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更新日:2023年12月22日公開 印刷ページ表示

「須成地区」の歴史・文化

須成歴史・文化マップ

須成の名は、その昔、木曽川などが運んだ砂が堆積した場所を示す砂成(すななり)が、後になって「須成」という地名になりました。
蟹江町の北の端に位置した集落で、中央を南北に蟹江川が流れ、古くから須成神社と龍照院を中心に栄えた地区です。

1 冨吉建速神社(とみよしたけはやじんじゃ)・八剱社(はちけんしゃ)

須成神社

当社は、須成地区の氏神で、冨吉建速神社(とみよしたけ(て)はやじんじゃ)・八剱(劔)社(はちけんしゃ)の二社から成っており、須成神社ともいいます。

天平5年(733)に行基菩薩(ぎょうきぼさつ)により蟹江山常楽寺(じょうらくじ)の鎮守として創建、寿永元年(1182)木曾義仲によって修復、天文17年(1548)織田信長により再建されたといわれています。

本殿は、向かって右側が冨吉建速神社で一間社流造桧皮葺(いっけんしゃながれづくりひわだぶき)、祭神は素盞鳴尊(すさのおのみこと)。左側が八剱社で、三間社流見世棚造桧皮葺(さんけんしゃながれみせなだづくりひわだぶき)、祭神は草薙神霊(くさなぎのしんれい)と熱田五神(※)です。

本殿は両社とも室町時代の建築で、前流れの美しい屋根の曲線と、桃山時代への推移を示す創建当時のままのかえる股が特徴です。昭和28年に本殿と棟札が、国の重要文化財に指定されました。

※熱田五神…天照大神(あまてらすおおみかみ) 、日本武尊(やまとたけるのみこと)、宮簀姫命(みやすひめのみこと)、建稲種命(たけいなだねのみこと)、素盞鳴尊(すさのおのみこと)

2 龍照院(りゅうしょういん)

龍照院本堂

この寺は、正式には「蟹江山常楽寺龍照院」といい、真言宗智山(ちざん)派に属する寺院で、ご本尊の木造十一面観音立像は国の重要文化財に指定されています。奈良時代の天平5年(733)に行基菩薩により草創され、その後、寿永元年(1182)木曾義仲により再興されたと伝えられています。

最盛時の規模は、七堂伽藍(しちどうがらん)のほか龍照院をはじめとした18の坊や寺院があったと伝えられています。しかし、天正12年(1584)の蟹江合戦の際に兵火にあい、龍照院一坊とご本尊のみが残りました。

なお、境内には、巴御前(ともえごぜん)ゆかりの大日堂や、秀吉お手植えの大銀杏(おおいちょう)があります。また、現在は尾張33観音の札所(13番)となっています。

本尊の木造十一面観音立像は、60年に一度に御開帳される秘仏となっていますが、現在は毎月18日(1・2月を除く)にガイドボランティアの協力のもと、公開されています。

 

3 須成祭(すなりまつり)

巻藁船写真須成祭は、冨吉建速神社・八劔社の祭礼です。この祭りは400年あまりの歴史があるといわれ、牛頭天王(ごずてんのう)信仰のもと、疫病退散(えきびょうたいさん)と五穀豊穣を祈願して行われます。

祭りの内容は、「車楽船(だんじりぶね)行事」と「神葭(みよし)流し」に関わる一連の行事で構成されます。最初の行事から最後の行事まで約100日間かかるため、別名「100日祭り」とも呼ばれています。

「楽車船行事」では8月の第1土曜日に宵祭、翌日曜日に朝祭が行われます。宵祭では、たくさんの提灯をつけた巻藁舟(まきわらぶね)が、朝祭では男女の神様の人形を乗せた車楽船が、祭囃子を奏でながら、飾橋から天王橋まで蟹江川を上ります。

「神葭流し」は、川に茂るヨシをご神体としてまつり、これに災厄を封じ込めて流し、人々の豊かな生活を祈願するために行われます。朝祭の1週間前に、白装束に身を包んだ若者が手こぎ舟に乗って、蟹江川河口へと下っていき、祭のご神体をつくるヨシを刈る「葭刈(よしかり)」があります。そのヨシをご神体にしてまつり、朝祭の翌日早朝、災厄を託して流すのが「神葭流し」です。古くは実際に放流していましたが、現在は川に浮かべてから「棚上り」で神社に作った棚に祀り、75日後、「棚下し」で棚から下ろして燃やされ、すべての行事が終わります。

 祭りの一連の行事が伝統を守って行われていることが評価され、平成24年(2012)に国指定重要無形民俗文化財になり、平成28年(2016)には「山・鉾・屋台行事」の一つとしてユネスコ無形文化遺産に登録されました。

 4 信長街道(のぶながかいどう)

信長街道写真

この道は、若き織田信長(19歳ぐらいのころ)が、清洲攻めの時に通った道だと伝えられています。

善敬寺(ぜんきょうじ)から北上し、あま市七宝町徳実(とくざね)を通り伊福・桂、大治町西条(にしじょう)・あま市甚目寺を経て清須に通じる道で、昔から地元では信長街道と呼ばれてきました。

蟹江城に通じる重要な道でもあるので、鎧や兜で身を固めた武将や足軽たちが意気揚々と早馬や早足で通過していっただろう、と想像されます。昔ながらの道ですので、車で通るには狭い道ですが、道沿いには寺社や酒蔵があり、歩くと歴史のロマンを感じることができます。

須成区内の道中には織田木瓜をあしらった路面表示があり、南端となる善敬寺前と、北部の観光交流センター駐車場(東お宮隣)には、説明看板があります。

5 山田酒造(やまだしゅぞう)

蟹江川は、木曽川や庄内川の分流で、酒造りに適した伏流水が湧き出ており、そのため、江戸時代から明治にかけて、蟹江川沿いでは稲作とともに酒造りが盛んでした。また、蟹江川の川筋は、原材料や製品を運ぶのに便利でした。明治の初めころ、蟹江町内には二十数件もの造り酒屋があり、多くの蔵がありましたが、現在は、この山田酒造と城四丁目の甘強(かんきょう)酒造の2軒だけとなりました。

山田酒造は、明治4年(1871)山田与四郎(やまだよしろう)氏により創業、現在は5代目です。明治24年(1891)の濃尾地震で大被害をうけましたが、復旧に努め、一族力を合せて清酒・酔泉(すいせん)の蔵元を確立、近年は最愛(さいあい)も人気の銘柄となっています。

6 佐野七五三之助(さのしめのすけ)

 佐野七五三之助墓写真
天保5年(1834)尾張国海東郡須成村の神職、寺西伊予守家班(てらにしいよのかみいえのり)の嫡子として生まれ、前名を寺西蔵之丞(てらにしくらのじょう)といいます。嘉永3年(1850)父が55歳で死去した後、尊王攘夷(そんのうじょうい)(天皇を尊重し、外国人から日本を守ること)を志し名前を佐野七五三之助と改め、故郷須成村を出て江戸へ向かいました。(18歳ごろ)

北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)を学び、開港横浜で居留地の警備をしていましたが、尊王攘夷の機会を得ず、元治元年(1864)30歳の時、新撰組の隊士となり京へ行きました。慶応3年(1867)新撰組総員の幕臣取立に抗議し、新撰組からの離脱を企てましたが挫折し、京都守護職邸で仲間4人とともに自刃しました。壮絶な最期が後世に伝わっています。隊士として京都光縁寺に埋葬されました。慶応3年6月14日没享年34歳。

明治2年(1869)故郷須成村に伝えられ、神葬祭が営まれました。須成天王橋西にお墓があります。

7 天王橋(てんのうばし)

天王橋冨吉建速神社の旧名である冨吉天王社の横にあることから天王橋と呼ばれ、須成祭では祭船の終着地になります。

江戸時代には祭りのとき、佐屋代官などが、この橋の上で警固したと伝えられています。

橋の欄干の柱頭の擬宝珠(ぎぼし・ぎぼうし・ぎぼうしゅ)は、古くからこの橋につけられてきたものです。

 

 

8 御葭橋(みよしばし)

御葭橋須成祭の巻藁船や車楽船が通る時のみ上にあげるという、珍しい巻上げ橋です。

昔この辺りに松があり、その根元に神葭流し(みよしながし)の神葭様(おみよしさま)がよくひっかかったことから、みよし松、みよし橋と言われるようになったと伝えられています。

元々この場所に橋はなかったそうですが、昭和20年(1945)頃に橋がかけられることになり、祭りのために橋が上がるようにしたと考えられます。

 

9 飾橋(かざりばし)

 かざり橋写真
須成祭の時、この橋の北で役者や供の者が祭船に乗船し、天王橋に向けて出発します。

祭船を飾ったことから飾橋の名が付けられたといわれています。

 

 

 

10 松秀寺(しょうしゅうじ)

八幡山(やはたさん)松秀寺。曹洞宗の寺で本尊は聖観世音菩薩。あま市七宝町桂の広済寺の末寺で、天文23年(1554)広済寺第四世天巖春暁(しゅんきょう)の創建。今の八幡社のところにありました。
天正12年(1584)蟹江合戦で焼失、その後移転をくり返しましたが、平成15年4月約420年ぶりに草創の地である現在地に移転、落慶法要が営まれました。
蟹江町唯一の禅宗のお寺です。

11 八幡社(はちまんしゃ)

草創は不詳。須成区の大下(おおした)、上下(かみしも)、六白(ろくばく)、須成前、乗田(のりた)の割神様で、海辺の神様であり、ヤマトタケルノミコトの孫である応神天皇(おうじんてんのう)が祀られています。

12 神明社(西お宮)

 須成区の川西上・下の割神様で、祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)です。

13 神明社(東お宮)

 須成区の市場、門屋敷の割神様で、祭神は国常立尊(くにとこたちのみこと)です。

14 市神社

須成区の柳瀬(やなぜ)地区の割神様ですが、元は大字市場にあったものが移設されたそうです。
祭神は大国玉命(おおくにたまのみこと)です。

善敬寺(ぜんきょうじ)

江閣山(こうかくざん)善敬寺。真宗大谷派(東本願寺)の寺院で、往昔は安城市の本證寺の末寺でした。草創は不明ですが、縁起では天文10年(1541)に天台宗寺院の了祐が真宗に帰依したことに始まると伝えられています。明治24年(1891)に濃尾震災により全壊、明治30年代に再建されました。境内には神田銀行創始者である神田鐳藏が建立した、渋沢栄一筆の「神田氏家系碑」があります。

神田鐳藏(かんだらいぞう)

 神田らい蔵写真明治5年(1872)須成村市場に生まれました。父は酒造業者であり儒者であった神田清三郎で屋号は紅葉屋でした。明治26年(1893)名古屋株式取引所の仲買人となりました。
明治32年(1899)27歳のころ上京。現物専門の紅葉屋を設立、今でいう、東京証券取引所の設立に尽力、日露戦争の時には海外からの資金調達に貢献し、また、日露戦争後は株式市場で活躍し、大正7年(1918)神田銀行を設立しました。しかし、昭和2年(1927)の金融恐慌により破産しました。
神田氏家系碑写真銀行をはじめ、倉庫、土地、生命保険などの多角経営を展開、全盛時には、浮世絵の海外流出を防ぐために収集した「浮世絵風俗肉筆名作コレクション」(別名神田鐳藏コレクション)が有名です。

また、渋沢栄一との親交が深く、金融界でのつながりだけでなく、渋沢が鐳藏の結婚式の媒酌人を務め、息子の名付け親にもなっています。大正4年(1915)には、渋沢栄一筆による「神田氏家系碑」を故郷である須成の善敬寺境内に建立、除幕式は渋沢栄一を主賓に招き盛大に行われました。

昭和9年(1934)12月8日63歳で逝去しました。

加藤高明(かとうたかあき)

第24代内閣総理大臣加藤高明の母は、須成村神官の五十倉(いそくら)家出身で、佐屋代官の手代服部家に嫁ぎ、万延元年(1860)高明(幼名は総吉)が生まれました。7歳の時名古屋の加藤家の養子となり、14歳のとき家督を継ぎ、高明と改名しました。

高明は3歳から11歳ごろまで母の実家の須成で育ち、伯父さんと蟹江川で泳ぎ、魚を捕まえ、蜆を捕って遊んだと伝えられています。

14歳で上京し、東京外国語学校を経て東京帝国大学へ進み首席で卒業、三菱に入社し明治19年(1886)岩崎弥太郎の長女と結婚、外交官を経て、大正13年(1924)に内閣総理大臣となり「治安維持法」や、選挙権の拡大を図るため「普通選挙法」を制定しました。

大正15年(1926)病をおして行った首相施政演説の2日後に66歳で没しました。

なお、明治33年(1880)と大正9年(1920)の2度、ふるさとの蟹江を訪れ墓参をしています。