていても、別に何とも思わずに、中には、一瞥を与えることさえ節約して過ぎて行く人がありました。恐らく大都会の人は、自分のことが心いっぱいを占領して、他人のことなどにかまっていられないのでしょう。私の隣に腰をかけた女も、あたかも私というものの存在に気づかぬかのように、忙しくお化粧に熱中しておりました。

ふと、私は、女の左の薬指に、大きなダイヤモンドを抱いた金の指環がはめられていることに気づきました。それと同時に、あのたった一つのダイヤモンドがありさえすれば、この俺は・・・・・・などという空想が起こって来て、ダイヤモンドを金に替え、それから、その金で、あれをやり、これをやり、といった具合に、先から先へと空想が発展して、いつの間にか、本堂や五重の塔が黒ずんで来たのも気づかずにいたのであります。

ひとしきりお化粧に熱中していた女は、鏡その他の化粧道具をイブニングバッグに入れるなり、パチンとその口を閉じました。その音に脆くも私が空想を破られて、女の方を向くと、女は私の方を向いてニッと笑いました。私はぎょッとしました。

と、更に驚いたことには、女は私に向かって、馴れ馴れしい顔をして軽く会釈をしました。私も思わず、お辞儀をしました。

「お疲れ?」と、女はやさしい、しかし、さらさらした口調で尋ねました。

「はぁ」私は夢中で返事をしました。

「何か就職口を探していらっしゃるでしょう?」

「ええ。よくわかりますねえ」と、私もいつの間にか、女の物慣れた態度につりこまれて、砕けた調子で言いました。

「そりゃ、ひと目でわかりますわよ。で、いい口が見つかりまして?」

女はこう言って、私の傍へにじり寄ってきました。

「いいえ、見つからんのです」

「では、どうなさるつもり?」

「どうするって、どうしようもないのです。このまま、飢えて死ぬより外はないのです」

「お気の毒さまねえ」

こう言って女はしばらく前方を向いて考えておりましたが、何を思ったか、その左の指にはめていた件の指環を抜いて、つと左手を伸ばして、私の手に握らせました。

「これをあげましょう」と、女は比較的低い声で言いました。

「そ、そんな・・・・・・」

私は思わずそれを突き返そうとしました。

「野暮を言うものではないですよ」と、女は諭すように言いました。

「でも、こんな貴重な・・・・・・」

「ほほほほほ。そのダイヤモンドは実は模造品なのよ。だから、指環は、金の価値だけしかないの。けれど、一日や二日はそれで食えると思うから、どこか近くの質屋へ預けて、お金に換えていらっしゃい」

こう言って、女はあたりを見回しました。

夕暮れが迫って来ましたので、通り過ぎる人々は皆歩調を早め、誰も、私たち二人の様子を見ているものはありませんでした。

「あなたはいったい・・・・・・」

皆まで私が言わぬうちに、女は遮りました。

「誰だと聞くのでしょう。私だって人間よ。別に怪しい獣ではないのよ。その指環は決して紙屑が化けたのでないから、安心してお使いなさい」

こう言ったかと思うと、女は立ちあがって、向こうへ歩いて行こうとしました。

「あ、もし」と、私は腰を浮かせて呼びました。

けれど、女は振り向こうとせず、さっさと遠ざかって行きました。私は、空腹のせいか、歩く元気もなく、再び腰をおろして、女からもらった指環を手に受けて眺めました。模造品にしては、何となく光が強いように思われるダイヤモンドを前に、私は思わぬ幸運を得た喜びに、しばし、前後を忘れて陶酔しました。

 

                              二

 

それから間もなく、私は機械のごとく立ちあがって、女に教えられた通り、指環を金に替えようと思いました。みすぼらしい服装をして、金の、しかも模造品であるとはいえダイヤモンドをはめた指環を持って質屋の戸口をくぐることは、常ならば到底気が咎めて出来ないことですが、空腹の威力は、私を、馬道のある質屋の店に敢然として入らせました。あとで聞けば、その質屋は、外見は小さいが浅草界隈で有名な大店で、東京中の著名な宝石の異動がことごとくわかるというところだったのです。

私は番頭らしい人に指環を出して、いくらでもよいから貸してくれと頼みました。番頭は四十あまりの、前頭部の禿げた、見るからに賢明らしい顔付きをしていたが、指環を二、三回手で弄り回してから、

「しばらくお待ちください」

と言って、奥へ入って行きました。ちょうど、夕飯時だと見えて、客はなく、数人の小僧がいろいろな世間話をして、笑い興じておりました。程なく、番頭は出て来ました。

「ただいま、主人が値ぶみを致しておりますから、しばらく、こちらへお上がりくださって、お待ちを願います」

私は言われるままに、畳の上に上がって、与えられた座布団の上に座りました。番頭はキセルに煙草をつめて静かにふかし始めました。三分、五分。奥からは何とも返事がありませんでした。

「どうしてくれましたか」

私は待ちきれずに番頭に催促しました。

「ただいますぐでございます」

「僕は急ぐのです。実はまだ夕飯をとっていないので」

「それではお夕飯を差し上げましょう」

番頭はすぐさま小僧に命じ、間もなく食膳が運ばれて来ました。私がどんな態度で食事をしたかは、皆さんのお察しに任せます。とにかく、食事中私は、女のことも、指環のことも忘れ、また、私の周囲にどんなことが行われているかに少しも気付きませんでした。

「お済みになりましたら、どうぞ、奥座敷へ来てくださいませんか。主人がお目にかかると言っておりますから」

私が箸を置くと、番頭がこう言いましたので、初めて私が指環を持って、金を貸してもらいに来たことを思い起こしました。

機械のごとく私は立ちあがりました。極度の飢餓によって、機械と化された心は、一度や二度の食事で、もとに戻るものではありません。私は番頭に案内されて羊のごとく従順に奥の座敷に来ました。そこには、主人らしい老人と、今一人、目のきょろきょろした四十恰好の洋服の紳士が座っていました。

「わたしが主人でございます」と、番頭が去るなり、老人は丁寧に私に挨拶しました。その手には私の持ちこんだ指環が握られておりました。

「この指環にいくら差し上げたらよろしゅうございましょうか」

「いくらでもよいです」

「でも、おおよそ、あなたの方にも予算がおありでしょう」

「予算も何もありません。どうせそのダイヤモンドは偽物なのですから、金の代だけでいいです」

「へ、とんだご冗談を!」と、主人は、つるりと禿げた頭を撫でて言いました。

「え? 冗談ですって? 何が冗談です?」

「このダイヤモンドは偽ではございません」

「え? 偽でない?」

「偽どころか、時価一万五千円(※現在の約954万円)をくだらぬ立派な宝石です」

私はあまりのことに、しばらくの間、物が言えませんでした。もし、私が食事をしていなかったならば、その場に卒倒したかも知れぬくらいでした。

「そんなことはないはずです。僕はそれを今日、ある人から貰ったのです。くれた人は、確かに、それを偽物だと言いました」

「それでは、あなたはこの指環が、麻布の広田男爵未亡人の持ち物であったことをご存知ないのですか?」

「知りません」

「去年の春、男爵未亡人が殺され、その金庫の中から奪われた貴重品の一つであることも?」

「知りません、知りません」

あまりに意外な言葉に私は大声を出してこう叫びました。

この時、今まで私と主人の会話を黙って聞いていた紳士が口を出しました。

「その指環を持っている以上、知らないとは言わせんよ」

凛とした声に、思わず私は相手の顔を見つめました。すると紳士はポケットから一枚の名刺を取り出して私に渡しました。取り上げて見ると、「××署刑事 深野恒一」と書かれてありました。

「僕は今、ここの主人から、電話がかかったので、密かに裏門から駆けつけて来たのだ。広田男爵未亡人を殺した犯人は、一年を経た今日、まだ解っていないのだ。その時、男爵家の金庫から紛失した貴金属類が一向に市中へ出なかったので、その手がかりを得られなかったのだ。だからかねて市内の質店へ、もし盗品の一つがあらわれたら、すぐ通知するようにと、頼んであったのだ。ところが、今晩、君が盗品の一つを持って来たので、僕がその取り調べに来たわけだ。いったい、どうしてこれが君の手に入ったか包まず話したまえ」

私は思いもよらぬ渦巻の中へ巻き込まれたことを知りましたが、元来少しもやましいところはありませんから、私が就職口を失って、空腹のあまり、観音さまの境内のベンチに腰をかけたことから、美しい女の人に指環をもらった顛末を、出来るだけ詳しく語りました。深野刑事はそれから、私の生い立ち、身の上を尋ねました。それについて、私は、何の淀みもなく、すらすらと、知っている限りのことを述べました。

すると、刑事は、私に指環をくれた女の容貌やら服装について尋ねました。お腹の空いていたおかげで、服装だけはよく観察しましたから、かなり詳しく述べることが出来ましたけれど、肝心の顔つきに関しては、はっきり覚えていないことに気がつきました。すべて男は腹がふくれているときには、女の服装よりも顔に目が行き、腹が減っているときには、顔よりも服装に目が行くものと見えます。とにかく、私は、その女の年恰好や容貌について、記憶しているままのことを語りました。私の話を、熱心に聞いていた深野刑事は言いました。

「本来ならば君を、広田男爵未亡人殺しの最も有力な嫌疑者として拘引すべきであるけれど、君が今語ったことは、全然偽りであるとは思えないから、監禁することだけは見合わせよう。その代わり、君、これから僕の言う通りに行動してくれないか」

「何でもやります」と、私は答えました。どうせ当分の間は、就職口は見つかるまいから、いっそ警察へ拘引されて、お上のご馳走になっていた方が遥かに気楽であると思いました。けれど、まさか、そう言うこともできませんから、刑事の言うままにしようと決心しました。

深野刑事は主人に何やらささやきました。すると主人は立ちあがって次の間に行きましたがしばらくの後、手に一束の大型の紙幣を携えて入って来ました。

刑事は紙幣を受け取るなり、それを私の方に差し出して言いました。

「ここに百円(※現在の価値で約63,000円)紙幣が十枚ある。これを君にあげるから、雷門前のタイガー酒場へ行って、欲しい酒を飲み、欲しい物を食べ、この紙幣で勘定をしたまえ」

私は何だか、狐にばかされたような気がしました。

「それからどうするのですか」と、私は思わず尋ねました。

「それからは君、勝手に行動して構わない。ただ君は酒場で、誰が何と言って話しかけても、決して反抗しないで、いわば、デクの坊になっておらなければならん。いいかね」

私はうなずいて、生まれて初めて手にした百円紙幣の束を、袂の中に入れました。

 

                             三

 

私は幸福と言ってよいのか、不幸と言ってよいのかわからぬ心持ちで、街へ出ました。天には星がべったりと輝き、地にはかなりに強い風が吹いておりましたが、百円紙幣を十枚持っているということだけで、全身が何となく暖かい気持ちになりました。しかし、その百円紙幣が、果たして自分のものになるのか、それとも、酒代を払ったあとでまた取り上げられてしまうのかわからぬと思うと、何となく、くすぐったい気持ちにならざるを得ませんでした。

タイガー酒場はかなりに賑わっておりました。私は隅の方のテーブルに陣取って、ウイスキーを注文しました。何か物を食べようと思っても、別に欲しくはありませんでした。こんなことならば、質屋で、あれほど沢山ご飯を詰めこむのではなかったのにと後悔しました。

しかし、ウイスキーは、私の心を極めて愉快にしました。それと同時に再び食欲を起こさせました。で、私は二皿、三皿の西洋料理を平らげ、なお数盃のウイスキーを飲み干しました。

かなりに酔いが回って、私は長い間、テーブルの前に腰を落ちつけておりました。もうその時分には、私自身の不思議な運命について考えを巡らすだけの理性がなくなったほど、いい心持ちになっておりました。

酒場には入れ代わり立ち代わり、沢山の男が出入りしました、しかし、私の食事中、誰一人私の傍に来るものもなければ、また私に話しかけるものもありませんでした。

ところが、いざ帰ろうと思って、給仕女を呼び寄せ、百円紙幣の束を取り出して、その内の一枚を渡そうとすると、どこから飛び出して来たのか、一人の獰猛な顔をして汚い洋服を着た男が、

「やあ、豪勢だなあ」

と言いながら、女給を押しのけて、私の向こう側にどかりと腰をおろしました。男はもじゃもじゃした長い髪の毛を生やし、長い間顔を剃らないと見えて、髭がかなりに長く伸びておりました。緑色の大きな眼鏡をかけておりましたから、その目つきはよくわからないが、その声は、何だか以前に聞いたことがあるように思いました。

男は黒くなりかかった、古いパナマ帽を両手でいじりながら、言葉を続けました。

「俺は君があの馬道の質屋へ入って行くときから、ちゃんと見ていたよ。長い間出て来なかったところを見ると、きっと質屋でご馳走になったに違いないな。その上、そんなに沢山お金をもらって来 たんだから、何かよっぽどいいものを持ちこんだな。こいつ、うまいことをしやがった」

この最後の言葉が非常に大きかったので、付近の人々は一斉に私の方を眺めました。だが、男は平気で語り続けました。

「だが君、気をつけなきゃいけないよ。あの質屋は怪しいものを買うというので、警察ににらまれているのだから。まさか、君は怪しいものを持ちこんだ訳でもあるまいなあ」

私は何となく気味が悪くなりました。気味が悪くなったというよりも、むしろ決まりが悪くなりました。この男はいったい何者だろう。何のために自分の行動を監視していたのだろう。そして、何のために、大声で、人々に吹聴するのであろう。

私は何か言わねばならぬような気がしましたけれど、その時、深野刑事の言葉を思い起こしました。「誰が何と言って話しかけても、決して反抗してはならん」と、刑事は念を押したではないか。で、私は、ただ、男に向かって快くうなずくだけでありました。

すると男は立ちあがって言いました。

「諸君。ここにいるこの人が、今日たいへんお金が入ったそうで、諸君にビールを一杯ずつ奢ってくれるそうだ。おおいにご馳走になろうではないか」

破れるような拍手が起こりました。数人の男は私の傍に駆け寄って、私に握手を求めました。男の斡旋によって女給は総出で、すべての客にビールを注いでまわりました。

その騒ぎが済むと、件の男は、礼を言って向こうの隅のテーブルへ行き、女給に日本酒を命じておとなしく飲み始めました。

私が勘定を払って立ちあがろうとすると、後ろから、ポンと私の肩をたたくものがありました。振りかえって見ると、それは、先刻私に握手を求めに来たものの一人で、あのときから、そのまま、私の隣に腰をかけているのでした。

男は声を低くして言いました。「今のあの人相の悪い男に気をつけなければいけませんよ。あいつはあなたのそのお金に目をつけているのです」

私は思わず相手を見つめました。彼は比較的瀟洒な洋服姿の四十恰好の男で、別に悪意を持っていそうに、見えませんでした。

男は重ねて言いました。「あれは、この浅草あたりを縄張りとしている「ダニ忠」というスリの親分です」

私は思わず袂の中に手を入れました。しかし、紙幣束はそのままになっておりました。

「あなたはこれからどこへ行きます?」

「別にどこへ行くというあてもありません」

「では、私の家へ来ませんか」

私はちょっと考えました。が、その時、またもや、深野刑事の命令を思い浮かべました。

「行ってもよいです」 と、 私は答えました。

そこで相談が決まって、私たちは立ちあがりました。

酒場を出ようとすると、ダニ忠が、つかつかと、私たちのそばに駈け寄って来ました。

「君、俺に黙って行くのはひどいじゃないか。そんなに大金を持っていては、途中が案じられるから、俺が送ってやろう」

ダニ忠は、かなりに酔いが回っている様子でした。私は体よく断わろうかと思いましたが、その時、さらに、深野刑事の命令を思い起こしました。で、私たちは三人で、街へ出たのであります。

二、三丁(※2~300m)人通りの少ない街を歩いて行くと、ダニ忠は、しきりに、自分の家が近所にあるから、そこへ立ち寄って一杯やって行けと進めました。私はどうでもよかったのですけれど、もう一人の男が承知しませんでした。

遂に二人の間に口争いが起こりました。しらふならば、そのような争いを起こさなかったでしょうが、何しろ二人とも相当に酔っていましたから、今にも激しい立ち回りが始まりはしないかと、私は気が気でありませんでした。

果たして間もなく取っ組み合いが始まりました。ふと私が先方を見ますと、赤い軒灯が目につきましたので、そこへ駈けつけて早口で警官に急を告げました。

「ダニ忠」と聞いて警官は、転がるように飛び出して来ました。

「やっぱりダニ忠だな」こう言って警官が、取っ組み合っているダニ忠に手をかけようとすると、ダニ忠はその時警官の耳に何やら囁きました。

すると、警官は突然、ダニ忠の相手の男に飛びかかりました。そして、激しい格闘があった後、不思議にも、瀟洒な洋服を着た男は、手錠をはめられておりました。

しかし、不思議なのはそればかりではありませんでした。ダニ忠が頭に手をやって顔を撫でたかと思うと、そこには、間違いもなき深野刑事の顔が現れました。

「おい安!」と、刑事は手錠をはめられた男に向かって言いました。「広田男爵未亡人を殺した犯人として貴様を逮捕するぞ!」

 

×      ×      ×      ×

 

もはや皆さんは、おおよそ、事情をお察しくださったことと思います。「安」と呼ばれた男は「千葉安」とあだ名された常習性の盗賊で、果たして、広田男爵未亡人を殺害し、その所持品を奪った犯人でありました。けれども、彼が用心して盗品を質入れしなかったために、警察では手がかりが得られなかったのです。しかし、それから約一ヶ年を経ましたから、もうよい時分であろうと思い、試しに私を使って、盗品を質入れさせたのです。ところが彼の計画は深野刑事のために、見事に失敗に帰しました。刑事が巧妙にもダニ忠に扮装したために、彼はすっかり油断をしたのです。実はダニ忠は先月刑務所に入れられたのですけれど、それを知らなかったのは、彼の大きな手ぬかりでした。

観音様の境内で私に指環をくれた女は、千葉安の情婦でしたが、彼女は未亡人殺しには関係していないとのことでした。私がもらった紙幣束はもちろん返さねばなりませんでしたが、その後、幸いに私はある職を得て今では至って平和に暮らしております。

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