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雪の夜の惨劇(昭和3年発表)
一、立聞き
露子は唐紙に身をすり寄せて、熱心に耳をそば立てたが、その顔は土のように蒼ざめた。戸外には木枯らしが吹きしきって、庭の樹木やガラス戸などを揺り動かしながら、物凄い音を立てていたが、その物凄い音よりも遙かに強く彼女の心臓を噛んだものは隣室で行われている二人の男の話し声であった。彼女がいつもの落ち着いた態度を失って、何となくいらいらしたような姿をしているのは、隣室の会話が、彼女にとって、よほど重大な意味を持っていることが想像される。実際に、彼女は中腰になって、左の手で、額にかかる乱れ毛を、もどかしそうに撫でつけたり、右手に持ったハンカチを、唇の間に固く挟んだりして、内心の焦燥を露骨に表していたが、やがて、襖の向こうで、怒気を帯びた甲高い声が聞こえると、彼女は思わず小声で叫んだ。
「まあ、どうしたらよいかしら、叔父さんは気でも違ったのだろうか」
はッと気がついて、もしや今のつぶやきを聞かれはしなかったかと、息を凝らして様子を窺ったが、隣室では、何の頓着もなく話が進行しているらしく、彼女はなおも、全身を緊張させ不安の色を両頬に漂わせながら、盗み聞きを続けるのであった。
水野露子は今年二十一歳である。彼女の透き通るように白い顔と、ふさふさとした漆黒の髪とは、彼女に、言わば古典的な美しさを与えた。そして、大粒な、黒曜石のような眼は、むしろ彼女に悲劇の女主人公を思わせるような、豊かなうちにも寂しい表情を帯びさせていた。事実、彼女は内気に育てられた上に両親を失って、今では叔父の監督のもとに暮らしているのであるから、いわゆる蓮っ葉なところは微塵もなく、もし目の周りに薄黒い輪が存在していなかったならば、魅力の乏しい、人形のような顔になったかも知れない。
まったく彼女の性質は、「温和」の二字に尽きていた。そして、常ならば、こうした盗み聞きを恥ずべきことに思うのであるが、それにもかかわらず、彼女がその恥ずべき行為をせずにいられなかったのは、今、隣室で、言わば彼女の一生の運命が定められようとしているからである。すなわち、彼女の愛人空地雪夫が彼女の叔父に向かって、彼女との婚約を申し出ているからである。だから、彼女は叔父がどんな返事をするかを聞きたかった。もし叔父が不承知であったならば、これまでの二人の楽しい夢は打ち破られて、それこそ不幸のどん底に陥らなくてはならない。たとえ叔父が不承知を唱えても、結婚が絶対に不可能ではないけれど、そこに、打ち破るにはあまりに固き障壁が築かれる憂いがあった。だから、彼女は戸外の空気と反対に全身の血液を熱くさせて、雪夫の談判の成り行きを窺ったのである。
露子には、亡き父から譲られた、かなりに大きな財産があった。しかし、露子が満二十五歳に達するまでは、一切叔父零蔵の監督に任された。それは先年父の死に際に遺言にて定められたことであって、しかも露子が養子を迎える時には、必ず叔父の同意を経なければならぬことになっていた。彼女は父が、弁護士と叔父との立会いでそれを決定したとき、何気なくそれに同意したのであるが、今になって見ると、あの時のことが腹立たしく思われた。彼女は心の中で、何となく叔父を好まなかった。言わば虫が好かなかった。けれども、母は父に先立って死んで居なかったし、父としても叔父に万事を託するよりほかはなかった。叔父は長い間、諸所方々を流浪して一時行方不明であったが、三年前に父が死ぬ少し前に突然現れて寄寓し、それから今日まで露子の財産を監理してきたのである。
ところが、一年ほど前に、露子は、ある機会で、空地雪夫を知った。雪夫は法科大学生の時分、 ランニングの選手として都下にその名を知られたのであるが、卒業すると住吉銀行員となった。それから二人はだんだん深く交際するようになり、内気な露子にとってはむしろ大胆であると思われるほどの親しさを示したが、叔父零蔵は、なぜか、雪夫が訪ねて来るのを好まなかった。もとを言えば空地が露子を知ったのは、零蔵を介してであるが,最近に至って、なぜか零蔵は雪夫を疎んじ始めた。しかも二人の恋は、それと反比例に濃厚になって行ったのであって、とうとう、今日、雪夫は、露子を訪ね、叔父に向かって、二人の婚約の同意を求めることに決心したと告げたのである。
しかし、それを聞いた時、露子は何となく不安を感じた。彼女は、叔父の昨今の態度からして、到底承諾を与えまいと直感した。だから、雪夫に向かってそのことを告げたのであるが、直情径行の雪夫は、もはや、我慢ができなかった。いったんこうと決心した以上、たとえどのような返事を得ようとも、とにかく一度話し出して見ると言った。そして今、奥の零蔵の居間でその談判に及んでいるのである。だから、露子が、雪夫の報告を待ち切れずに、隣室に忍んで立ち聞きを始めたのも無理はなかった。
二、不調に終わる
ところが、談判は案のごとく、なだらかには進行しなかった。二人の声は熱した。叔父は狂気じみた言葉をさえ発した。
「露子は断じて差し上げられません。露子は亡き兄から託された大切な娘です。これはと思う男でなくては、露子の良人として迎えることができません」
「僕は露子さんの良人となる資格が無いとおっしゃるのですか?」
「ありませんよ」と、叔父の声はいかにも冷静な調子であった。
「なぜです」と、雪夫の声は震えた。
「なぜと言って、自分で考えてみたらわかるでしょう。露子のような純潔な女の良人となるには純潔な男でなくてはいけないのです」
「それでは僕が不純だと言うのですか?」
「不純ですとも。ほかに女をたくさんこしらえていて、それが不純でないと言えますか?」
「ええ?」と、さすがに雪夫はびっくりしたらしかった。露子は叔父のこの言葉に我が耳を疑った。
雪夫は続けた。
「僕が、いつ、どこに女をこしらえたのですか?」
「それは私より、ご自分にお聞きになった方がよいでしょう」
「違います。それは何かの誤聞です」
「だって、こちらには証拠があります」
「え? どんな証拠ですか?」
叔父はそれに対してすぐさま答えなかったが、しばらくすると、傍らの机の引き出しを開ける音がした。
「これをご覧なさい。これはここ一月ほど前から、私宛に来た手紙ですよ。みんな女の筆跡です。 いいですか、ここにこういうのがある、・・・・・・露子さんが、私の大事な大事な雪夫さんをお取りになるなら、私は露子さんの眼玉を引っ掻いてやります。雪夫さんは私と一生を誓った人です・・・・・・どうです。名前は廣子とありますよ」
「そんな名は一度も聞いたことがありません」と、雪夫はおろおろした声で言った。恐らく、あまりに意外なことに、びっくりしたのであろう。
「そうでしょうとも。それではこの花枝という女も知らないでしょう。いいですか、・・・・・・露子さんと雪夫さんとが、婚約するとかしないとかいう噂を聞きましたが、私は、私と雪夫さんとの従来の関係を保護者たるあなたに、残らず申し上げます。もし私のこの抗議を無視して、あなたが、露子さんと雪夫さんとの婚約に同意なさるならば、私は、結婚式の日に、あなたの家に暴れ込んで大騒動を起こします。女が、一度心にこうと決心した以上、どんな恐ろしい事でも成し遂げるということをよく記憶しておいてください・・・・・・。どうです。これでもまだ、あなたは白ばっくれているのですか?」
「実にけしからん悪戯だ!」と、雪夫は思わず叫んだ。
「花枝という名も、自分の知った人の中にはないのです」
「それでは、 これはどうです、・・・・・・露子さんに申し上げては、あまりに驚きになるといけませんから、私はとりあえずあなたに申し上げました。空地雪夫さんは私の良人です。もし露子さんが雪夫さんと結婚なさるならば、不幸は私一人ではありません。私のお腹に居る子は、一生父なし子としての憂き目を見なければなりません・・・・・・・不幸な女、龍子より」
「あきれて物が言えません。みんな作り事です。僕がそういう不品行な人間であるかどうかは身許を調査してくださればすぐにわかります。まさか、あなたは、それ等の手紙を信じてはおいでになりますまい?」
「私は探偵でないから、いちいち他人の品行や身許を調査しておれません。火のない所に煙はない道理です。こうした手紙が無意味に集まってくるはずはありません。まだ、この通り、何本もあります。しかもみんな違った名です。百合子 登喜代、茂子、みどり・・・・・・」
「もうたくさんです」と、雪夫は遮った。
「たとえそのような手紙が集まって来ても、露子さんさえ、僕の純潔を信じてくれたらよいではありませんか」
「そうはいきませんよ。恋する女はとかく盲目になり易いのです。だから、監督者たる私が冷静に婿を選ばねばならんのです。あんたは、これ等のたくさんの女に使ったと同じ甘言を露子に聞かせて、露子を騙したのです。だから・・・・・・」
「な、何です? 露子さんを騙したとは、それはあんまりな言い草ではありませんか。実に、聞き捨てなりません」
「ええ?」と、叔父の調子は、明らかに嘲笑を帯びていた。
「口幅ったい事を言うものではないですよ。あなたは露子よりも露子の財産が目的でしょう!」
この言葉は、雪夫のプライドを激しく傷つけたらしく、しばらくの間、言葉が途絶えて、荒い息づかいの音ばかりが襖の外へ響いてきた。露子は、だんだんと二人の間が険悪になって行くのを見て、少なからず、はらはらしたが、彼女はそれをどうすることもできなかった。
「失礼ではありませんか」 と、やっと雪夫は声を絞るようにして言った。
「何が失礼ですか。無垢の女を騙して、その財産を横領する男の方が、どれほど失礼か知れやしない。明日から、あなたは、もう、この家へ来ないようにしてください」
「来ません。その代わり今日侮辱を与えられたことは一生忘れませんよ。そして、僕はいかなる手段を講じてでも露子さんを手に入れないではおきませんから、そのつもりでいてください」
こう言って、雪夫は畳を蹴って立ちあがり、やがて廊下を歩いて玄関の方へ急いで行った。露子は思わず立ち聞きしていた部屋を走り出し、彼の後を追って、ようやく玄関で取りすがった。
「空地さん」と、言ったきり、彼女はあとを続けることができなかった。悲憤の情が一時にこみあげてきて、そのまま雪夫の胸に顔を埋めた。
「露子さん。あなたは今の僕等の話を聞きましたか」と、言った声は確かに涙ぐんでいた。
露子はうなずくためにただ首を動かすだけであった。
「あなたは、あの手紙を信じますか?」
露子は強く首を横に振った。
「ありがとう。あれは僕には少しも覚えのないことです。誰かが、僕等の仲を割こうと思って、ああした卑劣な策略を講じたに違いありません。僕は当分ここへ来ることができません。けれども、早晩、身の潔白を証拠立てて見せます」
「けれども、叔父は・・・・・・」と、露子がやっと顔を上げて言おうとすると、雪夫は遮った。
「たとえ、僕が潔白を証拠立てても、二人の結婚に叔父さんが同意しないというのでしょう。あるいはそうかも知れません。いや恐らくそれが本当でしょう。けれども僕も男です。たとえどんな障害が起こっても、また、いかなる非常手段を講じてでも、きっとあなたと結婚します」
この時女中のお霜が奥の方から出てきて通りかかったので、二人は身体を離した。
と、奥の方から、「露子、露子」と呼ぶ零蔵の声がしたので二人は顔を見合わせた。雪夫は、急いで外套を着て、露子の耳に口を寄せ、
「決して心配しないように、ね」
と言って、靴を履き、あたふた出て行った。
露子は雪夫の出て行く後ろ姿を涙の眼で見送っていたが、やがて引き返して、おずおずしながら、叔父の部屋に入った。
叔父は火鉢に手をかざしながら、真っ赤な顔をして、何やらぶつぶつ呟いていた。
「お呼びでしたか」と、露子は手をついて小声で言った。
「おお露子か」と零蔵は案外にも調子を和らげて言った。
「お前、さっき、わし等の話を立ち聞きしていたな。ああいう訳だから、空地とは今後絶対に交際してはならんよ」
「でも、叔父さん。そこにあるその手紙は、みんなこしらえ事でしょう。私は空地さんを信じます」
「お前までが・・・・・・」と、言って零蔵はにがい顔をした。
「お前は、お父さんの遺言を忘れたのか。空地のような男と結婚してはお父さんに申し訳があるまい。空地は恐ろしい色魔だよ。しかも・・・・・・」
零蔵は口をつぐんだ。というのは、その時露子がわっと泣き出したからである。彼女は畳の上にうつ伏しになった。今までこらえていた悲しさが一時に爆発したのである。もし父が生きていたら、きっと空地を信じてくれるに違いない。もし母が生きていたらきっと自分の心に同情してくれるに違いない。こう思うと、普段から好感の持てなかった叔父がにわかに恨めしくなった。
「もう泣かなくてもいい。わしはお前のためを思えばこそ、こうした憎まれ口をきくのだ。おや、いつの間にか電燈がついた。今夜これから用事があって出かけねばならんから、おとなしく番をしていてくれ」
こう言って、立ちあがりながら、はや外出の支度を始めるのであった。
三、料亭の一室
その夜、S町の料亭「春よし」の一室で、酒を酌み交わしながら、ぼそぼそ話をしている二人の客があった。二人ともかなりに飲んだものと見え、どちらも、てらてら顔を光らせていた。ここは離れ座敷のこととて、あたりは割合に静かであった。中庭の樹々を揺さぶる風が、忍び泣きのような音を立てている向こうには、三味線の音と、それに伴うさんざめきとが、ちょうど、大きな川を隔てて聞くようにかすかに響いてきた。
「・・・・・・そういう訳で、空地の奴、さんざんな体で逃げ出して行ったよ。もう恐らく二度と来まいと思う」
こう言ったのは水野零蔵である。空地雪夫や露子の前では、さも厳格に見えていた彼が、ここでは、いかにも下品なのみならず悪党らしい風采さえ帯びていた。それはあるいは酒のためであるかも知れない。
「ふふふ。では、あの手紙が功を奏したという訳だな」
こう答えたのは、年齢三十六、七歳の、人相のよくない八字髭の男であった。
「だが、あんなにたくさん別の名前を使うのは、いかにもこしらえ事に見えてよくないよ。ひとりの男が、同時にあんなにたくさんの女と関係できるものではない」
「さあ、どうだか、君ならまんざら不可能なことでもあるまい」
「馬鹿!」
二人の年齢の差はかなりに大きく見えるにかかわらず、こうした口のきき方をするのは、二人がよほど親密な仲であるからであろう。
「それで、露子さんはどうした?」と、八字髭の男は尋ねた。
「あいつは、あれでなかなか強情だが、なに、空地の奴が来なくなれば、そのうちにはあきらめるだろう。女なんてものは、熱することも早いが、冷めることも早いものだ」
「けれど、空地もこのまま黙って引っ込むとは思えんから、いっそ早く、俺との婚約を取り結んでくれないか」
「まあ、そう急ぐなよ」と、零蔵は膳の上の盃を取り上げ、ぐっと空けて相手にさした。
「謀り事は密なるを要する。急いでは事を仕損じるものだ。何しろ、随分骨を折ってここまで漕ぎつけたのだもの、よほど慎重に運ばにゃならん」
「だが、いざという瀬戸際に、玉を他人に取られては、それこそ大変だからなあ」
「大丈夫よ。まあ、こちらに任せておけ」
「けれど」と、八字髭の男は、返杯して言った。
「もし、君に万一のことでもあれば、それこそ虻蜂取らずになってしまう。だから、一日も早く安全な方法を講じて欲しいのだ」
「たとえ、俺が死んでもあの遺言状があればよいじゃないか。俺が死んだ場合には弁護士たる君が、露子の財産の監理をすることになっているじゃないか」
「けれども、遺言状が他人の手に渡った日にゃ、万事休するよ」
「君は控えを持っているはずだ」
「控えでは何にもならん。あの遺言状には露子さんの署名があるからねえ」
「では、君は本物が欲しいと言うのか?」と、零蔵は急に真面目顔になって尋ねた。
「いやいや」と、八字髭の男はあわてて遮った。
「決してそうではないよ。ただ、遺言状のありかを教えておいてくれればいいんだ」
「用心深い男だなあ」と、零蔵は再び砕けた調子になった。
「ついでだから教えておこう。俺は大切な物は、かえって金庫の中へは入れておかない。居間の床柱の裏側のはめ木を取ると、そこに穴があく、その穴の中に遺言状も入れてあるのだ」
酒のせいで、うっかり大声でしゃべったことを、後悔するかのように、零蔵は、あたりを見回した。
「なに大丈夫だよ。誰が聞いているものか。それで俺は安心した。それさえ聞いておけば空地の奴など恐れはせん」
「ははは」と零蔵は笑った。
「君でも、恐ろしいと思う人間があるかい?」
「何を言うんだ。そりゃこっちの言う事だ。君こそ、恐れを知らぬ本当の悪党だよ。思えば今日まで無事に生きてこられたのが不思議なくらいだ。ことにあの可哀相な霧村一家・・・・・・」
「おいおい」と、零蔵は遮った。
「何べん同じ事を言うんだ。その話だけはよしてくれ」
「さすがに気持ちがよくないと見えるな。霧村にはやはり娘が一人あったはずだ。その後どうしたんだろうなぁ」
「知らんよ。俺はその娘を見たことはない」
「俺も知らないが、でも、復讐せずにはおかぬと言ってたそうだ」
「ふふふ」
水野零蔵は笑ったが、その笑いはいかにも寂しいものであった。恐らく、自分の過去に行ってきた悪事の幻が、その時胸をよぎったのであろう。彼は空間のある一点を見つめて、しばらくの間ぼんやりとしていた。
その瞬間、外の縁の方で、みしりみしりという音がした。それは誰かが忍び足で歩くかのように思われた。
「雲井、今の音は何だった?」と、零蔵はぎょっとして、相手の顔を見つめた。
「なに、あれは風の音だよ」と、八字髭の男雲井は言った。
「おや、馬鹿に沈んだ顔になったじゃないか。さあ、大いに飲んで景気付けよう」
こう言って、雲井が傍のベルを押すと、しばらくの後、女中は気を利かせて熱燗の徳利を持って、入ってきた。
「ちらちら白いものが降ってきましたよ。さあ、お熱いのを召し上がってください」
言いながら女中は座って二人に酌をした。
「なに雪が降り出した? 道理で冷えが激しいと思った」と雲井は言った。
「なあ、おい、大降りにならんうちに帰ろうじゃないか。姐さん、自動車を頼むよ」
女中が去ると雲井は、改まった口調で言った。
「どうもご馳走さまだった。とにかく吉報に接して嬉しかったよ。だが、空地の奴、どんな非常手段に出ないとも限らない。くれぐれも露子さんの保護を頼むよ」
「なに、あんな青二才は、何もようしやしないよ。まあ、しばらく待っていてくれ、そのうちには埒を開けるから」
こう答えた零蔵は、舌が十分働かぬほど酔っていた。
その夜、零蔵が、自動車で自宅へ運ばれてきたのは、十一時少し過ぎであった。その頃雪はかなりに大降りになって、屋根や道路の上には、夜目にも明らかな、白い衣が掛かっていた。
出迎えたのは、女中のお霜と、書生の震一であった。
「露子はどうした?」と、零蔵は尋ねた。
「あの、頭が痛いとおっしゃって、お休みになりました」と、お霜は答えた。
「そうか」と言ったが、その眼には狡猾な笑いが宿っていた。
「ああ、すっかり酔ってしまったよ。お霜、あとで冷水を一杯持って来てくれ」
やがて、お霜が零蔵の居間へ行くと、零蔵は、敷いてあった布団の上にあぐらをかいて薄目をつぶって何やら呟いていたが、お霜が机の上に冷水のコップを載せた盆を置いて
「もうお休みなさいませ」と言って立ち去ろうとすると、
「おいちょっと」と呼びとめた。
お霜は振り返って、腰をかがめた。くっきりとした面長の顔が、その瞬間可愛らしさを増した。
「もっと、こっちへおいで!」
こう言ったかと思うと、零蔵は矢庭にその猿のように長い肘を伸ばして、お霜を引き寄せた。
熟柿の匂いがお霜を覆った。
「何をなさいます?」
言いながらお霜は、身をもがいて振り放そうとしたが、零蔵の力が勝った。
その時お霜の顔には、測り知れぬ憎悪の表情が浮かんだ。その表情は確かに、零蔵の神経にも一種の打撃を与えたらしく、固く抱いていた両腕をぱらりと解いた。
「ははは、冗談だよ。酒に酔ったんだよ」
身を起こして歩きかけたお霜の背後から、零蔵は、うるんだ眼をして、こう声をかけた。
四、惨劇の発見
「・・・・・・大変です、旦那様が、旦那様が・・・・・・」
お霜の声に、露子は旅館の一室から飛び出し、はだしのまま海浜へ出てみると、いつの間にか、空は墨のように曇って、山のような大波が、物凄く打ち寄せていた。
見ると、その波のひとつに、雪夫が手毬のように翻弄され、叫ぶにも叫ばれぬと見えて、ただその両眼に一心を込めて、露子に救いを求めていた。
露子は我を忘れて海の中に掛け込んだ。とその時、雪夫は、かき消すように波の中へさらわれてしまった。
「あれッ!」と叫ぼうとしたが、どうした訳か声が出なかった。
「お嬢様、大変です。旦那様が、旦那様が、血に染まって死んでみえます」
はッと思って、露子が眼を開くと、お霜に身体を揺り動かされていた。
しばらくの間、露子は、現実と夢との境界がつかなかった。雪夫と結婚して、新婚旅行のために、お霜を連れて海水浴場に赴き、雪夫が波にさらわれたのはたしか夢であったが、血に染まって死んだという言葉は、どうやら現実であるらしかった。
次の瞬間、露子は、はっきりした意識に立ち戻って、床の上に飛び起きた。
「旦那様が血に浸かって死んでみえます」
お霜はもう一度露子に向かって叫んだ。まだ夜が明けて間もない頃であるとみえ、部屋のすりガラスには薄明かりがさしていたが、室内には電燈がついていた。
露子はなぜか返事をすることができなかった。とりあえず寝間着の上に羽織を着て、お霜の後から、叔父の寝室に入った。見ると、すでに書生の震一が、布団の傍に立って、怖い物でも見るように、上体を泳がせて、覗き込んでいた。
露子は、布団をまくった。そして、思わずも、眼をしばたいた。叔父は仰向けになって、首から流れ出したおびただしい血に浸かって死んでいた。腕に触ると、大理石のように冷たかった。別に抵抗した形跡が見えぬのは、多分熟睡中に殺害されたものらしく、また凶器が無い事によって、自殺を考える余地がなかった。
露子は一瞬間、ぼんやりとした気持になった。この思いもよらぬ出来事に面して、冷静な処置を講じ得るほど、彼女はまだ世慣れていなかった。彼女は震一に戸を開けるように命じた。
「けれどもお嬢様」と、お霜は落ち着いて言った。
「座敷の前の戸は外からこじ開けられておりますから、それをそのままにしておいて警察の人に見せた方がよいではございませんか」
露子はこの言葉を聞いて、恥ずかしく思った。そして、今さらながら感心してお霜の顔を見つめた。半年ほど前に、口入れ屋から雇われて来た彼女は、実に痒いところへ手の届くように、家の切り盛りをした。彼女はその過去について何事も語らなかった。年齢は二十二だと言ったが果たしてそうであるかわからなかった。ただ彼女が何事にもよく気のつくことは、彼女がこれまで容易ならぬ苦労をしてきたことが察せられた。
「それでは震一、お前、早速、警察へ電話をかけておくれ」
今年十九になった書生の震一は、手に息を吹きかけながら出て行った。
露子はそれを見ると、急に全身が震えてきた。
「たいへん寒いのねえ」
「ええ、外にはだいぶ雪が積もりました」
「そう、そんなに積もったの、私ちっとも知らなかった。それでは、私衣服を着替えてこよう」
こう言って露子は自分の居間に帰った。そして、窓を開けた。見ると雪は三寸ほど積もって、今は糠のようなものが少しずつちらちらしているだけであった。
着物を替えて布団をたたんだ彼女は、何ということなしに畳の上に座った。いつもならば顔を洗いに台所へ行くのであるが、今はもうその勇気がなかった。「叔父の死」という一大事変が、彼女の心をすっかり掻き乱した。
叔父は果たして誰に殺されたのであろう? 何のために叔父は殺されたのであろう? と考えた時、ふと、
「いかなる非常手段を講じても・・・・・・」と言った雪夫の言葉を思い出してぞっとしたが、次の瞬間、
「そんな馬鹿なことがあるものか、あの人はそんなことをする人ではない」
と思って、その考えを打ち消した。それと同時に雪夫にこの惨劇を知らすべきかどうであるかに迷った。もし雪夫にこのことを知らせたならば、彼はすぐ飛んで来るに違いなかった。けれども昨日の夕方、あのようないきさつになって出て行ったのを、こちらへ呼び寄せるのは、叔父の霊に対して何だか済まぬように思った。とはいうものの、この際彼女が死ぬほど欲したことは、雪夫の顔を見ることであった。雪夫が居てくれたらどんなにか慰められるであろう。これから先いったいどうしたらよいだろう。ええままよ、電話をかけて見ようかしら、こう思って立ち上がろうとすると書生の震一が入ってきた。
「どうしたの。警察へ電話をかけたの?」と、露子は尋ねた。
「はい、かけました。時に、お嬢様へお電話です」
「え、私へ、こんなに早く誰からだろう? 名前を聞かなかった?」
「聞きませんでした」
露子は、胸をどきどきさせながら、受話器を取りあげて、小さい声で、「もしもし」と言った。
「もしもし、ああ露子さん」と言った声は確かに雪夫だったので、露子は急に物が言えなかった。
「露子さんでしょう」と相手は念を押した。
「まあ、雪夫さん。実は・・・・・・」
言いかけたのを雪夫は遮った。
「露子さん叔父さんには内緒ですよ。黙っていようと思ったけれど、嬉しくてならんから、ちょっと報告するのですよ。いいですか(と小声になり)内緒ですよ。本当に内緒ですよ。実はね、ゆうべ、あなたの家へ忍び込んだのです。そしてね、叔父さんの部屋に入って、遺言状を盗んだのですよ。だからもう僕等は安心して結婚ができるのです。本当に内緒ですよ。わかれば法律上の罪人にならねばならんから。実は当分知らすまいかと思ったが、早くあなたを安心させたいから、電話をかけたのです。叔父さんはまだきっと寝てるでしょう? え? あッ・・・・・・うーん・・・・・・」
さっきから露子は、絶大の恐怖に襲われ、夢心地になっていたが、この最後のうめきに似た声を聞いた時、はっと我に返って耳を澄ますと、それきり、もう声はばったり絶えてしまった。
五、警官の出張
あまりの恐ろしさに、露子はしばらくの間、石化したように、電話室の中に突っ立ってしまい、続いて一種の脳貧血に似た発作に襲われ、眼の前が暗くなったかと思うと、ふらふらと電話室をよろけ出た。そして、まっしぐらに自分の部屋に駆け入って、崩れるように畳の上に座った。
ひとしきり、心臓の鼓動ばかりが聞こえて、胸の中が詰まったように感じられたので、固く眼を塞いでじっと興奮の静まるのを待ったが、やがて、意識が旧に復すると、恐ろしい思念が潮のように湧き起こった。
今しがた電話をかけてよこしたのは、間違いもなく雪夫の声であった。その雪夫が昨夜叔父の部屋に忍び込んで、遺言状を盗んだと告げ、そして、ゆうべのうちに叔父は殺されたのだ。このふたつの事実を結びつけて考えると、露子は全身の血液が凍るかと思われるほど恐ろしかった。雪夫の性質から見ても、また、雪夫の電話の言葉から考えても、雪夫が叔父を殺したとは絶対に信じられないけれど、もし雪夫がゆうべ叔父の部屋に忍び入ったということが第三者に知れたならば、叔父殺しの嫌疑は真っ先に雪夫にかからねばならない。愛する雪夫が、たとえしばらくの間でも、そうした嫌疑を受けるということは、思って見る事さえ、堪えられぬことである。
それにしても、雪夫はどうして、遺言状のありかを知ったのであろう。もしやゆうべ雪夫は叔父の部屋に忍び入って、叔父を脅迫して遺言状を奪ったのであるまいか。が、それならば、電話で、叔父さんに内緒ですよと言うはずはない。昨日あのように激昂して、「いかなる手段を講じてでも露子さんを手に入れる」とは言ったものの、もし、雪夫が手を下したのであるならば、電話をかけてよこすはずはあるまい。が、それはとにかくとして、ゆうべ雪夫が叔父の部屋に来たことだけは事実に違いなく、それを思うと、露子は、この際に限り、雪夫の熱情がかえって恨めしかった。かりそめにも、深夜他家に忍び入ることは、そのこと自身がすでにひとつの犯罪である。とはいうものの、その犯罪を敢えてしてまでも、自分との恋愛をまっとうしようとするその意気。・・・・・・露子は、恨めしくもまた愛おしかった。
雪がしんしんと降る中を、雪夫は戸の掛け金を外して忍び込み、遺言状を奪って去り、そして家に帰って、今、こちらへ電話を・・・・・・。
露子はぎょッとした。雪夫が電話の最後に発したあの驚きの叫びとうなり声! あれはそもそも何であったか。果たして雪夫は下宿へ帰ったのであろうか。さもなくて、途中から電話をかけたとすると、あの異様な事情は? 露子は急に不安を覚えた。そして、なぜあの時もっと冷静に、できるだけ事情を確かめなかっただろうかと後悔された。いっそこれから、雪夫の下宿に電話をかけて確かめてみようか。・・・・・・が、露子はそれだけの勇気がなかった。書生の震一を呼んで、確かめさせることはなおさら躊躇された。震一に向かって、さっきの電話が公衆電話からだったかどうかを聞いてみることすら恐ろしかった。
ああ、どうしたらよいであろう、叔父は殺され、たったひとり頼りにする雪夫は恐ろしい渦中に巻き込まれようとしている。露子は寒さを忘れて、ただ茫然とするよりほかになかった。いっそ、何もかも夢であってくれ。そして夢ならば一刻も早く醒めてくれ。
露子は何となく悲しくなって、その場にうつ伏した。そして長い間、夢ともうつつともわからぬような、まるで麻酔にでもかけられたような有様で、じっと動かなかった。
突然、書生の震一が入ってきて、警官たちの来訪を報じたので、露子は、慌てて身繕いをし、書生と共に玄関に出迎えた。
訪ねて来たのは、二人の制服の警官と警察医らしい背広服の男とであった。露子はひとまず三人を応接室に招じ入れて、簡単に事情を物語ったが、不思議にもこの時、彼女は極めて冷静になっていた。ただ、雪夫に関することは絶対に触れないようにしようとしたので、その陳述には細心の注意を払わねばならなかった。
「最初に変事を発見したのは誰ですか?」
と、年長の捜査主任らしい警官は、露子の陳述を聞き終わるなり尋ねた。
「女中のお霜でございます」
「では、ちょっとここへ呼んでください」
露子は震一に命じてお霜を呼ばせた。
やがては、お霜は変事発見を、多少おずおずしながら物語った。
「・・・・・・いつもの通り、五時半に起きまして、台所の戸を開け、裏口に出ますと、ふと、雪の積もった庭を隔てて、お座敷の雨戸が半分ばかり開いていることを見つけました。不審に思って家の中に入り、お座敷の方へ行きますと、旦那様のお部屋の障子が開いておりまして、何となく様子が変でございましたから、電燈をつけて中を覗くと、旦那様は殺されておいでになりました・・・・・・」
そこで警官たちはお霜に案内をさせて、奥座敷に行き、現場捜査を始めた。最初に、半分開きになっている雨戸の状態を調べ、それから、その下方にあたる庭の面を観察した。もし雪が降っていなかったならば足跡を見つけることができたであろうけれど、確かに庭から何者かが座敷へ忍び入った形跡はあるけれども、一人だか二人だかわからぬばかりでなく、どちらへ逃げて行ったか見当がつかなかった。残雪の上の足跡は、古来犯罪捜査の際最も有力な手がかりを与えるものであるけれど、降りつつある雪は、反対に犯跡を隠す格好の材料である。
露子は警官の捜索を恐怖に震えながら眺めた。雪夫がここから座敷の中へ忍び入ったかと思うと、猛烈な不安が襲って、今にも、警官が、雪夫に疑いのかかるような手がかりを発見しやしないかと、ひやひやした。
しかし警官は、これという証拠を発見しないらしかった。そしてお霜に命じて雨戸を開けさせた。その時もう雪はやんで、明るい朝の光線が屋内に入った。で、警官たちは座敷に入って検査を始めた。
水野零蔵の死体は背広服の警察医によって検査された。彼はまず頸部前面の傷口をあらためた。
「鋭利な短刀様のもので刺され、左の頸動脈が断ち切られております。恐らく、抵抗する暇もなく即死したのだろうと思います。さっきお嬢さんのお話によると、作晩大変酩酊して帰られたということですから、熟睡しておられたに違いありませんが、ことによると、催眠剤でも飲まれたか、あるいは飲まされたかも知れませんから、解剖の必要があると思います」
「殺害の時間はわかりませんか?」と、捜査主任は尋ねた。
「はっきりしたことは言い得ません。けれども、死後五時間以上は経ておりません」
「すると午前一時以降に凶行が演じられた訳ですね? よろしい」
こう言って、主任は今ひとりの刑事に向かい、
「死体解剖の手続きをしてくれたまえ。こちらで解剖するということはお嬢さんもお嫌だろうから、運び出すことに手順を決めてくれたまえ」
命を受けて電話をかけるべく、刑事が去ると、主任は座敷の中を捜査し始めた。座敷には、これという特殊なものはなかった。読者諸君は、床柱の裏側にはめ木があって、その中がうつろになっていることを知っておられるけれど、主任はそれを知る由もなく、露子といえども、それだけは知らなかった。
だから、露子はさっきから、雪夫がどこから遺言状を盗み出したかを不審に思っていた。が、それと同時に、ひとつの新しい不安がむらむらと起こってきた。というのは、机の引き出しの中に、確かに、雪夫を中傷した数々の手紙があるはずである。もし、捜査主任がそれを発見したら・・・・・・。
露子は愕然として色を失った。どうして、もっと早く、あの手紙に気づかなかったであろう。と言って今さら、手紙を隠す訳にはいかない。露子は心の中で、どうぞ、警官があの手紙に気づかないようにと祈らざるを得なかった。
が、その祈りは無効であった。というのは、意地悪くも、捜査主任が無雑作に机の引き出しを引き開けて、まっ先に、婦人用封筒に入った手紙を数本つかみ出したからである。
露子は、穴があらば入りたいような気がした。見られてならぬものを見られた時の羞恥の感と、悪事を行ってその証拠を示された時の恐怖の感とがごっちゃになって、しばらくは耳の中がじんじん鳴った。が、そんなこととは知らず、捜索者は遠慮なく封筒の中の手紙を出して次々に読んだ。
「お嬢さんは空地雪夫さんという方をご存じですね?」
咄嗟の質問に、露子は思わずうなずいてしまった。
「お嬢さんは、この手紙のことをご存じですか?」
露子はまたもやうなずいた。
「雪夫という人はこうした多情の人なのですか?」
「いえ、違います。違います。露子は甲高い声を出してきっぱりと否定した。
この時、お霜が口を出した。
「実は昨晩空地様が旦那様をお訪ねになり、そのことで大議論を始めなさいました」
露子は、はッと思って、お霜の口を止めようとしたが、もはや遅かった。雪夫の事を隠そうとしたせっかくの苦心が水の泡に帰したことを知ると、お霜の言葉が恨めしかった。
「それは本当ですか?」と、警官は今度は露子に向かって尋ねた。
露子はもう駄目だと思った。こうなっては成るに任せるよりほかはないと思った。で、かすかに肯定の言葉を漏らした。
「それで、その議論の結果はどうなりましたか?」
露子が答える前にお霜が言った。
「空地様は大変ご立腹になって、どんな手段を講じてもお嬢さんを手に入れねばおかぬという捨て台詞を残してお帰りになりました。よほど興奮してみえたものか、ステッキを忘れてお行きになりました」
露子はぎょッとした。雪夫が昨日、ステッキを忘れて行ったことなど、少しも気がつかなかったばかりか、お霜からも、今初めて聞いたのであった。それにしてもお霜は、さっきから、何ゆえに出しゃばって、余計なことを警官に告げるのであろうか。もしや、彼女はさっきの雪夫からの電話を盗み聞いたのではあるまいか。こう思うと、頼りにしていたお霜までが、恐ろしい敵であるかのように見えた。
「そう、それじゃ、空地さんに会う必要がある。空地さんの住所はどこですかしら、電話があったらついでに教えてください」
こう言って、警官は手帳を取り出した。
露子は、今さら隠し立てしても、何の役にも立たぬと知って、雪夫の下宿と電話番号とを告げた。
ちょうどそこへさっき電話をかけに行った刑事が戻ってきたので、主任は刑事に向かって、空地雪夫が今下宿に居るかどうかを尋ねるように命じた。
程なく刑事は復命した。
「ただ今、下宿へ聞き合わせましたが、空地さんは、昨日の午後家を出たきり、とうとう今朝までお帰りにならなかったということです」
六、私立探偵
この言葉を聞いた露子は、深淵に突き落とされるような驚きを覚えた。雪夫が下宿から電話をかけたのではないかも知れぬという多少の疑いはあったけれど、今はっきり、雪夫が下宿へ帰らなかったことがわかると、雪夫に叔父殺しの嫌疑がかかるという恐れよりも、雪夫の生命に何らかの危険が迫っていはしないかという恐れの方が遙かに勢力を得た。と言って、今さらあからさまに事情を告げて警察の助けを求めるわけにもいかず、ただもう重なる不幸に、わッと泣きたいような衝動が起こった。
主任は、露子の心の中の苦しみを知る由もなく、雪夫が下宿に不在であることを知ると、さもそれが当然のことであるかのようにうなずいて、捜査を続けた。そして机の引き出しや、床の間の隣りにある地袋の中を探して、必要と思われる紙片の文字などを手帳に写し取った。
けれども、犯人の目星をつけるべき証拠は何も発見し得ないらしかった。で、現場捜査の次に取るべき第一の手段として、空地雪夫の所在を探すことに決心したらしく、刑事にその手配りをさせるのであった。
間もなく警察から、死体を運び出すべき人夫が到着した。そして、捜査主任も、刑事も、警察医も、一緒に引き上げてしまった。
人々が去るなり、露子はがっかりして、自分の部屋に閉じこもった。警察の人たちは果たして雪夫の所在を発見するであろうか。また、雪夫を見つけ出したら、どうするであろうか。みんなの前では緊張していたせいかそれほどでなかったけれども、ひとりきりになると、雪夫を気遣う心が倍加した。と言って、自ら雪夫を捜し出すべき工夫はなく、またお霜や書生の震一に相談する気にもならなかった。
ふと、ある考えが露子の脳裡に閃いた。
「そうそう、私立探偵の西山電吉氏に相談しよう」
西山電吉の名を、彼女は空地雪夫からよく聞いていたのである。彼は空地とは、親友というほどではないが、大学時代の同窓で、共にスポーツに興味を持ち、法学部を出るなり、珍しくも私立探偵になったのである。そのスポーツマンらしい軽快な挙動と、明敏な頭脳と、巧妙な変装的技量とは、僅かの期間に華々しい名声を博していた。ことに彼の変装は堂に入っていた。彼は小柄であったため、女子に変装することも自由であったが、単に女子になるというだけでなく、特徴ある顔であるならば、何の誰に扮装することさえ可能であった。
西山電吉のことを思い出すと、露子は急に元気づいた。そして、直ちに電話室に入って、電話番号を探し、動悸を高めながら呼び出した。
都合よく西山は在宅して、すぐさまお伺いするという返事であった。露子は何となく救われた気持ちになって、ひたすらに私立探偵の入来を待ちこがれた。
「お嬢様、ご飯の用意ができました」
お霜の言葉に、彼女は初めて、まだ朝飯を取っていないことを思いだした。もし、西山のことを思いつかなかったならは、露子は恐らく食事をする気にならなかったであろう。が、ひと安心した彼女は、急に空腹を覚えた。
食事を済ますと、ほどなく西山電吉が訪ねて来た。その艶々した血色と鋭い眼とは、いかにも信頼するに足るべき人であることを思わせた。しかもその顔立ちが、何となく自分に似たところがあったので、言わば自分の兄ででもあるかのように懐かしかった。それに、空地のことを言い出すなり、西山は、特に友人のよしみをもっておよぶ限りのことを致しましょうと言ったので、あたかも、百万の味方を得た心地がして、彼女は心の中で嬉し泣きをしつつ、逐一事情を語るのであった。
まず、自分と雪夫との恋愛関係から話し出し、叔父が雪夫との結婚には絶対に反対であったこと、昨日叔父が雪夫に、例の手紙の数々を示して雪夫の出入りを禁じたこと、雪夫が憤慨して捨て台詞を残して去ったこと、それから叔父は外出して十一時少し過ぎに自動車で運ばれて来たこと、今朝お霜が叔父が殺されていることを発見したこと、そして最後に、雪夫から恐ろしい電話のかかったことを物語った。
「さっき警察の方が見えまして、色々お尋ねになりましたが、この電話の事だけはどうしても話すことができませんでした。空地さんが手を下して殺されたのでないと信じてはおります。けれど遺言状を盗みに入ったということだけでもひとつの犯罪ですから、恐ろしくて打ち明けられませんでした。が、それよりも今は空地さんの生命が案じられます。電話の最後のうめき声が気になってなりません。どうか西山さん、早く空地さんを見つけ出してくださいませ」
露子の語るのをじっと聞いていた西山探偵は、この時その眼をぎろりと輝かせて言った。
「全力を尽くします。しかし、空地君を探し出すには順序を追わねばなりません。そこでお尋ねしますが、ゆうべ叔父さんはどこへ行かれましたか?」
「存じません」
「女中さんも、書生さんも知りませんか?」
「知らないと申しております」
「空地君が盗み出した遺言状というのは、どんな内容ですか?」
「父が病床で作らせたものでして、私が二十五歳になるまでは、叔父が私の財産を監理するという意味のもので、私の署名がしてあります」
「空地君はその遺言状のありかを知っておりましたか?」
「そんなはずはないと思います。これまで私は遺言状のことなど一度も話しませんでしたし、それに遺言状がどこに入れてあったか私さえも存じません」
西山探偵はじっと考えた。
「叔父さん宛に来た数々の女の手紙は無論偽物でしょうが、それについて何か心当たりはありませんか?」
「とおっしゃると?」
「つまり誰かがその偽物を作ったに違いありません。まさか叔父さん自身であるまいから、別の人があるはずです」
露子はしばらく考えて言った。
「心当たりと言って別にございません」
「叔父さんはあなたに向かって誰か他の人と結婚せよというようなことをおっしゃいませんでしたか?」
「叔父の口からは聞いたことがありません」
やがて西山探偵は、露子に案内されて現場搜索を始めた。彼の捜索ぶりは警察のとは全然違っていた。彼は露子から、お霜が最初に台所の裏口から、庭を隔てて雨戸の開いているのを見たと聞いて、その雨戸の開いていた所に立って庭の方を眺めた。それから敷居を検査した。そして何事かを発見したと見えて、ひとりでうなずいた。
それから眼を伏せて庭の面を綿密に観察したが、失望を感じたと見えて、首を幾度も横にふり動かした。次いで彼は座敷に入って、露子に向かって警察の人々が何を探り得たかを尋ねた。
彼は机の上、机の引き出しばかりでなく、机の脚をも調べた。それから畳の隅々や、柱に至るまで、叩いたり押したり揺すったりした。そして遂に、読者諸君の推察されるであろう通り、床柱の後ろの嵌め木を見つけた。
さすがに彼は興奮した顔つきをして、嵌め木を外し、中のうつろに手を入れて探った。すると程なく、更に一個の嵌め木を取り出したかと思うと、次の瞬間、一通の書類をつかみ出した。
露子は西山探偵がそれを開くのを見るなり、あッと言って驚いた。それもそのはず、今、西山の手にしているものこそ、間違いもなく、彼女の自筆の署名ある遺言状だったからである。
露子は一瞬間頭がぼーっとした。雪夫は確かに遺言状を盗み出したと言ったにもかかわらず、その遺言状が今ここで発見されるとはなぜであろうか。して見ると雪夫は嘘を言ったのであろうか。
「ご不審はもっともです」と、西山はあたかも露子の心を見抜いたかのごとく言った。
「けれども、空知君が遺言状を盗み出したのは事実です。しかし、それは写しに過ぎなかったのです。叔父さんは用心深い人であったから、嵌め木を取るとすぐ一通手に触るようにしておいたのです。普通の人間はそれで満足して帰ります。ところが、その実、その空洞の底に今ひとつ小さな空洞が作られてあって、そこへ本当の遺言状が隠されていたのです」
こう言いながら、西山探偵は遺言状の文言を読んでいたが、
「あなたは、 雲井源治という弁護士をご承知ですか?」
「存じております」
「よく訪ねて来ましたか?」
「いいえ、あまりおみえにはなりません」
「この文面によると、あなたの二十五歳までは叔父さんが監理するのだが、もしそれまでに叔父さんが死なれると、雲井弁護士が代わって監理することになっています」
「まぁ」と、露子は驚いた。
「そんなこと少しも知らずに私は署名しました」
「恐らくあなたのお父さんもそれをご承知なかったかも知れません。よろしい。どうやらこれで、多少は事情がわかってきました。それではこれを私が一時、預からせていただきます。もっとよく、これを研究して見たいと思いますから」
それから、西山探偵は女中のお霜及び書生の震一を尋問し、最後に雪の積もった庭に出て、空地雪夫が、ゆうべ、どこからどういう具合に忍び入ったかを知ろうと思った。露子は西山について行きたかったけれども、西山が制したので、応接室で西山の帰りを待った。
およそ一時間も過ぎたであろう。露子にとっては数十時間の思いがしたが、やっと西山探偵は、ところどころ洋服を濡らして入ってきた。雪の中を熱心に捜索したらしい様子が自然に表れていた。
「なかなか骨が折れましたよ」と、西山は満足そうな顔をして言った。
「ゆうべ、この屋敷に来たのはひとりきりではありません。確かに二人、忍び込んだ形跡があります。雪が降っていたためか忍び込んだ人たちが雨戸に沿って歩いておりますから、地面のところどころに不完全な足跡が残っております。しかしそれによって、二人であることがわかりました。ですから、たとえ、空地君がそのうちの一人であっても、殺人は、もうひとりの方が行ったかも知れません。ではこれから、空知君の所在を探してきます」
七、雪夫の受難
私は空地雪夫の消息を読者諸君に伝えねばならない。雪夫は露子が想像した通り、その一生涯に初めての受難を経験しつつあるのである。
昨日雪夫は、零蔵に数々の手紙を見せつけられ、憤慨のあまり飛び出して、無闇に街を歩き回ったが、ふと、露子の家にステッキを忘れてきたことを思い出して、再び引き返した。ところが露子の家の傍まで来ると、ひょっこり零蔵が出て来たので、好奇心に駆られて、零蔵に気づかれぬようにそのあとをつけた。
すると零蔵はS町の「春よし」に入った。この料亭へは、雪夫もよく来たことがあり、女中の中には顔馴染が二、三人あったので、秘かに事情を話して、離れ座敷で、零蔵と雲井源治との話を立ち聞きした。その結果、初めて、零蔵と雲井弁護士との奸計を知り、遺言状のありかを知ったのである。で、露子を救うには、遺言状を取り返せばよいと思い、すぐさま露子を訪ねて、零蔵の帰らぬうちに遺言状を取り出そうと決心したのであるが、都合悪く「春よし」で酩酊した旧友に逢い、無理に引き留められて酒を飲まされ、その時機を失してしまった。
それから雪夫が一杯機嫌で「春よし」を出たのは、十二時過ぎであった。雪はかなりに大降りであったが、雪夫は酒のせいか、どうしても今夜中に遺言状を盗み出したいと思った。で、勝手知った露子の家に忍び入り、雨戸をこじ開けようとすると、意外にも容易に開いたので、秘かに零蔵の寝室に入り、床柱の裏の嵌め木を探り当てて遺言状を盗み取るなり、首尾よく再び逃げ出した。
雪がだんだん大降りになったので、雪夫は遠い下宿まで帰る気にならず、宿屋があったら泊まろうと思って注意して歩くと、やがて一軒の小さな宿屋を見つけた。で、叩き起こして泊めてもらったが、興奮のあまり眠ることができなかった。彼は盗んできた遺言状を調べたが、巧妙に作られてあったので、もとより偽物であるとは知らず、早くこのことを露子に報告したいと思ったが、その宿には電話が無かった。
夜が明けるなり、雪夫は宿を出た。街は雪のために人通りが極めて稀であった。四、五町(※約440~550m)歩くと公衆電話があったので、そこから露子を呼び出して、読者諸君のすでにご承知のごとき報告を行ったのである。
ところが、雪夫がそのメッセージを終らぬうち、突然、公衆電話室のドアが開いた。雪夫はあッと叫んだが、次の瞬間、後ろより何者かに組みつかれて、それと同時に、麻酔剤を嗅がされ、うーんと唸ったきり、そのまま前後不覚に陥ってしまった。
ふと、気がついて見ると、雪夫は、穴倉のようなところに、全身を麻縄でぐるぐる縛られて監禁されていた。何ともいえぬ不健康な臭気が漂って、うす暗い電燈が、寒そうに、塵埃に満ちた空気を照らしていた。
雪夫は、じっと眼をつぶって回想した。公衆電話室で襲われてから、およそ何時間を経たのか、もとよりわからなかったが、電燈がついているとはいえ、まだ夜ではないらしかった。
雪夫は何者が自分をこのような目に遭わせたのか、少しも見当がつかなかった。けれどもこれが、自分と露子とをめぐる問題に関係しているだろうことは推察するに難くなかった。
それにしても、露子は今頃何をしているであろうか。電話が半分切れになったことを彼女は何と思っているであろうか。もしや水野零蔵が遺言状を盗まれたことを発見して露子を責めているのではあるまいか。こう考えると一刻も愚図愚図していられないような気になった。で、何とかして麻縄を解こうと思ったが、その努力は無駄であった。
ふと人の話し声がして穴倉の階段を降りてくる足音が聞こえたので、雪夫は眼をつぶって、うなだれながら、引き続き人事不省に陥っているかのように装った。
入って来た二人は、覆面をして、眼ばかり出していたから、それが誰であるかはわからない。
「先生、まだ正気づきません」と小さい方が言った。
「人殺しをするほど大胆不敵な癖に、麻酔剤には弱いと見える」と、大きい方が答えた。
人殺しと聞いて雪夫はぎょッとした。が、それが何を意味するのかわからなかった。
「叩き起こしましょうか」
いやまず待て、こいつが水野零蔵を殺してまで奪って来た遺言状が偽物だとすると、本当の遺言状のありかを知らねばならん。いっそ、このままで催眠術をかけて、こいつに、昨夜の行動を語らせてみようか」
雪夫は大声の出かけたのを無理に抑えた。さては水野零蔵は昨夜殺されたのであるか。そして、自分の盗み出してきた遺言状は偽物であったのか。
こう考えると同時に、今自分の前に立っている二人のうち、ひとりは雲井弁護士であるに違いないと思った。そして彼を先生と呼ぶ男は恐らく雲井の書生ででもあろう。
それにしてもこの苦しみの上に、催眠術などをかけられてはたまらぬと思った。で、正気を回復したふりをしようとしたが、この時小さい方の男が言った。
「ついでに露子さんをここへおびき出す手紙も、催眠状態で書かせてはどうですか?」
「いや、そいつは、正気で書かせた方が効果がある」
さては露子を誘拐する計画をして、言わばその囮として、自分を監禁しているのか、こう思うと、腹立たしくもあり、また、恐ろしくもあった。今、自分がこの場でいかに抵抗しても、二人に勝ち得る見込みはなかった。と言って、露子を危地に陥れるようなことが、どうして自分にできよう。
雪夫は人事不省を装いながら、その頭を一生懸命に働かせたけれども、自分に迫っている危険を脱すべき適当な方法は更になかった。
「先生、露子さんをおびきだすのはなるべく早い方がよろしいですぜ。警察の奴らだけなら何でもないですけれど、西山電吉が関係してきては、邪魔をされないとも限りません」
「それはそうだ」
雪夫は西山電吉の名を聞くなり、嬉しそうに思わず身体を動かした。
「やッ、先生、こいつはとっくに正気づいていて今の話を聞いてしまいましたよ」
「うむ太い奴だ」と一方の男は怒声を発した。
「こうなったら最後の手段だ。遺言状などはもうどうでもよい。早く露子へ手紙を書かせよう、書かねば拷問にかけるだけだ」
こう言って覆面の二人は、つかつかと雪夫の傍に歩み寄った。
八、呼出状
露子さん。僕は今あるところに監禁されております。この手紙を見次第、この自動車に乗って、僕を助けに来て下さい。 雪夫
激しい抵抗の後、多勢に無勢、こうした手紙を無理に書かされた雪夫は、再び穴倉の隅に、以前のごとく麻縄でぐるぐる巻きに縛られたまま、ぐったりしてうずくまった。
覆面の二人の男が近寄った時、たとえ死んでも、露子をおびきだす手紙は書くまいと決心したものの、もし自分が死んだならば、露子の身はどうなるだろうかと思うと、その決心は鈍らざるを得なかった。もし露子がこの穴倉へ連れられて来るようなことがあれば、かえって露子と自分を救う機会がないにも限らない。それに覆面の二人の男の会話によると、西山探偵がこの事件に関係しているということであるから、ことによると西山が自分たちを苦境から助け出してくれるかも知れない。西山電吉は、恐らく露子に頼まれて事件に関係したに違いない。露子は自分のかけた電話を聞いて、心配のあまり、かねて自分が西山を尊敬していたことを思い出し、西山に自分の行動を探るよう依頼したのであろう。こう思うと一縷の希望と、そして、たとえ心身が極度に疲労したとはいえ、なおかつ心の隅に残っていた冒険心とが湧いて、とにもかくにも、彼等二人の要求通り、震える手にペンを握らされて、心にもない呼出状を相手の言うがままにしたためたのである。
覆面の二人は、覆面を解かなかったけれど、それが雲井弁護士と、その書生であることは、もはや疑うべきでなかった。ゆうべ料亭「春よし」の離れ座敷で盗み聞いた雲井の声は、雪夫の記憶に新たであった。そして雲井よりほかに、こうした呼出状を書かせるものはあるはずがなかった。
雪夫は寒さと飢えとを忘れて、考えに耽った。水野零蔵が殺されたことと、自分が苦心して盗みだした遺言状が偽物であったということは、まったく意外であり、不可解であった。水野零蔵は果たして誰に殺されたであろうか。雲井はこの自分が犯人であるように言ったけれど、自分が犯人でないことは自分自身がよく知っている。また、露子が手を下したのでないことは言うも愚かである。
そうだ! やっぱり、水野零蔵は雲井源治のために殺されたのだ。雲井は恐らく、昨夜自分と同じように、水野の家へ遺言状を盗みに行き水野を殺して、床柱を探ったのだろう。ところが、自分のために先を越されたのを知って、何かの方法で自分があの宿屋に入るのを見届け、朝になって自分が出るのを待ち構え、自分が公衆電話に入ったのを好機として、不意を襲って人事不省に陥れ、遺言状を奪おうとしたのだろう。ところが遺言状が偽物だったので、自分をここへ監禁し、自分を囮として露子を奪うことにしたのであろう。
それにしても、雲井はどうして、自分があの宿屋に泊ったことを知っただろうか。彼は恐らく、自分が遺言状を奪って水野の家から出てくるところを見たのだろう。が、もしそうとすると、彼がその後に忍び入って水野を殺したと考えることは困難である。もしまた、彼が自分より先に水野の家に忍び込んだとすれば、遺言状が自分の手に渡るはずがない。
雪夫は眼をつぶって、昨夜、水野の家へ忍び込んだ模様を回想した。雨戸の掛け金は下方に備えつけてある垂直のかんぬき錠であるから、雨戸を外から少し持ち上げることによって容易に開くことができた。零蔵の寝室は真っ暗であったが、勝手を知っていたので直ちに床柱を探り当て、遺言状をつかみ出したため、零蔵がその時すでに殺されていたか否かは知ることができなかった。そして、もとより、精神が床柱の方に注がれていたため、いびき声などを聞く余裕がなかった。
遺言状が床柱の中に存在していた以上、雲井は自分より後に忍び込んで水野を殺したのであろう。何のために? こう考えると、雪夫は、はたと行き詰まらざるを得なかった。強いて考えれば、雲井は自分が宿屋に入るのを見届けてから、水野の家に忍び入り、水野を殺して、自分にその罪をなすりつけ、もって露子に付きまとう邪魔者を払い退けようとしたのであるかも知れない。
「わからない、わからない」
雪夫は思わず呟いて深いため息を漏らした。いやに薄暗い電燈の光が、だんだん彼に寂しいような、悲しいような気持ちを募らせた。そして、考えは、いつの間にか露子の身の上に移っていった。
が、露子のことを思うと同時に、彼は、あの手紙を書いたことが後悔された。露子がここへ連れられて来ればとにかく、もしそのまま、自動車に載せられて、いずこともなく運び去られ、自分ひとりここに取り残されるようなことになったら、それこそ、二人の完全な破滅ではないか。
自分はなぜ、あの時、やはり、手紙を書くことを拒まなかったであろうか。こう考えると、心臓が妙な打ち方をして、雪夫は全身がむず痒い思いをした。そして何だかじっとしてはいられないような気持ちになった。
彼は、力を入れて、麻縄を振りほどこうとした。けれど麻縄はますます肉の中に食い入るだけで、すべての努力は、ただ彼を疲労に陥れるだけであった。転がることはできても立ちあがることはできなかった。
彼はやがて、耳を澄まして、ここがどこであるかを知ろうとした。雫の音が物憂く響くのは、恐らく雪が解けているのであろう。その外には何だか見当のつかぬような雑音がするだけで、市中だと言えば言えるし、郊外だと思えば郊外であるように思われた。だが、たとえこの穴倉の所在が判明したとて、それが、今の自分に何の役に立とう。
彼は、次に今がそもそも何時であるかを考えた。さっき二人に呼出状を書かされ、二人に置き去りを食ってから少なくとも二時間以上の時間が経過したはずである。多分もう戸外は夜の幕に包まれていることであろう。そして、今頃は、露子があの呼出状を見ていることであろう。
露子は果たして素直にあの手紙の文言に従うであろうか。露子のことであるから、たとえ危険が待ち受けていることを知っても、恐らく、自分を助けるために、敢えて危地に飛び込んでくるであろう。今朝からの彼女の心に、さらに加えてあの手紙を送って苦しませることは、我ながら許し難い罪悪に思われた。
ああ、どうしたらいいであろう?
今まで、物事に屈託したことのないスポーツマン気質の彼も、今日という今日、初めて、人の世の苦しさを味わった。昨日零蔵に拒絶された時は、苦しむというよりも、憤慨の心で満たされただけであるが、今こうした悲境に沈んでみると、初めて恋というものが、意外に苦しいものであることがわかった。そして、苦しめば苦しむほど、露子に向かっての愛着の念が勝った。昨日から今日にかけて、露子に対する彼の恋愛は、これまでの幾百倍の大きさに生長したことを悟り得たのである。
突然!
ある物音のために、雪夫は瞑想を破られた。はッとして耳を澄ますと、次の瞬間、階段を降りる足音が聞こえ始めた。彼は何びとが現れるかと、じっと瞳を据えていると、やがて、視野に入ったのは・・・・・・
おお!
覆面の例の二人の間にはさまれて、目隠しをされ、麻縄で縛られたひとりの女が・・・・・。
それは、間違いもなく露子の姿であった。
雪夫はその瞬間、露子の傍へ駆け寄って抱きつきたい衝動に駆られた。
鼻から下だけ表われた露子の顔はまったく血の気が失せていた。さすがに悪漢たちも女に向かっては手荒いこともできぬと見え、麻縄も二重か三重巻きつけてあるだけであった。活発な女ならば、縄を抜けることも容易であろうと思われるくらいであったが、露子にはそのようなことができるはずがなかった。それのみか彼女は、あたかも、予期したことに出逢ったかのごとく、少しも取り乱した様子がなかった。
が、その落ち着いた姿を見るにつけ、彼女をこのようなところへ無理に連れ出した二人を雪夫は心から憎まざるを得なかった。そして、まるで勝利者のような態度を取っている雲井を見た時、憤怒の血潮が脳天に突きかける思いがした。
やがて雲井は、書生に何事かを囁き、露子を託して、つかつかと雪夫の傍に歩み寄った。
「おい空地、いよいよ露子さんを連れてきたよ。恐らくお互いの見納めだろうと思って、お慈悲に逢わせてやるんだ」
雪夫は歯を食いしばって物を言わなかった。
「おいおい」と雲井は言った。
「貴様は水野を殺した犯人ではないか。遅かれ早かれ絞首台の露と消えねばなるまい。本当にこれが露子さんのこの世の見納めだぞ」
雪夫はしかし何とも言わなかった。
「案外にずうずうしいなぁ」と、雲井は吐き出すように言った。
「実はなぁ、露子さんをここへ連れて来たのは露子さんの前で、貴様が水野を殺したことを白状させようと思ったからだ。さあ、露子さんにひと言、叔父さんを殺して済まなかったと言え」
雪夫の口はいよいよ固く閉じられた。
「言わんのか、よし」こう言って、雲井は書生を振り返った。
「おい、それじゃ、気の毒だけれど、少しばかり露子さんを痛い目に遭わせてくれ」
書生がうなずいて、露子に手をかけようとしたとき、
「待て!」
大声に叫んだのは雪夫である。雲井も書生も、思わず雪夫の方を振り返った。
「卑怯なことをするな!」と雪夫は続けた。
「露子さんには何も罪がないじゃないか。ふざけた真似をすると承知しないぞ」
「ははは」と雲井は笑った。
「それだけ物を言えるくらいならなぜ黙っていたんだ。さあ潔く殺人の白状をしろ」
「俺は殺した覚えはない」と、雪夫はきっぱり言った。
「なに? 殺した覚えがない? 貴様よりほかに水野を殺す奴はないじゃないか。水野に結婚の申し込みを断られて、くやしさのあまり復讐したのだろう。そして、まんまと遺言状を盗んだのだろう。だがな、水野は貴様よりも悪党だから、偽物をつかませて一杯食わせおったんだ。あの遺言状がなくなっちゃ、こっちもちょっと困るんだ。だから、こうして貴様に露子さんを呼び出してもらったんだ。 さあ、いい加減に白状しろよ。白状したら、こちらにもお慈悲はある。露子さんに、叔父殺しの罪を懺悔して、以後一切近寄らぬと誓うなら、しばらくの間逃げ隠れするくらいの余裕は与えてやるよ。もしここで抵抗するなら、すぐさま、警察へ突き出してしまうぞ」
「ふん」と雪夫は軽蔑して言った。
「いよいよ本音を吐いたな。警察へ突き出すなら突き出して見るがいい。貴様こそ、水野を殺した当の犯人じゃないか。警察が怖いのは自分だろう。だが、貴様が、俺の手から奪った遺言状が偽物だったのはいい気味だよ。貴様は露子さんよりも露子さんの財産が欲しいのだから」
この言葉は雲井の急所をえぐったらしかった。彼はやにわに、雪夫の方に身を投げかけたかと思うと、次の瞬間、雪夫のうなり声が、雲井の身体の下から聞こえた。
「待ってください」
甲高い声で叫んだのは、目隠しをされた露子であった。彼女は両手を前へ突き伸ばして、雪夫の方に探り寄ろうとしたが、直ちに書生のために遮られた。
「どうぞ、お二人に格闘をやめてもらってください。実は、問題の遺言状を私が持っているのです。それをお渡ししますから、手荒なことをせぬようにしてもらってください」
露子のこの言葉は、格闘中の雲井にもはっきり聞こえたらしかった。彼はがばと跳ね起きて、雪夫を転がしたまま、露子の方に近寄った。
「本物の遺言状をあなたが持っているのですか?」
「はい」と、露子の答えは女に似合わずきっぱりと言い放たれた。
「西山さんが床柱の奥から発見なさったのです。奥にもうひとつくぼみがあって、その中に本物が入れてありました」
いささかの震えも帯びていない露子のはっきりした声を、この時やっと起き上がった雪夫も聞いて、その度胸の据わっているのに感心した。
「その遺言状をどこに持っていますか?」と、雲井は畳みかけて尋ねた。
「ここに、この懐の中に持っております」
「露子さんいけない。それを渡してはいけない」と雪夫は思わず声を絞った。
その時すでに、雲井の手は露子の懐に差し込まれてあった。そして数秒の後、取りだされたのは、西山が持って行ったはずの遺言状であった。
雲井は震える手をもってそれを開いた。
「おお、これに違いない」
その満足げな様子に、書生も、額を寄せて文面に眺め入った。
すると、その時である。
「やッ!」 という声が、露子の口から発せられたかと思うと、次の瞬間、おお! それはまったく超人的な速さで露子を縛った縄が、そのまま、雲井と書生とを数珠つなぎにした。
あまりのことに雲井も書生も、ただ呆然としているだけであった。雪夫に至っては、まるで悪夢でも見ているかのように眼の前の奇跡を「あッ」とも言わず眺め入った。
もとより、露子の目隠しはその時外されてあった。露子は雲井と書生とを縛った縄尻を持ったまま近づいて、目にも止まらぬ早さで、手にしたナイフで切り放った。そして、呆気にとられている雪夫に顔を近づけながら、誰にも聞こえる声で、
「空地君、僕は西山電吉だ!」
と叫んだ。
九、訊問
まさか、まさか西山電吉が露子に扮装していようとは、雲井も書生も雪夫も夢にも思わないことであった。が、そこが西山の狙い所であった。西山探偵は今朝露子の元を去ってから、直ちに雪夫の捜索に取りかかり、雪夫の入った公衆電話を調べ、多分、雲井源治のために連れ去られたであろうと考え、雲井の挙動を探ったが、雲井の事務所は一時閉鎖されていたので、雪夫がどこに隠されているかを知り得なかった。けれども、雲井が雪夫を監禁しているのは、露子をおびきだすつもりであるに違いなく、早晩、露子を連れにくる者があるであろうと仮定し、露子の顔と自分の顔とが似ているところから、大胆にも露子に扮装しようと決心し、露子に事情を話して、露子の衣装を借り、露子自身さえ、どちらが自分であるかを見迷うほどに巧みに扮装し、雲井一味の者が連れ出しに来るのを待っていたのである。
ところが、その期待は意外に早く実現され、こうして、今、途中で正体を発見されることなしに、まんまと敵地に乗り込んで、見事に敵を征服し得たのである。
さて、空知雪夫は自分の麻縄を絶ち切られ、「西山電吉だ」という叫びを聞いてからも、まだ信じられないような顔をして、露子否、西山の顔に見入った。
「空地君、しっかりしたまえ。早くこの男たちの覆面を除いて、遺言状を奪い返したまえ」
雪夫は命じられるままに、二人の覆面を取り、遺言状を奪い返した。雲井と書生とは、運命の逆転にたまげて、雪夫のなすがままになった。西山が事件に関係したことを知って、かねて恐れを抱いていた二人は、今、目の前に西山の姿を見て、蛇に睨まれた蛙のように身がすくんだ。
西山は形こそ女であれ、威圧するような声で雲井に向かって言った。
「さあ、君の昨夜の行動を語りたまえ」
雲井は眼を伏せたまま答えなかった。
「空地君」と西山は言った。
「君は多分、ゆうべこの男と水野零蔵とが、どこかで会合したことを知ってるだろう?」
「うむ、知ってる」と、雪夫はようやく気を落ち着けて答えた。
「どこだ?」
「S町の『春よし』だ」
「その時に遺言状のありかの話がでたか?」
雪夫はうなずいた。
「それから君が水野の家に忍び入ったのだね?」
雪夫は大きくうなずいた。
「その時に水野は殺されていたか、それともまだ生きていたか?」
「真っ暗だったからわからなかった」
「君が水野の屋敷へ出入りするときに、あたりに人影を見なかったか?」
「何しろ、雪がかなりに降っていたので、あたりを見回しもせず、ちっとも気がつかなかった」
西山はしばらく考えて言った。
「僕が今日捜索した時は、ゆうべ水野の家へ、確かに二人の者が忍び込んだ形跡を発見したのだ。一人が君だとすると、もう。一人は誰だろうか?」
「それは、無論この男に違いないじゃないか」と、雪夫は雲井の方を顎で指して言った。
「そうだ。僕もそう思うから、今も、この男に、ゆうべの行動を尋ねたのだ。さあ君、黙っていてはためにならない。潔く語りたまえ」
雲井はしかし口を開かなかった。書生がさっきから、全身を軽く震わせていたので、その余波が雲井にも伝わって、まるで雲井自身も震えているように見えた。
「言わないのかね。言わないのは心にやましいところがあるからだろう」
「・・・・・・」
「君が水野を殺したのだろう」
「違う!」と雲井は顔を上げてきっぱり言った。
「水野は空地に殺されたに決まっている」
「僕は知らん」と、雪夫は怒鳴った。
「知らぬはずはない。貴様は水野を恨んでいたから」
「何?」と、雪夫は息巻いた。
「議論をしても仕方がない」と、西山は二人をなだめるように言った。そして、雲井に向かい、
「とにかく君がゆうべ水野の家を訪ねたことは事実だろう。もし君が本当に水野を殺したのでないのなら、ありのままを語りたまえ。それを語ることができねば、やはり、君を犯人とみなすよりほかはない。そして、すぐ警察へ突き出してしまう」
警察という言葉には、さすがの雲井も心を動かさずにはいられなかった。
「たとえ、ありのままを白状しても、やはり警察へ突き出すのだろう?」
「いや」と、西山はきっぱり言った。
「警察の方では、まだ何も気がついておらないから、君が殺人に関係がないとわかれば、僕も野暮なことはしない」
「いけないよ」と、雪夫が口をはさんだ。
「人を不法に監禁したのは、許し難い罪悪ではないか」
「まあ、僕に任せたまえ。君だって、深夜無断で他家へ忍び入った罪があるではないか。君が無事で帰ってくれて、水野零蔵を殺した犯人がわかれば、それで満足しなければならん」
こう言って雲井に向い、
「では、ゆうべの君の行動を順序正しく話してくれたまえ」
雲井も西山のすっきりした態度に動かされたとみえ、決心したようにうなずいて語り始めた。
「『春よし』で水野と別れて、いったん家に帰ってから、我輩はこの書生と一緒に、水野の家に忍び込んで、遺言状を取り出そうとしたのだ。ところが、二人で水野の家の傍に行くと、この空地が出てくるのを見つけたのだ。もとより雪が降っていたからその時、空地だとはわからなかったが、とにかく怪しく思って、空地の後をつけ、宿屋に入るのを見届けたのだ。そこで我輩は書生に宿屋を監視させて、水野の家に引き返したのだ。なにゆえ引き返したかは我輩にもわからんが、とにかく座敷の中へ忍び込んだのだ。無論、遺言状がそのままになっていれば、盗って来るつもりだった。ところが懐中電燈でチラと水野の寝床を照らすと、驚いたことに水野は血に浸かって死んでいた。さてはさっきの曲者が殺したに違いないと思って、見つけられては面倒だからすぐさま逃げ出そうとしたが、とにかく一応床柱の空洞を取り調べると、あるべきはずの遺言状が紛失していたから、さては空地が水野を殺して遺言状を奪ったのだと思った。そこでさらに書生の所へ引き返し、空地が宿屋を出たら、後をつけて適当なところで襲う手筈を決め、とうとうあの公衆電話をかけている時にその目的を達したのだ」
「うまく作ったな」と雪夫は揶揄するように言った。
「まあ、静かにしたまえ」と西山は制した。
「すると、水野は確かに、君が忍び込んだ時にもう殺されていたのだね?」
「そうよ、吾輩の言う事を信じようと信じまいと、それは勝手だが、我輩の今言ったことに偽りはないよ。だから我輩は空地が水野を殺したと信じているのだ」
「空地君が人殺しをしないことは、僕がよく知っている。すると、空地君が忍び入った時に、すでに水野は殺されていたのかも知れんが・・・・・・はて」
こう言って西山探偵はじっと考えた。そしておもむろに雲井に向かって尋ねた。
「君は水野が誰かに恨まれていることを知らないか?」
「水野はああした悪党だったから、たくさんの人に恨まれているよ
「そのうちでも、特に水野を恨んでいる者を知っていないか?」
「水野が一番恐れていたのは、霧村一家の者だ」
霧村と聞いて、雪夫は、水野零蔵が「春よし」で、雲井からそのことを言いだされ、あの話だけはよしてくれと言ったことを思い出した。
「その霧村一家というのは?」
「水野のために破滅に陥れられた家なのだ。たったひとりの娘が生き残って、それが復讐せずにはおかぬと言っていたそうだが、その娘も生きているかどうか、水野自身も知らなかったはずだ」
このことを聞くなり、西山は何か心に思い当たったことがあるとみえ、満足そうにうなずいた。
「空地君、これで話はわかった。早く露子さんに逢って安心させよう」
「え?」 と、雪夫は驚いた。
「どうしたのだ君、もう訊問は済んだのか?」
「済んだよ。済んだよ」
「犯人は誰だ?」
「犯人か、犯人はここには居ない。けれどももう逃げてしまったかも知れん。さあ、出かけよう」
「この二人をどうする?」
「この二人か、お気の毒だが、事件が解決するまでここに居てもらうよ」
こう言い置いて女装の西山探偵は、雪夫の先に立って、さっさと地下室の階段を登った。
十、解決
「おい西山君、二人をああして置いておいてもいいかい。逃げ出してしまわないか?」
階段を上がるなり、後から雪夫がこう声をかけると、西山は笑いながら言った。
「なに、もう、逃がしたところでいいんだよ。彼等はもう決して僕等に手向かいはしないよ」
「ここはいったいどこだ?」と、雪夫は、暗い廊下のような所を通りながら尋ねた。
「F町の支那人街だよ。雲井弁護士は、こうしたところと連絡を取って、よくないことをやっているらしい」
戸外へ出ると闇の中に、一台の自動車が二人を待っていた。
「僕がどういう扮装をしてどこへ行こうとも、部下の者が、ちゃんと、その後をつけることになっているから、こうして自動車が用意されてあるのだ」と、西山は自動車に乗ってから言った。
「さあこれから、僕はこの扮装を解いて、いつもの西山に復帰しよう」
数分の後、西山探偵は、その本来の姿に立ち帰っていた。
「君は水野を殺した犯人が他にあるように言ったが、それが誰だか知っているのか?」
「うむ、推定はしている」
「誰だ?」
「ゆうべ水野の家に忍び入ったのは二人きりで、ひとりは君、もう一人は雲井だ。二人とも水野を殺す可能性はあるけれど、もし雲井が先に忍び込んで殺したとすれば、偽の遺言状を彼が持っていなければならんはずだ。ところが偽の遺言状は君の手に入ったのだから、君が先に忍び込んだことがわかる。ところで、君は人殺しをする性質でなく、仮に君が水野を殺したのであるなら、公衆電話から、露子さんを呼び出してあのようなことを告げるはずはない。そこで、どうしても、雲井が君の後から忍び込んだことになる。すると雲井が、その時に殺人を行ったかどうかという問題になるけれど、もし彼が殺人を行っているなら、こんなに早く君を監禁はしないよ。彼は君が殺したに違いないと思ったから、その弱点に乗じようとしたのだ。彼がさっき語った昨夜の行動には少しも偽りがないと思う」
「そうするといったい、犯人は誰だ?」
「外部から侵入した二人が犯人でないとすると、問題はすこぶる簡単になるではないか」
「内部の者だというのか?」
「そうよ」
「水野の家には、露子さんと書生と女中と三人きりだ。その中に犯人があるというのか?」
「うむ」
「露子さんが殺す訳は絶対にないし、書生も女中も人を殺しそうに思われん」
「君は今、雲井の話したことを聞かなかったか?」
「え?」
「霧村一家の生き残った娘が水野に復讐すると言ったという話を!」
「それでは、 それでは・・・・・・」
「まあ、聞きたまえ、僕が今日取り調べにかかった時、最初惨事がどうして変見されたかを尋ねると、女中のお霜が勝手口から座敷の雨戸が半分ばかり開いているのを見て不審に思ったというのだ。犯罪探偵において最も大切なことは、殺人を、誰がいかなる状態のもとに発見したかということだ。だから僕はそれについて、いつも懇ろに調べるのだ。ところが座敷の雨戸の所に立って勝手口の方を見ようとすると、不思議にも建物の陰になって見えないのだ。そこで僕はちょっと不審に思ったよ。これは女中が、不注意にもこしらえ事をしたのだ。と思うと同時に、何らかの形式で女中がこの事件に関係していると直感したのだ。だから、まず君の行動を探り、次いで雲井の行動を尋ねて、女中のお霜と関係があるや否やを調べ、もし関係がないとすればお霜を最も有力な嫌疑者とすべきだと思ったのだ。ところが、水野を恨む霧村一家に一人の娘が生き残ったと聞いて僕はもう疑うべき余地はないと思ったのだ」
雪夫は、今さらながら、西山の慧眼に敬服せざるを得なかった。
「もしや留守中にお霜はもう逃げはしなかっただろうか?」
「それを思ったからこうして大急ぎで穴倉を飛び出したのだ」
ちょうどその時、自動車は露子の家についた。雪夫は転ぶように走って、玄関のベルを押した。書生の震一が開けに来た。
「露子さんは?」
その時、露子も走り出して来た。二人は抱きあった。
「おいおい。それは後にしてくれ」と、西山が後ろから声をかけた。
「女中のお霜さんは居ませんか?」
そこで露子は初めて我に返って、手にしていた封筒を差し出した。表面には「西山電吉様」と書かれてあった。
「実はお霜が夕方から居なくなりましたの。そして、これが私の机の上に置いてありましたの。確かにお霜の筆蹟ですわ」
西山探偵は封を切って読んだ。
西山電吉様
私はあなたが私に嫌疑をおかけなさったことを知って、自首する決心を致しました。水野零蔵を殺したのは私でございます。私の本名は霧村糸子と申します。零蔵のために一家は悲境に沈み、私は復讐を誓いました。そしてこの家に住みこんで機会を待ちました。昨夜零蔵は酔って帰って、私にみだりがましい事をしました。その時私はいよいよ復讐の時機の来たことを知りました。一時頃に父のかたみの短刀を携えて寝室に近寄りますと、意外にも一人の男が雨戸を開けて忍び込み、やがて再び出ていきました。暗くてよくわかりませんでしたけれど、どうもそれが空地さんであるように思いました。それから私は寝室に忍び入って零蔵を殺しました・・・・・・。
手紙はそれから、西山が自分に嫌疑をかけた理由が何であるかを知っている事、かねて自首する決心であったこと、露子の叔父を殺したことに対し、露子に詫びをして欲しいことなどが書かれてあった。
読者諸君!
かくてこの事件は滞りなく解決したのである。露子がその後恋人と共に幸福な生活に入ったことは言うにも及ばぬが、ただひと言書き添えておきたいのは、あの遺言状のことである。あれは決して法律上有効なものでなく、露子の署名があるので、零蔵がそれを威喝の種に使ったのに過ぎない。だから、零蔵が死ねば、遺言状は、無いも同然なのである。