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更新日:2022年2月14日公開 印刷ページ表示

展望塔の死美人(昭和3年発表)

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(一)

何しろその都で一ばん名高いYデパートメントストアの、しかも展望塔のベンチの上に、都下一流の映画女優花房八重子が、春の昼日中盛装して死んでいたというのですから、騒ぎはひとしお大きくなったのです。

雄大な景色に接すると、よく人は死にたくなると申します。なぜ死にたくなるのか、心理学者にでも尋ねたら、きっと、むつかしい理屈をつけて説明するに違いありませんが、理屈はとにかく、すべて愉悦の情が絶頂に達したとき、それが肉体的のものであっても、または精神的のものであっても、ことに女の人は死にたいという衝動に襲われやすいのであります。Yデパートメントストアの展望塔から見下ろす景色は、ことに春たけなわなる頃には、実に雄大そのものといってよろしい。後方には白い雪を頂く連山、前方には蒼く輝く果てしなき海洋、幾十里に広がる瓦屋根の中から、ところどころに白くそびえる摩天楼、満開の桜花に取り囲まれた公園の伽藍、遥か向こうには古城がそそり立つなど、ひとたび塵深い街頭を逃れてこの展望塔に上ると、その眼に受ける変化の激しいだけ、それだけ心に受ける変化もはなはだしく、従って、ふらふらとした気にもなりやすいわけであります。

ですから、女優花房八重子が、展望塔のベンチの上で眠るがごとく死んでいたと聞いて、恐らく彼女は自殺したのであろうと、多くの人が想像したのも無理はありません。いやまったく、自殺の場所としては毛先ほども不足はなく、最近人気が幾分か下火になりかけていた彼女として、自殺を選ぶのも決して不思議な心理ではないからです。展望塔の上はかなりに混雑していますけれど、どうかすると、それほどたくさん人の上がっていない時もあります。ですから、そのすきを見て毒薬を飲み、ベンチに腰かけて美しい風景を眺めながら、永久の眠りにつく・・・・・・なんと詩的な死に方ではありませんか。こういう詩的な死に方は、彼女の平素を知るものには、当然のこととして、うなづけるのでありました。

私は今、彼女が毒薬を飲んだように申しましたが、それは、彼女の死体が発見されたとき、どこにも傷の痕はなく、また、何の苦悶の形跡もなく、それかと言って、心臓病とかその他の病で頓死したとは考えられず、別に彼女の手提げ袋の中に毒薬の残りなどは見つかりませんでしたけれど、急報によって駆けつけた検死の役人が、多分毒薬自殺をしたのだろうと推定したからであります。

が、ここで、順序として、作者は、彼女の死体の発見された当時のありさまを述べて置こうと思います。それは実に美しく晴れ渡った春の日の午後四時頃のことです。同じく展望塔へ上がった二人の中学生が、最初は四方の景色を眺めて、いろいろ批評しあっておりましたが、そのうちに、何かの話のきっかけから、急にふざけ出し、小さい方が、大きい方に突き飛ばされて、よろよろとベンチの方へよろめき、身を支えるひまもなく、そこに半ば横向きに腰かけて眠っていた美人の膝の上に手をついたのであります。はッと顔を赤らめて、その学生は失礼を詫びようとしましたが、依然として美人は眠り続けていましたので、さすがに、これは怪しいと思ったのでしょう。よく近づいて見ると、普通の眠りと、どうも様子が違っているではありませんか。

「もし」

こう言って、件の中学生は、思い切って美人の肩に手をかけ、軽く肩を揺すぶりましたが、美人はもはや固くなって動きません。で、大騒ぎになって、デパートメントストアの事務員などが駆けつけ、直ちにその美人が映画俳優の花房八重子であるとわかり、警察へ返事が報ぜられて係官の出張となったのであります。警察医の鑑定によると、死体の発見されたのは、死後およそ一時間半だということでしたから、花房八重子は死んでから一時間半も、眠ったものとして、何人にもその真相を発見されずにいたことになります。

警察官の指図によって、直ちに花房八重子の自宅に通知が発せられました。すると約四十分ほどして、大学の制服制帽をつけた男が出頭しました。襟にMの字をつけているのは医学部の学生たる証拠です。

「僕は花房八重子の良人西村安雄の弟で西村隼人といいます」

西村安雄というのは、有名な新派の俳優です。花房八重子はおよそ一年ほど前から西村安雄と同棲していたのです。

隼人の語るところによると、兄安雄はかねて神経衰弱に悩んでいたが、この四、五日は激烈な神経痛に冒されて臥床中であり、今日は正午に催眠剤を与えられ、主治医が午後六時まで起こしてはならぬと言って、病室のドアに錠をおろして行ったから、兄に告げることをしないで、取りあえず自分が出張したというのでありました。

八重子の死を告げられたとき、隼人は、激しく蒼ざめました。探偵主任の依田氏は、八重子の死体の発見された顛末と、検死の結果多分毒薬自殺であろうと推定する旨を語り、最後に隼人に尋ねました。

「最近八重子さんの挙動に何か自殺を暗示するような点はありませんでしたか」

隼人は考えていました、

「さあ、 同じ家にいましても、僕は兄夫婦の生活にはあまり干渉しませんからよく知りません」

「ご夫婦の仲はよかったですか」

隼人はチラと眉をひそめましたが、

「それは、兄に聞いて下さればわかります」

「八重子さんは今日出がけに何か変わった様子はありませんでしたか」

僕は朝学校に行き四時頃に帰ったから知りません」

「お宅は幾人お住まいになっていますか」

「兄夫婦と僕と女中の四人です」

「兄さんは、そんなにお悪いですか」

「それも主治医に聞いて下さった方が良いと思います」

依田探偵は隼人の返事を物足らなく思いましたが、これ以上尋問しても、埒があくまいと思いました。

「毒薬自殺とは推定したものの、どんな毒が用いられたのか、あるいは全然毒とは関係なく、病気による死かも知れませんから、とにかく、大学に送って死体を解剖してもらうことにしますから、左様ご承知願いたいと思います」

「その方がよろしいでしょう。では、明日、大学へ死体を引き取りに行くことにします。兄が聞いたら、さぞびっくりすることでしょう。兄も可哀そうな男です」

こう言って、西村隼人は去りました。

八重子の死体はその夕方、大学医学部の法医学教室に運ばれ、明朝、主任教授執刀のもとに解剖されることになりました。

翌日の新聞の社会面は、映画女優花房八重子の死に関する記事がその大部分を占めました。その記事の多くは彼女の映画スターとしての履歴や、彼女が主役をつとめた映画の紹介でありましたが、中には彼女の素行に言い及んだものもありました。それによると、彼女は現在の良人西村安雄と同棲するまでに、すでに数人の男と同棲しましたが、長くて一年、早いときは三ケ月くらいで別れてしまいました。そうした彼女の行動が何の理由に基づくかは書いてありませんけれど、それが彼女の淫蕩な性質に基づくことは言うまでもありません。その容貌も、言わばコケティッシュでして、極めて肉感的な、見るからに多情を思わせました。中には西村安雄との同棲が、よくも今まで続いたものだと言ったような悪口を書いた新聞もありました。西村安雄は芸に熱心であるだけ、いたって小心な男ですから、彼が神経衰弱に悩んでいるのは、そろそろ細君が浮気を始めて、それを心配したためであろうなどという穿った観察を下すものもありました。昨夜各新聞社の記者が、西村の宅に押し寄せて面会を求めたところ、主治医が玄関に頑張っていて、絶対に面会を謝絶したので、言わば、その腹いせに、そうした記事を書いたのかも知れません。

が、いずれにしても、花房八重子が自殺すべき動機と思われるようなことは、どの新聞の記事にも発見することが出来ませんでした。が、発見することの出来ないのも道理です。死体解剖の結果、実に意外な事実が明らかにされたからであります。

花房八重子の死は、青酸中毒だったのです。しかも青酸は、口から飲み下されたのではありません。法医学教授の綿密な検査によって、八重子の右の中指の根元で、薬指に面したところに極めて細い針の痕のあることが発見され、その部分から、言わば注射の形式で青酸が体内に送りこまれたことがわかったのです。青酸を注射すれば、その死はほとんど瞬間的に起こるから、もし、自殺であるとすれば、針を取り片付けるヒマもあり得ないばかりでなく、針の痕が右手にある以上、八重子は右利きであるから、左の手で針を持ったことになる。しかるに針は死体の付近になかったし、左手を使ったとは考えられぬから、どうしても、青酸は、他人の手によって八重子の体内に送りこまれたと断定しなければならない。換言すれば八重子はYデパートメントストアの展望塔で、何人かによって毒殺されたのだというのです。教授の話によると、西洋ではよく指環の中へ毒を入れ握手する際に、相手の手のひらに針が刺さるような仕掛けをして毒殺するものがあるが、この場合もあるいは、そうした手段が選ばれたのかも知れないということでした。

 

(二)

 

花房八重子の死が毒殺と決定されると、新聞はいっそう扇情的な記事を掲げました。そして一時満都はその噂で持ち切るという有様でした。その噂のまっただ中で、言うまでもなく、警察は急に緊張しました。それもそのはずです、対処に当たる人は、ゴシップだけで済ましているわけに行きません。一刻も早くその犯人を捜し出さねばならぬことになったのです。探偵主任の依田氏は非常な意気込みをもって活躍しはじめました。

すべてひとつの犯罪が行われたとき、その犯人を捜す場合には、まず第一に、犯行の現場付近にいた人を知らねばなりません。第二には、犯行の現場でよく観察して、手がかりになるものを見つけ出すべきであります。そして第三には、犯罪の動機が何であるかを判断せねばなりません。

今この事件において、犯罪の動機を知るためには、何よりも先に、西村安雄に会って、花房八重子の最近の状態を聞かねばなりません。ところが、西村安雄は、八重子の死に接してから、神経痛がいっそう激甚になり、主治医はたとえ警察の人といえども、ここ二、三日は面会を謝絶する旨を宣言しました。そこで依田探偵は、女中のお芳と、安雄の弟の隼人に訊問しましたけれど、お芳はただおどおどしているだけで、満足な返答をすることが出来ず、隼人は、なぜか八重子のことになると、返答を避けて兄に直接聞いてくれと言うのみでしたから、最近花房八重子が、どういう人と交際していたかをさえ知ることが出来ませんでした。花房八重子がかつて同棲したことのある人たちは、一応取り調べる必要があるけれど、差し当たって誰から始めてよいか見当がつきません。

次に、犯行の現場の観察は、もはや何の役にも立たなくなりました。展望塔へは、その後たくさんの人が昇降して、あたりを踏み荒らしているから、犯人を推定すべき手がかりの得られようはずがありません。実際依田探偵は、展望塔へ上がって、念のために八重子の死んでいたベンチの付近を捜索しましたが、もとより何の獲物もありませんでした。

そこで残るところは、花房八重子がその日何人と一緒にYデパートメントストアの展望塔に居たかという問題であります。展望塔へ上がるまで、八重子は生きていたに違いありません。犯人が八重子をどこか他所で殺して展望塔までかつぎ上げるというようなことは絶対に想像外に置くべきであります。すなわち犯人は八重子と一緒に展望塔へ上がった、または展望塔で出会ったに違いありません。

そしてその犯人が八重子の不意を襲って八重子を殺したのでないことは、毒の注射された位置から明らかであります。すなわち犯人は八重子の手を握ったはずですから、もし不意に犯人が手を握れば、きっと八重子は大声で叫び他の見物人の注意をひきます。たとえ他の見物人の居ない時機に行われたとしても、それはよほどの冒険であります。それゆえ、犯人は、どうしても八重子の知った者でなくてはなりません。少なくとも八重子は、誰と握手するかを意識していたに違いありません。握手というのは語弊がありますから、これを普通の言葉で言うならば、八重子は、その犯人に意識して手を握らせたに違いありません。

して見ると、犯人は八重子とは相識の間柄でなくてはなりません。しかし八重子はその人に殺されるとは決して思っていなかったに違いありません。さあ、そうなると、それはいったい何人であろうか。依田探偵は、はたと行き詰まらざるを得ませんでした。

探偵はまずエレヴェーター・ボーイたちに会って、もしやその日花房八重子が誰かと一緒に展望塔へ上がらなかったかを尋ねました。しかしボーイたちは、少しも記憶しておりませんでした。何しろ、客が混んで来るとエレヴェーターはすぐ満員になり、人の出入りに気を配らねばならぬので、どんな客が乗りこむかを注意しているひまがありません。

エレヴェーター・ボーイですらそうでありますから、他の店員は尚更おぼつかないわけであります。けれども、もし、花房八重子が、何か買物をしたとすると、彼女に応対した店員が記憶していないとも限りません。八重子は映画女優として名高いので、たいていの人はその顔を記憶しております。そこで探偵は片っ端から、各階の店員に聞いて回りましたが運の悪い時は仕方のないもので、花房八重子の姿を見たものはありませんでした。で、察するところ八重子は、メイン・フロアから、すぐさまエレヴェーターに乗って頂上に上がったに違いありません。

店員たちが知らなくても、デパートへ来た客のうちには、ことによったら、八重子を見たものがあるかも知れません。ことに八重子と同時刻に展望塔へのぼった者の中には、八重子の存在に気がついていたものがあるかも知れません。そこで探偵は幾分か光明を認めましたが、さて、その日デパートへ来た人を突き止めるということは容易なことではありません。けれども、依田探偵は決してひるみませんでした。すなわち、ここに一計を案じたのであります。

それは新聞紙を通じて、その日Yデパートの展望塔へ上がり八重子の姿を見た人は警察ヘ出張して欲しいということを一般の人に広告することであります。以前は、たとえ知っていても、警察へ告げて出ると、関わり合いになると言って人々はひたすらに口をつぐんだものであるが、普通選挙が実施された時代には、もう、そうした旧式な考えを持っているものはなく、きっと何かの反響があるに違いないと依田探偵は考えました。そして、夕刊紙上に、その旨を、よく目に付くように記事広告として各新聞に発表しました。

果たして、依田探偵の想像は誤りませんでした。その翌日、一人の会社員らしい男が警察に出頭して、依田探偵に名刺を通じました。

「僕は、昨日の新聞を見て、花房八重子の件でお伺い致しました」

依田探偵は嬉しさを無理に抑えつけて、

「それでは、展望塔で花房八重子をご覧になりましたか」

「見ました」

探偵は胸をとどろかせました。

「八重子は誰かと一緒にいましたか」

「紺の洋服を着た男とベンチに腰かけて話していました」

「その男の容貌をご覧になりましたか」

「見ました。髭が顔中にもじゃもじゃと生えて、茶色のロイド眼鏡をかけていました」

「帽子は?」

「茶色の中折でした」

「年齢は?」

「さあ、それはよくわかりませんが、まず中年と見て差し支えありますまい」

「二人は仲よく話しておりましたか」

「寄り添って話しておりました。しかし、僕はそれからすぐ降りてしまいました」

「それは何時頃だったか、ご記憶になりませんか」

「二時頃でなかったかと思います」

これ以上その人から聞き出すことが出来なかったので、探偵は、厚く礼を述べ、他言を禁じ、ことによったらまた来ていただくことがあるかも知れんと言って、その人に帰ってもらいました。これで、この事件に一つの手がかりが出来たわけです。しかし八重子と一緒にいた男が、髭を顔中にもじゃもじゃ生やし、茶色のロイド眼鏡をかけていたとすると、もしその髭を剃り、ロイド服鏡を外したら、その認識は極めて困難となるに違いありません。また、別に、その名が知れているわけでないから、誰を捜してよいか手がつけられません。

「今日は午前十一時から、A斎場で、花房八重子の葬式があるはずだ。ことによると、その場で、何か手がかりになることを聞き出せるかも知れない。探偵だということのわからぬように、会葬者の一人に化けて、様子を探って来ようか」

こうつぶやいて、その用意にかかろうとすると、再び、名刺を通じて、花房八重子の件でお目にかかりたいという者がありました。

探偵は好奇心をもって、その人を迎え入れました。

「僕はR工業学校に奉職しているものです。先日Yデパートの展望塔で、花房八重子の眠っているところを見ましたから、夕刊の記事によってお伺い致しました」

「あなたのご覧になったとき、八重子はすでに眠っておりましたか」

「今から考えると、その時はすでに死んでいたのだろうと思います。ベンチに、美しい女が眠っていましても、別に何とも思わずに過ぎたかも知れませんが、ちょうど僕が上がった時、一人の男が、つかつかとベンチの傍に歩み寄りました。もとより、僕はその時その女が花房八重子であることを知りませんでした。男は女の傍に近寄って、二、三度ゆすりましたが、女はかたく頭を伏せて起きませんでした。そのうちに男は、急にびっくりしたように立ち上がり、急ぎ足で降りて行ってしまいました。今から考えれば、その男は女が死んでいるということを認めて驚いて去ったに違いありません。けれども、その時、僕は女が熟睡しているので、強いて起こすのをはばかって去ったものと思いました。で、僕も、それから間もなく展望塔を下りましたが、翌日の新聞を見て、花房八重子が死んだと聞き、びっくりしたわけです」

「で、その男は、どんな風采をしていたかご記憶はありませんか」

「紺の背広に、茶の中折れ帽を被っていました」

探偵ははッとしました。

「では、その容貌は?」

「顔中に髭がもじゃもじゃ生えて、茶色のロイド眼鏡をかけておりました」

 

(三)

 

まさか、同じ男ではあるまいと思っていたのに、かくもきっぱり言い切られて、依田探偵はすっかり判断に迷いました。先刻の人の話と今の人の話を総合すると、ロイド眼鏡の男は、いったん花房八重子を殺しておいて、再びその死体を見に来たことになる。そうしたことは常識で考えてあり得ないことだからであります。自分の殺した死体に引き寄せられるという心理は、犯罪者に共通ではあるけれど、それは時と場合によることであって、展望塔の上へ死体を見に帰るというような冒険は、よほどの冷血な犯人にもあり得ないことであります。して見ると、はじめ二人で話していたときはそのまま別れて、二度目に、花房八重子が文字通り眠っていたときに毒を注射したのであろうか。これもやはりちょっと考えにくいことでなくてはなりません。もし殺意があったならば、犯人ははじめに殺すに違いなく、はじめに殺したなら二度目に見に来ることはしないはずであります。

すると、毒殺は第三者によって行われたのであろうか。それとも、同じくロイド眼鏡をかけ、また、髭を顔中に生やしていても、その実は別人であろうか。

「その男は指環をはめてはいませんでしたか」と探偵は、以上のことを、目をつぶって考えたのち、R工業学校の先生に尋ねました。

「それには気がつきませんでした」

「その男の年格好は?」

「よくわかりません」

「それは何時頃でしたか」

「学校を出たのが二時ですから、展望塔へ行ったのは二時半少し前ぐらいだと思います」

依田探偵はその人の厚意を謝し、同じく固く口止めをして帰ってもらい、間もなく、会葬者らしい服裝をつけて、A斎場に自動車を走らせました。

斎場にはすでに大ぜいの人が集まっておりました。さすがに映画関係の人や劇場関係の人がたくさん目につきました。花房八重子のファンもたくさん来ているらしいことが、彼等の会話で察せられました。人々はいずれも小声で八重子の不思議な死に方を噂し合っていました。依田探偵は,人々の間を、あちらこちら縫い歩いて、何か有力な手がかりになりそうなことを聞きたいものだと、言わば全身を耳にしておりました。

葬儀は時間通り始まりました。喪主は西村安雄の弟隼人が代理をつとめ、式は順序よく運ばれて行きました。生前とかく風評のあった人も、ああした不憫な死に方をしたことに同情が集まって、すこぶる盛大に、かつ厳粛に行われました。

式が済むなり人々はなだれを打って帰り始めました。探偵はこれという手がかりのないのに失望して、人々と別れて帰ろうとすると、ふと、前方を歩いて行く二人の会葬者の話が耳に入りました。

その会話の内容によって、二人は映画俳優であるらしいことがわかりました。

「花房八重子はかわいそうだが、しかし八重子の死を喜んでいるものがあるぜ」

「誰だい?」と、背の低い方が尋ねました。

「福井耕三の細君よ」

福井耕三と言えば、やはり映画俳優で、花房八重子と同棲していたことのある男です。依田探偵はそれを知っていましたから、急に熱心に耳をそばだてました。

「何故だ」

「なぜって君、最近、また福井と八重子との関係が再燃しかけたんだ。何しろ、評判のやきもち家だからね。八重子が死んだのでほッとしただろうよ」と、背の高い方が説明しました。

「え? 本当か? まさか。しかし、八重子に死なれた西村安雄は気の毒だよ。西村は随分八重子を大切にしていたそうだからね」

「それなのに八重子はまた浮気を始めたんだよ。もっとも、福井との仲は、まだ西村も知らぬかも知れない。知ったら大変な騒動が持ち上るだろうからね。八重子という女は、あれでなかなか用心深くて、感づかれるようなヘマな真似はしないはずだ」

けれども、八重子は殺されたというから、やはり、そのへんの恨みがもとでないかね」

「それはどうか、わからない。けれど、もし嫉妬の動機なら、西村よりも福井の細君に嫌疑がかかりやすいと思うねえ」

「では、福井の細君は、福井と八重子との間をもう感づいていたのか」

「いや、具体的なことは知らんだろう。言わば、第六感というものさ。福井も、あれで、なかなか用心深いからね」

だんだん歩いて行くうちに、会葬者は、ちりぢりばらばらになり、今や、依田探偵と、その二人のほかには、同じ方向に歩いているものがなくなりました。でも、幸いに、二人は探偵の存在に気づかぬようでありました。

「君はまた、どうして、それを知っているんだ?」と、しばらくしてから背の低い方の男が尋ねました。

「それか、それは、ふとした事で、福井自身の口から聞いたのだ。もっとも、その時、相手が八重子であるとは言わなかったがね。前後の関係で僕は八重子だと睨んだのだ。福井の言うには、俺は恋人と逢う場合には、決して自分が誰であるかを他人に悟らせないような方法を取る。相手の女の顔が知れていても、こちらの顔さえ知れなければ、決して評判にはならぬものだと言うのだよ。いかにもそれには一理あるがね」

「それはどんな方法だ?」

「いけないぞ、いけないぞ。うっかり教えたら、君も早速やろうというのだろう。その話だけは預かっておこう」

いつの間にか一行は電車道へ歩いて出ました。すると背の高い男は、向こうから来た電車を見て、足早に停留場へ歩いて行きました。背の低い男もそれに従いました。依田探偵は、二人の会話が惜しいところで切れたのを残念がりながら、この機を失してはならぬと、二人のあとから走って電車に飛び乗りました。幸いに二人は依田探偵があとからつけていたとは知らず、ことに満員に近い乗客だったので別に怪しむ様子がありませんでした。

電車の中では二人はもはや先刻の話題から離れたばかりでなく、お互いにあまり口をききませんでした。探偵は何とかして先刻の話の続きを聞き出したいものだと思いました。背の低い男は、福井が八重子に逢う方法をしきりに聞きたがっておりましたが、これは依田探偵も是非聞きたいものだと思いました。そして、もし根気よく二人のあとをつけたならば、ことによったら、聞き出すことが出来るかも知れぬと思いました。

二人は二度電車を乗り換えて、Gという繁華な町通りへ出ました。そしてとある西洋料理店に入りました。考えて見れば、もう正午過きです。で、依田探偵も何気ない振りをして二人に続いて入りました。二人は窓際に近いところに陣取りましたが、ちょうどその席の後に衝立が置かれてあって、その衝立のそばの席が空いていましたから、これは屈竟の場所だと、心の中でつぶやきながら、探偵は二人に感づかれることなしに座を占めました。二人は別に後ろ暗いことをしているわけでないから、まさか探偵がつけていようとは夢にも思う道理がありません。で、二人は何の遠慮もなく話しを始めましたが、もとよりその一語一語は、探偵に手にとるように聞こえました。

探偵は料理を注文して食べにかかりましたが、それをゆっくり味わっていることが出来ません。言わば夢中で食べ終わりましたが、二人の話は一向、例の問題に触れませんでした。けれども、犯罪探偵において、「あわてる」ことが大の禁物であること体験している探偵は、ゆるゆる煙草をふかして、二人の話の発展を待ちました。昼飯時で、かなりに客が混んでおりましたが、やがて一人減り二人減ってあたりはだいぶ静かになって来ました。幸いに衝立の向こうにいる二人も腰を落ち着けておりましたから、そのうちには、何か手がかりになる話が聞けるだろうと、探偵は胸を躍らせて耳を傾けました。

果たして二人の会話は、突然、例の問題に移りました。

「先刻、君は福井の特別な逢い引き方法のことを言ったが、それはどういうんだい?」

と、尋ねたのは、言うまでもなく背の低い方の男です。

「あはははは」と相手は笑いました。「さては君は、差しあたりその方法を講ずる必要があると見えるな。あぶないあぶない」

「いや、冗談はやめて聞かせてくれよ」

「聞かなかったとて、考えたらわかりそうじゃないか」

「え? どう?」

「よく考えてご覧よ。逢引きというのは、男女共その顔が他人に知られている場合に問題になるのだ。だからどちらか一人が顔を違えておればいいんだ」

「あ、なるほど、そうか。わかった、変装するんだね。で、福井は八重子と逢うのに、いつも変装するんだね?」

「そうよ。なかなか賢いだろう。話のついでに福井は僕にその変装具をポケットから出して見せたよ」

「え! どんな?」

「茶色のロイド眼鏡と、もじゃもじゃの付け髭さ!」

 

(四)

 

依田探偵は、この言葉を聞いて、思わず、「あッ」と叫ぼうとして、辛うじて自制しました。その瞬間、事件はもう解決されたような気がしました。花房八重子と展望塔で話していたという、髭のもじゃもじゃ生えたロイド眼鏡の男は、疑いもなく、映画俳優福井耕三でなくてはなりません。映画俳優にとって、変装はわけのないことです。そうした変装によって逢い引きを行うことは、たしかに賢明な方法であるに違いありません。変装していては、何の誰であるかということがわかるはずはなく、またロイド眼鏡をかけて髭を顔中にもじゃもじゃ生やしているような男は、とても女好きのするものではありませんから、八重子がその男と親しげに話していても、まさかそれを逢引きであると考えるものはありません。まずまず八重子が、高利貸しから貸金の催促でも受けているぐらいにしか思わぬでありましょう。

福井耕三と八重子とが展望塔にいたとすれば、八重子を毒殺したものは、当然福井耕三でなくてはなりません。しからば、犯罪での動機は何であろう? あるいは八重子の心変わりをでも憤ったのであるか、それとも他の理由があろうか?

が、これはもとより依田探偵にわかろうはずはありません。委細は、福井耕三を尋問することによって初めて明らかにされるわけであります。で、探偵は立ち上がって、勘定を払い、レストランを出ていったん警察署に引き上げ、福井耕三を呼び出すか、あるいは、みずから福井の家を訪ねるか、どちらにしたらよかろうかと考えました。

十中八九まで福井が犯人であるとは考えられるものの、なおまだ解き難い点が無いでもありません。第一、今朝出頭して展望塔の模様を語ってくれた両人の話によると、ロイド眼鏡の男は、八重子が死んでから再び展望塔へ出現したらしいが、それが何のためであったのか解釈に苦しみます。第二に、毒殺の方法ですが、普通の人にとって青酸を手に入れることは困難であるし、また、そうした巧妙な仕掛けをした指環は、そんなにたやすく作れるものではありません。

ですから、福井を嫌疑者として拘引するにはまだ早いと、依田探偵は考えました。で、自分で福井の家へ出張して、事情を尋ねることにしたのであります。とりあえず福井の住所を捜し出し、M町十番地の宅を訪ねました。例のあとをつけた二人の俳優たちの話から察して、細君が居ては事が面倒になるかも知れんと、心配しながら行きますと、ちょうど福井の宅の十数歩手前まで行ったとき、福井の細君らしい人が家の中からよそ行きの風をして出て来ました。痩せ形の見るからにヒステリックな顔貌は、いかに彼女が嫉妬深いかを思わせました。

玄関のベルを押すと女中が現れました。聞けば主人は在宅であるという。名刺を出して面会を乞うと、意外にもすぐ、西洋風の応接間に案内されました。

やがて、入って来た福井耕三の顔は、ひどく蒼ざめておりました。彼は初めちょっと、おどおどした様子でしたが、やがて、落ち着いた声をして、探偵に用向きを尋ねました。

「花房八重子の変死事件で、お尋ねにまいりました」

こう言って、依田探偵は相手の顔を見つめました。と、蒼白い顔は一層蒼白くなりました。

「どういうお尋ねですか」

問い返した福井の声は、確かに震えておりました。

依田探偵はちょっと迷いました。そして、福井のような中肉中背の、神経質らしい中年の男に向かっては、いつも高飛車に出た方が埒があきやすいと考えました。

「申すまでもなく花房八重子は展望塔で毒殺されましたが、その犯人についてのお心当たりを聞きたいと思いました」

こう言って探偵がふと福井の右の手に眼をやると、なんと、そこには、薬指の根元に金の指環がはまっているではありませんか。

「どうして私が犯人を知りましょう・・・・・・」

「いや、お隠しなさってはいけません。あなたはあの日、花房八重子と展望塔のベンチに腰かけておいでになりました」

「いえ、違い・・・・・・」

「否定なさっても、もう駄目です。あなたはその時、紺の背広に茶の中折帽をかぶり、茶色のロイド眼鏡をかけて顔中に付け髭をなさっておりました」

この言葉はさすがに、福井の急所をえぐったらしく見えました。彼は目をテーブルの上に落としていましたが、見る見るその額に汗の玉がならびました。

「もう、何もかもわかっております。どうか包まずおっしゃって下さい」

福井は深く太息をついて、やがて決心したらしく、おもむろに口を開きました。

「いや、どうも、悪いことは出来ません。私の変装していたことまでわかっては、ありのままに申します。ただ最初に断っておきますが、私はあの日展望塔へは行きましたが、決して八重子を殺したのではありません。私が展望塔へ上がったときには、もう八重子は死んでおりました」

こう言って福井は探偵の顔をじっと見つめました。

「どうぞ、その顛末をお話し下さい」

福井は続けました。「花房八重子はご承知でもありましょうが、かつて私と同棲したことがあります。その後事情あって別れました。ところが半年ばかり前から、ふとした機会に旧交を温めるようなことになりました。お互いに良人あり妻ある身でございますから、知れてはいけないと思って、変装を考えついたのでございます。度々逢っているうちにだんだん引き摺られて行って、西村氏には誠にすまぬことと思いながら、お恥かしい話ですが、二人はどこかへ姿を隠さねばならぬほどに事が進んで来たのでございます。あの日は、いよいよその具体的な相談をするから、Yデパートの展望塔へ来てくれと八重子に誘われていたのでございます。けれどもいざとなって見ると、気後れがして、いっそ止めようかと思いましたが、あとでどんなに怒られるかも知れぬので、とにかく逢うことにし、約束の二時よりも三十分ほど遅れて行きました。展望塔に上がって見ると、八重子がベンチに眠っておりました。さぞ怒鳴られることだろうと覚悟して行ったのに、却って待ち疲れて眠ったかと思うと、不憫の情を催しました。私は近づいて肩を揺すりましたが、不思議にも起きません。よく見ると、死んでいるではありませんか。私はその時大声で叫ぶところでしたが、他に見物人が居たので、強いて驚きの情を抑えて、考えました。もし自分が八重子の死を人に知らせたら、自分は当然警察へ呼び出されねばならず、そうなると家内にどんな騒動が起こるかも知れません。これはひとまず逃げた方がよいと思って、走って家に帰りました。帰ってよく考えて見ても、八重子の死んだ原因がわかりません。翌日の新聞で自殺だと知り、更にその翌日の新聞で毒殺されたのだと聞いて、ますます私は黙っていなければならぬと思いました。どうしてあなたが、私の変装をお見抜きになりましたか知らぬが、とにかく、今申し上げたのは偽らぬ告白でございます」

依田探偵はじっと聞いておりましたが、

「でも、あなたが、八重子とベンチでお話しになっているところを見た人があります」

「断じてそれは違います。私が展望塔へ上がったときには八重子はもう死んでおりました」

「でも、その人は茶色のロイド眼鏡をかけて髭をもじゃもじゃ生やした男と八重子とが話していたと言いました」

「それはその人の何かの思い違いではありませんか。もし、それが事実とすると、そのロイド眼鏡の男は別人でなくてはなりません」

「別人」という言葉が、ふと、探偵の心に強く響きました。そうだ別人を考えれば、いったん殺して再び戻って来たという不合理が解決出来る・・・・・・

福井は言葉を続けました。「それに、私には八重子を殺すべき理由がありません。また、殺そうと思えば、何も展望塔の上へ行って殺さなくても、他によい機会はいくらもありました。なおまた、八重子は青酸で毒殺されたそうですが、そんな毒を私は見たこともありません。どうぞ、私の言葉を信じて下さいまし」

探偵は突然、

「ちょっと右の手を見せて下さい」

と言って、福井の指環をあらためました。それは普通の金の指環で、何の仕掛けも、怪しいところもなく、はめてからよほどの年を経たのか、肉に妨げられて抜くことが出来ませんでした。

依田探偵は考えました。もし福井が真の犯人であったならば、毒殺に用いた指環を今まではめているわけはないから、たとえこの指環が普通のものであっても、福井の無罪の証拠とはなり得ない。また、福井は八重子を殺す動機を持たぬと言ったけれど、八重子にぐんぐん迫られて駆け落ちまで進められようとした矢先であるから、世間体を思って八重子を除く気にならぬとも限らない。こう思うと、先刻の福井の話がみんな嘘であるようにも思われました。

「しかし」と探偵は言いました。「とにかく、今まで探偵したところによると、八重子はロイド眼鏡の男に殺されたとしか考えられません。そしてロイド眼鏡の男はあなたよりほかにないと思います」

福井は悲しそうな顔をして、しばらくうつむいて考えていましたが、やがて、顔をあげて探偵に媚びるような口調で言いました。

「その疑いはもっともです。しかし、余計なことに口出しするようでございますが、八重子が殺されたと聞いて、私も、誰が八重子を殺したのだろうかと色々考えて見ました。八重子とは最近度々逢って、その内情もよく聞きましたが、八重子を殺すほどの動機を持っている人は、ただ一人を除いては、ほかにないと思いました・・・・・・」

「ただ、一人とは誰のことです?」と、探偵は力をこめて言いました。

「まあ、私の申し上げることをよくお聞き下さいまし。八重子と私との関係は、良人の西村氏には決してわかるまいと思っていたところ、どうやら最近に至って、西村氏がそれを嗅ぎ出したらしいと八重子は申しました。だから私と一緒に逃げてくれと言ったのでございます。それはあるいは八重子の口実であったかも知れません。あるいは八重子の邪推であったかも知れません。ところが西村氏は正直な代わりに、至って嫉妬深い人でありますから、もし八重子と私との関係が知れたならば、どんな極端な行動に出ないとも限りません。先刻、私より先にロイド眼鏡をかけて髭を生やした男が展望塔に上ったということを承ったとき、私はもしやと考えたのです。こういう想像は、西村氏に対しては誠に申しわけありませんが、もし西村氏が私たちの密会を知ったなら、私がロイド眼鏡と付け髭を付けていることも知ったに違いありません。西村氏も俳優ですから変装は雑作もありません。また、私のような変装ならば素人でも出来ます。で、あの日、私たちがYデパートで逢うことを知って、私の遅れたのを幸いに、私の風をして八重子に出逢い、そして・・・・・・いや、あとはもう言うにしのびません」

探偵は直ちに反駁しました。

「西村氏の弟の話によると、西村氏は四、五日、神経痛で臥床中で、ことにあの日は正午に睡眠剤を取って六時まで眠られたということです。だからそれは考えられないことです」

「しかし八重子の話によると、西村氏の病気は神経衰弱で、起きていれば起きていられるということでした」

「けれどもその日は主治医がドアの錠を下ろして六時までは誰も開けてはいかんと命じたそうです。外から開けることが出来ねば、中からも開けられません。だから西村氏は家をしのび出ることが出来ません」

この弁駁に辟易するかと思いのほか、福井は却って我が意を得たように言いました。

「そう聞けば、ますます西村氏を疑いたくなります」

「なぜですか?」と、さすがの探偵も了解に苦しむといったような表情をしました。

福井は得意げに言いました。

「実はやはり八重子から聞いたことですが・・・・・・」

「え?」

「西村氏の寝室には秘密のドアがあって、そこから地下の秘密の通路を通って、自由に戸外へ出ることが出来るのです」

 

(五)

 

あまりに意外なことに、探偵はしばらく、相手が作り話をしているのでないかと疑って、福井の顔を見つめました。

「お疑いはもっともですが」と福井は続けました。「西村氏の宅は、没落した船成金の屋敷を買ったものでして、大部分は西洋造りになって、地下室や秘密の通路などが作ってあるそうです。そういうわけで、たとえドアに錠が下ろしてあっても、自由に、しかも家人に気付かれずに出ることが出来るのです。ことに正午から六時まで、誰も開けてはならぬと主治医の命じたのは、解釈のしようによっては、西村氏が命じさせたのかも知れません」

言われてみれば、いかにもその通りである。もし福井の述べたように、西村が単なる神経衰弱に悩んでいて、その寝室に秘密のドアのあることが事実ならば、福井の推定は、動かし難い道理を含んでいる。これは一応西村安雄に会って彼が果たして動き得ない病気に罹っているかどうかを確かめねばならない・・・・・・。

こう考えて、依田探偵は、それから間もなく福井の家を辞しました。春の日は西方に傾いて、家々の桜の花が風に散らされ、何となくざわざわした気分が街に漂っておりました。

「負うた子に教えられた観がある」

こうつぶやいて探偵は足早に歩きながら、都合よく途中で自動車を拾って西村家に駆けつけました。家の中は葬式から帰った人々によってごたごたしていました。出て来た女中のお芳に「今日はどうしてもお目にかからねばならんと、取りついで下さい」と言いました。

「どうぞお上りください。旦那様は先刻警察の人が見えたらすぐお通し申せと申して見えました」

さては、西村は罪を自白するつもりかな、と、探偵は考えました。

病室に入って、西村の顔を一目見るなり、探偵は福井に暗示された推定を捨てざるを得ませんでした。夕暮れが迫っているせいもあるだろうが、その顔には重病人の相好が表れておりました。西村は寝ながら、物憂げに探偵に会釈しました。

「どうも、今回は非常にご愁傷で・・・・・・」

探偵はいくらかどぎまぎして言いかけました。

「色々お手数をかけました」と細い力ない声で病人は言いました。

「実は、こちらへお伺いしたのは、ある推定を下して来たのですが、お顔を見て、誤っていることがわかりました。あなたは単なる神経衰弱で歩行にはお差し支えないと思ったのです。それにこの寝室には秘密のドアもあると聞きましたので・・・・・・」

病人は軽く笑って言いました。「それでは、私が家内を殺したとご推察になったのですね。もし私が自由に動くことが出来たら、ロイド眼鏡に付け髭をして秘密のドアから忍び出して、展望塔で彼女を殺したかも知れません。けれども、神経痛のために数日来床を離れることさえ出来なかったのです。私は自分で手を下して殺さなかったことを残念に思うくらいです」

言葉と共に目は鋭く輝き、だんだん興奮の情が表れて来ました。探偵は一種の圧迫を感じましたが、それと同時に、一方には冷静な探偵本能が働いておりました。

さては西村は、やはり、福井が変装して八重子に逢うことを知っていたのか。もしそうとすると、西村を全然嫌疑の外に置くことが出来ない。ことにこの際西村を除外したならば、もうほかに犯人として疑いをかくべき人がなくなるではないか。・・・・・・

探偵の意中を汲み取ったのか、病人は枕の下へ手をやって、そこから一通の手紙を取り出し、それを探偵に渡しました。

「どうぞこれを読んで下さい」

探偵は震える手をもってそれを開きました。

 

兄上様!

姉さんの葬式は滞りなく済みましたからご安心下さい。僕は今火葬場の控え室で、姉さんの焼ける間にこれをしたためます。そして、親戚の人が骨をあげて帰るときにこれを託します。兄さん、僕は、兄さんに何とお詫びしてよいかわかりません。けれども、すべては兄さんを愛するあまり行ったことです。どうか兄さん、僕を恨まないで下さい。

姉さんを迎えてからの兄さんは実に不幸でした。兄さんの神経衰弱もつまるところは姉さんの淫蕩な性質がその原因をなしています。それを思うと僕は実に堪えられない思いがしました。何とかして禍根を除かなければ、兄さんは死んでしまうと思いました。

あの淫蕩な姉さんをなぜ兄さんがあんなに大切になさったか、僕は時々了解に苦しみました。あれが本当の恋というものであろうかと思っても見ましたが、その兄さんの弱点に乗じて、ますますいい気になっていた姉さんを僕は恨まずにおられませんでした。そして、兄さんが姉さん故に神経衰弱になったのを、姉さんは却っていい気になって、乱行を欲しいままにしました。

姉さんとFとの関係は、もはや兄さんも感づいておられたことと思います。僕は兄さんを思うのあまり、密かに姉さんの行動を監視することにしましたが、最近、二人の密会の度がだんだん増えて行きました。Fはいつも茶色のロイド眼鏡をかけ、顔中に付け髭をしていますので、ちょっと見ると、男女の密会とは思われぬ有様でした。二人が夜分公園などで出逢うときは、僕は密かにその後ろに忍び寄って二人の会話を盗み聞きました。すると最近に至って彼等は恐ろしいことを計画しました。その計画は、あまりにも極端なことですから、兄さんには申しません。とにかくそれを聞いて僕は姉さんを殺す気になったのです。

僕は、自分で、Fの通りの変装をして姉さんに近づき、そして姉さんを殺そうと思いました。殺すにはなるべく巧妙な手段を選びたいと思いました。平素愛読した探偵小説や犯罪物語が、意外なところで役に立ちました。Fが右の薬指に指環をはめているのを幸いに、「毒指環」をもって殺そうと計画しました。これは決してFに嫌疑をかけるわけでなく、姉さんに近づく手段でした。

毒指環を作るぐらいのことは雑作がありません。青酸は薬物学教室から取って来ました。医学部の学生にとって、毒を手に入れることは極めて容易です。で、いよいよ用意が出来たとき、こんどはただその機会を選ぶだけになりました。けれども二人はいつも正時間に約束の場所に現れるので、それには少々閉口しました。けれども私は根気よく時機を待ちました。そして遂にその機会を得たのです。

あの日姉さんは一足先に、Yデパートメントストアの展望台に現れました。僕は兄さんの紺の背広を着て中折帽子を目深に被って、眼鏡だけ外し、付け髭を手で隠して、姉さんに見つからぬよう、様子を窺いました。二分、三分、五分と経過しても、Fは現れませんでした。姉さんはいらいらしている様子でした。で、僕は立ちどころにその機に乗じました。とりあえずロイド眼鏡をかけて近づきますと、姉さんは、Fだと思って、恨みを述べ、ベンチに腰かけました。そこで僕は、Fの声色を使って巧みに弁解し、姉さんと並んで腰かけました。しばらくあたりに目をくばっていますと、やがて展望塔上に一時人が居なくなりましたので、僕は右手をもって姉さんの右手を握り、力強く圧迫しました。死は一瞬の出来事でした。僕は姉さんの身体をベンチに眠っている様に直して、そのままその場を去りました。

兄さん、これが姉さんの死の真相です。姉さんを殺した以上、僕はもとより生きておろうとは思いません。葬式が済んだら自殺する覚悟をしました。ただそれまでに、警察の手に捕えられると困ると思いましたが、幸いに予定通り計画が進行しました。兄さん、僕は死にます。自殺します。しかし、誰にも死体の発見されぬような方法を講じます。で、恐らく、兄さんには死骸としても再びお目にかかることはあるまいと思います。

どうか兄さん、僕の罪を許して下さい。そして身体を大切にして下さい。何だか、気がせきますから、これで失礼します。              隼人

 

読み終わった探偵の目には涙が浮かんでいましたが、ちょうどその時ばッと電燈がついたのであわてて顔を横向けました。

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